Tiny garden

季節は空から訪れる(1)

 私が好きになるのは、いつも穏やかで優しい人だ。

「三島さん、あの……」
 仕事を終え、さあ帰ろうかというタイミングで、江藤くんに声をかけられた。
 スーツの上に薄手のコートを羽織った彼も、どうやら帰り支度は済ませたらしい。ただその表情は思い詰めているように硬く、深刻そうだった。
 くしくも今日は金曜日、告白する前に振られた日からちょうど一週間だった。
「お疲れ様、江藤くん。どうかした?」
 私も気まずさを押し隠しながら聞き返す。
 すると彼は言いにくそうに、もごもごと口を動かした。
「あの、お話があるんです。少しだけお時間いただけませんか」
「話って、どんなこと?」
「ここではちょっと……」
 用件を尋ねれば言葉を濁される。それだけで何となく察して、私は憂鬱な気分になった。
 まず間違いなく、先週のやり取りについてのことだろう。
 だけど今更、私に何を話したいって言うんだろうか。江藤くん自身はあの時、私を振ったことなんて微塵も気づいてないと思っていたけど――。
「帰り道、歩きながらでもいい?」
 以前ならどこかお店に入って、なんて誘っていたところだ。
 だけど私の言葉に江藤くんはほっとしたようだ。胸を撫で下ろしながら答えた。
「ありがとうございます、お願いします」

 江藤くんと一緒に帰るのは、今日が初めてじゃない。
 初めてじゃないどころか、私は彼をしょっちゅう誘っていた。一緒に上がれるタイミングの時はいつでも声をかけていた。電車通勤の江藤くんとは駅まで一緒に歩ける程度だったけど、それでも仕事を離れて一緒にいられるのが嬉しくて、楽しくて仕方がなかった。
 江藤くんは口下手でこそないものの、饒舌な人というわけでもない。いつも穏やかで優しいけど、二人きりでいるとよく会話が途切れた。そういう時、私は必死になって次の話題を探した。彼に退屈だって思われたくなかったからだ。
 だけど今、駅までの道を辿りながら、私達はお互いに黙り込んでいる。
 話があると言ってきたはずの江藤くんは、深刻そうな面持ちのまま、地面を見つめて歩き続けた。私も、彼の出方を待つしかなかった。いつになく気まずい沈黙が私達の間には流れていた。

「……すみません」
 夜の街を黙って歩きながら、どのくらい待っただろうか。
 やがて、ようやく江藤くんが言い、そろそろと目をこちらへ向ける。
 温厚さが表れたような、優しいクマさんのような顔つきが強張っている。
「どうして謝るの?」
 私が尋ねると、江藤くんは少しだけ驚いたように目を瞠った。
「いや、だって……俺からお願いしといて、ずっと黙ってたんで」
「そんなの気にしなくていいよ。言いにくいことなんでしょ?」
 内心、言いにくいなら言ってくれなくてもいいのになって思ってるけど。
 でもそれは私の勝手な要望だ。江藤くんにだって言い分くらいあるだろう。
「言いにくいっていうか……」
 江藤くんは尚も口ごもりながらも、やがて深呼吸をしてから、
「先週のこと、ちゃんと謝りたいなって思ってたんです」
 ためらい続けた割にはきっぱりと宣言した。
 やっぱりか、と思う私に、彼は続ける。
「三島さんにはずっとお世話になってたのに、あんまりな断り方したかなって」
 どうやら彼は、私にさらなるとどめを刺しに来たようだ。
 しかしそれはさすがにオーバーキルというやつじゃないだろうか。黒野くんのお蔭で吹っ切れそうだとは言え、何もかもきれいさっぱり忘れてしまえたわけではないのに。
「いいよそんなの、気にしなくても」
 彼の言葉を押し留めようとかぶりを振ってはみたものの、江藤くんはそれを先輩なりの気遣いと受け取ったようだ。
「そうはいきません、せっかく三島さんが誘ってくださったのに」
「いいったら。彼女に知れたら不安がらせちゃうんでしょ?」
 私は駄目押しのつもりでそう告げた。
「こっちこそ、気安く誘っちゃってごめんね」
 ついでに、江藤くんの心を煩わせたことを謝っておく。
「プラネタリウム仲間ができるかもって思って、誘ってみただけなんだ」
 それはまあ、嘘だけど。
 好きだった、デートの誘いのつもりだった、彼女がいるなんて思いもよらなかった――なんて、もはや絶対に言えっこない。
「そうだったんですか」
 江藤くんはそこで、申し訳なさそうに目を伏せた。
「ご一緒できなくてすみません」
「だから、謝らなくていいんだって」
 あのプラネタリウムのチケットは、もう私の手元にはない。
 他の人と行ったことを打ち明けた方が江藤くんの気が楽になるだろうか。少し迷って、私は言った。
「それに、代わりに行ってくれる人を見つけたから。大丈夫だよ」
 江藤くんはその言葉に、どうしてか酷く驚いたようだ。勢いよく面を上げた。
「そう、なんですか?」
「うん。実は水曜日に行ってきたばかりなの」
「……なら、よかったです」
 彼はそう言うと、ぎこちない苦笑を浮かべる。
「俺、三島さんが怒ってるんじゃないかって気が気じゃなくて」
「怒るわけないじゃない。こんな優しい先輩、他にいないよ」
「そうですね」
 冗談のつもりで言った私をよそに、江藤くんは真面目に頷いた。
「でもこの一週間、三島さんとはあまり話してませんでしたから」
「え……そ、そうだった?」
「はい。だから俺、避けられてるんじゃないかって思ってたんです」
 ぎくりとする。
 態度には出さないつもりでいたけど、現実にはそうもいかなかったらしい。もっとも振られる前はあれだけ江藤くんを追い駆け回していた私だ、いきなり離れたら避けられているように見えるのも無理はない。
 かと言って、もう以前のように彼と接することはできないんだけど。
「そういうふうに見えてたならごめん」
 とりあえず私は彼に詫び、それから言い添えておく。
「彼女いる人に馴れ馴れしすぎたかなとは思ったから、気をつけるようにするね」
「いえ、そんなことないです。気にせず普通にしててください」
 江藤くんはクマさんのような顔を彼らしく和ませた。
 その顔が、好きだったな。
 眩しい思いで見上げる私に、彼は穏やかに言ってくれた。
「三島さんのそういうところ、とてもいい先輩だなって思ってますから」
 江藤くんは優しい人だ。
 だけど彼の優しさが、今はものすごく胸に痛かった。

