去年の今日に(1)

 二月十四日の朝。出勤した時には既に、チョコレートが置いてあった。
 総務課の渋澤課長の机の上には、有名菓子店の小さな紙袋が一つと、きれいな紙に包装された四角い箱が三つある。私はそれを、当の課長と共に発見した。
「あ」
 小さく声を上げ、課長は私をちらと見る。私は理解していることを示す為、一つ頷く。それから彼が戸口を離れ、自分の机へ歩み寄っていくのを、なるべく見ないようにした。
 数人が出勤していた総務課オフィスは、私たちが立ち入ってからしばらく、しんとしていた。ぎこちない挨拶の他には会話もなかった。どことなく気遣わしげな視線を向けられ、居た堪れない空気を肌で感じている。
 一番居た堪れないのは恐らく、渋澤課長本人だと思う。
 他の女性が置いていったチョコレートを、一緒に出勤してきた妻に見られたのだから、いろいろと思うことも言いたいこともあるだろう。気配り屋の彼のこと、私の反応を気にしていることだろう。夫婦で同じ職場にいるとこういう時に厄介だ。私も見て見ぬふりが出来ればいいのだろうけど、あいにくそこまで器用ではなかった。もちろん理解はしているつもりでいたものの、全くの無関心という訳にもいかない。
 課長は机上のチョコレートには手を伸ばさず、難しい顔つきで鞄を置いた。再びこちらへ視線を投げてくる。彼がやはり私の反応を気にしているらしいことがわかる。とっさに私はかぶりを振った。

 気にしていない。
 去年と同じだ。渋澤課長という人はとかく我が社の女子社員から人気がある。『総務課の美女』と呼ばれるだけの容貌と、人の上に立つ人間としての資質、それに気配り上手な性格。天から二物以上を与えられた彼が、好かれないはずはないと思う。――結婚した今となっては、私が彼を評価しようとするとどうにも、手前味噌になってしまうのだけど。
 ともかく、渋澤課長は人気がある。去年のバレンタインデーにも次から次へとチョコレートを貰っていたのを覚えている。入社一年目だった私は、他人事ながらそれを感嘆の思いで眺めていた。あんなに貰って食べ切れるんだろうかとも、こっそり思っていた。
 私は去年、課長への個人的なチョコレートを用意しなかった。そもそも当時は恋愛感情を持っていなかったし、そうでなくとも私のような人間が課長にチョコレートを渡すことで、大勢の人たちから嫌悪や反感を買うのではという不安があったからだ。たとえ義理でも渡すべきではないと思った。実際その件について、渋澤課長から何か言われたこともない。
 今年のバレンタインデーについても、彼は特に何も言っていなかった。結婚して迎えた初めての二月十四日。去年ほどではなくても、それなりにチョコレートを贈られるのではないかと踏んでいる。仕事上のお付き合いだってあるだろうし、そうそうむげにも出来ないはずだ。理解しているから気にはならない。
 それに彼は、上司としてだけではなく、夫としても大変信頼出来る人だ。心配することなんて何もなかった。

