Tiny garden

ふたりは世界を作り出す(3)

「あとちょっとで来年だね」
 何気なく、切り出してみた。
 こたつの天板に顎を乗せた黒野くんが、期待の目で私を見る。
「まだ、いてくれるよね? 一緒に新年迎えようよ」
「もちろん。私もそうしたかったんだ」
 せっかくだから、新しい年は黒野くんと迎えたい。私も同じように思っていた。だから断る理由なんて何もない。
 ないんだけど。

 二人きりの部屋は、気がつくと静かになっていた。
 午後十時を過ぎて、このアパートが建つ住宅街もすっかり静まり返っていた。今日みたいな日は誰もが暖かな家の中で過ごしているものなんだろう。車の走る音さえ聞こえてこない。
 私と黒野くんも夕食を終えて、まったりとお酒を飲んでいる。だからかお互い、口数が少なくなっていた。
 その沈黙に、否応なしに緊張してしまう私がいる。
 こんな夜更けに彼の部屋にいて、楽しい夕食の時間を取った後で、少しお酒も入っていたりして――この状況下で緊張しない人なんているだろうか。

「都さん、顔赤くなってる」
 おまけに、先程から黒野くんが私を見つめている。
 それだけじゃなくて私の髪に触れ、サイドの髪をそっと耳にかけたりして、楽しげに笑ってみせる。
「耳まで真っ赤だ。もしかして酔っちゃった?」
「見ないでよ」
 私は慌てて、露わにされたばかりの耳を片手で隠した。
「そんなに酔ってない。まだ平気だから」
 確かに、少し酔いが回ったかなという感覚はある。普段からそんなに飲む方じゃないから、たまに飲むとてきめんに効いたりする。安い缶チューハイ程度ではあまり酔ったりしないんだけど、本格的なカクテルともなればさすがに来る。
 でも、赤くなっているのは酔いだけのせいじゃない。
「それとも、緊張してる?」
 黒野くんは私の動揺を的確に見抜き、尋ねてきた。
 ばれているだろうとは覚悟していたけど、指摘されれば心臓が跳ねる。
「し……してるよ、駄目かな」
「駄目じゃないよ」
 聞き返せば、彼は笑顔で即答してきた。
「俺の部屋、都さんには居心地いいって思ってもらいたいけど。だからって全く緊張されなかったらそれはそれで寂しいし」
 それからまた私の髪を優しく、指先で梳くように撫でる。
「ここが店なら『肩の力抜いて、リラックスして』って言うけどね」
「部屋じゃ言ってくれないの?」
「言わない。多少は意識して欲しいから」
 そんなふうに言われたら、多少どころかめちゃくちゃ意識してしまう。
 ただでさえ黒野くんは私をそっとしておいてはくれず、髪を梳く指先が時折頬や耳に触れるのにどぎまぎする。甘く微笑む彼の目は、まばたきの瞬間以外は片時も離れず私を見ている。
 私はたびたび目を逸らしてしまうけど、その眼差しが気になって、結局は引きつけられてしまう。
 このままでは、まずい。
「……黒野くんって」
 まるで取り繕うように、私は話題を変えてみた。
「地元、どんなところ?」
「なんで?」
 間髪入れずに聞き返してきた黒野くんが、直後に吹き出した。
 緊張を誤魔化そうとしているのを感づかれただろうか。私は焦りながらも答える。
「そういえば、ちゃんと聞いたことなかったから。雪の降らないところだとは聞いたけど」
 それと、大晦日にはごちそうじゃなくて、おそばを食べるんだってこともだ。
 私には、黒野くんについて知らないことがたくさんある。どんなところで生まれ育ったのか。ご両親はどんな方々なのか。きょうだいはいるのか。小さな頃はどんな子供だったのか。黒野くんにも新人時代があったというけど、その頃はどんなふうだったのか――聞いてみたいことがたくさんあって、それら全てを逐一尋ねていたらあっという間に新年を迎えてしまいそうだった。
「雪は降らないよ」
 黒野くんはそう言うと私の髪から手を離し、代わりにグラスを傾けた。
 アフターディナー。オレンジ色のお酒がグラスの中で揺れている。
「あと、どこからでも富士山が見える」
「富士山?」
「そう。晴れた日は街中のどこからでもはっきり見えたよ」
「いいなあ。私は富士山、新幹線でしか見たことないよ」
 私が羨ましがったからか、黒野くんはさっきよりも静かに笑った。
「最近、全然帰ってないけどね」
「そうなの?」
「そう。ここ何年かは、全然」
 小さな声で言い添えた後、彼はもう一口お酒を飲む。

