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スノーホワイト

 サイドミラーに映る表情は暗く、はっきりとは見えない。
 だけどそんなもの見なくたって、そこに映っている顔の険しさは知っていた。

 私の顔はどこを取ってもきれいだとは言いがたい。目つきが悪くて、冷たくて、笑ってもどこかぎこちなくて、付けられたあだ名は『猛獣注意』だ。その手のことは学生時代から言われ慣れてて、今更腹も立たない。むしろ皆の言う通りだと思う。
 私は鏡を見るのがあまり好きではない。
 いくら化粧を施しても、髪型を変えてみても、きれいになるはずがないからだ。
 無理やり笑いかけても、そこに映るのは気味の悪い薄ら笑いだけだった。かと言って笑わずにいると、むすっと不機嫌そうな顔にしか見えない。だから私は鏡を見るのが嫌で、いつもは必要な時にだけ眺めるようにしている。

 でも今は鏡を見るしかなかった。走る車のサイドミラーに、黙って見入るふりをしていた。
 視線を動かすわけにはいかない。
 隣には、あの人がいる。
「道、こっちでよかったのかな」
 私が意識したのと同じタイミングで、渋澤課長が声を発した。
 思わずびくっとしながらも、私は視線をそちらへ動かす。傷一つないきれいな手が、ハンドルを操作するのが見える。手首を飾る男物の腕時計が、外を流れていくライトを跳ね返してきらりと光った。
「駅までで結構です。この辺りでも」
 外の様子を窺いながら、私は早口になって答えた。
 すれ違う車も多い幹線道路、駅まではまだもう少しある。私の家までは更に遠いけど、一刻も早くこの車から降りてしまいたかった。
「ちゃんと家まで送るって言ってるのに」
 課長はそう言って微かな笑い声を立てた。
 どんな顔をしているか、見ることはできなかった。
「いえ、いいんです。誰かに見つかったら、課長にご迷惑が……」
「迷惑じゃないよ」
 私の言葉はすぐさま遮られ、後から苦笑気味の声が追ってくる。
「君が迷惑だって言うなら考えるよ。でも、君だって家まで送って貰う方がいいと思うけどな。駅の方が人目につくし、今日はもう遅いんだから」
「……私も、迷惑じゃないです」
 答えつつも、はっきり『嬉しいです』とは言えないのが本音だった。
 嬉しくはなかった。むしろ辛くて、居心地が悪くて堪らなかった。

 サイドミラーに映る暗い表情を、ぼんやり眺める夜のドライブ。
 音を絞ったカーラジオからジャズのメロディが聴こえてくる。妙にムーディなその曲調が、緊張する私の心を掻き乱す。

「次を右折でいいのかな、芹生さん」
 運転席の課長がこちらをほとんど見ないのが救いだった。
 目の端で窺えば、非の打ちどころのない横顔はフロントガラスの向こうを見つめている。『総務課の美女』と評される、男の人なのにとてもきれいで整った顔立ち――二重の瞳の形も鼻の高さと細さも、唇の薄さもまるで理想的だ。睫毛は長く、瞬きの度になめらかな目元には影ができる。その影を目で追ってしまう私がいる。
 この人の隣に、この助手席に座りたいと思う女の子は大勢いる。一人一人に尋ねなくたって知っている。皆が課長の為に、同じようにきれいになろうとしているのを知っている。それなのにどうして、私がここに座る羽目になっているんだろう。
 私なんかが、課長の隣にいることを許されているんだろう。
「芹生さん?」
「……あ、はい」
 名前を呼ばれて返事をする。
 きれいな横顔が対向車のライトに照らされ、その瞬間、明かりが点ったように華やぐのを見た。
「少し、疲れてる?」
「いいえ」
 私がかぶりを振ると、すかさず課長は首を竦め、
「ならいいんだけど。さっきからぼうっとしているようだから」
 それから気遣わしげに言い添える。
「それとも、やっぱり話しにくいかな。僕が相手だと」
 ごくさりげない調子の台詞にはわずかな切なさも滲んでいて、胸に突き刺さるようだった。
「いえ、そんなことはないです」
 私は目を逸らして嘘をつく。
 話しにくい、と言うか。未だに現実として呑み込めていない。
 それでも一時間前、私の身に起きたことは、覚束ない記憶以上にこの唇が覚えている。

