愛で奈落を駆け上がる(3)
帰宅後、とりあえず着替えを済ませた後で、私は江藤くんにメールを送った。『帰ったよ。電話するならいつでもどうぞ』
内心は文面ほど気乗りしていなかったけど、とりあえず彼からの電話を待った。
翔和くんはまだ仕事から帰ってきていないようだ。部屋の明かりが点いていないのは確認済みだった。
江藤くんは、メールを送った二十分後くらいに電話をかけてきた。
『お疲れのところ、すみません』
第一声は、どこか申し訳なさそうだった。
「別にいいよ。それで、私に聞きたい意見って?」
私は長丁場に備えて愛用の座椅子に座り、膝の上にはクッションを抱えた。できるだけ長引かなければいいな、とも思いつつ。
江藤くんの方はもう家に帰っているんだろうか。
『彼女と喧嘩したって、会社でも話しましたけど……』
電話越しには彼の声以外、特に物音はしなかった。
『実は喧嘩というより、誤解されてる感じなんです』
「誤解? どんなふうに?」
私が聞き返すと、江藤くんは溜息をつく。
『その、言いにくいんですけど、三島さんのことで』
いきなり、私の名前が出た。
「……なんで、私?」
『三島さんに、プラネタリウムに誘われたことを彼女に知られて……』
その言葉に、私は思わず頭を抱えた。
なぜ知られてしまったのかとまず思った。
もちろん、誘ったのは事実だし私がやってしまったことだ。彼女さんからすれば私はいきなり現れて彼氏に言い寄る傍迷惑な女なわけで、好ましく思われないのも当然だ。
だけど、言い訳になるけど、あの頃の私は江藤くんが彼女持ちかどうかなんて知らなかった。確めなかったのが悪いと言えば、そうなのかもしれないけど。
「でも、江藤くんは断ったじゃない」
私は頭痛を覚えながらも彼に告げる。
「彼女がいるからってちゃんと断ったでしょ? それは彼女さんに話した?」
『はい、ですが……』
江藤くんが暗い声で続けた。
『彼女からすると、そうやって誘ってくる人が職場にいるのが不安だって』
なら、どうしろと。
私は自分が誘ったことも棚に上げ、そう突っ込みたくなった。
彼女さんの気持ちもわかる。私だって翔和くんのお店にそういう人がいたら不安にはなるだろう。ましてや江藤くんの場合、実際に誘いをかけられてるわけだし、私の存在は彼女さんにとって大いなる脅威に思えるはずだ。
とは言え、こっちからすれば脅威どころか相手にもされなかった片想いだったのだから、本当にどうしろととしか。
「私だって、江藤くんに断られてからは弁えたつもりだよ」
あの頃の気持ちは明かさないよう、私は言葉を選びつつ訴えた。
「あれきり一度も誘ってないじゃない。それは江藤くんの彼女さんに悪いと思ったからだよ。そういうの、江藤くんだってわかってるよね?」
『はい』
彼の答えは簡潔だ。表情は見えないから、本心はわからない。
「じゃあそれを伝えればいいよ。余計なこと言って不安にさせないように」
『そうなんですけど、言うだけじゃ納得してもらえなくて』
「納得してもらうまで言うの。私だってそういうつもりはなかったんだから」
嘘だけど。
でも今は、本当だ。私には別の好きな人がいるし、江藤くんと彼女さんが上手くいくことを願えるだけの精神的余裕もある。あの頃の気持ちは私にとっても過去のもので、今更打ち明けたところで誰も幸せにはなれない。だからこそ嘘をつき通して、本当にしてしまうつもりだった。
『……三島さん』
江藤くんは、ためらいがちに私を呼んだ。
嫌な予感に身構えると、
『三島さんから、彼女に話してもらえませんか』
「私が? 冗談でしょ?」
『いえ、彼女も三島さんと話してすっきりしたいって言ってて』
