Tiny garden

ふたりは世界を作り出す(5)

 翔和くんは軽快に鋏を動かし、私の髪を軽くしてくれた。
 今回は髪型を変えるつもりはまだなくて、形だけ整えてもらうことにした。おかげで重くなっていた襟足がすっきりしたし、前髪もきれいに揃えてもらえた。

 カットが済むと、今度はヘッドスパに移る。
「リラックスしたいならクリームバスがお薦めだよ」
 翔和くんがメニューを差し出しながら、カウンセリングを始めてくれた。
 ヘッドスパと一口に言っても施術内容はお店によっていろいろで、炭酸水によるクレンジング中心のところもあれば、アロマオイルなどを用いたオイルマッサージをしてくれるところもある。中にはデコルテマッサージまで含まれるお店もあるらしいけど――翔和くんにそこまでやってもらうのは恥ずかしい気がする。
 せっかくお薦めいただいたので、今回はクリームバスに挑戦してみることにする。実は初体験なので非常に楽しみだった。
 クリームバスと言うだけあって、施術にはクリームを使うらしい。翔和くんはクリームのボトルを一つ一つ見せてくれ、これはアロエ、これはキャロットと丁寧に説明してくれた。
「乾燥が気になるなら、アボカドがいいんじゃないかな」
「じゃあ、それでお願い」
 何にもわからない場合は知ったかぶりせず、プロの意見を素直に取り入れるに限る。私は全てを翔和くんにお任せしてしまうことにした。

 クリームバスの手順は、まずシャンプーから始めるものらしい。
「じゃあ都さん、こちらへどうぞ」
 翔和くんに手を引かれて、私は店の奥へと連れて行かれた。
 そこは木製のパーテーションで仕切られていて、ブース内にはシャンプー台とシートが一対あるだけだった。ただ、こちらのシートは通常のシャンプー台に備えつけてあるものよりも上質で、施術中は背もたれを倒し、フルフラットにできるのだと翔和くんは説明した。
「つまり、完全に仰向けになった状態で施術を受けられるってこと」
「何か、うっかりしてたら寝ちゃいそう」
 ただでさえ気持ちいいヘッドスパが至福の時間になりそうだ。私が感心すると、翔和くんは意外と真面目に頷いた。
「寝ちゃうお客様、実は結構多いんだ」
「やっぱり……私が寝たら起こしてね」
「どうしよっかな。都さんの寝顔も見たいしな」
「いいよ見なくて!」
 慌ててそう告げると、彼はおかしそうに笑いながら座るように促してきた。
 私は少しだけ緊張しながらシートに腰を下ろす。
「倒すよ」
 翔和くんが私に囁いて、それから背もたれがゆっくりと倒れていく。座面をスライドさせるようにしてフルフラットになったシートの上、私はさながら手術を受ける患者のような気分で横たわっている。
「とりあえず、シャンプーするからね」
 毛布をかけてくれた翔和くんが、そっと私の顔を覗き込んできた。
 ほぼ仰向けの姿勢で彼を見上げると、緊張感がより高まる。ここの照明は意図的にか柔らかく調整されているようだけど、その光を背負う翔和くんの表情は思いのほか真剣で、そして暗く物憂げに陰って映る。甘く微笑んでいる時よりも彼の顔立ちの端整さが際立つようで、私はつい見とれてしまった。
 初めてこのお店に来て、シャンプーしてもらった時にも、同じようなことを思った覚えがある。
 そして私と目を合わせた途端、そのほの暗さが掻き消えて、甘く優しい微笑を見せてくれたのも同じだった。
「都さん、緊張してる?」
「……少しだけ」
「俺を信じて、任せてよ。ガーゼかけるから、目つむって」
 それで私は目をつむり、瞼越しに目の前がふっと暗くなるのを感じ取る。
 だけど次に感じたのは、額に置かれるガーゼの感触ではなく、唇に触れた温い柔らかさだった。
「ん」
 予想外の感触に、思わず私は目を開ける。
 そんな私を見て、翔和くんは澄ましてみせる。
「ごめん。つい、しちゃった」
「ついって……余計に緊張しちゃうんだけど!」
 今更ながら、この店には現在、翔和くんと私の二人きりだ。
 音を絞ったヒーリングミュージックが流れるだけの静かな店内。フルフラットシートの上で仰向けの私。そんな私を見下ろして、翔和くんは幸せそうに微笑む。
 どきどきする。
「初めてのシャンプーの時、思ったんだ。都さんが目をつむった時」
 彼は、切りたての私の髪を指で梳きながら続ける。
「――都さんはキスの時、こんな顔するのか、って」
「な、何考えてんの!」
 そんな告白をされたらこっちはもう緊張どころではない。
 確かにあの時、翔和くんは真剣な顔をしていたなと思っていたけど――あの時からもう、そんなことを考えていたなんて。
 顔がかっと熱くなる。心臓の音もうるさくて、彼に聞こえてしまわないかと不安になってきた。
「でも、その通りだったな。都さん、こういう顔するよね」
「翔和くん!」
「ごめんごめん。マッサージの前にお客様興奮させちゃ駄目だね」
 翔和くんは尚も澄まして続けると、今度こそ私の顔にガーゼをかけてくれた。