「――こっちは一応、既婚者なんだけどな」
 お昼休みの社員食堂で、彼は盛大な溜息をついている。
「皆もそのくらいは気を遣ってくれるかと思ってたよ。貰っておいて文句を言うのもおかしいだろうけど」
 私も総務の人たちから、少々きつめの忠告を受けていた。――どこそこの課の何々さんがチョコレートを置いていったとか、別の人がさっき廊下で渡しているのを見たとか。奥さんとしてはああいうことをされてもいいのと尋ねられたけど、私は黙って苦笑するほかなかった。心配はしていないから。
 午後一時を過ぎたばかりの社員食堂は、次第に人が減り始めていた。それでも彼はひそひそ声で愚痴を零している。
「せめて君に誤解されないようにするとか、そういう心配りでもしてくれたらいいんだけどいな」
 それを聞いて、私はすかさず言っておく。
「誤解なんてしませんよ」
「そう言ってくれるのはうれしいけど、嫌なら嫌だって言ってくれてもいいから。君に辛い思いはさせたくない」
「嫌でも、辛くもありません。むしろ瑞希さんが大勢の人に慕われていると思うと、部下としても妻としても誇らしいくらいです」
 素直な思いでそう告げた。なのに彼は喜ぶどころか、いささか複雑そうな面持ちで肩を竦めてみせる。
「全く妬かれないっていうのもちょっと悔しいな」
「……いけませんか?」
「信頼されてるのはもちろん、うれしいんだけど。何だか僕ばかり妬いてるような気がする」
 瑞希さんは自身が不必要なまでのやきもち焼きだからか、私がやきもちを焼かないことに不満があるらしい。
 実のところ私も、嫉妬心が皆無という訳ではない。ないけれど、いちいち口にすることでもないと思っている。少なくともバレンタインデーのチョコレートは許容範囲内だ。彼がどういう人かはちゃんとわかっている。
「もっと大勢の人に、僕が愛妻家だってことを知っていてもらいたい。義理チョコだって要らないくらいだ」
 どこか拗ねた様子で彼が語を継いだ。だけどお弁当の鶏つくねを一口食べると、その表情もたちまち綻ぶ。
「美味しい」
「お口に合ってよかったです。今日のお夕飯もハンバーグですから、ひき肉が被ってしまうのが難点ですけど」
「僕はちっとも気にしない。好きなものは毎日でもいいよ、特に君の手料理なら」
 お弁当を作ってきた日は、なるべく一緒に休憩に入るようにしていた。そうしたくてもままならない日も幾度となくあったけど、今日は二人で一緒にいられた。やっぱり、うれしいと思う。
 私がお弁当を用意すると、彼もとてもうれしそうにしてくれる。何でも、社員食堂でお弁当を食べるのが長年の夢だったらしい。
「同期に料理の上手い奴がいて、毎日弁当を持ってきてたんだ。美味しそうで羨ましかったんだよな」
 懐かしむようにしみじみと語る瑞希さん。毎日までは至らない私は、思わず背筋を伸ばしたくなる。立派な人もいたものだ。
「もっとも、僕にとっては愛妻弁当の方がずっといいけどな」
「喜んでいただけて私もうれしいです」
「うん。一海の作るご飯は全部美味しいよ」
 少々誉め過ぎではないかと思いつつ、彼の言葉を照れながら受け取る。本当に、彼に喜んでもらえたならそれだけでよかった。私は幸せな思いを抱きつつ、お弁当の続きを食べようとした。
 そこへ、
「だからチョコレートも期待してる」
 瑞希さんの言葉が向けられて、一瞬戸惑った。
「え……」
「一海のことだから、手作りにするんじゃないかと思ってたんだけど、どう? 当たってる?」
 得意げな問いへの答えに窮する。
 外れていた。と言うよりも、それ以前の問題だった。恐る恐る、問い返す。
「瑞希さん、チョコレート欲しいんですか?」
「……そりゃあ。くれるんだろ?」
 彼の表情が訝しげなものに取って代わり、私はますますうろたえた。
 言いにくい。
 何も用意していないとは、さすがに。
「君からは去年、貰ってないしな」
 ご飯を口に運びながら、更に鋭く突っ込まれた。
「よく、覚えておいでですね」
「覚えてるよ。だから今年こそは貰おうと思ってた」
 今年も、個人的なチョコレートは用意していなかった。去年とは少し違う理由からだ。瑞希さんが大勢の人に慕われているからこその理由。
 私はそれを指摘してみる。
「でも、たくさんいただいてるんですよね。チョコレート、家に持って帰るのでは?」
「持って帰るよ。奥さんとご一緒に、と言われたものもあったし……こそこそ隠すのも嫌だ。君が不快でなければ是非一緒に食べよう」
「もちろん、不快ではありませんけど」
 歯切れの悪い答えが、無理をしていると受け取られなければいい。
 無理はしていない。ただ、余計な気の遣い方をしてしまったようだと察していた。たくさんのチョコレートを貰っているはずの瑞希さんが、私からもチョコを欲しがるとは思ってもみなかった。
「たくさんいただいたなら、私があげると余剰になってしまいませんか」
 尋ねると、どうやら彼は機嫌を損ねたようだ。しかめっつらをされてしまった。そういう顔をしても見栄えの悪くならない人だった。
「君から貰ったものを、他のチョコと一緒にするはずがないだろ。大切に保管してちょっとずつ食べるよ。冷凍庫に入れておく」
「いえ、そこまでしていただかなくても」
「忘れないで欲しいんだけど、僕は去年、君からはチョコレートを貰っていなかった。今年は君と結婚もしたし、君も僕を好きだと言ってくれてるし、貰わない理由がない。違うかな」
 そこまで欲しがっているとは思わなかった。去年あげなかったことをそこまで気にされていたのも初耳だ。一度も言われたことはなかったから、てっきり覚えていないのかと――。
 追い詰められた私は、苦渋の決断を下した。正直に打ち明けてしまうことにした。
「実は、用意していなかったんです」
 そっと切り出せば、瑞希さんは僅かな沈黙の後、はなはだ心外だという顔をする。
「一海、今年もくれないつもりだったのか」
「すみません。てっきりご迷惑かと思って」
「奥さんから貰うのに迷惑も何もあるものか」
「それもそうですよね……」
 瑞希さんの性格から考えれば、私があげたチョコレートは特別大切にしてくれるとわかっていた。わかってはいたものの、そういう人だからこそ気を遣いたくなったのも事実です。
「お夕飯のハンバーグで代用しようと思っていたんです」
 取り成すように私は続ける。
「ハート型にしてお出ししたら、チョコレートの代わりにはなるかなと」
 甘いものを用意する選択肢はなかった。かと言って、食べ物以外の品物を選ぶセンスがある訳でもない。服飾品のセンスにかけては瑞希さんの方がよほど優れているから、私が用意出来そうなものと言えば、彼の好物であるハンバーグの他には思いつかなかった。
「だから、ハンバーグ?」
「はい。ハート型にします」
 すると彼はまだ不満げにしながらも、ひょいと首を竦めてみせた。
「……それならまあ、いいか」
 そして弱々しい苦笑を浮かべてくる。
「ごめん。まさか『用意してない』と言われるとは思わなくて、動揺したよ」
「こちらこそすみません。事前にお聞きすればよかったですね」
「いや、いいんだ。今年は何も貰えない訳ではないようだし」
 その言葉に心底からの安堵がうかがえ、私は内心で悔やんだ。

 余計な気は遣わずに、チョコレートを用意しておくべきだったのかもしれない。

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