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『好きだよ』、震えた声で紡いだ(2)

 そして更に翌日の水曜、春は学校に新品の携帯電話を持っていった。
 春自身はもちろん、両親もとかく電子機器類にはさほど明るくなかった為、機種選びには店員の助けを借りた。料金プランについて受けた説明も難解を極めたが、そこは父が『高校生に相応しいプランで』と申し立てたお蔭でどうにかなった。結局、春が自分で選んだのは携帯電話の色だけだ。
 光沢のある白っぽい水色。霞がかった晴れの日の、今の季節らしい空の色だ。

「いいなー新しいの。まだぴっかぴかじゃん」
 その携帯電話を友人たちは、代わる代わる手にしながら羨ましがる。
「私も新しいの買ってもらえないかなあ、最近電池の持ちがやばいんだよね。てかこれまだフィルムつけてんの? 取んないの?」
「ああそれ、保護シート買い忘れちゃってて」
「そっかそっか。あのシート貼るのめんどいから気をつけなよ、私のなんてずっと空気入りっ放し」
 美和は自分の電話と見比べては、しきりと溜息をついている。羨ましがる気持ちも春には少しわかる、何せ真新しい携帯電話と来たら取り扱いの際には手袋を填めたくなるくらいにぴかぴかしている。
「よく許してもらえたね。春のおうち厳しいって聞いてたから、本当よかった」
「うん、すっごく嬉しい」
「私も嬉しいよ、今日からいっぱいメールしようね!」
 静乃は珍しくはしゃいでいて、春本人よりも大喜びだ。早速メールアドレスを教えた。赤外線通信も試行錯誤しながら試した。メールの打ち方には慣れているつもりだが、他の機能はこれからじっくり身につけていかねばならないようだ。
「やっぱさ、これって先生の教えがよかったからじゃない?」
「先生?」
「あー春ってば忘れたの? 親の説得の仕方、私が教えてあげたんじゃん!」
 温子は得意げに胸を張る。顎を上げて勝ち誇ったポーズを取る姿はまさに権威ある教育者といった風で、思わず春も吹き出した。
「ううん、覚えてたよ。実践もしたし」
「マジで? じゃあやっぱ私の教え方がよかったからだね。誉めて誉めてー!」
「ちょっと春、あんま温子を調子乗らせない方いいって、教育料取られるよ」
「え、でもこれは本当にすごくない? 温子のアドバイスのお蔭なんでしょ? 私も聞いてみたいな」
「静乃まで……騙されても知らないからね。絶対あれだよ、悪徳業者の手口だよ?」
 興味津々の静乃を呆れた目で見ている美和。すかさず温子が『美和ひっどい!』と半分にやけながら噛みつく。それで美和も静乃も笑い出して、春もつられてげらげら笑い声を上げる。
 朝のざわめく教室の隅、どこにでもあるようなクラスメイト同士の会話が続いている。世界にはごくありふれているやり取りが、今の春にはこの上なく貴重で、幸せなものに思えた。
 とりあえず、アドバイス料については考えがある。なので美和の心配は無用だ。
「だけどほら、親と上手くいったんならそれもよかったじゃん」
 笑いの波が一段落した後、美和が春を見ながら、様子を窺いながら切り出してきた。
「春も何か、さっぱりした顔してるし」
 顔に出ているかどうかはわからないが、確かにいろいろとさっぱりはした。春は頷く。
「うん。……心配かけちゃった?」
「まあ、ね。春が自分から言うなんてよっぽどだって思ったし」
「そっか、ごめん。もう大丈夫だよ」
 さっぱりと落ち着いた直後だったから、その諸々を思い出すのはかえって気恥ずかしかった。でもお礼は言った。照れながら。
「その節は、ありがと」
 途端、三人も一斉に照れた。
「いやもう、いーっていーって」
「気にしないで。そういうの、誰にでもあるんだから」
「つかそういう時こそ助け合うのが友達じゃん、みたいな」
 もじもじしながら三者三様の反応を示す友人たち。
 いい友達ができた、春は改めて思う。このまま皆と、ずっと同じクラスにいられたらいいのに――しかし現実として今年度はもうじき終わろうとしている。あと一ヶ月もしないうちにクラス替えがあり、学年のみならず組まで変わってしまう運命だ。春にとって好きな人たち全員とクラスメイトになるのは、確率的にも難しい。
 だからせめて、クラス替えのある前に備えておきたい。