 二人きりの部屋の中に、先程とは違う沈黙が落ちた。
 明らかに変わった雰囲気を感じ取り、私は自然と彼を見つめてしまう。
 黒野くんは、残り少なくなったグラスの、オレンジ色の水面を見つめていた。いつしか口元からは笑みが消え、ためらうような溜息が漏れる。

「黒野くん……?」
 私が名を呼ぶと、彼は私に視線を戻す。
 それから、笑おうか笑うまいか迷っているような表情で、言った。
「こっち来て、都さん」
 グラスを置いて手招きされて、私は怪訝に思う。
 私と黒野くんは、こたつを挟んで向き合って座っていた。
「こっちって、黒野くんの隣ってこと?」
「いや、膝の上」
「えっ!? 冗談……だよね?」
「やだな、冗談でこんなこと言わないよ」
 ということは、本当に、本気らしい。
「うちのこたつ、小さいからさ。二人で並んで座れないんだよ」
 もっともらしい理由も告げられ、私はいよいよ窮地に立たされる。
 だけど黒野くんが有無を言わさぬ眼差しでこちらを見ていたから、仕方なく、一旦こたつから出た。
 黒野くんの傍まで歩み寄る。
 彼が両腕を広げて、私を迎え入れてくれる。その腕に掴まりながら、恐る恐る腰を下ろす。私がちゃんと膝の上に座ると、黒野くんは背後から腕を回してぎゅっと抱き締めてきた。
 それからこたつ布団を、二人分の脚が隠れるように引き上げてくれた。
「お、重くない?」
「全然。都さんこそ、もっと寄りかかっていいよ」
「無理だよ、こっちは緊張してがちがちなんだから……」
 背中に、黒野くんの体温を感じる。
 頬にはパーマがかったアッシュブロンドの髪が触れているようで、こうしていると彼の髪は柔らかかった。いい匂いもした。シャンプーの匂いかもしれない。
「大丈夫、変なことしないよ」
 黒野くんは私の頬にキスしながら言った。
「もちろん、してもいいなら、するけど」
「言ってない、いいなんて言ってない」
「だよね。じゃ、今年のうちは我慢する」
 今年って言っても、もう二時間切ってるのに!
 私の緊張はもはや最高潮にあり、黒野くんの膝の上で身動き一つできずに固まっていた。
 黒野くんは、そんな私を宥めるみたいに髪を撫でてくる。
「都さん」
「な……何?」
「重たい話にしたくないから、さらっと言うけどさ」
 予想とは違う前置きの後で、彼は続けた。
「俺、実は、もう親いないんだよね」
 聞こえたのは、もっと予想外の言葉だった。
 私は思わず振り返ろうとして――黒野くんの腕がそれを制するように力を込めてくる。
「結構前の話なんだけど、相次いでって感じで。それで俺、地元はあっても帰るとこなくてさ。年末年始は大抵一人で過ごしてた」
 もちろん驚いた。
 だけど同時に、納得するような思いもあった。
 何でもない家庭料理をありがたがってくれたこと、地元の話をする時に随分と懐かしそうにしていたこと、そもそも住んだこともないこの街でお店を構えたこと自体がそうだ。
 私も、薄々感づいてはいたのかもしれない。
「辛かったね」
 そうとしか、言えなかった。
 少しだけ間を置いて彼が答える。
「うん……当時は、やっぱかなり堪えたな」
 当然だろう。私の両親はまだ健在だし、故郷の街で夫婦仲良く暮らしているけど、もしそうじゃなかったら――なんて考えるのも辛い。
 いつかは見送ることになるのだろうと思う。だけど、二十代のうちにその時のことを考えるのは簡単じゃない。
 黒野くんは、そういう辛さを味わってきた人、なんだ。
「今はもう、思い出になってるけどね」
 彼が静かに呟いたから、私は、今度は自分から彼に頬を寄せてみた。
 お酒を飲んだ後だからか、彼は、とても温かかった。
 こういう時にかけるべき言葉が上手く見つからない。二十九歳になってもとっさに思い浮かばないなんて、悔しい。せめて、心配してるよって気持ちだけは伝わるといいんだけど。
「……ありがとね、都さん」
 伝わったみたいだ。黒野くんが、少しだけ笑った。
「伯父さんはいるんだ。黒野家代々の墓、守ってくれてる人」
 何でもないような口調で語る。
「いい人でさ、『実家だと思って帰ってこい』って言ってくれるんだけど、やっぱそうもいかなくて。結局、全然帰ってない」
 私の髪を、大切そうに撫でながら打ち明けてくる。
「この街で店やるって決めたのも、帰るところがないからなんだ。どうせならここを俺の新しいホームにしてやろうって決めた。もちろん不安も、緊張もあったけど、今は決めてよかったと思ってる――何より都さんと会えたからな」
 彼の覚悟は、前にも聞いた。
 ここに引っ越してきたばかりの夜、ベランダで私と出会って、抱いた思いについても。
「都さん。いい名前だね」
 黒野くんが私に囁く。
「『住めば都』、その通りだと思ったよ」

