Tiny garden

ときめきは夜に落ちてくる(1)

 火曜日だというのに、仕事帰りの足取りが軽い。
 いつもなら週の始めは気が重くて、まだ火曜日かと溜息をついている頃だ。職場に好きな人がいようがいまいが、仕事のある日よりも休日の方が楽しい。こればかりは当然のことだろう。
 だけど今日の私は、週末を待ち遠しく思う気持ちすら忘れている。
 週末切ったばかりの髪が夜風に吹かれ、剥き出しの首筋がすうっと冷える。だけど身も心も軽くなったようで、この時期の肌寒さすら爽やかで心地いい。
 お隣さんのお勧め通りに髪を切ってみて、本当によかった。

 急ぎ足でアパート裏の道に飛び込んだ時、頭上で微かな笑い声がした。
「都さん、お帰りなさい」
 名前を呼ばれて見上げれば、こちらに面した二階のベランダに、黒野くんがいた。
 何となく、今夜もいるんじゃないかと思っていた。
 昨日みたいに、私の帰りを待っていてくれるんじゃないかって。
 だけど確証はなくて、その予感が当たったことに嬉しいような、くすぐったいような気分になりながら、私は小声で応じた。
「ただいま」
 声は届かなくても、口の動きでわかったようだ。
 黒野くんは微笑んで、それから、
『おかえり』
 私の真似をするみたいに、唇だけを動かしてそう言った。
 こういうのって、何だか仲良しのやり取りみたいで、照れる。
 このまま上と下で見つめ合っているのも妙かなと、私はアパートの外階段を一息に駆け上がった。そして黒野くんがいたベランダの隣室、自分の部屋に飛び込む。
 真っ直ぐに室内を突っ切り狭いベランダへ出ると、防火壁の向こうから声がする。
「急がせちゃったみたいで、すみません」
「ううん。出迎えてもらっちゃったし」
 手すりにもたれかかりながら答えると、黒野くんがこちらに顔を覗かせた。
 パーマがかったアッシュブロンドの髪、実年齢よりも若く見える垂れ目の顔立ち、そしてそこに浮かんだとびきり甘い微笑み。
 先週知り合ったばかりのお隣さんが、すっかり見慣れた顔になっていた。
「おとなしく連絡待ってようと思ったんですけど、どきどきしちゃって。都さん帰ってこないかなってベランダに出たところです」
 黒野くんは頬をほんのり赤くしていた。もしかしたら少し前から待っていてくれたのかもしれない。
 彼はこちらに身を乗り出し、待ち切れない様子で続ける。
「それで、大丈夫そうですか? 明日」
「うん。不測の事態でもない限り、八時までには上がれそう」
「よかった。ありがとうございます、都さん」
 明日は水曜日だ。
 黒野くんが営んでいるヘアサロンの定休日、でもある。
 その日に、私と黒野くんは市内にある科学館のプラネタリウムへ行く約束をしていた。プラネタリウムは夜の十時まで開いているから、私が仕事を終えてから行くのでも十分間に合う。
「だから待ち合わせも、八時半くらいでいいかな?」
 私が尋ねると、黒野くんはすぐさま頷いた。
「わかりました。どこで待ち合わせましょうか」
「黒野くん、科学館の場所わかる?」
 駅前のビル街の中に建つ科学館のことは、この市内に住んでいる人なら大抵知っている。数年前に建て替えが行われたばかりで、まだ新しくてきれいな建物だ。
 でも黒野くんは先週越してきたばかりだ。皆が知っていて当たり前の建物でも、彼はまだ知らない可能性は十分にある。そう思って聞いてみた。
 すると黒野くんは意外にもこう言った。
「場所は知ってます。うちのスタッフに聞いたんです」
 そういえば彼が言ってたっけ。お店で働くスタッフは、店長の黒野くん以外はこの辺りの出身なんだって。
「じゃあ、現地待ち合わせでも平気?」
「はい。先に行って、待ってますね」
 黒野くんはそう言ってから、微かにはにかんだ。
「場所を教えてくれた奴には冷やかされました。引っ越してきたばかりなのに、プラネタリウムなんて誰と行くんだって」
「そうだろうね。私でも聞いちゃうな」
 会ったこともないスタッフさんの反応が思い浮かぶようで、思わず笑ってしまった。
 その人だって、黒野くんがまさか出会って一週間も経っていない相手とデートするなんて、想像もつかないことだろう。