 私が好きになるのはいつも、江藤くんみたいな人だ。
 好きになったら脇目も振らずに追い駆けてしまう私を邪険にせず、優しく接してくれて、でも私が距離を詰めようと一歩踏み出した途端にやんわり遠ざけられてしまう。
 優しい人達は私に酷い言葉を告げたりしない。
 恋が終わるその瞬間までずっと、優しいままで私の前にいる。
 だから、ちょっと泣けばすぐに治まるような失恋だって思ってた。

『傷ついたんですね、都さん』
 駅で江藤くんと別れた後、黒野くんの言葉が痛む胸をふと過ぎった。
 そうなんだろうか。江藤くんの優しさの一つ一つが突き刺さるのも、一人になった後で足が重く感じるのも、傷ついているからなんだろうか。
 だけどくよくよしてもいられない。江藤くんは私に、これまで通りのよき先輩を求めているのだ。私の態度がおかしいと見るや彼は気に病むことだろう。気をつけなくては。
 とりあえず今日は金曜日、明日と明後日は休日だ。
 このお休みの間に気持ちをしっかり切り替えておこう。

 アパート裏の通りに入ると、ついベランダを見上げてしまう。
 二階の東端から二番目の部屋、今夜はそこに人影はない。部屋の明かりも消えているから、黒野くんはまだ帰っていないんだろう。
 彼のお店『クロノス』は午後七時閉店らしい。もっとも閉店してすぐ帰れるというわけではないそうで、精算やら後片づけやらお掃除やらで一時間はかかるし、閉店後にカットの練習をすることもあると言っていた。美容師さんというお仕事も結構大変みたいだ。
 空っぽのベランダを物欲しげに見上げていたって、何かいいことがあるわけでもなし。
 私はさっさと部屋に入り、着替えを済ませ、冷蔵庫で冷やしておいた缶チューハイを開けてみた。お酒でも飲めば気分が晴れるんじゃないか、そう思ってのことだった。
 だけど一人ぼっちで飲んでいてもそうそういい気分になれるものじゃない。
 やがて私は、缶を片手にベランダへ出た。
 秋の終わりらしく、月明かりさえ冷たく感じる夜だった。