 前にもしてもらった通り、翔和くんのシャンプーは上手かった。
 指の腹を使って揉むように撫でるように洗う、その力加減が絶妙だった。泡をさくさくと軽快に鳴らしながら、隅々まで丁寧に、優しく洗い上げてくれた。お湯の温度もお風呂のように心地よく、彼の手によって清められていく幸福感に、私は何度も息をついた。
「翔和くんのシャンプー、本当に気持ちいい……」
「お望みなら毎日でも洗ってあげるよ」
 彼はそう言うけど、だからって気安く『お願いします』とは言えない。
 私が黙って笑ったからか、翔和くんはすかさず食い下がってきた。
「本当だって。俺、都さんになら毎日サービスするよ」
「そんなの悪いよ。翔和くんの大切な商売道具でしょ?」
「遠慮することないのに」
 むしろ残念そうに言う彼が、温かなお湯で私の髪を流してくれた。その手つきもまた優しくて、一度として指先に髪が絡まることもなく、労わるように大切に扱ってくれた。洗い上がりはさっぱりと爽快で、髪の一本一本が澄みきっているようだった。
 シャンプーだけでこんなに気持ちいいのだから、クリームバスとなったらどうなってしまうのだろう。
 翔和くんの手は、内心身構えていた私の緊張感さえ解きほぐしてくれた。髪にアボカドクリームをたっぷりと塗布した後、時間をかけてじっくりとマッサージしてくれた。アボカドクリームは思ったよりも青みの弱い、爽やかないい香りをしている。そのクリームで滑りをよくした翔和くんの指が、私の頭の隅々までじっくりと揉み解してくれた。
「痛くない?」
「ううん、全然……」
 痛みなんて何もない。
 彼の手に、髪を洗う時よりも力が入っているのがわかる。だけど痛くないどころか、うっとりするほど気持ちいい。
「都さんの声、本当に気持ちよさそう」
 目をつむる私の耳に、黒野くんのそんな言葉が聞こえてくる。
 微かに笑っているような、楽しそうな声だった。
「気持ちいいよ、すごく」
 私は彼の手に酔いしれながら応じる。恥ずかしいくらいに気の抜けた、吐息に近い声が出た。お店に他に人がいないのが幸いだった。
 翔和くんのじっくりと丁寧なマッサージは、どこを押されると気持ちいいのか、どういうふうに流されるのが快感なのか、全てを知り尽くしているようだった。
 体感時間にして約十分間だっただろうか。彼の手が頭に触れている間は、気持ちいい瞬間しかなかった。途切れることのない心地よさが続き、指先の優しい刺激に溜息が漏れ、私は懸命に堪えていたつもりだったけど――。
「我慢しなくてもいいよ、都さん」
 彼の囁きに誘われるように、結局、眠りに落ちてしまった。

