Tiny garden

蜜月旅行(1)

 錆の浮くガードレールの向こうに、穏やかな五月の海が広がっていた。
 よく晴れた日だった。陽射しが水面に跳ね返り、波間でちかちか瞬いている。山間を抜ける長い高速道路をようやく降りて、あとはずっと海沿いの道が続くという。光る海と青い空を眺めているのはいい気分だった。これでもう少し交通量が少なければ、窓を開けてもいいですかと尋ねてみるところなのに。
 ゴールデンウィークの最中とあって、どの道も酷く混んでいた。特に高速の上は数珠繋ぎの混雑振りで、料金を払った意味がないと瑞希さんがぼやくほどだった。海岸線をなぞる道路も進みはゆっくりで、予定していた到着時間を過ぎるのは確実のようだ。
「――眠い?」
 不意に瑞希さんが尋ねてきた。
 私は景色から視線を外し、運転席の方を向く。
「いいえ。ぼんやり外を見ていただけです」
「そう?」
 ハンドルを握る彼は、横顔で笑っている。
「着くまで寝ててもいいよ。あんまり寝てないだろ?」
「平気です、ちっとも眠くありません」
 彼だけに運転させておきながら、そんな薄情な真似は出来ない。大体、昨夜の私と瑞希さんの睡眠時間はほぼおなじくらいだった。夜のうちに家を発ち、途中サービスエリアで仮眠と休憩を取った他はほぼ走り通しだ。瑞希さんだって口には出さなくともくたびれているだろうし、私が助手席で寝入っていては悪い。
 もっとも、今の気分は眠りたくないというより、眠れないという方が近いのかもしれない。
「起きていないともったいない気がするんです」
 そう言って、私はつられるように笑んだ。
「何だか楽しみで、どきどきしていて……小学生みたいですね」
「遠足の前の晩みたいに?」
 彼の声も弾んでいる。昨夜からずっとだった。
「それ、近いかもしれません。遠足とか、運動会とか」
 小さな頃は、そういう学校行事も楽しみで堪らなかった。まだ人目を気にすることすら知らなかった頃――今となってはあらゆる意味で遠い記憶。
 私は大人になり、かつては想像もつかなかった未来にいる。出来るとは思ってもいなかった結婚をして、とても素敵な人の隣にいることを許されている。一番驚くべきなのは、そんな現実をいつしか当たり前のように受け止めている、自分自身の心境の変化なのだろうけど。
「君なら運動会は好きだっただろうな」
 いたく腑に落ちた様子を見せる瑞希さん。それから私をちらとだけ見て、打ち明けるような口調で続けた。
「実を言うと、僕も楽しみでしょうがないんだ。何せ久々の旅行だからな」
「そういえばそうでしたね」
 二人で旅行をするのは初めてではない。結婚前に一度、私の実家まで来てもらったことがある。その時の出来事を思い出すと私は居た堪れなくなるし、瑞希さんもまた多少の気まずさを覚えるようだった。彼のせいではなかったのに。
「今回は飲み過ぎないようにするから」
 はにかむ顔がバックミラーに映っている。恐縮したくなる。
「あの時はすみません。うちの父が無理をさせてしまって……」
「いや、次にお邪魔するまでにはもうちょっと強くなっておくよ。お義父さんには敵わないだろうけど、潰れない程度には」
 初めて来てもらった私の実家で、瑞希さんは私の父に勧められるがままお酒を飲み、結果として早々に潰れてしまった。総務課での飲み会を見る限り、彼も決してお酒に弱い訳ではなかったから、要はうちの父が悪いのだ。次の機会にはもう少し控えてもらって、必要とあらば強く制止もしてみよう、と考えている。
 ともあれ、今回の旅行は目的地が違う。私にとっては初めて行く街だったし、意外なことに瑞希さんにとってもそうなのだという。
 温泉のあるその港町は、観光地としてはそこそこ名も知られている。私もテレビや雑誌で取り上げられているのを何度か目にしていた。一度は行ってみたいとも思っていたので、こうして連れて行ってもらえるのはうれしい。
「せっかくの新婚旅行だからな。君を放ったらかしにはしないよ」
 彼の言う通り、今回はただの旅行ではなく、新婚旅行だ。当たり前だけど初めての。
 結婚に当たって、瑞希さんは挙式だけではなく、新婚旅行に行くことも希望していた。その分の有休を取ろうと会社に働きかけてもいたようだった。私だって行きたい気持ちはあったものの、私はともかく総務課長の彼が気軽に有休を貰える訳もなくて、結局許可は下りなかった。以降も申請のチャンスはなく、そうこうするうちに結婚して半年が過ぎてしまったし、やがて私も諦めがついた。新婚旅行に行かないからと言ってその後の結婚生活に影響を及ぼすことも、不都合なこともないのだろうし。それにどこにも行かなくたって、好きな人と一緒に暮らせるだけで十分幸せだったから、いいと思っていた。
 ただ、瑞希さんの気持ちは少し違っていたらしい。
「行き先を譲ってくれてありがとう、一海」
 運転席から感謝を告げられ、私はかぶりを振る。
「気にしないでください。私は、行き先はどこでもよかったんですから」
「でも、僕の希望を全部聞いてもらったからさ。今更だけどワンマンな夫だと思われてやしないかと」
「思ってません」
 即答はしたものの、計画が持ち上がった当初はさすがに驚かされた。あれほど有休を取っての旅行にこだわっていた彼が、ゴールデンウィークを利用して新婚旅行をすると言い出したのだから。おまけに行き先まで決まっていて、私が呆気に取られつつ、わかりましたと答えたら、その半日後には宿泊先まで決定していた。実に迅速だった。
「どうしてもあいつらに君を紹介したくて」
 フロントガラスを見つめる顔に、その時うれしさが滲んでいた。
「向こうも結婚したばかりだし、それに君にも会いたがってたからな。ちょうどいい機会だと思ったんだ」
「私も是非、お会いしたかったです。瑞希さんのお友達に」
「そう言ってもらえると助かるよ」
 瑞希さんはそのお友達の話をする時、いつもうれしそうにしている。そして懐かしそうな顔もする。その人とはもう何年も会っていなくて、電話やメールでやり取りをする程度だったらしい。
「お互い住むところが離れちゃったからな。会うのは久し振りだ」
 播上さんという名のお友達について、瑞希さんはたまに話をしてくれた。瑞希さんとは同期入社で、異動する前は一緒に仕事をしていたこと、仕事帰りに飲みに行ったり、食事をしたりしたことを教えてくれた。播上さんはすごく料理が上手で、毎日ちゃんとお弁当を作ってくるような人だったとも聞いている。異動が決まった後で、大変美味しいハンバーグをごちそうになったらしい。
 それから、結婚したばかりの播上さんは、今は故郷の港町に戻って家業の小料理屋を手伝っているとも聞いた。これから向かうのはその港町であり、そのお店だった。
「いろいろと、羨ましい奴だったよ」
 心底から瑞希さんが呟く。
「料理の腕はもちろんだけど、他のことでもな。マイペースな奴で、だからなのか考え方は妙に筋が通ってた。僕もあいつの言うことは何だか信用出来たし、他の子からも信頼されてたな。特に清水さんには」
 清水さんとは播上さんの奥さんであり、瑞希さんにとってはやはり同期だった女性だ。結婚しているので現在は『清水さん』ではないのだそうだけど、瑞希さんは旧姓でしか呼ばない。きっと慣れないものなのだろうと思う。私も名字が変わってから半年になるけれど、呼ばれるのも名乗るのも未だに慣れた気がしない。
「当人たちはずっと否定してたけど、僕はずっと前から、あの二人は結婚するだろうなって思ってた」
 瑞希さんはこの話をする時、少し得意げな面持ちになる。でも事実、先見の明があったのかもしれない。
「ただ仲がいいっていうのじゃなくて、すごく信頼し合ってる感じがした。普通の友情じゃないだろって言ってやりたくなるような。だからと言って僕に隠れて付き合ってる風でもなかったから、余計に気になってた。お前ら結婚すればいいのにって、何度も思ったよ」
 冷やかすような物言いからは親しみが存分に窺えた。瑞希さんにとって、播上さん夫妻はとても大切な友人なのだとわかる。
「本当にお二人がご結婚されたから、うれしかったんですね」
 私が至極当たり前のことを確かめると、運転席の横顔が照れ笑いに変わった。
「うん。……別に、僕が何かしたって訳でもないけど」
 その後で、しみじみと言葉を継ぐ。
「感慨深くはあるけどな。付き合いの長い二人が結婚して、共有してる思い出もあって。僕についてのことも、二人にとって共有し合える記憶になるんだろうから、そういうのもいいよなと思う」
 播上さん夫妻と瑞希さんとは、もう六年以上のお付き合いになるのだと聞いている。六年分の思い出を共有している関係が、私にとってはいささか羨ましかった。
「思い出がたくさんある関係って素敵です。そうやって思い出が作れるほど長く、一緒にいられるのも」
 率直に相槌を打てば、彼は事もなげに言う。
「それは僕たちだって同じだ。これからずうっと一緒にいるんだから、思い出なんて山ほど出来るよ」
 車がカーブに差し掛かると、五月の海が眩しかった。彼も目を細めている。
「今回は、その為の新婚旅行だろ?」
 結婚してから半年、ようやく訪れた新婚旅行の日。今日までにも十分過ぎるくらい幸せな思い出を築いてきたけれど、また新たな思い出が生まれるのだと思うと、うれしい。瑞希さんが誰かと共有している思い出に、私が踏み入ることを許してもらえたのもうれしい。
「そうでしたね」
 私は答えて、すぐに続ける。
「こちらこそありがとうございます、瑞希さん」
「どういたしまして」
 彼は、何もかもお見通しみたいな笑い方をしていた。

