最初の聖夜の過ごし方

「どこもかしこも気が早いな」
 運転席の瑞希さんが溜息をつく。
 車の窓から見える景色は、一面目映いイルミネーション。見慣れた風景が隅々まで美しく彩られている。街は、一年のうちで最も華やぐ季節を迎えていた。
「もう十二月ですからね」
 私が応じると、彼はハンドルを握ったまま首を竦めた。
「それにしたって急き過ぎじゃないか。まだ十二月に入ったばかりなのに、すっかりクリスマスのムードになってる」
「毎年、この時期の街並みは慌しいですよね。それも風物詩みたいなものですけど……」
 クリスマスが終われば年の瀬の賑々しさに、そして年が明ければお正月らしい雅やかさに彩られていく街並み。ころころと装いを替える姿は実に慌しい。会社勤めの忙しなさに勝るとも劣らないだろう。
「歳のせいかな、月日の経つのが随分早く感じるようになった。もっとゆっくり経ってくれてもいいのに」
 瑞希さんはそんな風にぼやいた。
「きっと、楽しいことがたくさんあったからですよ」
 前向きに捉えたいと私は思う。もちろん瑞希さんが年齢を感じるにはまだ早いとも思っている。とは言え、私にとっても今年はあっという間に過ぎてしまった印象があった。
 今年一年を振り返れば、未だに何やら実感の湧かないものがあった。今年の初め頃は、誰かと一緒に暮らし始めることなんて想像すらしていなかった。ましてや交際半年を待たずに結婚してしまうだなんて、あの頃の私には考えもつかないだろう。
 だけど現実に私は瑞希さんと結婚し、姓も住所も変わってしまった。今は勤め先から彼の車で、二人揃って帰る日々を過ごしている。上司である彼の方が多忙なので、一緒に帰るのも毎日ではない。けれど、同じ職場から同じ家へ共に帰ること自体にはようやく慣れてきたような気がする。
「楽しい時間は足早に過ぎ去っていくものだとよく言いますから」
 幸せを噛み締めながら、私は微笑んだ。
「それは困るな。君との時間が全部駆け足で過ぎていったら、堪能する暇もないじゃないか」
 彼も笑いを堪えるような表情になる。声が弾んでいるのがわかると、私までうれしくなる。
 そっと水を向けてみた。
「今年のクリスマス、私たちはどんな風に過ごしましょうか」
 特別なことがしたい訳じゃない。ただ、二人で過ごすことだけは決まっている。お互いの希望を交換し合っておくのも悪いことではないはずだ。
 彼が思案を巡らせながら答える。
「そうだな……平日だから、仕事もあることを考えないと」
「はい。ですから、ささやかなものでいいと思っているんですけど」
「だけど、二人で過ごす初めてのクリスマスでもあるからな」
 考え込む間。彼の沈黙は、次の信号が赤になり、車が停止するまで続いた。
 信号待ちの短い間、彼がそっと手に触れてくる。手のひらから手首をなぞるようにして手首を握る。いつものように手を繋がないでいるのが少し、おかしい。
 私の手首を握ったまま、瑞希さんはこう切り出した。
「どこかへ食事に行こうか。仕事が終わってからでも」
「素敵ですね」
 提案に私は一旦頷く。
 だけど少し考えてから、こう返さざるを得なかった。
「でも、イブの夜は予約をしなければお店に入れませんよね。もし残業があって、予約の時間に間に合わなかったら……」
「その可能性もあるな」
 たちまち、彼の表情も曇る。手首から、温もりを残して手が離れ、車もゆっくり動き出す。呻くような声が後からついてきた。
「クリスマスイブに残業なんかしてられないけど、そう思うのは僕らだけじゃないもんな。特に他の女の子たちを残そうものなら、どれだけ文句を言われるかわからない」
 上司として、総務課一同から慕われている瑞希さんに、面と向かって文句を言う子はいないだろうと私は思う。だけど、クリスマスイブに残業をしたくないのは誰だって同じ。その気持ちはよくわかる。
 去年の私はそんなこと、ちっとも気にしなかったけれど――今年はわかる。仕事に不満はないけど、瑞希さんと二人で過ごしている方がやはり、いい。当然のようにそう思う。
 年末進行の職場は街並みと同様に忙しなかった。今日も二人揃って残業を済ませてきたところだ。
 運転席から、また溜息が聞こえた。
「おとなしく、家でのんびり過ごそうか」
「……そうですね」
 私も頷く。その方がいいのかもしれない。仕事に追われていたとしても、二人の時間は気忙しさのないように過ごしたい。だとすると、家で二人きりで過ごす方が何かといいのかもしれない。
「残業、お付き合いしますから」
 そう告げると、瑞希さんはちょっと複雑そうな顔をしてみせた。
「奥さんが部下っていうのは、やっぱり考え物だな」
「いけませんか?」
「少なくとも『妻に愛想尽かされるから早く帰る』って口実は使えない」
 彼の口調は何だか悔しそうだ。私はフォローするように言い添える。
「仕事が忙しいくらいで愛想を尽かしたりはしません」
「知ってるよ。そういう真面目な君だから、かえって悩ましいんだ」
 ――悩ましい?
 思わず首を傾げると、呟く瑞希さんの声が聞こえてきた。
「上司としてじゃなく、どうやって夫としていいところを見せるか。いつも頭を捻ってる」
 その呟きを聞き、私はどう答えていいものか迷う。瑞希さんのいいところも、渋澤課長のいいところも、ちゃんとわかっているつもりでいるのに。私に楽しい思いをさせて、私の時間を駆け足にしてしまうだけではまだ足りないと言うんだろうか。
「真面目ないい子のところには、きっとサンタさんが来てくれるだろうけどな」
 私の物思いをよそに、彼はちらと微笑んだ。

