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サンブリーナ(1)

 完璧に私の不注意だった。
 気の緩みがあったのも確かだ。白い包帯を巻かれた右手を見下ろし、私は溜息をつく。

 総務課の仕事の一つに備品の点検がある。
 よその課で使われなくなったキャビネットを回収し、私はその点検作業をしていた。多少ぐらついていると聞いていたので、それを確かめようとしていたところだった。
 本来なら、一人でするべき作業じゃなかった。スチール製のキャビネットがどれだけ重たいものかはわかっていたし、バレーをやっていた頃より確実に落ちている筋力も実感済みだった。なのにその時はどうしてか、一人で済ませてしまおうと思ってしまった。
 月末で皆忙しく、人手が足りなかったからかもしれない。
 あるいは――これが一番大きな理由だろうけど、過信があったんだろう。一人でできると思い込んでしまった。こういう力仕事は『猛獣注意』と呼ばれる私にこそふさわしいと、誰も応援も呼ばなかった。
 そして台車で運んできたキャビネットを床に下ろそうと、抱えた両腕に力を込めた。決して軽くはなかったけど、ゆっくりやれば一人でも大丈夫だと、その瞬間まで信じて疑わなかった。
 しまった、と思った時にはもう遅かった。
 キャビネットが倒れかかってきて、受け止めようと思ったのも束の間、想像以上の重さに足元がふらついた。息を呑む暇さえなく、あっさりと右半身が下敷きになった。棚と床に挟まれて、呻き声も上げられないほどの激痛を味わった。
 何とか自力で脱出することはできたものの、気が付けば右手首の色が変わっていた。気分が悪くなるほどの痛みの中、利き手はじわじわと蝕むように熱を持ち始めていた。
 
「――ただいま戻りました」
 病院から総務課に戻り、渋澤課長に報告をする。
 月末の忙しい時期、自分の不注意からの怪我とあって余計にいたたまれない。
「お医者様のお話では、捻挫とのことです。骨には異常がないそうで……」
 総務課に帰ってきたばかりの私は一人コートを着込んでいる。同僚たちが気遣わしげな視線を向けてくるのは、そのコートの右袖がぶらりと垂れ下がっているからだろう。包帯を巻いた右手を三角巾で吊って、いかにも大怪我をしたふうに見える。
 だけど三角巾なんて大袈裟だ。痛みはまだ顔を顰めたくなるくらい続いているけど、利き手以外の場所は至って元気だった。お医者様の言葉によれば、安静にしてさえいれば数日で痛みも引くとのことで、この程度の怪我で皆に心配をかけているのが申し訳ない。
 渋澤課長も難しい顔つきでいる。私と、病院から出された診断書とを見比べて、眉間に深く皺を刻んだ。
「骨折はしてなかったんだな。それはよかった」
 確かに捻挫で済んだのは幸いだった。捻挫なら学生時代には何度も経験しているし、対処法もわかっている。それなのにあんな無茶をしてしまったのは、全くもって不注意だと言わざるを得ない。
「はい。ご迷惑をお掛けして、申し訳ありません」
 私が頭を下げると、少し物憂げな目を向けられる。
「謝らなくてもいい。君がいてくれないのはさすがに痛手だけど」
「……はい」
 どうしてこんな時期に怪我なんてしてしまったんだろう。悔しさに奥歯を噛んだ。

 いくら私自身が元気でも、利き手を怪我してしまってはほとんど何の業務もできない。
 一刻も早く治さなくてはと、今から焦りだけが募っている。
 それからあの時の過信と油断への後悔も、今更のように胸を過ぎった。あの時、もう少し注意するべきだった。

 だけど課長のお言葉は、こんな時でも優しかった。
「だからと言って、無理をすると治りが遅れる」
 後悔ばかりの私に、言い聞かせるように告げてくる。
「お医者さんに言われた通り、なるべく安静にして、しっかり治してから戻ってくるように」
「はい」
 私が頷くと、彼はようやく穏やかに笑んだ。
「よし。じゃあ、今日はこのまま早退していいから。手続きはこっちで取るよ」
「よろしくお願いします」
 改めて、私は頭を下げた。
 それから課長と同僚たちに挨拶をして、コートの右袖を揺らしながら総務課を後にする。
 正直なところ、課長の言葉が優しかったのはかえって堪えた。てっきり叱られるだろうと思っていた。怪我の報告をした時にはさすがに顔色を変えていたけど、課長は私の不注意をまるで責めなかった。さっきのように至って優しく接せられると、何だか重荷を背負わせてしまったような気持ちになる。
 忙しい時期、人員が一人減るだけでも影響は大きいはずなのに。
 いっそ厳しく叱ってくれてもよかったのに。
 渋澤課長は私の分の仕事までこなす羽目になるのだろうと思うと、申し訳なさに胸が痛んだ。

