Tiny garden

愛で奈落を駆け上がる(1)

 髪を撫でる手の感触で、目が覚めた。
 恐る恐る隣を窺うと、翔和くんはまだ目をつむっていた。微かな寝息が聞こえてくるから、眠ったまま私の髪を撫でているようだ。弄ぶように、でも、いとおしむように。
 職業病かな。少し笑ってしまう。

 昨夜は結局、翔和くんの部屋に泊まった。
 すぐ隣にある私の部屋まで、ほんの数メートル、あるいは壁一枚の距離でさえ、帰りたくなかった。
 彼の部屋のローベッドはシングルサイズで、枕も一つしかなく、大人が二人で並んで眠るには当たり前だけど狭かった。だけどその窮屈さよりも、傍にいたい気持ちの方がお互い勝った。翔和くんは私を抱き締めて離さず、私も可能な限り彼にくっついて眠った。布団の中で触れ合う、人肌の温かさが気持ちよかった。

 もう夜が明けているようだ。
 そっと頭を起こしてみれば、ベランダに通じる大きな窓とカーテンの隙間から、眩しい朝日が漏れていた。
 一月四日も昨日と同じく、いいお天気になりそうだった。 
「……都さん?」
 私が動いたからだろうか。翔和くんが、微睡む声で私を呼んだ。
 その顔を見るのが恥ずかしくて、私はそっぽを向いて応じる。
「おはよう」
「おはよ。……こっち向いてよ、都さん」
 ねだるように彼が言う。
 そうは言ってもこっちは寝起きだ。見せられる顔なんてしていない。
 仮に顔を洗って完璧なメイクを終えた後だとしても、彼を直視はできなかっただろうけど。
「恥ずかしいよ……顔洗ってないから」
 私が拒むと、翔和くんは私の髪を撫でていた手に力を込めて、無理やり彼の方を向かせる。
 ベッドの上で視線が合う。
 まだ少し眠そうな目をした翔和くんが、私を見て頬を緩めた。
「今朝もきれいだよ、都さん」
 寝起きなのにそんな台詞がすらすら出てくるってこの人は!
 私は思わず言葉に詰まり、そんな私を、彼はそっと抱き寄せた。
「せっかくだから、もっと傍に来てよ」
 温かい腕の中で囁かれると、こっちも力が抜けてしまう。私は黙って彼に身を寄せ、しばらくの間、抱き締められていた。
 こういう時間はいくつになっても恥ずかしいものだ。
 恥ずかしいけど、身もだえしたくなるくらい、幸せでもある。
「もう六時か……」
 やがて、翔和くんが呟いた。
 私を抱く手にぎゅっと力を込めながら嘆く。
「そろそろ起きないとな……起きたくないけど」
「今日から仕事始めだもんね、翔和くん」
「本当だよ。明日からにしとけばよかった」
 それから彼は腕の中の私を覗き込んで、
「こうなるってわかってたら、五日からにしたんだけどな」
 意味ありげに笑ってみせる。
 だけど、そんなことまで見通せる人間なんていないだろう。一寸先は闇という。恋に限らず、明日の自分がどうしているかなんて誰にもわかるはずがない。
 私だって昨日の朝は、こんなことになるとは思ってもみなかった。
 でも日が落ちた後、私は、自ら望んで彼の部屋に来た。
 その時のことと、その後に起きたいろんなことを思い出すと、やっぱりすごく恥ずかしい。恋の力というやつはいつも私を向こう見ずに衝き動かして、勢い任せにひた走らせる。そのせいで悔やんだことも、失敗したことも、泣く羽目になったこともたくさんある。
 だけど昨夜だけは、向こう見ずな恋の力がいい方向に働いたようだ。
「ありがとね、翔和くん」
 私は、私の髪を撫でる彼の手を撫で返す。
 翔和くんの手はすらりと指が長くて、とてもきれいだ。芸術品のようだ、石膏細工のようだっていつも思う。それでいてちゃんと血が通っていて温かく、私に触れる時は優しく、そして私のことまできれいに、幸せにしてくれる。
「お礼を言うのは俺の方。ありがとう、都さん」
 彼は私の額に音を立ててキスしてから、こめかみにも、耳たぶにも同じようにする。くすぐったい。
「もう、すごい幸せ……都さん、大好き!」
 翔和くんが本当に幸せそうにそんなことを言ってくれたから。
 私は照れつつも、彼に同じことを囁き返す。
「私も、翔和くんが大好きだよ」
「嬉しいな。都さんは、幸せ?」
「すごく幸せ。離れたくないな……」
「俺も離したくない。仕事行きたくない」
 翔和くんの声がちょっと落ち込む。
 私だって離れたくはなかったけど、そこは頑張ってもらわないと。私をこんなに幸せにしてくれる手の持ち主だ、きっと大勢のお客さんが、お店が開くのを待っていることだろう。
「店長さんがそれ言っちゃ駄目じゃない?」
「じゃあ都さん連れてこうかな。店に」
「邪魔になっちゃうでしょ。翔和くんの帰り、待ってるよ」
「本当に? じゃあ頑張って働いてくる!」
 途端に復活した翔和くんが、私を離してようやく身を起こす。
 私は彼から何気なく目を逸らした。一晩過ごした間柄とは言え、しげしげ見るのはよくないと言うか、やっぱり恥ずかしい。
 その間に彼は、一足先にベッドから下りた。
「都さん、朝ご飯食べてくだろ?」
「えっ、そんなの悪いよ。準備の邪魔になる前に帰るね」
「邪魔じゃないから帰んないで。一緒にご飯食べようよ」
「でも……」
 泊めてもらった上に朝ご飯までごちそうになるなんて、さすがに抵抗が。これが私の部屋なら『じゃあ私が作るね』で済むんだけど。
「いいから。簡単に、パスタでいい?」
 私が目を逸らしている間に着替えを済ませた翔和くんが、ベッドに戻ってくる。
 そして私の傍に腰を下ろすと、まだ服を着ていない私をそっと撫でた。
「できれば、俺を見送ってくれると嬉しいんだけどな」
 翔和くんがそう望むなら。
 私は、もう少し彼の部屋に留まることにした。

