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エバーアフター(2)

「皆が、何と思うか……」
 私の口から、真っ先に出てきた答えはそれだった。
「私なんかと結婚したら、瑞希さんまで悪く言われたりしませんか。見る目がないって」
 プロポーズをされてこの返答では失礼かもしれない。だけど本当に心配だった。
「言わせない。文句を言う奴がいたとしても、聞き流してやればいい」
 きっぱりと瑞希さんが答えた。
 私の手を握る力がぎゅっと強くなる。
「不安に思うことなんて何もない。僕らのことに口を挟ませるつもりはないし、万が一認めない奴がいたら、そういう奴にはたっぷり時間をかけて、わからせてやる。僕らが二人でいたらどれほど幸せで、満ち足りているかってことを、傍目にも理解させてやる」
 頼もしく、力強い誓いに、本当に身を任せてしまいたくなる。
 そうしない理由は、胸裏の不安が消えないからだった。

 結婚とは、決定的なことだ。恋人同士でいるだけの関係とは違う。
 一度決めたら簡単には取り消せない、二度とは戻れない。そして二人だけで築く関係ではなく、社会的に認められる関係になる、ということでもある。
 瑞希さんを想う気持ちも、彼を幸せにしたいという心も、誰にも恥じないものであると言える。彼とずっと一緒にいたいと望んでいる。
 だけどそんなものだけで、皆に認めてもらえるだろうか。

 私は知っている。
 瑞希さんのことを好きな女の子たちがいる。総務課だけじゃなく、うちの社全体に、彼を想う人がいる。想いを寄せる人が、たくさんいる。そういう人たちの想いを、私なんかが打ち砕いてしまうのは罪深いことのような気がした。
 知っていた。恋心が粉々に打ち砕かれる瞬間の痛み、辛さ、切なさ、苦しさ。昔の恋の、鮮烈な痛みだけをまだ引き摺っている。今は瑞希さんを誰よりも想っているし、彼を失いたくないけど、同時にあの時の痛みを誰かに与えてしまうことになりそうで、私は後ろめたさを覚えていた。
 それもきっと、皆に認められるようなきれいな女だったなら、瑞希さんの相手にも相応しかったのだろうけど――そうじゃないから、ためらいたくなる。

 私は長らく、黙っていた。唇が痛くなるまで引き結んで、様々なことを考えていた。
 待たせすぎてしまったからだろう。やがて瑞希さんが口を開いた。
「答え、急がなくてもいいよ」
 吐息と共に告げられた言葉に、私は知らず知らず下げていた視線を上げた。
 柔らかく微笑んだ彼が、もう一言、ゆっくり継いだ。
「今じゃなくてもいい」
「瑞希さん……」
 私は罪深い思いで彼の名前を呼んだ。
 迷っているのは、ためらっているのは私自身なのに、だけど彼を傷つけたくなかった。好きなのは本当だって、それだけはわかっていて欲しかった。
 上手く、伝わっただろうか。瑞希さんが目を伏せる。
「わかってる。君がどうして迷っているのかも、ちゃんとわかってるつもりだ」
「あ……」
 その言葉が、胸に痛い。
「もう少し、頼ってくれてもいいんだけどな。」

「ごめんなさい、私……少しだけ、時間をください」
 私が言うと、瑞希さんは小さく頷いた。
「いいよ。待ってる」
 そして私の肩を包むように、抱き締めてくれた。
「前ほど余裕がないわけじゃない。待ってるから。君の返事、いつまでも待つ」
「ありがとうございます」
 瑞希さんの優しさに、温かさに感謝していた。抱き締め返した身体が温かくて、心がわずかに和らいだ気がした。
 私、きれいになりたい。今までにないほど渇望している。生まれ持った顔はもう、変えようがないんだろうか。瑞希さんに釣り合うようにはなれないんだろうか。私なりに、一心に彼を想ったところで――。
「指輪は貰ってくれる?」
 私の思考に割り込むように、ふと、瑞希さんが言った。
 腕に包まれたままで、私は答えに詰まる。
「え、でも、それは」
「保留にされたから買わないって言うんじゃ格好つかないだろ?」
 彼は存外に明るい口調で、更におどけるように続けた。
「それにほら、男避けの意味もあるしな」
 冗談だとわかっていたけど、その言葉が少しだけ切なかった。
「……その必要は、ないと思います」
 心配しなくても、私に寄ってくる男の人なんていない。
 でも、いっそそのくらいきれいな女だったらよかったのかもしれない。彼の気持ちはうれしいけど、それは抗いようのない事実で、だから私は彼の申し出に頷けなかった。