 ともあれ、そんな会話を交わしてから半月。慌しいスピードでクリスマスイブがやってきた。
 案の定、私たちは二人揃って残業だった。
「こういうのを、先見の明があるって言うのかな」
「……予定通りと言うのだと思います」
 苦笑いのやり取りをしつつも、私と課長はひたすらに仕事をこなした。年末進行の社内は街並みの華やかさと無縁で、今日の日付を忘れられるほど業務に没頭出来た。
 帰宅の途に着いたのは午後九時過ぎ。瑞希さんの計らいで、その日の夕食は出来合いのもので済ませようということになった。二人用の小さなオードブルとパンを購入し、帰宅後はありあわせの材料でミネストローネを作った。オードブルにパンとスープ。クリスマスの夕食にしては少々簡素だ。
「疲れてる時は軽いものの方がありがたいよ」
 瑞希さんがそう言ってくれたのは、私にとってもありがたかった。実のところ私もここ最近の忙しなさで疲労が溜まり、食卓を囲む頃には既にくたくただった。二十四日が終わろうとする時刻にもなれば、瞼が重く、目を開けていられなかった。
「眠たいなら無理することない、早めに寝るといい」
 夫としても優しい彼は、私にそう勧めてきた。初めてのクリスマス、もう少し二人で過ごしたかったに違いないのに――私が一度かぶりを振れば、ぽんぽんと頭に手が置かれる。
「無理をする子はいい子じゃないな、一海」
 子ども扱いのような口調には不満を抱いたけれど、抗うだけの体力はもうなかった。私は素直に寝室へ向かい、彼より先にベッドへ潜り込んだ。


 ――目覚ましの音にはっとした。
 慌てて手を伸ばし、目覚まし時計のスイッチを切る。時刻は午前六時。随分とよく寝入っていたようで、夢さえ見なかった。その代わりすっきりとしたよい朝を迎えていた。
 私の右隣で、瑞希さんはまだ目を閉じている。同じベッドで寝ているのに、昨晩は彼がいつ寝たのかさえ知らないままだった。妻としてあまりにも至らないのではないかと猛省しつつ、彼の前髪を指先でかき上げる。疲れを見せない、きれいな寝顔が覗く。
 と、その時。違和感を覚えた。
 まず手首に。左の手首に何かがある。持ち上げるとしゃらり、微かな音を立てて下がる。カーテンの隙間から零れる朝日を弾いたそれは、ブレスレットだった。
 細い鎖を二本重ねた銀色のブレスレットは、シンプルで品のいいデザインだった。結婚前に買ってもらった指輪と同じ色、同じ質感をしている。合わせて身に着けてもおかしくないように、ということだろうか。これを、でも、どうして私に。
「……気に入った?」
 声を掛けられ、どきっとする。見れば、いつの間にか瑞希さんも目を開けていた。いたずらっ子の笑顔がこちらを見ている。私はうろたえつつ、彼に尋ねた。
「瑞希さん、これは……」
「クリスマスプレゼント」
 事もなげに彼は答えて、それから小さく笑った。
「迷ったんだよな。靴下に入れて枕元に置いておこうか、とも思った。だけど気付いてもらえなかったら寂しいだろ? 昨日の君はよほど疲れてるみたいだったし、手首に着けても全く起きなかったから都合がよかったよ」
 ブレスレットは私の手首で、小さな音を立てている。
「仕事に追われている君に、ちょっとでもいいことがあったらなって思ってさ。励みになった?」
「はい、あの、とっても。瑞希さん、ありがとうございます」
 なんて優しい、素敵な人なんだろう。うれしさだけではない情動に、なぜか視界がぼやけてしまう。慌てて涙を振り払い、私は更に告げた。
「私も何か用意しておけばよかったです。今日、買ってきましょうか」
「別にいいよ。僕の方は夜中のうちに貰っておいたから」
 そう言うと、瑞希さんは私を抱き寄せた。私はまたはっとして、思わず身を硬くする。違和感を覚えていたのは、そういえば手首だけではなかった。
 すぐに、もう一つ尋ねた。
「あの、瑞希さん。私……どうして服を着ていないんでしょう?」
 もちろん、何も着ずに就寝した記憶はない。いろんな意味で狼狽する私を宥めるように、彼はあくまでも笑顔で言った。
「サンタクロースにも役得があったっていいだろ。いいことでもないと仕事なんてやってられないよ」
 なんて、瑞希さんらしい言葉だろう。
 私はうれしさと気恥ずかしさと、その他諸々の情動で、彼の胸に顔を埋めた。幸せには違いない。こういうのを幸せと言うのだろうけど、それを素直に受け止めるにはまだ、とても恥ずかしい。私にプレゼント分の価値があるとは思えないけど、彼が思ってくれているならいいのかもしれないけど、でも――とにかく、こういうことを率直に告げられるのは。そして私の知らないうちに、実行に移されてしまうのは。
 とても、酷くうろたえてしまう。
「さ、一海。名残惜しいけどそろそろ起きないと」
 彼の手が、私の背をそっと撫でてくる。
「僕は君のお蔭で、仕事納めまで頑張れそうだ。君はどう?」
「……頑張ります、私も」
 問われて私は、消え入りそうな声で答えた。部下としてはもちろん、妻としてももう少し、頑張らなくてはならない。
 クリスマスの朝は、決意の朝となった。

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