信頼よりも愛がある

 くれぐれも気を付けなよ、と友人たちは口を揃える。
 彼女たちが言うには、顔のいい男の人を信用し切ってはいけないのだそうだ。もっとも徹底的に疑ってかかれということでもなく、要は気を抜くな、油断するなと言いたいらしい。
 素敵な人には、本人にその気がなくとも女の子たちが寄ってくる。その人の魅力が強ければ強いほど大勢を惹きつけるものだろうし、惹きつけられた女の子たちの中には『妻帯者だから諦める』という選択肢を持たない子もいるとのこと。瑞希さんの写真を見せたら皆がそう言ってきたから、瑞希さんはやはりそういう魅力に溢れた人のようだ。
 もちろん私だって知らなかった訳じゃない。社内で彼を慕っていた子たちがどれほどいたか、薄々感づいてはいたし、私も彼に惹きつけられた存在の一人だった。あのきれいな人が途轍もなく魅力的に映る現実を、身をもって実感している。
 だけど困ったことに、友人たちが忠告するほどの危機感はいまだ持てずにいた。
 瑞希さんのことだから、と思っている。彼がおかしなことをするはずがない。そういうことに関してはいつでも真面目で、とてもしっかりした人だ。結婚前は抱いたこともあった嫉妬心も、今は落ち着いていて、彼が他の女性と話をしていてもそれほど焦ることはなくなった。左手の指輪を見る度に、瑞希さんなら大丈夫、と確かに思える。
 これは油断、なんだろうか。


 その瑞希さんが、いつもよりも遅くに帰ってきた。
 私はちょうどリビングで雑誌を読んでいたところだった。すぐに顔を上げ、彼へと声を掛ける。
「お帰りなさい、瑞希さん」
 途端に彼は目を瞠って、ソファーに座る私を見た。
「ただいま。……起きてたのか」
「まだ十一時ですよ」
 そう答えると、ほろ酔い顔で苦笑してみせる。
「先に寝ててもいいって言ったのに。無理して起きてたんじゃないのか?」
「いいえ、明日は休みですし、のんびりしてただけですから」
「ごめん。もうちょっと早く帰ってきたかったんだけどな」
 ぼやきながら彼もソファーに座る。スプリングが軋んで、直後深い溜息が聞こえた。ネクタイを緩める彼の手が、いつもよりも不器用そうに見えた。
「部長もなかなか帰してくれなかったんだ。酔うとしつこい人だからさ……こっちは新婚だって言うのに」
「大変でしたね」
 同じ職場にいて、同じ家に住んでいて、生活のほとんどを共にしている私たち。それでもこうして、一緒の時間を過ごせないことはままある。今日の瑞希さんは部長たちに誘われて飲み会へ出席していた。管理職ばかりの酒席がどんなものか、私にはちっともわからないけど、瑞希さんの様子を見る限りでは普通の酒席とそう変わらないものらしい。
 どことなく浮かない顔をして、瑞希さんはカッターシャツの襟元も開けた。また溜息。それから呟くように言った。
「遅くなってごめん」
 すかさず、私はかぶりを振る。
「気にしないでください。今日の予定は知っていましたし、日付が変わる前に帰ってきてくれただけで十分です」
 思っていたよりも早いくらいだった。瑞希さんは出かける前に、なるべく早く帰るからと言ってくれていたのだけど、部長の酩酊時のしつこさは噂に聞き及んでいるところ。帰りは明日になるだろうなと予想していた。だから、今日のうちに瑞希さんが帰ってきてくれたことがうれしい。
「一海、怒ってない?」
 おずおずと尋ねられる。彼のそのそぶりが少しおかしかった。
「いいえ」
「でも、一次会で帰るって言ってたから。言ってたよりも遅くなったから、気が気じゃなくて」
 早口気味に瑞希さんは言い、もう一度おずおずと、
「だから一海もきっと怒ってるんじゃないかと思って……ごめん。怒ってるだろ」
 そんなに気にすることでもないのに、と私は思う。このくらい、遅くなったうちには入らない。それは、例えば予告もなしに帰宅が遅くなられたりしたら、さすがに困ってしまうけど。今日はそういうことじゃない。だから大丈夫。
「怒ってません」
 私は正直に答える。だけど彼は不安げだった。
「本当に?」
「本当です。何か私に怒られるようなこと、したんですか?」
「……帰りが思いのほか遅くなった。こんな時間まで君を待たせた」
 神妙な面持ちの瑞希さんは、やっぱりおかしい。笑いを堪えるのも一苦労だ。
「それだけならいいです。瑞希さんもあまり、気に病まないでください」
 そう告げたら、彼もようやく胸を撫で下ろしてみせた。
「ありがとう、君は優しいな」
 私の肩に手を掛けて、そっと抱き寄せる。寄せてきた唇はアルコールの匂いがしていた。それも不快ではなくて、思わず少し笑ってしまうと、彼はふと怪訝そうにする。