 一人きりの部屋に帰って、考えた。
 結婚。
 本当に、私にそんなことができるなんて、思ってもみなかった。
 でも、いつまでも恋人同士でいられるはずもない。瑞希さんは真面目な人だし、いい加減なこともしない人だ。私が気づくよりもずっと前から、しっかりと考えていたのかもしれない。私は浅はかにも目の前のことばかりに必死で、ろくな考えも持っていなかったのに。
 いつまでも隠し通せるはずもない。それも当たり前のことだ。
 だけど恋人同士として公になるのと、結婚するのだと知らせるのとではやはり違う。私は、瑞希さんの妻になる人間として、人に評価されるのが怖い。私のような女が、他の女の子たちの想いを打ち砕き、失望を買い、瑞希さんの価値さえもを下げてしまうことが、とても怖い。
 夜の間、始終考えていた。
 これまでのこと、これからのこと。私のこと、瑞希さんのこと、それから他の、大勢の人たちのこと。
 実家の両親が聞けば間違いなく喜ぶだろうなと思い、学生時代の友人たちはなかなか信じないだろうなとも思い、そして職場の同僚たちは愕然とするだろうなと思って、一晩では答えが出なかった。

 翌日は出勤するのも気が重かった。
 瑞希さんと顔を合わせるのに、どういう態度でいたらいいんだろう。申し訳なさばかりが先立って、いつもどおりにしていられる自信がなかった。
 だけど彼はいつものように優しかった。
「おはよう、芹生さん。今日も頑張ろうな」
 総務課のオフィスで気安く声をかけてくれた。
 それで私が挨拶と会釈を返すと、微かに苦笑して言い添えてきた。
「元気ないな。笑ってないともったいないよ」
 励ましてくれた上、ぽんと肩まで叩いてくれる。彼は皆に慕われる理由がある、とても素敵な人だと思う。彼を好きになる女の子たちがいるのも当たり前のことだろう。
 私だって好きだ。もはや彼のいない生活は考えたくないくらい好きだった。
 そのくせ私は人目を気にして、短いやり取りだけで課長の傍を離れた。それでも職場内ではひそひそ噂し合う声がして、根拠もないのに自分のことのように思えて、怯えてしまった。
 渋澤課長は――瑞希さんは、いつでも注目の的だ。
 美女と野獣で、何から何まで私とは違う私たちが、恋に落ちたのはどうしてなんだろう。もしかしたら奇跡だったのかもしれない。でも単なる奇跡というだけじゃ、人から認められるはずもない。

 思い煩いを引きずったまま、一日の業務を終えた。
 普段なら帰りも瑞希さんと一緒だったけど、今日はさすがに一人で帰るべきかと思う。こんな気分で彼の望み通りに笑っていられる自信がない。勤務中は気を張っていられたけど、彼と二人きりになったらそれも難しいことだった。
 繁忙期を抜けた今日は残業もなく、皆揃って定時上がりだ。何人かはもう帰り支度を始めている。
 ちょうど課長の姿も総務課のオフィスに見えない。この隙に退勤しようと私は席を立つ。
 その時、
「――芹生さん」
 私は呼び止められた。
 振り向くと、同僚の女の子たちが四、五人、示し合わせたようにこちらへ集まってきた。
 皆の表情は揃って硬く、それを目の当たりにした瞬間、胸騒ぎがした。

