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Mirror,mirror on the wall

 いつからか、鏡を見るのが好きになっていた。
 鏡にはありのままが映る。嘘偽りのない自分自身が映る。私はかつてそこにいる自分が美しくはないことを自覚して、現実を受け入れていたつもりでいた。だけどそれが新しい現実逃避を生み出していたことに、私はずっと気づけなかった。
 現実を受け入れるというのは、卑屈になることでも、諦めることでもない。
 人は変わっていける。好きではなかった自分の顔を好きになれる日がやってくる。
 私の場合はその変化が、恋によってもたらされた。

「日差しが強いな……」
 そう言って、瑞希さんが運転席上部のサンバイザーを下げた。
 土曜日の午後四時半過ぎ、車内には目が痛くなるほどの眩しい夕日が差し込んでいた。ちょうど車の進行方向に太陽があり、そのせいか幹線道路を走る車の流れはゆったりと慎重だ。
 助手席にいる私も眩しくてたまらず、赤々と染め上げられた街の景色を眺めるのが困難だった。代わりに運転席へ顔を向け、ハンドルを握る瑞希さんの横顔を眺める。
 瑞希さんの精巧な彫刻のような横顔はとても美しかった。強い西日に目を眇め、困った様子で形のいい唇を結んでいる。夕暮れの景色と同じ色に染められたその横顔は、時々芸術品のように完成されたものに見えた。
 だけどしばらくしてからその表情がふっと解けて、親しみを込めた微笑が浮かんだ。
「そう熱っぽく見つめられると運転しづらいな」
「ごめんなさい、外を見ているのが眩しくて、つい」
 私が詫びると、彼はフロントガラスを見据えたまま首を竦めた。
「見ないで欲しいと言ったわけじゃないよ」
「気が散りませんか?」
「全く、と言ったら嘘になる。でも家に着くまでの辛抱だ、我慢するよ」
 瑞希さんはそう言った後、どこか憂鬱げに溜息をつく。
「にしても、確かに眩しいな。もう少し早く出てくるべきだったかな」
「この時間はどうしても日差しがきついですね」
 週末を迎えた私達は一週間ぶりの買い物に出かけていた。お互い働いているから主だった食料品や日用品の購入はどうしても週末になってしまう。ついでにふらふらと店を見て歩き、外食を楽しみ、充実した時間を過ごした後にショッピングモールを後にした。ただ堪能しすぎてしまったのか、モールの駐車場を出た時刻がちょうど夕暮れ時と重なってしまったというわけだ。
「たまの買い物だとどうしても長居しちゃうよな」
「そうですね。特に服を見ていると、時間があっという間に過ぎてしまいます」
「でもあのワンピース、買って正解だったと僕は思うよ。一海によく似合ってた」
 買い物のついでに、彼に服を見立ててもらっていた。最近は服を買うのも好きになっていて、試着室の大きな姿見に映る自分の顔がほころんでいるのを見る度、幸せを噛み締めてしまうのだった。
 鏡を見て、幸せだと思う日が来るなんて思わなかった。
 だけど確かに幸せだった。瑞希さんはいつでも私を誉めてくれるし、私がこれまで思いもつかなかったような服を薦めては、違う私を見せようとしてくれる。今日購入したワンピースは私にしては少し丈が短かったのだけど、彼が是非にと言ってくれたから試着の後に購入を決めた。これからやってくる春にふさわしいパステルグリーンのワンピースだった。
「帰ったら早速着てみて欲しい」
 瑞希さんのその言葉に、私は思わず笑った。
「もう着ちゃうんですか? さっき買ったばかりなのに」
「駄目かな。あの服を着た一海をもうちょっと見ていたかった」
 てっきり冗談なのかと思っていたけど、彼は声も表情も真剣だった。
「えっと……駄目じゃないですけど、本気なんですか」
「僕が冗談を言ってるように見える?」
「全然見えません……」
「では、そういうことで。楽しみにしてるよ、一海」
 瑞希さんが心から楽しげな声を上げたので、私は一瞬呆気に取られた後、つられたみたいに笑ってしまう。
 彼の言葉はいつだって正直で、私に対して誠実だ。それが私の想像の範疇を超えていることも多くてよく驚かされてはいるものの、後から必ず幸せに思った。
 その証拠に、今の私は笑っている。
 車のサイドミラーが私の顔を映している。嘘偽りない笑顔の私を。
「最近、鏡を見るのが好きになりました」
 幹線道路をゆっくり走る車の中、私はふと彼へ打ち明けた。
「いいことだ」
 瑞希さんは小さく頷いて、続けた。
「僕も好きだよ、一海の顔が。最近は特に幸せそうでいい」
 真っ直ぐに伝えられると恥ずかしくなる。これまで何度も言ってもらっている言葉なのに、何度聞いてもどぎまぎしてしまう。
 私は俯いて応じた。
「瑞希さんが、私を勇気づけてくれたお蔭です」
「もちろんそうだと思ってるよ。じゃないと、夫の名折れだ」
「そんなこと……」
「そういうものだろ、夫婦って」
 私の言葉を遮るように彼は言った。
 おずおずと顔を上げてみたら、ハンドルを握る彼の唇が微笑んでいるのが見えた。日が沈んでいくにつれて辺りは暗くなってきた、だけど彼の横顔はいつみても端整で、きれいだ。
「そして君が幸せだと、僕も幸せになる」
 私の知る限り、瑞希さんは世界でいちばんきれいな人だった。それは単に顔立ちが、容姿がというだけではない。
「僕も、君を映す鏡でありたいな。君が幸せな姿をいつまでも映していたい」
 彼のその言葉を噛み締めて、私は助手席から彼の横顔を見つめた。
 私を映す鏡。私が幸せな時、同じように幸せそうに微笑んでいてくれる人。夫婦とはそういうものなのだろう。
 それなら私はどうだろうか。彼の幸せを同じように映していたいと思うけど、それを確かめる為にはやはり本物の鏡が必要だった。
「私もそう思います。お互いにそうありたいですね、瑞希さん」
 そう告げながら、私はサイドミラーに視線を転じた。そしてそこに映る自分の顔を確かめてから、言い添えた。
「よかった。今の私はすごく幸せそうな顔をしてます」
「それも運転中に言われると困るな」
 運転席からは本当に困ったような声がする。
「君の顔をじっくり見たくなる。どうしたらいい?」
「あと少しで家に着きますよ、瑞希さん」
「それまで待てないって言ったら?」
「えっ、あの――」
 家路を辿っていた車が不意に、幹線道路から左折してルートを外れた。

 いつしか日は完全に沈んでしまい、夕闇が辺りを覆い尽くしていた。
 その薄暗がりに紛れるように、道端に停めた車の中で瑞希さんは私をきつく抱き締めた。
「家まで待てないって、重症かな……」
 私の耳元に口づけながら、彼が囁き声で言う。
 くすぐったさから逃れる為に、私は彼の胸に縋って顔を埋めた。
「そんなに好きになってくれて、ありがとうございます」
 そのまま彼の胸で告げると、温かい手がそっと背中を撫でてくれた。
「……こちらこそ」
 小さく呟いた彼はその後で私の顔を上げさせると、いつものように唇を重ねてくる。
 本当に、家まであと少しなんですけど――そう言いかけて、やめて、私も素直に目をつむった。

 いつからか、鏡を見るのが好きになっていた。
 鏡にはありのままが映る。嘘偽りのない今の私が映る。そして私の大切な人の心が映る。
 瑞希さんが私を見て幸せそうに微笑んでいる。この顔を曇らせたくないと、心から思う。
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