 彼が朝食に作ってくれたのは、優しい味のミルクスープパスタだった。
「翔和くんって、すごく器用だよね……」
 あの可愛いこたつで、美味しいパスタをいただきつつ、私はしみじみ呟いた。
「お料理もできるし、お仕事の方も神業だし、マッサージだって上手いし」
「お褒めにあずかり光栄です」
 翔和くんは誇らしげに胸を張った後、いたずらっ子みたいな顔で付け加える。
「ご飯の方は結構手抜きだけどね」
「そうかな。さっとこれだけ作れちゃうの、十分すごいと思うよ」
 私なら、突然の来客に対応して何か作るというだけでも難しい。彼があまりにも手際よく二人分の朝食を用意してくれたから、見習わないとなと思ったほどだ。
 もしかしたら今度は、私の部屋に泊まりに来てもらうかもしれないし。
「都さんのお口に合った?」
「すごく美味しいよ。さすが翔和くんだね」
 私が更に誉めると、彼は嬉しそうに目を輝かせる。
「よかった。手抜きとは言え、都さんに喜んで欲しくて作ったから」
 それからパスタをつつきつつ、照れたように続けた。
「昨日もさ、都さんに喜んでもらいかったんだ。気持ちよかった?」
「――え?」
 危うく、フォークをスープの中へ潜らせるところだった。
 思いがけない問いにうろたえる私に、翔和くんは甘い笑顔で畳みかけてくる。
「都さんも気持ちよさそうに見えたけど、実際どうだったかなって」
「な……何言うの、急に」
「声も結構出てたしさ、結構よかったかな。どう?」
「あ、あのね、そういうこと聞かれても困るんだけど!」
 私は慌てて声を張り上げた。
 すると、翔和くんはにやりとして、
「ヘッドスパの話だよ、都さん」
「あ……! か、からかったでしょ翔和くん!」
「え、何が? 俺、変なこと言った?」
 白々しくすっとぼけてみせたかと思うと、次の瞬間にはげらげらと、楽しそうに笑い始めた。
 こっちは弄ばれた気分で悔しかったけど、目の前でこんなに笑われたら、最終的にはつられてしまった。
 恥ずかしいけど、幸せで、笑ってばかりの朝だった。