 海岸線を追い駆けていた道路が、やがて市街地へと分け入ってゆく。広がる車線、次第に増える建物、先程までは見当たらなかった街路樹、景色を潜りながら車は進んでゆく。
 とりあえず駅前まで行き、そこから路面電車の線路を辿って温泉街を目指せばいい。――播上さんはお店までの道をそう説明していたらしい。私も瑞希さんも初めて訪れる街で、駅まで辿り着くのがまず一苦労だったものの、電車の通る道路を見つけてからはすんなりと進めた。
 温泉街は海のすぐ傍にあって、ホテルや旅館が軒を連ねていたからすぐにわかった。大きなホテルの前には観光バスが何台も泊まっている。さすがはゴールデンウィーク、ここも混み合っているらしい。
 その温泉街の近くには趣のある民家の建ち並ぶ一帯がある。この辺りは市の条例で、建物が景観を損なってはいけないと定められているらしく、街並みにも昔ながらの風情が残っている。近代風の住宅街に見入っているうち、車は狭い通りの路肩に寄り、やがて停まった。
「あったあった、これじゃないか?」
 サイドブレーキを引いた瑞希さんが、次いで手で指し示した先、明らかに民家とは違う建物があった。和風建築の平屋建て、大きな擦りガラスの引き戸。のれんは出ていないものの小さな看板が軒先にある。『小料理屋 はたがみ』と記されている。
「ここみたいですね」
「間違いないな」
 私たちが車を降りようとした時、ちょうどお店の引き戸が開いて、中から人が現れた。甚平を着た男性と割烹着姿の女性。どちらも若かった。
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