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願い事はひとつだけ(5)

 図書室の前には、男子生徒が二人いた。
 どちらも制服を着崩していたり、上履きを踏んづけていたり、髪型が校則違反だったりと、どういう相手なのかは見た目だけでわかってしまった。二人は不機嫌そうな顔で春と吉川を迎え、特に春に対しては非難がましい視線を向けてきた。
 春は二人に対して会釈をし、隣の吉川に目を向ける。吉川は急によそよそしいそぶりで距離を取りながら、小声で指示をする。
「俺ら、離れたとこから見張ってっけど。教師とか来たら知らせるから」
「え? それって……」
「いいから早く行けよ」
「……うん」
 三人分の視線を背負いつつ、図書室の戸の前に立つ。『本日の貸し出しはお休みです』の札が月曜日だというのに下がっていて、そのことを問い質していいものかどうか、迷った。聞いたところで自分にはどうにもならないだろうし、兄を咎めても仕方がない。きっと意にも介さないだろう。
 そういうのが嫌なら、今日で終わりにすればいい。

 以前と違い、図書室の中は照明がなくても明るかった。
 残照が作る真っ黒な影は室内を覆いきることはなく、古びたテーブルの天板は傷だらけなのにまるで鏡のように光っている。そこに堂崎の影が、横顔の形に斜めに落ちている。
 安っぽいパイプ椅子に浅く腰かけた堂崎新は、春がドアを閉めるまで微動だにしなかった。ドアが閉まり、春がカバンを身体の前に持ち直した時、少し俯いて唇を舐めたようだ。それでもこちらは向かずに、しばらく、黙っていた。
 扉の向こうで複数の足音が遠ざかっていく。
 本の匂いは雨の日ほどきつくない。
 春も言葉を探しながら、ひとまず兄の様子を観察した。土曜日以来の再会だったが、見た目に劇的な変化はなかった。ただ顔つきは強張っていて、どことなく暗いようにも思えたし、まして胸中が今までと変わりないということもないだろう。春の方を見向きもしないというところからして、違う。
 その違いは自分のせいだと、春は受け止めていた。一昨日、兄の質問に答えられなかったことが尾を引いて、今日まで兄を苦しませていたのだろう。無論、春自身も悩んだし、今も尚悩んでいるし、苦しみもした。辿り着いた思いが兄に対する正しい答えとなるのかはわからない。答え、に相当するのかどうかも不確かだ。だとしても答えなくてはならない。

 春は目を伏せ、最初の一言を告げた。
「何だか、久し振りだね」
 間髪入れず、笑いのような吐息が微かに聞こえた。パイプ椅子が短く軋む。
「そうだな。あれからたった二日なのに……もう大分前の話みたいだ」
 堂崎は妹の言葉を肯定した。
 次に、先程よりもはっきりと笑った。
「お前、来てくれると思わなかったしな。怒ってんじゃねえかって」
「私が?」
 一歩だけ、春は扉の前から離れた。
 兄の座る椅子がまた軋んだようだ。立ち上がろうとしたのかどうか、座り直す影の動きが床に映る。
「一昨日、結局お前を放ったらかしにしてたし」
 堂崎はそう言ってから、ふと違和感を覚えたように首を傾げた。
「……いや、違うよな。俺は逃げたんだ。お前から。――お前の出す答えから」
 苦しげに聞こえたその言葉に、春ははっと凍りつく。
「私、別に怒ってなんか……」
「いや、いい。どっちにしたって謝るつもりだった。悪かった」
 直後、もう一度首を傾げ、
「ごめん。……本当にごめん」
 言い慣れてない口調で堂崎は詫びた。
 とっさに春はかぶりを振ったが、彼はこちらを見ていない。テーブルを支えにするように両肘をつき、椅子に座ったまま、じっとしている。
「謝ってもらうことなんてないよ。一昨日は……その、いろいろ、あったけど」
 振り返ってみれば結果的に、家へ招いてくれた兄の好意を台無しにしたのは春だ。謝るべきはむしろ自分の方ではないか。春はそう思ったが、堂崎は妹の話を遮った。
「俺はお前から逃げた」
 それが事実だと、強く言い聞かせてきた。
「怖かったからだ。お前を散々困らせて、悩ませて、苦しめて、無理矢理答えられないってわかってるはずの質問ぶつけて、それでもお前が答えを出そうとしてたから、すごく考え始めてるのがわかったから、怖くなった。お前がどう答えるか以前に、お前が、俺と同じようには考えてないんだってこと、まず、わかったから。双子なのに、血の繋がった妹なのに、あの時、俺はお前の考えてることがちっともわからなかったから」
 生い立ちからして違う双子は、同じ思いではいられなかった。
 堂崎は妹との家族としての暮らしを望んでいた。
 春は兄を慕っていたし、傍にいたいとは思っていた。だが。
「あいつが……母親が来た時、出てくんなって言っといたのにってむかついたけど、同時に少し、ほっとした。自分で感情的になってたのもわかってたから、逃げて頭冷やそうと思った。冷静になったら、あの時答えなかったお前の気持ちがわかるんじゃないかって、気がして」
 組んだ手を額についた堂崎は、絞り出すような声で続ける。
「でも――でも、わからなかった。いくら考えてもわからなかった」
 絶望的な告白だった。
「わからねえんだ、お前が。お前なのに、妹なのに。ずっと同じように考えてるって思ってたのに、そうじゃないって知ったら途端に何もかもわからなくなった。俺と一緒がいいって、俺と同じように願ってくれてるって思ってたのに」
 春は棒立ちのまま、まだ表情を見せない兄を注視していた。打ちひしがれた背中は丸く、普段の兄からは想像もつかないほど弱々しい。
「俺は、お前だけだった」
 休館日ではないはずの図書室も、扉の外も、不気味なほど静まり返っていた。
 思えば堂崎と会う場所はどこでも、いつでも静かだった。隔絶されているみたいに。
「会う前からだ。ここで出会う前から、お前の存在を知った日からずっと、他のことは何もなくなった。お前だけになった。ずっとお前のことだけを考えてたし、必要だったし、お前だけが欲しかった」
 最初に会った日のことを、春は密かに思い起こす。
 あの日、兄が語った渇望を、なぜか理解することが出来た。初めて思ったのに、兄が教えてくれるまでは知らない感情だったのに、なぜだったのだろう。
「足りなかったんだ」
 堂崎はあの日と同じ言葉を口にする。
「俺にはお前が足りなかった。他の奴じゃ駄目だし、一人きりでも駄目だった。お前じゃなくちゃ埋めようがなかった。お前が、春がいてくれたら、俺の中の足りないものが、不完全なものが、空白が、穴開きのところ全部が埋まると思った。俺はお前がいたらよかった、他の誰がいなくても、何がなくなっても、お前といたら満たされた。幸せだった」
 そこまで語った時、彼はようやく面を上げた。
 ぎこちなく動いた首がこちらを向き、目は震えながら春を捉える。
 不安げに見えた。何かを強く求めているようにも見えた。
「春。俺は、お前がいたら、幸せだ」
 焼きつけるような口調で言った堂崎は、その後で息をつく。
「お前も同じだったらいいって思ってる。今はそれだけだ」
 兄の願いを、春は胸苦しく聞いた。