 気がつけば、オフィスに残っているのは私とその子たちだけだ。
「聞きたいことがあるの」
 と、女の子の一人が言った。
 顔は強張り口調は重く、声は抑えたように低い。他の子たちは視線を交わし合いつつも、にこりともせず押し黙っている。
「……何?」
 私は恐る恐る尋ね返した。
 彼女たちとは同僚としての付き合いしかしたことがない。仲がいいわけでも悪いわけでもなく、ただ職場では普通に会話をするくらいの間柄だ。それでもいつもと違う態度を取られるとすぐにわかる。
 また目配せし合った彼女たちは、譲り合うような沈黙の後、低い声で切り出してきた。
「芹生さんは、渋澤課長と、どういう関係なの?」
「付き合ってる、の?」
 質問が二つ続いて、ぎくりとする。二つ目の問いはストレートで、さすがに動揺した。
 腰かけていた椅子が嫌な軋みを立て、私は思わず俯く。
「どうして……そんなこと」
 確かめようとする言葉は既にかすれて、劣勢だった。
 すぐに返事が聞こえてきた。
「見たから。芹生さんが、課長の車に乗ってるところ……」

 最近は毎日のように彼に送り届けてもらっていたから、あり得ないことではない。私自身、そのうちに誰かに見つかってしまう可能性もあるだろうなと思っていた。一時は、そうなっても構わないとさえ思っていた。
 でも、今は違う。
 私にはそれだけの覚悟もないし、資格もない。あの人の真摯さに報いることができる人間でもない。あの人の隣にいる人間として、今の私を評価されるのが、怖い。

 答えられずに俯き続ける私に、
「それにね」
 別の一人が沈んだ口調で続ける。
「見てても何となくわかる。課長って、芹生さんがいる時といない時で、様子が全然違うから」
 その言葉にはっとした。
 初めて聞く話だ。課長が――瑞希さんの様子が違うって、どういうふうに?
「芹生さんと話す時だけ特別機嫌がいいよね。この間、芹生さんが欠勤してた日は沈んでて、暗かった。そして芹生さんが戻ってきた途端、心配事が全部なくなったみたいに浮かれてた。傍から見てもあからさま過ぎるくらいだよ」
 淡々と告げられる内容が、私の心にやけに響いた。
「そうそう。おかしいねって言ってたんだ」
「何かありそうに見えた。前から芹生さんには特に優しかったし」
「まさかと思うけど、付き合ってるのかって話にもなってたよね」
「そこへ来て、車に乗せてもらってるの見かけたから――」
 彼女たちの噂話が、心のうちに溜まっていく。
 空虚だったその内側がじわりと温かいものに満たされて、何かが、音を立てて切り替わる。

 彼は、そんなにわかりやすい人だっただろうか。
 私はそうは思っていなかったけど、周りの人たちからすればそうではなかったみたいだ。あからさま過ぎて、わかりやすいくらいの人だった、ようだ。
 彼は、私のことが好きなんだ。
 わかっていたけど、知っていたけど、今になって改めて思った。器用そうで、上手く立ち回れるはずと思っていたあの人が、実はこんなにもわかりやすいのだと知って、急に胸が苦しくなった。
 こんなにも好きでいてもらっていたのに、私、何もわかってなかった。
 瑞希さんは私が好きなんだ。彼の言った言葉の通りに、私がいいのだろうし、私がいると幸せな気持ちになれるのだろうし、私がいないと駄目、なんだろう。私はあの人を幸せにできるのかもしれない。あの人を幸せにしていたのかもしれない。これからもあの人を幸せにできるのは、私だけ、なのかもしれない。
 私は馬鹿で、鈍くて、どうしようもない人間だ。きれいじゃないだけではなく、本当にどうしようもないくらい間の抜けた女だった。今までずっと気づけなかった。何にもわかってなかった。人に言われるまであの人の想いの強さを測り切れなかった。あの人のことを何一つとして考えてあげられなかった。
 こんなにも強く、想ってもらっていたのに。
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