 総務課のオフィスで、渋澤課長は私のことを好きだと言った。
 それから課長は、私に口づけた。一度だけではなく、熱烈なくらい繰り返しされた。私が止めるのも聞かずに何度も何度も何度も――だけど美女の口づけでも呪いは解けず、野獣は助手席で居心地の悪さだけを感じている。
 課長は真面目で誠実な人だ。私を欺いたり、弄んだりするなどということはないだろうし、むしろ弄ぶつもりの相手ならもう少し吟味するはずだ。ましてやこの人なら、もっと可愛い子でもきれいな人でも自由に選ぶ権利があるだろうに。
 私の目が、全てが好きなのだと言った課長の真意がわからない。本気で言っていたのなら、すこぶる趣味が悪いと思う。

「道、こっちでいい?」
 課長の声がして、私は顔を上げた。
 フロントガラスの向こうで広がる見慣れた街並みを認め、すぐに頷く。
「はい。間違いないです」
「この先は、ずっと真っ直ぐでいいのかな」
「はい。ずっと真っ直ぐで、中央公園の方までお願いします」
 私の答えを聞くと、課長は一つ息をついた。
「ようやく答えてくれたな」
「え?」
「家の方向。余程警戒されてるのかと思った」
 課長の横顔は笑っていたけど、声はいささか硬かった。
 警戒、しているわけじゃない。私は気まずい思いで言葉を返す。
「そんなことは……」
「わかってるよ。言ってみただけだ」
 軽い調子に戻った声が、その後でふとトーンを落とす。
「芹生さん。これからでも考えてみてくれないか」
 いつしか横顔から笑みも消えていた。真剣な表情がフロントガラスを注視している。どんな表情も芸術品のようにきれいに映る渋澤課長は、素敵な人だと確かに思う。
「すぐに答えを出してくれなんて言わない。でも考えてみて欲しい。僕は君を不幸にはしないし、必ず幸せにする。君のことを誰よりも愛せる自信がある。そのくらい好きなんだ、わかるだろ」
 切々と語られる愛の言葉を、待ち望んでいる子はたくさんいるはずだった。
 それを一番どうでもいいような、見るからに釣り合いの取れない女に向かって口にする辺り、やっぱり課長はどうかしている。
「せめて僕を、君の恋人候補の一人にして欲しい。今はそれで構わないから」
 ハンドルに掛けた手がわずかに緊張したように見えた。

 私は目を逸らす。
 視線が動いた先のサイドミラーには、私の不気味なくらい青白い顔が映っていた。
 恋人候補なんて、残酷な言葉だ。他に候補がいるはずもなく、この先私の前に、誰かが現れる予定だってないのに。
 私が恋人を望んでも、誰もがそれを拒むだろう。私を恋人にしようとする酔狂な人がいるとは思えない――いや、一人だけ、いるけど。
 酔狂なのか、それとも幻を見ている人なのか。

 私はその人に、質問に答える代わりに尋ねた。
「課長。もしかして……視力がよくなかったりします?」
 真剣な問いのつもりだった。
 なのに運転席側からは、深い溜息が聞こえてきた。
「別に悪くはないよ。健康診断でも引っかかったことないしな。どうして?」
「もしかしたら目が悪くていらっしゃるのかと思って」
「そんなことはない」
 トーンを落とした声がきっぱりと否定した。
 その後で呟くように、嘆くように課長は言った。
「君にとってはそういう認識でしかないのか。僕の言ったことも、結局は信じられないってことか」
 その声が低く落ち込んで、同時に強い苛立ちを孕んだのがわかった。
 横目で盗み見た課長の横顔は、今は険しく顰められている。フロントガラスの向こうを睨む不機嫌そうな彼は、それでもきれいで、だけど傷つけてしまったのがありありと窺えた。

