去年の今日に(2)

 お昼の休憩を済ませて総務課に戻ると、チョコレートが増えていた。
 渋澤課長の机の上にもう二つ。先に休憩を終えていた同僚が、ちらと私を見た後で課長に報告していた。――どこそこの課の何々さんと何々さんが渋澤課長に渡してくださいと言ってました。その報告を渋澤課長は実に複雑そうな面持ちで受け取り、それからやはり、ちらりと横目で私を見た。
 私は反応に困り、会釈だけをしておいた。

 気にしていない。
 彼がどれだけのチョコレートを貰っていようと、結婚しても尚、彼に想いを寄せ続ける女性がいようと。彼の気持ちを信じている、だから私は不安に思うことなんて一つもなかった。
 けれど、彼はどうだろう。私と結婚してから既に数ヶ月が経つ。その間に一度として私に、私の愛情に不安を持つことはなかったと言えるだろうか。お昼休みに交わした会話でも、彼は勤務中にはあまり見せないような感情の揺らぎを見せていた。しかめっつら、心外そうな顔、弱々しい苦笑い、そして心底からの安堵。バレンタインデーで一喜一憂するほど、彼の心にはまだ不安が巣食っているのかもしれない。

 思えば、私は長らく彼を苦しめてきた。
 苦しめたいと思っていた訳ではなくとも、彼がくれた率直な想いに応えることが、なかなか出来なかった。好きだった人に目の前で拒絶された傷痕が、私を前に進ませてくれなかった。私がその痛みを自分自身の手で終わらせるまで、彼には幾度となく不安な思いや辛い思いをさせたようだった。
 去年の今日、バレンタインデーの日。私は昔の恋の痛みを引きずるあまり、渋澤課長の為にチョコレートを用意するのをためらった。私が贈れば、その贈った相手に迷惑が掛かるだろうと思った。たとえ義理のチョコレートでも、皆にからかわれたり、あからさまに気の毒がられるかもしれない。或いは課長自身が嫌な顔をするかもしれない。普通の女の子ならいざ知らず、『猛獣注意』などとあだ名のついた女にチョコレートを贈りつけられて、嫌な思いをするかもしれない。そんな懸念を抱いた。ただの義理チョコレートにすらそれだけの恐れを抱いていた私は、その後も事あるごとに昔の恋の、鮮烈な痛みだけに怯えていた。
 去年の今日、彼はまだ私のことを好きではなかったはずだ。私を好きになったきっかけは五月のバレーボール大会だったと聞いているから、多分チョコレートを貰わなかったことには何の感情も抱かなかっただろう。けれど後から気付いたかもしれない。うっかり、何かの手違いみたいに私を好きになってしまった後で、そういえばと思ったかもしれない。義理チョコすら寄越さなかった私に対して、幾許かの不安は抱いたかもしれない。私の薄情さに、その時から既に気付いていたはずだ。
 確かに私は薄情な女だった。
 いや、今もそうだ。薄情な奴だと自分でも思う。
 チョコレートを用意しておけばよかった。つまらない気の遣い方をして彼を今更不安がらせるくらいなら、いっそ小さなものでもいいから、見栄えのよくない手作りでもいいから、何か用意をしておけばよかった。そうすれば彼は、たとえ数多くのチョコレートを貰っていても喜ぶはずだと、ちゃんとわかっていたくせに。家の中に甘い匂いが溢れようとも、飽きるほど食べた後でも、私が贈れば笑顔で受け取ってくれる。あの人はそういう人だとわかっていたくせに。
 ハンバーグでは冷凍庫にしまっておけない。――おけなくもないけど、瑞希さんはハンバーグが好きだから、取っておくことは出来ないだろう。やっぱりチョコレートの方がよかったようだ。