 住めば都。
 確かに、本当にいい言葉だと思う。
 この街は私にとっても、黒野くんにとっても故郷じゃない。だけど私達がこれからも暮らしていく街であり、思い出を作っていく場所でもある。
 今日までだって、たくさん思い出ができた。
 そしてこれからも――来年も、私は黒野くんと一緒に、この街をもっと好きになっていきたい。

「名前、誉めてくれてありがとう」
 私が囁き返すと、くすぐったかったのか、黒野くんが軽く首を竦めた。
「どういたしまして、都さん」
「好きな人に名前を誉めてもらえるのって嬉しいな」
「じゃあ、俺は? 俺は?」
 いかにも誉めて欲しそうに彼が言う。
 その感じが何だか懐いてくる子供みたいで、私はつい笑ってしまった。
「黒野くんの下の名前、翔和くん、だったよね」
「覚えててくれたんだ」
「初めて会った時、名刺貰ったから」
 クロノ、トワ。
 彼の名字も名前も、奇しくも同じ、時間に関わるものだ。
 一体誰がつけたんだろう。翔和くん。これも、いい名前だ。
「素敵な名前だよね、翔和くん」
 私が誉め返すと、黒野くんは私の頬に手を添えて横を向かせた。
 前髪が重なる至近距離で、視線が静かに結ばれる。
「そう思うなら、これからは名前で呼んで欲しいな」
「うん。……翔和くん、大好きだよ」
 微かに赤らんだ彼の瞳に見入りながら、私は告げる。
「約束するからね。来年も、一緒に年越ししよう」
 すると彼は、甘く、幸せそうに微笑んだ。
「ありがとう都さん。俺と、ずっと一緒にいて」
「一緒にいるよ、ずっと」
 その言葉の後で、どちらからともなく唇を重ねた。

 それから私は、彼の膝の上に乗ったままで。
 彼は私を膝に乗せ、抱き締めたままで、年が明けるまで過ごした。
 新しい年を迎えた後は、
「あけましておめでとう、都さん」
「おめでとう、翔和くん。今年もよろしくね」
「こちらこそ。去年以上に、よろしく」
 誰より早く挨拶をして、そしてお互いに、今年初めての幸せと笑顔を贈り合った。

 彼の部屋で日付が変わるまで過ごして、やっぱり緊張したしどきどきした。
 だけど、すごく素敵な思い出にもなった。
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