 そうこうするうち、新品の携帯電話に表示された時刻は八時十五分。春がいい加減そわそわし始めた時だ。
 がらりと黒板側のドアが開き、教室の空気が一変した。
「あ……」
 温子が上げたのと似たような声が、あちらこちらから漏れ聞こえた。教室の中でほぼ同時に打ち切られた会話たちが、行き場をなくして四散した音だった。
 それらの声と一瞬後にすぐ逸らされる視線とを浴びた堂崎新が、ゆっくりと教室に入ってくる。カバンは肩に引っ掛けるようにして持ち、上靴の足音も憚ることなくのしのし歩いてくる。表情は不機嫌そうな仏頂面。一昨日から特に変わったところがあるようには見えなかった。
 堂崎は真っ直ぐ自分の席へと進み、まず無造作にカバンを、机の上に置いた。次に椅子を引いたから、春は今しかないと踏み出して、息を深く吸い込んだ。
「お、おはよう。……堂崎」
 声と一緒に吐く息が震えた。
 それは凍りついた空気の中で不格好に響き、クラスメイト全員をびくりとさせた。
 堂崎自身も目を剥いて、少なからず驚いたようだ。一度目を逸らし、呆れた様子で応じる。
「……ああ」
 その後で春を軽く睨んで、抑えた声で付け足した。
「つか、今日からかよ」
 思い立ったが吉日と言うし、こういうのは早い方がいい。ましてクラスメイトとしての春と堂崎には残り時間がほとんどないのだし――というわけで春は、彫像のような他のクラスメイトたちの間を縫うようにして堂崎に近づくと、緊張しつつもどうにか、無理やり笑顔を作った。そしてその腕をぐいと引く。
「来て。友達に紹介するから」
「あ!? な、何でだよ」
 らしくもなく堂崎はうろたえたが、春は構わず彼を友人たちのところへ連れて行った。堂崎がろくに抵抗もしなかったのは不思議なものだが、早々に諦めがついたのかもしれない。
 美和、静乃、温子の三人もクラスの空気と同様に、事態が把握できずひたすらぽかんとしたままだった。
 そこへ春が堂崎を連行してきて、自分でもわかるくらいに強張る顔で、
「あ、あのね。友達になったんだ、……堂崎と」
 と打ち明ければ、三人は目に見えて混乱し始めた。
「と……友達ぃ!?」
「え、え、堂崎くんと? 春が?」
「どどど、どういうことっ? 全然話読めないっていうか!」
 もっともな反応だ、と春も今更ながら思った。ちらと隣に立つ兄を見上げれば、逆に『お前がこの場を収めろよ』と言わんばかりの視線を返された。それも至極当然の言い分だ。
 と言っても、友人たち相手にさえ話せる内容は限られている。堂崎を兄だと紹介する日はやはり、絶対にやってこないだろうし、友達でいるのがせいぜいだ。そのきっかけだって、正直には教えられない。
 だから本当に言いたいことだけを言っておく。
「堂崎って怖そうに見えるし、愛想ないこともあるけど、本当はすごくいい人なんだ。それで私、友達になろうって思ったから……なれたから。そんなに難しくなく、なれたから。できたらでいいんだけど、皆にもなって欲しいなって。堂崎と、友達に」
 再び、堂崎が春を見た。今度は何を言うのかという抗議混じりの目だったが、口に出しては反論してこなかった。
 一方、美和と静乃と温子は、ようやく首を動かせるようにはなったらしい。三人でぎくしゃく顔を見合わせている。しかし意思の疎通にまでは至っていないようで、その表情は揃って狐につままれたままだ。
「えっと、もうすぐ、クラス替えもあるから……」
 春はつっかえながらも説明を続ける。
「クラス替え、したら、私は皆と、誰とも同じクラスになれないかもしれないけど、でも誰かしら堂崎と同じクラスにはなるんじゃないかなって思って。それで、だから、私にはすごくいいお友達ができて、嬉しかったから、堂崎の友達も多い方がいいなって……」
 教室中の視線、成り行きを見守るクラスメイトたちの無言の重圧に、春の論理力は著しく低下していた。何を言っているのか、自分でもよくわからなくなっていた。
 でも、伝わってはいたようだ。
「……春」
 静乃がまず、口を開いた。
 若干怯えた顔をしながらも、堂崎の方を見る勇気まではなかったらしいものの、一番最初に言ってくれた。
「春がそう言うなら。春が友達って言うなら、きっと仲良くできると思う」
 ぎこちなく頷いた後、静乃は手を伸ばして、棒立ちの温子の方をちょん、とつついた。正直、春にさえも意外な行動だった。
 促された温子は目が覚めたように息を呑み、すぐに頬っぺたを赤くしながら、
「う……うん、なるなる! 友達になる! 大歓迎ですよろしくお願いしますっ!」
 勢い込んで宣言し、頭まで下げていた。
 最後まで反応を決めかねていたのは美和で、他の二人よりは落ち着いたそぶりながらも、困った表情にはなって言われた。
「友達に……まあ、春の友達って言うんなら別に、私はいいけど。でもいいの? 私、結構遠慮しないよ?」
「いいよ、遠慮しないで。びしばし言ってやって!」
 即答した春の真横で、唸るような溜息が落ちた。
 ただ、堂崎は兄として妹の顔を立ててくれるつもりらしい。友人たちがそれぞれに答えをくれてから、素っ気ないトーンでぼそり、
「よろしく」
 と呟いていたから。
 もしかすると後で、スタンドプレーを叱られてしまうかもしれないが、その辺りの反省と擦り合わせはいくらでもするつもりだ。
 それに擦り合わせが必要なのは友人たちも同じのようだし――三人が何か聞きたそうにうずうずしているのを見て、春も改めて覚悟を決めた。

 いい友達になろう。これからも。
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