 優しい訳ではないのだと、自分で思う。
 私は優しさから瑞希さんを許している訳じゃなく、ただ彼の想いを疑っていないだけだ。彼の愛情を信じているだけだ。
 今夜だって、彼が最大限努力をして、可能な限り早く帰ってきてくれたこともわかっているし、彼の帰りが遅くなった理由が彼自身にはないこともちゃんと知っている。その場で見ていた訳でもないのに、わかる。彼がどういう人か理解しているつもりでいる。
 これも油断なのかな、と漠然と考えている。友人たちの言葉を鵜呑みにするなら、彼に想いを寄せる人たちからすれば私は、隙のある妻なのかもしれない。それでもしょうがない、心配は要らないんだからと思ってしまう辺り、性分なのだろうけど。

「少し帰りが遅くなったくらいで心配なんてしませんから」
 彼の肩に頭を預けて、私は言った。すぐ頭上では瑞希さんの、穏やかな声が聞こえてくる。
「信頼してくれてるんだな」
「もちろんです。瑞希さんのすることに、いつでも間違いはないと思ってます」
「その言葉、うれしいよ」
 瑞希さんは息をついてから、ちらと私の顔を覗き込んできた。肩を抱く手に力を込めて、引き寄せるようにしながら。
「でも我慢はしなくていいからな」
「我慢、ですか?」
 と言われても、彼のふるまいについて何か耐え忍んでいるということもない。不思議に思い、私は瞬きをする。
「そう。君に余計な心配はさせたくないし、もし君が、僕が飲み会に行くことを嫌がってたりとか、新婚なのに一人にされて不安だって言うんなら……」
 彼がそこまで言いかけた時、私は笑ってかぶりを振った。
「大丈夫ですよ。ちっとも心配してないです、瑞希さんのすることには」
 きょとん、とする瑞希さん。その後で聞き返してくる。
「心配してない?」
「はい、ちっとも」
「……ちっともか」
 私の答えを聞き、なぜか彼は複雑そうな面持ちになった。心配していないと言ったのに。
 訝しく感じているのが顔にも出ていたのか、再びこちらを覗き込んだ瑞希さんが、子どもみたいな表情で言う。
「一海、その……正直なところ、ちょっとくらいは心配してくれてもいいんだけどな。そりゃもちろん、君の信頼を裏切るような真似は断じてしないけど」
 そんな言葉を向けられて、さすがに驚いた。
 彼は、心配して欲しかったんだろうか。信頼してると言われてうれしそうにしていたのに? おかしいのと不思議なのとで苦笑しながら、私は瑞希さんに問う。
「私に心配、されたかったんですか」
「まあ多少は」
 拗ねた口調で彼が答える。
「おかしな人ですね、瑞希さん」
 そう言ったら、彼はわざとらしくそっぽを向き、
「けど、僕が心配してるくらいには、君も心配してくれるんじゃないかと思ってた」
「心配してるんですか? 私のことを?」
「当たり前だろ。結婚したばかりの可愛い奥さんを家に一人きり残してきて、心配しないはずがないじゃないか」
 そんなものか、と腑に落ちない言葉だった。
 瑞希さんとは違って、特に心配される要素もないような私でも、彼に心配はされてしまうようだ。別に誰かを惹きつけるほどの魅力がある訳でも、顔がいい訳でもないのに、難しいものだと思う。
「信じてください、瑞希さん。私も心配掛けるようなことはしません」
 だから私は、胸を張って告げた。
 私の肩を抱く瑞希さんは、照れたような笑みを浮かべてこう答えた。
「いや、これは信頼とか、そういうことじゃないんだよな。君に説明するのは難しそうな気もするけど」
「そうなんですか」
 確かによくわからない。
 はっきりわかるのは、そんな主張をしている瑞希さんがやけに、子どもっぽく見えるということくらいだった。
「とりあえず、君が起きててくれてうれしかったよ。君の顔が見たかったんだ」
 首を竦めて、瑞希さんは柔らかく笑んだ。毎日見ている顔なのに――と思いつつ、私もちょっと、うれしい。
「これから飲み直そうと思うんだけど、付き合わないか。ちょうど明日は休みだし」
「いいですね。お付き合いします」
 私は深く頷いた。
 それで彼もまた笑って、私の額に口づける。優しいその仕種一つだけで、やっぱり心配は要らないんじゃないかな、と思ってしまった。
 油断しているだけなのかもしれないけど、それが許される愛情が私たちの間にはあるはず。純粋に信じている方が、よほど今の気分に合っている。


お題:TV様より「新婚さんに贈る7つのお題」

  • Web拍手
  • TOP