 クリームを流した後の私の髪は、これまでにないほどさらさら、つやつやとしていた。
 質感そのものが変わってしまったように軽く、絹糸のようになめらかだった。翔和くんに乾かしてもらった後はその感触の変化が嬉しくて、自分で何度も触ってしまうほどだった。
「すごい……こんな髪になったの初めて」
 お店からの帰り道でも、私は自分の髪を触りながら浮かれていた。
「本当にありがとう、翔和くん。すごくよかったよ」
「こちらこそ。都さんには閉店作業も手伝ってもらっちゃったし」
 マフラーを巻いた翔和くんが、白い息と共に笑う。
 手伝ったといってもほんの少しだけだ。照明や暖房を消したり、ワゴンを所定の位置にしまったりしただけだ。ほとんどの作業は翔和くんが済ませていたし、私は彼が片づけをするのを見守っていただけだった。
 そして今、二人で同じアパートまでの道を辿っている。
 日は暮れてしまった午後六時過ぎ、一月の風は肌寒いはずなのに、剥き出しの首筋に吹きつけられても気にならない。切りたての髪の軽さ、すっきりした襟足に気分がいい。幸せいっぱいだった。
「でも、いいの? また料金を……」
 今回も、翔和くんは私にお金を払わせてくれなかった。
 今だって、言いかけた私を制するようにかぶりを振ってみせる。
「営業日じゃないんだから、お金は貰えないよ」
「だけど、翔和くんは――」
「言ったろ、仕事じゃないって。これは俺からの愛情」
 そう言って、翔和くんは私の懸念を笑い飛ばす。
「カットモデル募集してるんだ。都さんが切らせてくれて、俺の方こそ助かったよ」
「お役に立てたならいいんだけど……」
「立った立った。できれば今度も俺に切らせてよ、練習も兼ねてさ」
「もちろん。私も、次も翔和くんにお願いしたいな」
 できればこの次は本当にお客様として――と私が思ったところで、この分だと翔和くんは首を縦に振らなさそうだ。
 何だか、してもらってばかりで悪い気がするな。
 私も翔和くんの為に何かしようかな。ちょうど日も暮れたし、またお夕飯でもごちそうしようか。昨日も一昨日も、大晦日の夜にも作ってあげたから、さすがにちょっと芸がないかな。

 気がつけば、三が日が過ぎようとしていた。
 去年の大晦日からずっと、翔和くんと一緒だった。
 年越しも、元旦も、昨日も今日も、彼と二人で楽しく過ごした。
 翔和くんと一緒にいるのは幸せで、それはきっとこれからだってそうなんだろうけど――残念ながら、お正月休みはもうじき終わりだ。
 彼は明日に、私は明後日に、仕事始めがやってくる。さすがにちょっと憂鬱だった。
 もっと一緒にいたいな、翔和くんと。
 隣の部屋に住んでいるんだし、これからも会おうと思えばいつだって会える。お互い仕事はあるし休みは合わないし翔和くんは忙しい人だけど、連絡を取り合うことはできるだろうし、不安に思うことは何もない。
 だけど今日は、たまらなく寂しい。
 お正月休みが終わって、いつも通りの日常が戻ってくるのが、何だか無性に寂しかった。

 アパートに辿り着いて、外階段を一緒に上って、お互いのドアの前で立ち止まる。
 向き合ったままで揃って無言になったのは、名残惜しさのせいだろう。
「都さん」
 先に口を開いたのは、翔和くんの方だった。
「よかったら、夕飯も一緒にどうかな。昨日も一緒だったけど」
 私も同じことを考えていた。さっきまでは。
 今は、もう少し別のことを考えている。
 翔和くんが好きだ。垂れ目がちで、整った顔立ちで、とろけるような甘い笑い方をして――でも時々、別人のように真剣な表情もしてみせる。私とそんなに変わらないのに、知らない街でお店を持って、ここをホームにしようと日々働いている一生懸命な人。彼の芸術品のように美しい手は今日までにだって大勢の人達をきれいにしてきたのだろうし、今日は私をきれいに、そして幸せにしてくれた。
 何よりもあの日、私に手を差し伸べてくれたことが、何もかもを素晴らしく幸せに変えてくれた。
「……都さん?」
 返事をしない私に、翔和くんが目を瞬かせる。
 きっと硬いであろう私の表情にだって気がついているはずだ。
 私は頷くと、彼の方に一歩進み出た。
 それから告げた。
「私、翔和くんともう少し、一緒にいたい」
 不器用で、そのくせストレートすぎる物言いだって、自分でも思う。言葉に綾も何もない。
 だけど本心だった。
 心から、そう望んでいた。

 翔和くんは一度だけ目を瞠った後、すぐに甘く、柔らかく微笑んだ。
「そうしようか」
 何でもない調子で言ってくれると、自分の部屋の鍵を開け、ドアを大きく開いてくれた。
「おいで、都さん」

 そういえば、彼はいつも私の為に、彼の手でドアを開けてくれていた。
 そのことに気づいたら不安も、緊張感も全部なくなってしまって――私は自分の気持ちに従うように、彼の部屋へ飛び込んだ。
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