「勘弁してよ……そういうのはお二人の間で解決してくれない?」
なんで私が、カップルの修羅場に巻き込まれなければならないのか。
そりゃ誘ったのは事実だし、あの頃の私が江藤くんに片想いしていたのも本当のことだ。
でもすぐに身を引いたし、もう何ヶ月も前のことで、気持ちの整理だってとっくについてたのに――。
納得がいかないと思うのは、おかしいだろうか。
たったあれだけのことで私が弁明して彼女さんの誤解を解かなきゃいけないなんて、理不尽じゃないだろうか。
もうとっくに癒えて、傷痕さえ消えてしまったはずの失恋の記憶。
そこにわざわざ新しい傷を上書きされるなんて、理不尽以外の何物でもない。
「あの時誘ったのは悪かったよ。それは謝るし、彼女さんにもそう伝えて」
私は冷静さを保とうとしながら、江藤くんに告げる。
「でも、私が出ていくのはおかしいと思う。それは江藤くん達が二人で解決する問題じゃない。私が何か言えば、余計に拗れるだけだと思うよ」
『どうしても駄目ですか』
江藤くんが食い下がってきたから、溜息が出た。
「駄目。それにね、私にも彼氏がいるの。だから心配ないって言って――」
『えっ?』
私の言葉を、彼の驚きの声が遮る。
『そう、なんですか? 三島さん、付き合ってる人なんて……』
どうしてか、江藤くんは酷く驚いているみたいだった。
驚かれるくらい、私には彼氏がいそうにないって思われていたんだろうか。
それとも――まさか、知ってたとでもいうんだろうか。
江藤くんは。
私の気持ちを。
「……いたら、おかしい?」
知らず知らず低くなる声。込み上げてくる感情に、理性でブレーキをかけようと試みる。
『い、いえ、そんなことないです』
江藤くんは慌てて否定してみせた後、気を取り直したように続けた。
『でも、それなら尚のことお願いします』
「どうして? 私にも彼氏がいるから、それで解決なんじゃないの?」
『その……実は彼女、ここにいるんです。ずっと傍で聞いてて』
ぎょっとした。
ここまでの会話を全部聞かれていた、ということだろうか。別におかしな話はしてなかったと思うけど、それでも背筋がうすら寒くなる。
『三島さんと話して、どうして誘ったのかを聞きたいとのことで……』
電話の向こうから聞こえてくるのは、江藤くんの声だけだ。
だけど時々入る微かなノイズが、彼の隣にいる誰かの息遣いを連想させて、怖くなった。
あの頃のささやかだった片想いが、いつの間にか誰かを傷つけ、私を断罪の場へ引きずり出そうとしている。だけどあれだけきっちりととどめを刺された片想いが、一体どれほどの罪だっていうんだろう。
『お願いします、三島さん。そうすれば彼女も安心できるそうです』
追い詰めるように江藤くんが言う。
私は、奥歯を噛み締めながら同じ答えを繰り返す。
「無理」
『どうしてもですか?』
「江藤くんと彼女さんの話でしょ。二人で解決してよ」
『ですが、三島さんも関係ない話では――』
その言葉がトリガーだった。
抑え込もうとする理性が、弾け飛んだ感情に押し返された。
「しつこい!」
思わず、声を張り上げていた。
「彼女を安心させるのが彼氏の仕事でしょ! そのくらい人に頼らないで自分でやって!」
私の中の理性は言う。
元はと言えば、私が悪いのだと。
だけど一旦堰を切ってしまった感情は、もう止められなかった。
「私を巻き込もうとしないで、関係ないんだから!」
怒鳴った私に、江藤くんとその彼女さんがどう思ったかは、わからない。
何か言われるより早く、感情の迸るままに電話を切ってしまったからだ。
携帯電話の電源を切った。
それを床に放り出し、私は抱えていたクッションに顔を埋める。
