Tiny garden

冬は恋に適している(3)

「えっ、く、黒野くん!?」
 思わず声を上げた私に、黒野くんが耳元で囁く。
「静かに。あいつが起きる」
「う、うん……」
 頷いてはみたものの、それでいいのかと自分でも思う。突然の事態にどうしていいのかわからない。
 明かりが消えたままの玄関で、私は彼に抱き締められている。

 べろべろだったサカキくんと比べたら、黒野くんはそれほど酔っていないように見えていた。
 だけど今、私を抱き締めている彼の身体はとても熱い。冬服越しにもわかるくらい体温が上がっている。そうは見えなくても、実は結構飲んでいるのかもしれない。
 さっきまで感じていた肌寒さはあっという間に消え失せた。
 代わりに彼の熱がうつったみたいで、頬が火照るのが自分でもわかる。
 それにすごく、動悸が激しい。

 うろたえるしかない私をよそに、黒野くんは深い息をつく。
「都さんと、随分会ってなかった気がするよ」
 首筋にかかる吐息も生温かくて湿っぽい。そのことにどぎまぎしている私がいる。
「少し、襟足伸びたんじゃない?」
 黒野くんの手が、私の後ろ髪をさらりと撫でた。
 美容師さんならではの言葉に、私は緊張しながらも応じる。
「そうかな……そろそろ切った方がいい?」
 あれからちょうど一ヶ月くらいだろうか。今まではロングだったから、三ヶ月おきに揃える感じで切りに行くのが普通だった。でも今はショートだから、通う感覚も短くなって当然だろう。
「年明けくらいに来てもらえたらちょうどいいかな」
 私の問いに答えた黒野くんが、その手を私のうなじに這わせる。
 襟足の髪を掻き混ぜるように撫でられて、ぞくっとした。
「身体震えてる。まだ寒い?」
 私の動きを感じ取り、黒野くんが耳元で尋ねる。
「ち、違う。くすぐったいの」
「くすぐったいってどこが?」
 尚も襟足を弄る彼の手は、まさに職業柄の手つきだ。優しくて柔らかく掻き混ぜられると、気持ちいいとさえ思えてくる。
 だけどくすぐったさには耐えられず、私は彼の腕を軽く叩いた。
「悪戯しないで。黒野くん、酔ってるでしょ」
「そうでもないと思うけどな」
 黒野くんは答えつつも、ようやく手の動きを止めてくれる。
 それから私の顔を覗き込み、薄暗さの中で微かに笑んだ。
「クリスマスに誘ってくれたの、嬉しかったよ」
 心なしかその微笑は、いつもより寂しげに翳っていた。
「何とか今、都合つけようとしてるとこなんだけど……」
 けど、状況はあまり芳しくないんだろう。表情でわかる。
「無理しなくていいよ。クリスマスじゃなくてもいいんだし」
 私は彼にかぶりを振った。
 それでも黒野くんは納得できない様子だった。私を抱き締めたまま肩を竦めてみせる。
「でも、クリスマスだろ。やっぱり特別だよ」
 かもしれない。職場の皆もクリスマスのことは特別気にしているようだった。
 私もほんの少しだけ、点灯式への未練が捨てきれない。もちろん黒野くんを困らせるつもりだってないけど。
「それに、都さんから誘ってくれたのがさ。もっと特別だった」
 黒野くんが私を見下ろす。
 上がり框に立った分だけいつもより高低差がある。眼差しの柔らかい瞳には微かな光が揺れていて、とてもきれいだった。
