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限りなく平凡な青春

 期末テストの時期が近づくと、校内の空気は心なしか重くなる。
 春も例外ではない。今の学校に通い始めた経緯を思えば成績不振で退学という事態は避けなければならない。だからテスト勉強は疎かにできず、この期間はなるべく早く帰宅して机に向かうのが常だった。
 しかし春の友人達は、春とは違う考えを持っている。
「ね、放課後に皆で勉強しない?」
「いいね。私、数学でわかんないとこあるんだよね」
「私も! 今回テスト範囲広すぎだよねえ」
 静乃の提案に、美和と温子がすぐさま食いつく。
 その後で春の方を見やったから、どんな答えを期待されているかはもちろんわかった。
「私は……どうしようかな」
 迷ってみせたのは、実際に揺れていたからだ。
 春だって友人達と過ごせるならそちらの方がいいし、楽しい。テスト前でなければ二つ返事で同行するところだ。だが皆と行くとあまり勉強にならないこともわかっているので、テスト前の寄り道にはどうしてもためらいがあった。
「行こうよ、春に教えてもらいたいとこもあるんだし!」
 温子は春の腕を取ってねだる。
 それを美和が庇うように引き剥がした。
「無理言わないの、春ん家は厳しいんだから」
「そうだけどさ、最近は緩くなってるって話じゃん」
 温子もそうは言ったものの、これ以上ねだってきそうな雰囲気でもない。家庭の事情で、と言えば皆はわかってくれる。春もそれを踏まえて、これまでは家の厳しさを言い訳にしてきた。
 だが桂木の両親は、実はそれほど厳しくはない。それどころか以前は春が私立の高校へ通うことを快くは思っていなかったようで、特に母親は勉学に勤しむ春をどこか不安そうに見ていた。最近はそんなそぶりも消えてしまって、両親ともに春の健全な高校生活を見守ってくれている。今となっては家の厳しさを言い訳にするのは少し気が引けていた。
 だからと言ってテスト勉強の手を抜いていいわけではないのだが――。
「たまにはいいかも」
 ぽろりと口にしたのは紛れもない本音だった。
 テスト勉強も大事だが、たまには友達と過ごしたい。両親を悪者にはしたくない。そんな気持ちが口をついて出た。
 途端に三人の表情が明るく輝き、
「本当にいいの? じゃあ行こうよ!」
「やったあ、春が一緒だ! いろいろ教えてね、ね!」
「ありがと春! よっし、ポテトのおっきいやつ奢っちゃう!」
 口々に喜んでくれたので、春も表情をほころばせながら頷いた。

 放課後を迎えると、四人は連れ立って学校を出た。
 向かう先は駅前にあるハンバーガーショップだ。春は知らなかったが、この時期ともなると市内のファストフード店やファミリーレストランはテスト勉強をする学生グループで溢れ返る。一部店舗は当然ながらそういった回転率の悪さを嫌い、『テスト勉強お断り』の張り紙をする場合もあるという。件のハンバーガーショップには張り紙がなかった為、店内は制服姿の客でいっぱいだった。それでも四人はゴミ箱近くの席をどうにか確保することができた。
「ほら、私の奢りだよ。どんどん食べてね」
 美和がフライドポテトのLサイズを勧めてくれる。
 すると温子がすかさず、
「やった、いただきまーす!」
 真っ先に飛びついたので、美和は慣れた様子でその手を叩いた。
「あんたが一番に取るか! ここはまず春先生でしょうが!」
「ごめんごめん」
「先生って……そんな、私に教えられるかな」
 春は照れた。確かにテスト勉強に勤しんではいるが、そこまで言われるほど成績優秀というわけでもない。
 しかし三人は一斉に期待の眼差しを向けてくる。
「だって春はちゃんと復習もしてるし、ノートだってきれいだもの」