 私は逃げるように俯いた。
 彼の言葉を信じているとも、いないとも言えなかった。今でも何かの間違いであればいいと思っている――いや、何かの間違いだと思っている。こんなにもきれいな人が、私を好いているだなんて信じられない。きっと誰にも信じられない。
 誰かが羨むような恋をしたいとは思わなかった。私は日陰でひっそりと息を潜めて、目立たないようにしている生き方が性に合う。課長の言葉を信じてしまえば、穏やかで平凡な日常はあっけなく失われてしまうような気がした。
 私だって、笑われるのが得意なわけじゃない。
 だから誰の目にもつきたくない。見られるのが怖い。

 不意に車が減速した。
 折りしも中央公園の脇を抜ける道路に差しかかったところで、人気のない路地を選ぶように、課長の車はそこに停まった。エンジンが切られると、ぱっと室内灯が点り、そのうちゆっくりと消えていく。
 エンジン音もカーラジオも消えた今、車内は気まずい沈黙が落ちていた。
 私は戸惑い、フロントガラス越しに辺りを見た。この道をもう少し進めば私の部屋まで辿り着ける。そこまでは伝えていなかったから、ここで降りろということだろうか。
 課長を怒らせてしまったのかもしれない。顔を見る勇気はないけど、私の無神経さが彼を傷つけたのは明白だった。失礼な物言いだったのは承知の上で、でも代わりに何と言えば彼を傷つけず、諦めさせることができるのかわからなかった。

「……あの、課長」
 今はただ、謝ろうと思っていた。
 さっきの無神経な台詞も、ここまで送り届けて貰ったことも、今日されたばかりの告白に対する返事も、何もかも謝って終わりにしようと思った。
 課長が顔を上げたのが、フロントガラスに映る影でわかった。ハンドルから手を離し、シートベルトも手早く外した。そして運転席から私に向き直り、深い溜息の後で切り出す。
「苦しいな。僕は真剣に打ち明けたつもりだったのに、君には伝わっていないなんて」
 嘆く言葉が心に痛い。私には傷つく権利もないのに。
 私は恐る恐る顔を上げ、強い眼差しでこちらを見つめる『美女』に告げる。
「ごめんなさい。よく、わからないんです」
「わからないって、何が」
「私の気持ちです。課長のお言葉が本当なら光栄なことなのに、ちっとも喜べなくて……」
 私が答えると、渋澤課長は長い睫毛で瞬きをする。
 遠くから差し込んでくる街灯の明かりが、形のいい瞳の中でちらちらと揺れた。耳が痛くなるほどの静けさの中、その瞬きの音さえ聞こえてきそうだった。
「本当だ」
 課長は語気を強めてから、
「でも、君には何にも伝わってないし、通じなかったんだってわかったよ。僕の言うことを全く信じてくれてないから、そんな失礼なことを言ったりするんだろ」
 切なげな吐息交じりでまくし立てる。
 図星を突かれて、私は俯きたくなるのをぐっと堪えた。
「ごめんなさい……だって、おかしいです」
「何がおかしいって言うんだ」
「私、こんな顔なのに。好きになっていただく理由なんて、この顔にはないのに」
 美しい人が相手なら、直視されることさえ堪えがたい。
 なのに渋澤課長は手を伸ばし、そんな私の顔に触れてきた。指先で頬を優しく撫で、顎に手をかけて、王子様がするようにゆっくりと上を向かせた。そうして近くで目を覗き込まれて、ひとりでに心臓が跳ねた。
 非の打ちどころのないきれいな顔が、私のすぐ目の前にある。
「君の顔が好きだ。何度も言わなきゃわからないかな」
 私の唇に吐息がかかる。熱くて、声を上げそうになるほどくすぐったい。
 逃げ出したい気持ちで身を引こうとしたけど、シートベルトを外していなかった。
「自信がないなら鏡に聞いてごらん」
 優しい微笑みが、逃げられない私にそう告げる。
「君がどんなに可愛い人か、ちゃんと教えてくれるよ。鏡は決して嘘をつかない」
「……鏡なんて見るのも嫌です」
 私は正直に答えた。途端に課長の笑みが苦笑に変わる。
「いけないな、君は本当の自分が見えてない。そうやって苦手意識だけ持ってたら、鏡に映るのは君の気に入らない表情ばかりだ」