「都さんにはずっと、俺に振り向いて欲しかったから」
 その言葉も、これはこれでくすぐったい。
 出会ってから一ヶ月になろうとしていた。『ずっと』と言うほどの時間は過ぎていないはずだった。
 黒野くんはどうして、私のことが好きなんだろう。やっぱり不思議に思う。
「どうして、そこまで言ってくれるの?」
 言葉を選びつつ、私は彼に尋ねた。
 すると彼は怪訝そうに瞬きをする。
「おかしいかな」
「お、おかしくはないけど。何か、ずっと昔からみたいに言うなあって」
「出会った時から、だからかもね」
 黒野くんはあっさりとそう答え、また私をきつく抱き締めた。
「前に、『一目惚れかも』って言ったけど」
 服越しの体温を感じる腕の中、私は黒野くんの話を聞いていた。
「本当はあの夜、もっといろんなことを思った」
 あの夜。
 私がベランダで涙に暮れ、そして黒野くんと出会ったあの夜、彼は一体どんなことを思っていたんだろう。
 私もそれが聞きたくて、彼の声にひたすら耳を澄ませた。
「この街には店を出す前も、開店の準備でも何度も足を運んでた。ここで店構えるって決めた時から迷うこともなかった。でもいざここに住むって決めたら、ほんの少しだけ、不安になったんだ」
 黒野くんは囁くように続ける。
「ここにはサカキがいたし、俺に店を譲ってくれた先輩もいたし、他にも知り合いはたくさんいた。だけどそれでも、引っ越しが終わって部屋に一人になった時、ちょっと寂しかった」
 その気持ちは痛いほどよくわかる。
 私だって七年前には同じことを思った。故郷を思い出してしまうから、海なんて見たくなかった。
「そんな時に、この部屋のベランダで都さんに会ってさ」
 そこで黒野くんは少し笑った。
「髪がきれいな人だなって思った。でもちょっと重そうにも見えて、短い方が似合うんじゃないかなって考えた。泣いてるのかもって思ったら本当に泣いてて驚いた。でも泣いてる割に俺と普通に話してて、惚れるなって思った。その後で見せてくれた笑顔は、可愛かった」
 私の記憶の中にも、あの夜のやり取りが蘇る。
「俺だったら、都さんを泣かせないのになって思った」
 黒野くんの手が、また私の髪を撫でた。
 今度はくすぐるようではなく、ただ優しく、いとおしむみたいに。
「でも、俺じゃなかったから。都さんの心の中にはもう既に別の誰かが居着いてて、俺は出会った時から出遅れてた」
 私は何も言えなくなる。
 別の誰かは――今はもういないと、そう思いたかった。
「一目惚れした嬉しさと、その相手に好きな人がいるっていう絶望。その両方を味わうってどんな気持ちか、都さんにはわかるかな」
 問いかけられて、私はおずおずと顔を上げる。
 黒野くんは笑っていない。真剣な目で私を見ている。
「俺には二つの選択肢しかなかった。ここで諦めて一人で泣くか、心の中の先客を追い払って振り向かせようと努力するか。傷が浅いうちに引き返すのも正しい判断なのかもしれない。でも、俺は決めたんだ」
 彼の揺るぎない眼差しから、目が逸らせない。
「都さんが髪を切らせてくれた時に決めたんだ」
 ゆっくりと、誓うように、黒野くんの唇が言葉を紡ぐ。
「この街で初めて、俺を信じて髪を切らせてくれた人だから。大切にするって決めた」