「そうそう。私、数学と倫理と日本史を教えて欲しくて!」
「ほとんどじゃないの! ……私も倫理は教えて欲しいけど」
 それで春は鞄からノートを取り出し、友人達に見せてあげることにした。そして三人が感心しながらそれに見入っている間、ストロベリーシェイクを飲みながらポテトを食べた。
 家ではシェイクやフライドポテトといった食べ物を摂ることは一切なく、こういったものの味は高校に入り、皆と友人付き合いをするようになってから初めて覚えた。春にとっては新鮮で、どこか不思議な味だった。
 新鮮というならファストフード店もそうだ。四人で遊びに出かける際はいつもこういう安価で、高校生でも入りやすい店を選ぶ。今も、店内を見回せば目につく客層はほとんどが春達と同じ制服姿の高校生だ。きっと他の人々から見ても、今の春は何の変哲もない女子高生に見えるに違いなかった。
 いや、事実そうなのだろう。春はごく普通の女子高生になった。もう兄のお目付け役を務める必要も、兄を宥めすかす役割を仰せつかることもない。ましてや堂崎の父親、あるいは自分の両親の顔色を窺いながら日々を過ごす必要すらない。春はすっかり平凡な高校生活を謳歌していた。
「――駄目っすね、混んでます。よそ行きます?」
 考え事に耽る春の耳に、聞き慣れた声が届いた。
 とっさに振り向いた春が見たのは、ハンバーガーショップの自動ドアを開ける吉川と、堂崎の姿だった。
 二人とも制服姿で、春達と同じように学校帰りにそのまま立ち寄ったようだ。満席の店内を見回した堂崎が肩を竦める。
「そうだな。食うもんだけ買ってくか」
「なら俺、買ってきます! 堂崎さんは外で待っててください!」
「お前金持ってんのかよ。俺が出すからさっさと頼め」
 堂崎と吉川は連れ立ってレジカウンターに並び、店員に向かって注文を始める。
 春はその姿をしばし呆然と眺めていた。こんな店であの二人を見かけるとは思わなかったのもある。だがそれ以上に、カウンター前にいる二人がまるで――自分と同じような『平凡な高校生』に見えていたからだ。
 無論、堂崎も吉川も制服をだらしなく着崩していたし、二人とも目つきはよろしくないし、吉川なんて時代錯誤のオールバックだ。彼らを『平凡な』と評するのは正しくないのかもしれない。
 だがあの二人が一緒にいることに、春はどうしてか安堵のような、穏やかな気持ちを抱いた。
「春、どうかしたの?」
 ぼうっとする春の様子に気づいたか、美和がそう尋ねてきた。
 友人達に向き直った春が答えるより早く、温子が想い人の存在を見つける。
「あっ、堂崎……。吉川も一緒なんだ」
「あの二人、こんなとこ来るんだね」
「うん、私もびっくりした」
 美和の率直な感想に、春も素直に頷いた。その間も温子は堂崎の姿を見つめている。
「……声かける?」
 おずおずと、静乃が問う。
 その問いは温子ではなく、春に向けられたものだった。
 春は少し考えた後で、ゆっくりかぶりを振った。
「ううん」
 声をかければ堂崎は春の元へ来てくれるだろうし、吉川もその後を嫌々ながらついてくるだろう。二人とも空いている席を探していたようだったから、どこかから椅子を借りてきて、狭いながらも相席することだってできたかもしれない。
 だが春は、二人に声をかけたくなかった。
 あの二人の関係が以前とは変わり始めていることを察していた。
「まあ、温子が勉強手につかなくなっちゃいそうだしね」
 美和も春の意見に賛同した。温子も頬を赤らめながら顎を引く。
「うん……。ってかさ、こんな店に来る二人だと思ってなかったよ」
「最近、二人でいること多いよね」
 静乃も異論はないようで、声を落として続けた。
「前はもっと……子分、って言うのかな。そういう人がいたよね、堂崎くん」