 鏡は嘘をつかない、それはその通りだと思う。
 いつも怖いくらい正直に、本当の私を曝け出す。目つきの悪い顔が笑っても、鏡の中ではぎこちないばかりだ。私はその醜い顔が嫌で嫌で、確かに気に入らない表情をしていた。
 だけど、それが本当の私じゃないなら。
 鏡からさえ目を逸らしてきた私には、私の知らない表情があるのだろうか。課長の心を惹きつけられるような顔が――まさか、そんなはずは。

「目を逸らさないで」
 課長がそっと囁いてくる。
 その瞳に私が映り込んでいるのがわかった。さすがに表情までは見えないけど、きらきらと光る水面のように揺れている。きれいな人の瞳に映れば、たとえ私のような女でも、少しはきれいに見えるのかもしれない。
「芹生さん。少しだけでいい、僕を信じてくれないか」
 道の端に停まった車の中、課長は私に囁き続ける。
「君が僕のことを信じて、せめて僕に少しの時間をくれるのなら、僕はその時間の中で、君が僕の全てを信じられるようにしてみせる。僕の想いが偽らざるものであること、君が疑えないようにしてみせるから」
 彼の言葉がまるで魔法みたいに、魅力的に響いて聞こえた。

 渋澤課長は、なんて素敵な人なんだろう。
 きれいなだけでなく、その言葉には嘘がない。真っ直ぐで情熱的で、そしてとても優しい。
 彼に愛されたらきっと幸せだろうし、彼の言葉を信じられたら怖いものなんてないだろう。気に入らない顔しか映らない鏡より、彼の目に映る私の方がずっとましで、きれいみたいだ。彼が私の鏡だったら――私は、私だって、彼を信じてみたいと思う。
 この人の優しさに釣り合うくらい、身も心もきれいになりたい。

「あなたは……」
 かすれた声が、私の口から零れ落ちた。
「あなたは、私の鏡になってくれますか」
 目の前にいるきれいな人は、深く深く頷いてくれた。
「いいよ。君がどんなに可愛い人か、僕が教えてあげよう」
 優しい表情につられるように、私もぎくしゃくと笑んでいた。
 温かい気持ちが込み上げてきて胸を満たす。不思議な充足感が私の背を押す。心の内にある言葉を紡ぎ出す。
「私、すぐには信じられないかもしれません。でも全部、何もかも信じられるようになりたいです、課長のことを」
 いつか必ず。自信を持って、信じられるようになりたい。
「ありがとう」
 もう一つ、彼が頷いた。
「信じて貰えるようになるまで待っているよ。じっくり、いくらでも待つ」
 その言葉は信じられる、と思った。
 優しくて温かい、想いに溢れた言葉だった。

 だから私は嬉しくて、今度はもっと自然に笑おうとした。
 でも次の瞬間、彼は隙をつくように私の顎を持ち上げる。そしてその唇で、軽く音を立てて口づけてきた。
 一瞬の出来事だった。
 私が、声を上げることができないくらい素早かった。

「あ、あの、今のは……」
 待つって言ってくれたばかりなのに。震える声で思わず尋ねると、課長は運転席に座り直し、シートベルトを締めながら平然と答えた。
「授業料。いろいろ教えてあげるとなると、タダってわけにはいかないしな」
「え……」
「少しくらい役得があったっていいだろ。こんなに焦らされてるんだから」
 そう言って課長は唇を歪めた。
 きれいな顔からはとても想像できない、少し意地悪そうな笑みだった。そういう顔も不思議と素敵で、キスの衝撃と合わせて動悸が速くなる。

 私は慌てて俯きながら、ふと思った。
 知らない表情があるのは、何も私だけに限ったことではないのかもしれない。
 それに妙なことだけど、断りもなく隙をついて口づけられても、嫌な気分が全然しない。それどころか唇が離れてからもくすぐったくて、心地よくて、気持ちがちっとも落ち着かない。あんな一瞬のキスだけで、こんなにも掻き乱されてしまうなんて知らなかった。
 そういう知らない感覚も全て、彼の鏡には映し出されているんだろうか。
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