 朝食を済ませた後、私は出勤する翔和くんを見送った。
 彼が出る時に一緒に出て、自分の部屋に帰ろうかとも思ったんだけど、
「『行ってらっしゃい』って玄関で見送って欲しい!」
 という翔和くんの要望があったので、私は彼が出てから帰ることにした。
「ごめんね、わがまま言って」
 玄関で靴を履く翔和くんが笑う。
 私も、笑ってかぶりを振る。
「ううん。私もそうしたかったから」
 帰るタイミングはいくらでもあった。だけどできるだけ長く、彼と一緒にいたかった。部屋の前で別れるっていうのも何か素っ気ない感じがするし。
 靴を履き終えた翔和くんは、私にキーホルダーつきの鍵を差し出してきた。
「じゃあこれ、俺の部屋の鍵」
 私はその鍵を受け取る。
 くっついている丸いキーホルダーは、宇宙に広がる赤い星雲の写真が使われていた。まるで鳥が翼を広げたような形の、美しく光る星雲だった。裏側は小さいけど星座早見盤になっていて、私がしげしげ見ていたからか、翔和くんが説明を添える。
「科学館で買ったんだ、都さんと初めてのデートの時」
 その時、翔和くんはちょっと照れくさそうだった。
「待ち時間あったからさ。記念になるもの買おうと思って」
「そうだったんだ……これ、何の写真?」
「オリオン座大星雲。他にも種類あったけど、一番きれいに見えたから」
「確かにすごくきれい。へえ……」
 私が星雲に見入っていると、
「気に入ったならあげるよ、都さんに」
 翔和くんがそう言って、さすがにそこまではと焦ってしまう。
「物欲しそうにしてた? 翔和くんの記念なんだし、悪いよ」
「違うよ、俺達の記念」
 彼は、真っ直ぐに私を見た。
 その真剣さに、訳もなく息が詰まる。
「だから、鍵と一緒に貰って」
 返事もできず、私はその鍵を改めて眺めた。
 作りたて、なんだろうか。傷一つない金属の鍵は、オリオン座大星雲に負けじと鈍く光っていた。
 合鍵を渡される意味がわからないわけじゃない。でもいざ渡されてみると、その重大さにどきどきしてくる。まして思い出が飾られた合鍵となれば、これは、彼から贈られた愛情に等しい。
「隣同士だから、こういうのも要らないかと思ったんだけど」
 手のひらの上の鍵を見つめる私に、翔和くんの笑う声が聞こえる。
「でも忙しくなると、隣に住んでてもなかなか会えないだろ。そういう時はいつでもこれ、使っていいから。俺はいつだって、都さんなら歓迎するよ」
「翔和くん……」
 そういえば、クリスマス前はそんな感じだったな。翔和くんと話したくても話せない時期が続いていた。仕事から帰ってきた後、彼の姿がないかと外からベランダを見上げる夜が続いていた。
 お正月休みが終わり、この先も長く会えない時間が続くこともあるかもしれない。
 だけどこの鍵さえあれば、私はいつでも翔和くんと会える。
「ありがとう」
 私はその鍵を握り締めて、頷いた。
「じゃあ今度、ご飯でも届けに来るね」
「その時は一緒に、都さんも届けてよ」
 翔和くんが私を抱き締める。
 肌寒い冬の玄関で、私達は名残を惜しむみたいに少しの間抱き合った。今生の別れでもないのに、離れがたい。
「行ってくるね、都さん」
「行ってらっしゃい、翔和くん。晩ご飯、何か作っておくからね」
 そう言って私が手を振ると、翔和くんはとろけるような笑顔を浮かべる。
「ありがとう。今から帰ってくるのが楽しみだよ!」

 彼の姿が外に消え、玄関のドアがゆっくり閉まる。
 私はそこまで見届けた後、彼が残していった合鍵をもう一度眺めた。
 オリオン座大星雲のキーホルダー。プラネタリウムを見に行った時、翔和くんが買ったものだという。宇宙を飛ぶ鳥の翼のような、赤い星雲がきれいだった。あの日、彼はどんなふうに、このキーホルダーを選んだんだろう。
 あれからたった二ヶ月で、こんな朝を迎えることになるなんて、それこそ想像もつかなかった。

 一人きりになった彼の部屋の中、私は鍵を手にしたまま動けなかった。
 幸せな気分のまま、もうしばらくだけ、名残を惜しんでいたかった。
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