 彼女の言う通り、以前の堂崎には吉川以外にも舎弟がいた。春も何度か見かけたことがある。だがそういう面々を、いつからか堂崎は連れ歩かなくなった。気がつけば堂崎の傍にいるのは吉川だけだ。
「堂崎さん、ゴチっす! あざっす!」
 会計を済ませた堂崎に、吉川はぺこぺこと何度も頭を下げている。
 それを堂崎は心底面倒くさそうにあしらった。
「店ん中でうるせえよ、いいから出るぞ。テスト勉強すんだろ」
「はいっ! あ、お荷物お持ちします!」
「だからうるせえって」
 堂崎はハンバーガーショップの袋を提げたまま店を出ていこうとする。吉川は慌ててそれを追い駆ける。
 春がそんな二人をじっと見送っていると、視線に気づいたのか、堂崎が足を止めてこちらを向いた。途端、見慣れた端整な顔に微かな照れ笑いが浮かぶ。春がいるとは思わなかった、そんな表情に見えた。
 春も嬉しくなって、堂崎に向かって小さく手を振る。それに堂崎は軽い会釈で応え、そのまま自動ドアをくぐった。吉川も春に気づいたようで、こちらは少し鬱陶しげな顔をして出ていった。
 あの二人も、これからポテトか何かを食べながらテスト勉強をするらしい。
 それはごく平凡で、何の変哲もない高校生の姿に思えた。

 翌日、春は教室で顔を合わせた吉川に尋ねた。
「昨日、堂崎と一緒にテスト勉強したの?」
「……なんでそんなのお前に話す必要あんだよ」
 吉川は春に話しかけられると、いつも鬱陶しそうな顔をする。近頃は特に、春に対する苛立ちを隠そうとしない。春もそれが悲しくないわけではないのだが、話ができないよりはいいとばかりに話しかけるのをやめなかった。
 ただ、二人はクラスでも浮いた存在だった。堂崎と近しい二人というだけで、他の生徒からは腫れ物に触るような扱いをされる。今も教室のほうぼうから探るような視線を向けられていた。
「聞きたいから。駄目?」
「駄目っつったら聞かねえのか? なら駄目だ」
「じゃあいいよ、堂崎から聞くから」
 春の言葉に、吉川はうんざりした様子で溜息をつく。
「したよ。お前らだってそうだろ」
「うん」
 友達と一緒にテスト勉強。何でもないことだったが、春にとっては楽しいひと時だった。
 堂崎と吉川にとってはどうだったのだろうか――それを聞いたところで、吉川は今度こそ教えてくれない気もするが。
「吉川さんってさ」
 教室内のあちこちから注目を集め、話を切り上げたがっている吉川をよそに、春は尚も尋ねた。
「今でも堂崎の舎弟、とかいうやつなの?」
「当たり前だろ」
 吉川は怒り半分、残りの半分はどこか誇らしげに答える。
 だが春はその答えに少し落胆していた。違う答えだったらいい、と思っていたのだ。
「じゃあ、いつまで舎弟でいるの?」
 そう問いかけたのも別の回答を求めてのことだった。
 たちまち吉川は眉を吊り上げたが、やがて少年らしい表情を浮かべてぽつりと言った。
「……堂崎さんがいいって言うまでだ」
「そっか」
 対照的に春はほっとして、思わず微笑んだ。
 堂崎がそう言い出す日が来るかどうかは春にさえわからない。だが、平凡な高校生に舎弟は必要ないだろう。いつか――堂崎にとっての吉川は、春にとっての美和や、温子や、静乃と同じ存在になるのかもしれない。
 なって欲しい、と思う。
「何にやにやしてんだよ」
 吉川に睨まれたので、春は教室中の視線を笑い飛ばすように改めて微笑んだ。
「何か、青春だなあって思って」
「はあ?」
 限りなく平凡で、どこにでもあるような青春が、自分と兄と、その周りの人々に訪れようとしている。
 今の春にはそれが、予感のようにわかるのだった。
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