頬が熱い。頭が痛い。鼻の奥がつんとして、涙が込み上げてくるのがわかった。
何だか酷く悲しくて、苦しかった。
理性は言う。自業自得だと。
好きな人ができて感情の赴くまま突っ走って、その人に彼女がいるのかも確かめずに誘ってみたりして。事情がどうあれ、客観的に見ればそれは横恋慕に違いない。江藤くんの彼女さんが不安になるのも仕方のないことだ。
だけど感情は訴える。理不尽だと。
告白もしないうちから振られて、それでちゃんと身を引いて吹っ切れたのに、どうして断罪されなくちゃいけないんだろう。
江藤くんは、私の気持ちを知っていたくせに。
彼女さんは、私達の会話を聞いていたくせに。
どうしてあれ以上のことを、私にさせようとするんだろう。
馬鹿にするのもいい加減にして欲しい。
私の片想いは、私のものだ。
幸せな両想いを盛り上げる為のものじゃない。
叶わなくったって、もう既に遠い過去のものだって、誰にも汚されたくはない。
せっかくきれいに傷が塞がったのだから、そっとしておいてくれたらよかったのに――。
静まり返った部屋の中、私は一人で泣いていた。
悔しさと、それでもどうしても拭い切れない罪悪感とで、奈落に突き落とされたような気分だった。
玄関の、チャイムが鳴るまでは。
「……都さん?」
外から聞こえてきたのは、翔和くんの声だった。
「今、大きな声が聞こえたけど……大丈夫?」
いつの間にか帰ってきてたんだろうか。あるいは偶然帰ってきたところだったんだろうか。
どちらにせよ隣の部屋だ。大声を張り上げれば聞こえるだろうし、異変にだって気づくだろう。
私はのろのろと立ち上がり、涙を拭いながら応じる。
「ご、ごめん。うるさかった?」
でも涙を拭いたところで、声の違いはごまかせなかったようだ。
「泣いてるの、都さん」
施錠された玄関のドア越しに、翔和くんがそう言った。
私が返事をためらえば、すぐに言葉が続く。
「何かあったんだろ。開けてよ、傍に行くから」
そう言ってくれたのは嬉しかったし、私だって翔和くんに縋りたかった。
理不尽な目に遭って辛かったのだと、話を聞いてもらいたかった。
だけど――理性が決断を鈍らせる。理不尽だおかしい納得いかないと自分で思っていたところで、客観的に見ればどうだろう。翔和くんは、私の行動をどう評するだろう。恋の辛さも切なさも知っているはずの私が、会ったこともない女の子を不安に陥れていたと知ったら、彼はどう思うだろう。
それを確かめるのが、怖かった。
「都さん」
翔和くんが私を呼ぶ。
このまま黙っていれば、今度は彼を不安にさせるだろう。江藤くんに啖呵を切った手前、私は同じ轍を踏みたくなかった。
決心も固まらないまま、玄関の鍵を開けた。ドアを開けたのは翔和くんで、飛び込んでくるなり私を見て、その表情を凍りつかせた。
「何かあったの? 俺でよければ話聞くよ」
そう言いながら、彼は私をぎゅっと抱き締めた。彼が着ているライダースは表面がはっとするほど冷たく、逆に目が覚めるようだった。
少し、冷静にならないと。
「職場の……後輩と、喧嘩しちゃって。電話で」
泣いた後の声でたどたどしく答えれば、翔和くんが耳元で聞き返してくる。
「それって例の、『江藤くん』?」
「……うん」
私は、頷くしかなかった。
すると翔和くんは私を抱く腕に一層の力を込めて、まるでしがみつくように強く抱き締め直した後、こう言った。
「大丈夫だよ、都さん」
打ちひしがれる私に、とても、とても優しい声で。
「俺は都さんを信じてる。何でもいい、話してよ」
ふと、その時思った。
翔和くんが私を不安にさせたことなんて、ただの一度もなかったって。