 帰宅する為、通用口へ続くエレベーターに乗り込んだ。
 当たり前ながらこんな時間に家路に着くのは私くらいのもので、やってきたエレベーターも空っぽだった。乗り込んで、一階と扉を閉じるボタンに手を伸ばす。つい癖で右手を動かしかけて、途端にずきりと痛みが走った。慌てて左手で操作する。
 自業自得とは言え、この痛みがつくづく恨めしい。この分だと日常生活への影響も少なからず出るだろう。
 炊事や洗濯は大変になるだろうし、買い物も片手で持てる分だけしかできない。あるいは宅配を頼むというのも手だろうか。さすがに実家の両親を呼び寄せるほどではないけど、こういう時に頼れる相手もいないし、どうしよう――。

 落ち込む私の前で、エレベーターの扉が閉まりかけた、その時だった。
 不意に廊下の向こうから、急ぐ足音が近づいてきた。
 駆け足の慌しい靴音は、そのままエレベーターの前までやってきて、止まった。もう一度ボタンを押したようだ。一旦は閉じた扉が再び開いた。
 さっと中に滑り込んできた人物が、私には何も言わず、すぐに扉を閉じようとする。ボタンの前にいた私は身動きが取れなかった。腕がすっと伸びてきてボタンを叩き、次の瞬間には、エレベーターと廊下が音もなく切り離された。
 ゆっくり下降を始めた密室の中、私はいささか気まずい思いで、肩で息をするその人を呼んだ。
「課長、どうかなさったんですか」
 すると彼は振り返り、じっと強い眼差しで私を見た。
 さっき総務課で見せてくれたような温厚さは影を潜め、今はひたすら険しい表情をしている。駆けてきたせいか少し乱れた髪が、余計に私の心をざわめかせた。
「見送り」
 ぼそりと、低い声で彼は言う。
「見送り……ですか?」
 私にとって、意外な言葉だった。
「本当は家まで送っていきたいけど、どうしても抜けられないから。せめてそこまで送るよ」
 言葉自体は優しくても、声はややきつく聞こえた。穏やかならぬ内心が窺える彼の面持ちに、私は再び申し訳ない気持ちになる。
「あの、本当にすみません。こんな時期に怪我をして……」
「それはいい」
 いつもよりも鋭く、課長は私の言葉を遮った。そして早口に語を継いだ。
「仕事のことはいいよ。君がいないのは困るけど、どうにかする。でも君の身に何かあったら、それはさすがにどうにもできない」
 エレベーターは動き出す時と同様、ゆっくりと停止した。
 扉が開く。私を先に降ろした課長は、そのまま無言でビルの通用口へと歩き出す。

 私は彼の背中を追い、やや早足になって通用口まで辿り着いた。
 先に着いていた渋澤課長は重たいドアを開けてくれ、私に外へ出るよう仕種で促す。
「ありがとうございます」
 慌てて会釈をしながらドアをくぐれば、すれ違った瞬間に囁かれた。
「心配した」
 ビル風がごうごうと音を立てて吹き込んでくる。でも、彼の声は拾うことができた。
 私は思わず足を止め、ドアを押さえたままの彼に向き直る。
「すみません、私の不注意でした」
「謝らなくてもいいけど、次からは気をつけるように」
 真っ直ぐにこちらを見る顔は、笑っていない。
 そして、上司の顔もしていなかった。
「君らしくないミスだな。捻挫で済んだからまだよかったものの、大事になっていたかもしれない」
 課長はそう言うと、微かにだけ笑った。
「あまり僕を心配させないでくれ」
 どこか呆れたようでもあり、疲れたようでもある笑い方だった。私が怪我をし、病院へと駆け込んでから今に至るまで、たった数時間のうちに随分とくたびれてしまったようにも見えた。
「君に何かあったりしたら僕の神経が持たない。僕を大切に思ってくれているなら、君は決して無理をしないこと。約束してくれ」
 休日の彼らしい口ぶりで、念を押すように告げられた。
 私は神妙な思いで答える。
「はい。本当にご心配おかけしました」
「本当だ、心配したんだ」
「以後、気をつけます。あなたの為にも」
 言葉通り、彼がとても心配してくれていたのがわかって、申し訳なくもあったけど、嬉しかった。
 でも、もう二度と心配させないようにしなくては、とも思った。彼の神経が持たなくなれば、私だってとても心配してしまうに違いないから。
「じゃあ、僕は戻るよ。帰り道も気をつけて」
 課長が笑った。今度は明るく、穏やかに。
 私はお辞儀で応じた。
「見送り、ありがとうございました」
「うん。欠勤中も、何かあったら連絡してくれて構わないからな」
「ありがとうございます、課長」
 重ねて礼を述べると、課長は頷き、それから静かに裏口のドアを閉めた。
 私は一人で帰途に着く。
 申し訳なさ、後ろめたさは当然あったけど、心に火が灯ったような、不思議な温かさも感じていた。