 そしてそれは私にも言えることだ。
 黒野くんと知り合ったのは先週、金曜の夜だった。
 その金曜日に私は失恋して、土曜日に黒野くんが髪を切ってくれて、月曜日の夜にお礼のつもりでプラネタリウムのチケットをあげて――そうしたら黒野くんは、私を誘ってくれた。
 こんなこと、今までになかった。
 そもそも失恋してから一週間と経っていないのに、もう別の人とデートなんてどうなんだろう。その疑問と言うか、葛藤と言うか、後ろめたさにも似た気持ちは昨夜からずっと私の中に燻っている。別に江藤くんに対して義理立てする必要はないのだろうけど、私の中でも上手く消化しきれていなかった。
 だけど黒野くんの誘いに頷いたのも、やっぱり失恋していたからだ。
 手っ取り早く吹っ切りたかった。髪を切った時みたいに、気分を変えてみたかった。
 これが新しい恋になるかどうかはわからないけど、黒野くんが運命の人かどうかもわからないけど、差し伸べられた手を取ってみようと思った。

 アパートのベランダからは夜の景色がよく見える。
 住宅街に建つ家の一軒一軒が灯す温かい光がきれいで、ここから眺める夜景の美しさが好きだった。いつか誰かと一緒に眺められたら、なんて想像していたこともあったけど。
「黒野くんは、星見るの好き?」
 私が不意に尋ねると、こちらを覗く黒野くんが笑うように声を震わせた。
「好きです。ただ詳しくはないですけど」
「私もそんなに知ってるわけじゃないよ」
 プラネタリウムには何度も通ったけど、学びに行くというよりは、癒されに行ったようなものだった。
 特に科学館が建て替えられる前、就職してこっちの街に引っ越してきたばかりの頃はよく行ったな。ホームシック気味だったからかもしれない。それであの静かな雰囲気と、本物の夜空とは違う星の光が気に入って、好きな人ができたら一緒に行きたいなってずっと思ってた。
 そんなのばっかりだな、私。
 自分の好きなものを大好きな人と共有したい。そんな思いはずっとあるのに、現実にはなかなか叶わない。
「都さんは星、好きなんですね」
「うん。星だけが好きなわけじゃなくて、きれいなものが好きなの」
 それこそ夜景でも、ガラス細工でも、塗りたてのネイルもナイフで均した生クリームも道端で咲いている花だって全部好き。
「疲れてる時にきれいなもの見ると癒されるよね」
「ああ、わかります」
 私の言葉に黒野くんが頷く。
「俺もきれいなもの見るの、好きですよ」
 それで私は、土曜日に訪ねた彼のお店を思い出す。
 白レンガ造りの、小さいけど可愛らしいカフェみたいな佇まい。内装は壁も床も温かみのある木目調で、小さな窓から降り注ぐ日の光がそこかしこに陽だまりを作っていた。
 そして鏡の前に座った私の髪を、黒野くんの芸術品のようにすらりとした手が触れて――あのお店にあるものも、本当に、何もかもきれいだった。
「黒野くんのお店もすごく素敵だったもんね」
 まだ真新しい記憶をなぞりながら私が言うと、黒野くんは赤い頬で嬉しそうな顔をした。
「ありがとうございます。また是非来てください」
 もちろんまた行きたいと思っている。『クロノス』は長らくヘアサロンを渡り歩いてきた私が、ようやく見つけた行きつけのお店になるのかもしれない。次に行った時も黒野くんに切ってもらえるかな。あれだけいい腕ならあっという間に人気が出て、予約を取るのが困難になっているかもしれない。
「絶対行くよ、その時はよろしくね」
「はい。できれば次も、都さんの髪は俺に切らせてください」
 黒野くんがすかさず申し出てくれた。
「嬉しいな。私も黒野くんにお願いしたいなって思ってたところだよ」
「なら、是非。予約を入れてもらえたら大丈夫ですから」
 彼は念を押すように言った後、私を見つめる目をうっとりと細めた。
「初めて見た時、都さんの髪、きれいだなって思ったんです」
 私を『初めて見た時』と言えばまさに金曜日のあの時だ。
 眼差しの柔らかさに戸惑いつつ、だけど金曜の出来事の気まずさにも困っていれば、黒野くんは構わず続けた。
「引っ越してきて、お隣さんがきれいな髪のお姉さんでラッキーだなって」
「……なら、その後はびっくりしたんじゃない?」
 思わず尋ねたら、黒野くんはちょっと迷ってから顎を引いた。
「それは、まあ。もしかしたら泣いてるのかなとは思ったんですけど」
 もしかしたらと思いつつ私に声をかけてたんだ。それはそれで、度胸がすごいな。
「でも、泣いてたのに俺と普通に話してる都さんは格好よかったですし、その後で見た笑顔も可愛かったですよ」
 呆気に取られる私をよそに、彼は、たった四日前の出来事をしみじみと語る。
 垂れ目のせいか、甘い笑い方のせいか、いつも歳より若く見える黒野くんの整った顔立ち。だけど想いを巡らせるように、記憶を手繰り寄せるように目を伏せると、別人のような真剣さが覗いた。
「あれも、一目惚れって言うのかもな……」
 唇を微かに震わせて、零れるような言葉も聞こえてきた。