 一日の仕事を終える頃、チョコレートは更に増えていた。
 百貨店の紙袋に二つ分。もちろん本命と義理の内訳は、数からでは察しもつかない。これだけの量をどうやって無駄にせずに食べ切るかも、今のところ察しがつかない。
「君がいてくれると助かるよ。僕一人で食べてもなかなか減らないし、ホワイトデーのお返し先を控える手間もあるし」
 退勤後、車に乗り込んだ後で瑞希さんは言った。
「嫌じゃなければ、手伝ってくれるとありがたいな」
「もちろんお手伝いします」
 私は頷き、助手席のドアを閉めた。それから切り出す。
「あの、瑞希さん。帰りに寄ってもらいたいところがあるんです」
「いいよ。どこに寄る?」
 車にエンジンを掛けながら、彼が二つ返事で承諾した。私はほっとして、時計のデジタル表示を見る。時刻は午後七時過ぎ、まだどこも開いている時間だ。仕事の疲れに負けないよう、すぐに答える。
「どこでも構わないんですけど、チョコレートを買いたいんです。瑞希さんへの」
「え? ハンバーグにするんじゃなかったのか」
「チョコレートもあった方がいいかなと、後から思い直したんです。いいでしょうか?」
 おずおずと問い返せば、彼の表情にはたちまち苦笑いが浮かんだ。少し弱々しい、お昼休みに見たのと同じ笑い方。
「ああ、もしかして僕が言ったことを気にしてる?」
「……私の気が回らなかったのだと思っています」
 私はそう告げ、溜息をついた。
 すぐに瑞希さんの笑う声が聞こえたかと思うと、車のエンジンが止まった。静かになった車内で、彼は優しく言ってきた。
「今年のことは気にしなくてもいいよ。と言うより、こちらこそ冷静じゃなくてごめん」
 会社の駐車場は照明が薄暗い。オレンジがかった光が壁や通路を照らしていて、物音がしないとまるで不気味に感じられた。運転免許のない私は、瑞希さんの車に乗せてもらうまでは、ここへ来る機会が一度もなかった。薄暗くても不気味でも思い出の場所には違いない。
「今年はいいよ。ハンバーグがあれば十分だ」
 言ってから、彼は私の手を握ってきた。指を絡めて、手のひらを重ねてきた。膝の上ですべすべした手に繋がれて、安らぐ気持ちとは裏腹の動悸も覚えてしまう。繋がっていられるのはうれしい、けれどそうすることに慣れた気がしないのは悔しい。もう恋人同士ではなくて夫婦としているはずなのに、こんなささやかな繋がり方にさえどぎまぎする。
「でも、去年はショックだったな」
 瑞希さんが語を継ぐ。握る手に、僅かな力を込める。
「義理ですらくれないのかと思って、ちょっと落ち込んだ」
 駐車場よりも暗い車内で、私は彼の苦笑いを怪訝な思いで見つめていた。去年の今日に、彼が落ち込んでいたなんて知らなかった。そもそも落ち込む理由がわからない。だって去年の彼はまだ――。
「欲しかったんですか」
 大きな声を立てるのは気が引けて、そっと尋ねる。答えは素早く返ってきた。
「欲しかったよ。好みの子からは、やっぱり貰いたかった」
「好みだったんですか、私が」
「一海。好みじゃない子を、そもそも好きになると思う?」
 たしなめるように聞き返された。言葉に詰まる。
 信じがたい思いの裏で、別のこともふっと浮かんだ。もしかすると私は、本当に長い間、瑞希さんを苦しめてきたのではないだろうか。薄情さと無神経さとで、私のことを大切に思ってくれた人さえ傷つけてきたのかもしれない。
 チョコレートを用意しておけばよかった。
 去年の分も、バレンタインデーを大切にすればよかった。
 でも、二月十四日はまだ終わっていない。五時間も残っている。その間に去年の分を挽回することは、決して不可能ではないはずだ。
「私、薄情者でしたね」
 見つめ合う車の中、囁きほどの声が落ちる。
 彼には、少し笑われた。
「薄情って訳じゃないけど、鈍感ではあるな」
「すみません……」
「もっとも、それは君の性格のせいじゃないってこともわかってるけど。半分はしょうがないと思ってるよ」
 溶けてしまいそうなくらいに温かい口調で、瑞希さんはそう言った。それから繋いでいない方の手で、私の頬をそっと撫でる。冷たい指先が肌の上を滑ると、そこからたちまち熱を持つ。
 慣れない動悸を持て余しながら、私はどうにか微笑んだ。
「チョコレート、買っていってもいいですか」
「なくてもいいよ」
 彼も笑っている。私の頬から指先を離し、繋いでいた手も解いて、車のエンジンを再び掛けた。静かな空気が一瞬にして反転する。
「その分、愛情で示してくれればいいから」
 エンジン音の隙間にそう聞こえた。もちろん、力いっぱい頷いた。
「私、とびきり美味しいハンバーグを作ります」
 去年と今年、どちらの傷も帳消しに出来るような、とびきりのお夕飯を作ろうと思う。
 ちらと、瑞希さんがいたずらっ子の表情を浮かべる
「そっちか。……まあいいや、そう言うからには期待するよ」
「はい」
「ハート型にしてくれるんだっけ? 写真に残しておこうかな」
「なるべくきれいに仕上がるよう、努力します」

 車は駐車場を抜け、夜の街並みを走り出す。
 帰る先は二人で暮らす家。これから、去年の今日を挽回するバレンタインデーが始まる。


<お題:Capriccio様より「交響曲第一番」

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