 冷たい夜風が吹きつける中、痩せ我慢みたいにチューハイを飲み続けること小一時間。
 こちらへやってくる足音が聞こえて、私はベランダから身を乗り出す。
 遠くから見覚えのある人影が近づいてくる。街灯の光の下をいくつもいくつも潜り抜け、ようやく辿り着いたアパートの前で彼は立ち止まる。さっき私がしたようにベランダを見上げて、垂れ目の瞳を大きく見開く。
「都さん」
 名前を呼ばれて嬉しくて、私は凍えそうな指でチューハイの缶を持ち直す。
 それから『おかえり』を言おうとしたら、それよりも早く黒野くんが走り出した。外階段を二段飛ばしで駆け上がっていくのがちらりと見えた後、玄関の鍵とドアを開ける音が聞こえ、室内を通り抜ける物音がして、最後にベランダの戸がからりと開いた。
 防火壁越しに、黒野くんが顔を覗かせる。
「ただいま、都さん」
 息を弾ませたその声に、私も思わず頬が緩んだ。
「お帰り。そんなに急がなくてもよかったのに」
「都さんが待っててくれてるのに、のんびり歩いてられないよ」
 そう言って浮かべた甘い微笑が、今夜はことのほか胸に染みた。
「ありがとう」
 私が口にした感謝の言葉は、寒さのせいで少し震えた。
 それを聞きつけたか、黒野くんが眉を顰める。
「都さん、もしかしてずっと待ってた?」
「一時間くらいかな」
「嬉しいけど、風邪引くよ。今夜なんてめっきり冷え込んでるのに」
「大丈夫だよ、お酒飲んでたから」
 お酒とは言え缶チューハイで身体が温まるはずもない。それどころか酔いすら回らず、ただのジュースを飲んでいる気分だった。
「都さん、酒強い方?」
「あんまりかな。飲み会だと一、二杯でやめちゃうくらい」
「そっか。一緒に飲んでみたいな、都さんと」
 期待を寄せるような物言いに、私も笑って聞き返す。
「じゃあ飲む? 冷蔵庫にもう一本あるし、取ってきてあげるよ」
 するとさしもの黒野くんも苦笑を浮かべた。
「せっかくのお誘いだけど、冷たいのはちょっとな」
「寒いもんね、今夜」
「都さんこそ大丈夫? さっきから声震えてるけど」
「私も寒いけど、すっきりしたくて風に当たってたの」
 ともすれば落ち込みたくなる気分を吹き飛ばしてしまいたかった。もっとも夜風なんかより、黒野くんの方が効果あったみたいだけど。
 黒野くんは防火壁越しにじっと私を見た後で、静かに尋ねてきた。
「……何かあった?」
「うん」
 私は、正直に頷く。
 それで黒野くんも、腑に落ちたという顔をした。
「よかったら話、聞こうか?」
 そう申し出てもくれたけど、相談するほどの話でもなかった。
 それに、黒野くんにまで優しくされたらかえって辛い。私は結局、優しい人にばかり惹かれるんだって実感するだけだ。そんな気がした。
「ううん、平気。黒野くんの顔が見たかったんだ」
 私の答えを聞いた彼は、しばらく複雑そうにこちらを見つめてきた。
 だけどその後で、何か素敵なことを思いついたみたいに表情を輝かせた。
「都さん、やっぱり俺もちょっと飲みたい」
「いいよ、持ってきてあげる」
 頷いた私が一旦引っ込もうとすると、黒野くんは素早くかぶりを振る。
「違う違う。都さんの飲んでるやつが飲みたい」
 そう言った彼の指が、私が握るチューハイの缶を指し示す。
 私は彼とその缶を見比べてから、
「えっ、同じ種類のってこと?」
「いいや。その缶から一口だけちょうだいってこと」
「でも、私が口つけたやつだよ」
「だからだよ」
 黒野くんの言わんとするところを察して、ちょっとうろたえた。
 急に何を言うかと思えばこれだ。こういう台詞に平然としていられるほど、私は慣れてはいなかった。
「都さん、間接キスくらいで慌ててる。可愛いね」
 おまけにからかうように黒野くんが言って、何だか悔しくなった。
「別に慌ててないけど……いいよ、一口くらい」
 私はむっとしながらチューハイの缶を差し出す。
 黒野くんのすらりとした手がそれを受け取る。そして彼は缶の口を拭うことなく、ためらいもなく缶を呷る。月明かりの下で、彼の尖った喉仏がごくりと音を立てながら上下する。まるでそこに別の生き物が棲んでいるように思えて、私は黙って見入るしかなかった。
「……ごちそうさま。オレンジ味、美味しかった」
 飲み終えた黒野くんが、そのまま缶を返してきた。
 私が黙って受け取ると、せっかくの端整な顔に含んだような笑みが浮かんだ。
「飲まないの?」
「の、飲むよ。十代じゃないんだし気にしてないからね間接とか」
「ふうん。じゃあ飲んでみせてよ」
 黒野くんは私の主張なんてまるっきり信じてない様子だった。
 仕方ないので私も、さっきより少し軽くなったような気がする缶に口をつけてみる。オレンジのチューハイはさっきと変わらない味だったのに、急に酔いが回ったように体温が上がった。私が飲むのを見守っている視線を感じたせいかもしれない。
「ほら、何ともなかったでしょ」
「顔真っ赤になってるけどね」
「黒野くん!」
 鋭い指摘に思わず声を上げると、黒野くんは隣のベランダでげらげら笑ってみせた。
「こういうじゃれ合いだったらいつでも付き合うよ、都さん」

 黒野くんも、優しい人だ。
 だけどその優しさは、私が知っているものとはちょっと違う。
 笑い飛ばされたい時に笑ってくれたり、忘れたいことがある時にちょっかいを出してくれたり、決してそっとしておいてはくれなかったり――気が休まるような優しさではないけど、そういうのが私にはすごくありがたい。

「黒野くんがいてくれてよかった。ありがとね」
 私がお礼を言うと、黒野くんは恭しいお辞儀と共に言った。
「どういたしまして。間接キスのご要望も、いつでも承るから」
「そこにありがとうって言ったんじゃないからね」
 黒野くんなら、ちゃんとわかってるだろうけど。
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