 それから二日間は仕事を休み、漫然と日々を過ごした。
 三角巾は一日で取れたものの、痛みはなかなか引かず、患部の腫れと熱もしばらく続いた。利き手の捻挫の影響は大きく、思いのほか日常生活にも支障をきたした。
 一番困ったのが入浴だ。包帯をした手を庇いながら、片手で髪や身体を洗った。慣れない左手での作業はなかなか手間取るもので、バスルームを出る頃にはぐったりと疲れてしまっていた。
 食事にも困った。料理をする気にはなれず、コンビニやスーパーで出来合いのものを買って済ませた。惣菜は自分で作るよりも味が濃く、二日もすれば飽きが来た。
 掃除と洗濯にも普段以上の手間を要した。時間を掛けて行えばできないこともなかったけど、気を抜くとすぐに右手を使いたくなってしまう。そうして激痛を覚えてから捻挫していたことを思い出し、悔やみながら患部を庇う羽目になった。
 そんなふうだから、降って湧いた災難のような休日も、結局ぼんやりと過ごすだけだった。羽を伸ばせるということもなく、ただただ後悔と焦りと、怪我をする以前の平穏な日々を羨む思いでいた。

 二日の欠勤を経て、迎えた土曜日。
 今日明日と会社が休みなので、私はまんまと四連休をせしめたこととなる。つくづく後ろめたい。
 午前中のうちに病院へ行き、お医者様に快方に向かっていることを確かめてもらった。月曜日には包帯を外して、出勤してもよいとのことだった。心からほっとした。
 そしてその日の夜、私は渋澤課長に連絡を取った。
『――いつ、連絡をくれるかと思ったよ』
 電話越しに彼は不満そうな声を立てる。
「すみません、課長。仕事を休んでいるのに電話をするのも気が引けて」
『そんなの気にしなくてもいいのに。というか、今は勤務時間外』
「え? あ、でも」
 仕事の連絡のつもりで電話をかけたので、彼の言葉に一瞬戸惑う。
 でも、彼の側の意識は少し違っていたようだ。
『こっちは君が怪我をして、困っていることはないか、辛くないかって心配でしょうがなかった。なのに君と来たら、何か報告でもない限り連絡一つくれないんだもんな。少しは恋人のことも気にかけてくれ』
「はい、すみません……」
 一昨日や昨日も、連絡を取ろうかなと考えはした。だけど仕事の忙しい時期だし、こっちは怪我をしているだけの健康体で、欠勤中もぼんやり過ごしているだけの身と来ている。そんな中で電話をかけるのは気が引けた。
 彼の言う通り、昨日までは特に報告することがなかったのも、連絡を取らなかった理由の一つだ。
『僕が心配してるだろうって思わなかった?』
 どこか拗ねたようにも聞こえる口調で、課長が――瑞希さんが尋ねてくる。気にかけていてくれていることはもちろんわかっていたので、どう答えようか迷った。
「それはその、心配してくださってるのは存じてました」
『なら、連絡くらいくれたっていいのに。仕事以外のことでもさ』
「そうですね……。本当にすみません」
 こういう場合の受け答えで、語彙の貧弱さが如実に表れてしまうな、と思う。いくらか可愛らしく答えられたらよかったのかもしれない。でも欠勤してしまったことが頭にあると、どうしても謝罪の言葉しか浮かんでこなかった。
『……いや。怒ってるわけじゃないんだ』
 瑞希さんは息をつくと、声のトーンをがらりと変えてきた。
『ところで、怪我したの利き手だったよな? いろいろ大変じゃないか?』
「ええ、そうなんです」
 私も気持ちを切り替えて、明るく答えようと努めた。瑞希さんにこれ以上心配をかけたくない。
「片手でやらなくちゃいけないので、いろんなことが手間取って大変です。利き手の大切さをつくづく実感しました。お風呂に入るにも、右手を使わないようにと一苦労ですから」
 笑い話っぽく打ち明けてみたつもりだったけど、電話の向こうの相手には上手く伝わらなかったようだ。かえって気遣わしげにされてしまった。
『そうか、かわいそうに。……一海、ご飯はどうしてる?』
「ちゃんと食べてます。コンビニ弁当とか、お惣菜ばかりですけど」
『それならいいけど』
 やはり笑いもせず、少しそわそわした様子で、瑞希さんが言葉を継いだ。
『僕に何かできることがあれば、手を貸すよ。何かない? 困ってること』
「え? 困っていることですか?」
 言われてはたと考え込んだ。