 その呟きは、私がまだ見たことのない黒野くんの素の表情であるように思えた。
 私とは一歳しか違わない彼は、それでもここまで私に対してずっと敬語を使っていた。多分、最初が『美容師さん』と『お客さん』だったからなのだと思う。
 でも今は、美容師さんでも店長さんでもない黒野くんを見てしまったような、そんな気がした。
 まだ、出会ってから一週間も経っていない人。
 明日、一緒にプラネタリウムへ行く約束をした人。
 私は彼と、これから、どうなるのだろう。

 それに、
「……一目惚れ?」
 今更のようにその単語の重大さに気づいて、私は恐る恐る聞き返した。
 黒野くんが微笑む。甘く、優しく、どんな女の子でもきっと喜ぶであろうとびきりの笑顔だ。私もその顔にどきっとしつつ、でも、さっき見たばかりの違う顔が瞼の裏に焼きついている。
 そして、彼は言った。
「では明日、夜の八時半に。楽しみにしてます」
 それから自分の腕を軽くさすって、
「そろそろ中入りましょうか、風邪引いたらせっかくの予定が台無しです」
「あ、うん。それもそうだね……」
 私は釈然としなかった。答えを先送りにされたような気がしたからだ。
 だけど黒野くんの言うことももっともだろう。ずっと歩いてきて身体が温まっている私はともかく、私をベランダで待っていた黒野くんはきっと寒いに違いない。
「黒野くんも身体冷えたでしょ。今日は温かくして寝てね」
 そう声をかけると、黒野くんはおかしそうに声を立て笑った。
「ばれたか。顔には出さないようにしてたのに」
「えっ?」
「俺が外で、都さんをずっと待ってたってこと」
 ひとしきり笑った黒野くんは、防火壁の横からすっと手を差し出してきた。
 しなやかで長い指、骨の形がくっきりとわかる手の甲、動きすらなめらかなその手を、彼は私の目の前でゆっくりと開く。
「触ってみて」
 促されるがまま、私は彼の手に自分の手を重ねるように触れてみた。
 氷みたいに冷たい。
 やっぱり、と思う私の手を、黒野くんは一度ぎゅっと握った。その力強さに心臓が勢いよく跳ねた瞬間、彼の手はするりと離れて、彼の声が私に告げる。
「都さんの手、温かいですね。明日も繋ぎたいな。おやすみなさい」
「お……おやすみ……」
 呆然としている間に、彼の姿が防火壁の向こうに消える。
 隣室のベランダが閉まる音。
 取り残された私はしばらく立ち尽くしてから、よろよろと手すりに寄りかかった。

 ずっと待ってたって。
 笑顔が可愛いって。
 一目惚れって――。
「一度言われてみたかったけど、いざ言われると困る……!」
 いつだって私は追う方で、それが時に暴走してそのせいで駄目になって、でも反省なんかほとんどしないまま何度も何度も何度も恋をしてきた。
 そうじゃない恋に、これは、なるのだろうか。
「明日もって、簡単に言ってくれるなあ、黒野くん……」
 ベランダの手すりにもたれたまま、私はしばらく動けなかった。
 どうしていいのかわからないデートなんて、こんなの、初めてだ。
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