 私はまだ、黒野くんのことをたくさん知っているわけじゃない。
 だけど今の話を聞いて、わかったこともたくさんある。
 黒野くんはそのお仕事にとても強い情熱と誇りがあるんだろう。それでも独立してお店を持つなんて並大抵のことではないだろうし、彼はかつて『運がよかった』なんて言っていたけどそれだけじゃないだろうことは私にだって読み取れる。もしかしたらここじゃない、もっと住み慣れた街でお店を構えたかったのかもしれない。それでも目の前に現れた好機を、彼は掴んだ。
 住んだことのない街にお店を出すなんて、きっとすごく勇気の要ることだ。
 それでも拭い切れない不安の中、私と出会って、私のことを気に入ってくれて――彼にはそれが、運命の出会いに思えたのかもしれない。
 嬉しいなって、素直に思う。
 黒野くんが私のことを運命だと思ってくれるなら、私はその気持ちを守りたい。黒野くんの決断に後悔なんてさせたくない。

 だってあの時、黒野くんが手を差し伸べてくれなければ、私は前に進めなかった。
 そして今、黒野くんに抱き締められていることが、幸せだった。

「黒野くん、ありがとう」
 私が感謝を告げると、黒野くんは困ったような顔をする。
「都さんに言われるなら、感謝じゃなくて別の言葉がいいんだけどな」
 全くその通りだ。
 思っていることを全部告げたら、きっと彼は喜んでくれるだろう。今はまだとりとめもなさすぎて、上手く伝えられるかはわからない。だけど言いたい。そう思った。
「黒野くん、聞いて欲しいの。私――」
 意を決して私が口を開くと、黒野くんが目で頷いた。
 そして、
「――黒野ぉ、お前いつの間に彼女作ってんの?」
 酔いでふにゃふにゃになった声が、黒野くんの背後から聞こえてきた。
 とっさに黒野くんは振り向いたし、私だってそちらを覗き込まずにはいられなかった。
 奥に通じる引き戸がいつの間にやら三十センチばかり空いていて、そこから這うような姿勢で首を突っ込み、サカキくんがこっちを見ている。その構図、薄暗い中で見るとちょっとしたホラーじみていた。
「なんで起きてきた」
 黒野くんが睨んでもサカキくんはどこ吹く風だ。とろんとした目を向けてくる。
「だって話し声すんだもん。何だよ水臭い、紹介くらいしろよう」
「いいから寝てろよ。酔っ払いに紹介するなんて嫌だよ」
「酔ってないって多分。もしかしてそのお姉さん、一緒に科学館行った子?」
「酔ってるだろ! ああもう……ごめん都さん」
 悔しそうに舌打ちした後で、黒野くんは私の身体をそっと離した。
 そして、とてもとても残念そうに語を継ぐ。
「さっきの続きはまた今度、必ず。絶対時間作るから!」
「そ、そうだね……」
 言い含めるような強い語調に、私はぎくしゃく頷いた。
 かなり恥ずかしいことを言おうとしていたタイミングだっただけに、水入りとなってがっかりしたような、ほっとしたような――でも、いつかは必ず言わなきゃいけないことだ。
 黒野くんは、はっきり言ってくれたんだから。
 私も次の機会までに、思っていることをすんなり口にできるよう、ちゃんとまとめておかなくては。
「じゃあ黒野くん、おやすみ。またね」
 私が告げると、黒野くんは寂しそうに微笑んだ。
「おやすみ、都さん」
「ミヤコさんまたね。黒野のこと、よろしく頼むよー」
 サカキくんも引き戸の隙間から手を振ってきて、それを黒野くんは憂鬱そうに見ている。私ははにかみつつ、彼の部屋を後にする。
 外へ出ると、夜風が冷たくなっていた。
 黒野くん、すごく温かかったな。そんなことを思い出しながら、そして一人で恥ずかしがりながら、何メートルも離れていない自分の部屋へと帰っていく。
 冬だからかな。
 別れたばかりなのに、黒野くんが恋しかった。

 翌日の夜、黒野くんから思いがけないメールが届いた。
『二十四日の夜、六時くらいからなら会えるよ。どうかな?』
 その連絡はもちろん嬉しかったけど、驚きもした。昨日の時点では無理そうな雰囲気だったのに、一体どうしたんだろう。
 不思議に思ってメールで尋ねてみたら、
『榊がシフトを替わってくれた。この間のお詫びだって』
 とのことだった。
 あの後、酔いが冷めた榊くんは、黒野くんとどんな会話を交わしたんだろう。
 次の来店は年明けくらいにって言われてたけど、その時に榊くんと会うことがあったら、お礼を言ってみようかな。もしかしたら私のことは覚えてないかもしれないけど。
 でもお蔭で、私と黒野くんにはいいことがあった。

 期せずして転がり込んできたクリスマスの予定に、私は胸を躍らせる。
 今年のクリスマスは、とてもいい日になりそうな気がする!
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