 困っていることは当然、たくさんある。入浴はもちろん、食事だって、洗濯や掃除もひと手間余計に掛かることばかり。右手が使えないことでこんなにも生活に支障が出るとは思いもしなかった。
 だけど、瑞希さんの手を借りるほどのことは――特にない。これ以上気を遣わせるのも悪いし、せっかくのお休みに呼びつけるのも申し訳ない。痛みも熱も以前よりは引いていたし、ある程度のことはもう自分一人でできていた。

 だから正直に答えた。
「特にはありません」
『……ないの?』
 拍子抜けしたような問い返しに、私は答える。
「はい。お気持ちだけで十分です」
『いや、そう言うけど、何かあるだろ? 男手が必要だとか、他人には頼みにくいことだとか』
「今のところ、何とかなっています。大丈夫です」
 やんわりと断る。その気持ちだけで十分嬉しかった。
『遠慮はしなくていい。言ってくれたら明日でも、君のところへ行くから』
 瑞希さんは優しい人だ。不注意で怪我をした私に対し、そんな申し出さえしてくれた。
 でも、明日は日曜、貴重な休日のはずだ。ただでさえ忙しい時期、部下の一人は欠勤しているという状況で、きっと疲れているだろう。瑞希さんにこそ、今は無理をして欲しくなかった。
「本当に大丈夫です」
 私はそう繰り返して、その後で言い添えた。
「瑞希さん、休日はゆっくりお休みになってください」
『え?』
「心配してくださったのはとても嬉しいです。でも瑞希さんの手を煩わせることもありませんから」
『けど……』
 よほど心配されているのだろうか。瑞希さんはまだ腑に落ちた様子もなく、何か言いたそうに言葉を途切れさせる。
 だから私もできる限り明るく告げた。
「月曜日には必ず、出勤します。欠勤した分も頑張ります」
『別にそんな、気負わなくてもいいのに。くれぐれも無理はしないように』
「はい。では、月曜日に」
『あ、ああ。じゃあまた……』
 電話を切る時に溜息が聞こえてきて、私の方も少し心配になった。それこそ私の心配をしたばかりに、神経が摩り減ってしまったのでなければいいけど。

 でも彼の声を久し振りに聞けて、胸にじわりと温かい思いが広がっていくようだった。
 早く会いたい、と思った。早く月曜日になって、元気な顔を見せたい。
 そして欠勤した分を取り戻すべく、瑞希さんの為にも精一杯、仕事をしよう。

 通話を終えた私は、携帯電話を乗せた左手を見下ろし、幸せな気分で微笑んだ。
 だけど次の瞬間、再び電話がかかってきて驚いた。
 しかも相手は瑞希さん。さっきまで話していたのに、何だろう。
「……もしもし、どうしました?」
 言い忘れた連絡事項でもあったんだろうか。私は怪訝に思いながら電話に出た。
 瑞希さんはやぶからぼうに切り出した。
『一海、明日の予定は空いてる?』
「明日ですか? ええ、一応は」
 こんな状態ではふらふら遊び歩くこともできないし、買い物以外の予定もなかった。私の答えを聞くと、すぐに次の質問が向けられた。
『じゃあ明日、そっちに行ってもいいかな』
「え? いえ、あの、どうして……ですか?」
 思わず問い返してしまったのは、もしかすると失礼なことだったかもしれない。でも、彼の手を借りたいということもなく、休みの日にわざわざ出向いてもらうのも悪い。一人で大丈夫だと念を押したはずなのに、どういうつもりなのだろうと思った。
 彼は勢い込んだ、それでもはっきりした口調で言った。
『君の顔が見たいから。迷惑じゃなければ、会いたい』
 そう言われてしまうと、断る理由も見つからない。
 恐る恐る、私も尋ねる。
「大したおもてなしはできませんけど、それでもよろしければ……」
『こんな時までそういうこと、気にしなくてもいいから』
 また、瑞希さんが溜息をついた。
 それから彼は少しだけ笑って、
『僕が元気になりたいんだ。君の無事な顔を見せて欲しい』
 と続けた。

 もちろん断る理由なんてない。
 だって私も、瑞希さんの顔が見たくて仕方がなかった。
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