 同じだったらよかったのかもしれない。
 兄妹が同じ思いで、お互いだけを求めて、二人で暮らしていくことが出来たらそれが最良だったのかもしれない。世界から隔絶されたところで二人、それでも幸せではいられたはずだ。たとえ他に、二人の思いを理解する者がいなくても。お互いの他に頼れる相手も縋れる対象も、必要な人すらいなくても。
 でも、もう同じではなくなった。春には世界が必要だった。兄以外の人も存在している世界。確かな絆でも、揺るがしがたい関係でもないけれど、それでも他の誰かとも繋がっている世界。そこから切り離されることは望んでいない。
 そしてそこに、堂崎にもいて欲しかった。一緒に。

 意を決し、春は前に進み出た。
 もう一歩扉から離れ、更に室内を進んだ。こつこつと足音を立てて兄の傍まで歩み寄った。兄が一挙一動を見守る中、その隣の椅子を自分で引き、迷わず腰を下ろす。カバンは足元に置き、すぐに隣を見た。
 沈み際の夕日が作る陰影は堂崎の顔を翳らせている。何度見ても自分とは似ておらず、血の繋がりをそこからうかがうのは難しかった。でも見つめているだけで湧き起こる感情は、兄だからこそ抱けるものだと思う。
 兄からは、今の自分はどう見えるだろう。
「私……」
 ためらいが生まれる前に、春は口火を切った。
「私ね、幸せだって思ったこと、そんなになかったけど……」
 十六年生きてきて、実感する機会はあまりなかった。
 もちろん不幸だったわけでもない。意識していなかっただけだ。
「幸せってどういうことか、よくわかってなかったけど……」
 引け目もあったのかもしれない。血の繋がらない両親にそれでも優しく育ててもらって、申し訳ないと思っていた。高校で作った友人たちとは『外様』という共通項だけしかなかったから、あまり寄りかかるべきではないと思っていた。そしてめぐり合えた兄にはずっと嘘をつき続けているし、あの再会も仕組まれたものに違いなかったから、どうしても幸せに浸りきれなかった。
 でも、今は思う。
「今の私は、十分幸せだよ。お父さんとお母さんがいて、クラスの友達がいて、お兄ちゃんがいて……みんなのこと、大好きで」
 素直に好きと言えるのが不思議だった。
「これ以上は何も要らないくらい幸せだよ」
 それで堂崎は目を伏せたが、春は尚も言った。
「むしろ私、そういう人たちに何かしたい。恩返しって言えるほどすごいことができるわけじゃないけど、そういう人たちの為になりたい。それ以上のことは望んでない」
 目を合わせてくれなくても、兄に向かって訴えた。
「お兄ちゃんの為にも、できることをしたいよ。駄目かな」
「俺はお前だけでいい」
 堂崎が俯いて応じる。春はそれでも兄を見つめている。
「私は、お兄ちゃんだけじゃ足りない。好きな人たちみんなが必要だから」
「俺はお前だけでいい!」
 図書室に響いた叫びが、最後の残照を全て追い払った。
 春の視界からはこちらを見ない兄の姿も、本棚と影の立ち並ぶ図書室も、夕暮れ時の窓の色も全て消え、古い本の匂いさえわからなくなった。気づいた時には隣から抱きすくめられていた。いつになく乱暴に、足りないものを埋めるみたいに力強く。
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