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願い事はひとつだけ(2)

 堂崎からの次のメールは月曜の朝にあった。
 ――放課後に図書室で待ってる。人気がなくなってから来い。
 文面はやはり手短で、そこから兄の心中を窺うことは出来ない。何を言われるのか、何と話すのか、考えもまとまらぬまま登校した。
 その朝も春の母は姿を見せず、朝食の支度は父がした。春の心中は全く穏やかではなかった。

 教室ではなるべく普段通りにふるまおうと思っていたが、隠し切れなかったようだ。
「……元気ないね、春」
 昼休み、いつものように四人で昼食を囲んでいると、美和が顔を覗き込んできた。
 春は思わず弁当に目を落とす。今日の弁当はやはり父が作ってくれたもので、焼き魚とほうれん草のおひたしという実におとなしめのメニューだった。美味しくないわけではないし、作ってもらった弁当に文句を言うつもりもないが、どうしても箸が進まない。
「何かあったの?」
 静乃も心配そうに尋ねてくる。
「朝からずっと顔色もよくないみたいだし。風邪?」
「ううん、そうじゃないけど……」
 けど、の続きは口にしづらい。適当な言い訳を取り繕う余裕もなく、春はそのまま言いよどんだ。それで美和も静乃も、一歩引いたような言葉を継ぐ。
「あ、そっか。うん、まあ、いろいろあるよね。思春期だしね」
「具合悪いんじゃないならよかった」
 二人ともそれ以上は追及してこない。ただ辺りの空気は少しぎこちなくなり、昼休みらしからぬ静けさが四人の周囲にだけ訪れた。
 教室はとても賑やかで、いささか浮かれたようでもあった。春休みを間近に控えているのと、堂崎が朝からずっと来ていないせいだろう。ぽっかり開いた兄の座席を、春は複雑な思いで何度も見やっていた。
 もっとも、複雑だったのは春だけでもないらしい。四人の中で一番快活な温子が、自分の出番とばかりに声を上げた。
「ていうか元気ないって言ったら私だってそうだよ、誰か心配してよー」
「あんたはいい。どうせ理由わかってるし」
 すかさず美和があしらうと、温子は椅子に座ったまま地団駄を踏む。
「わかってるなら余計に心配してよ! もう一昨日はさあ、すっごく期待して待ってたのにさあ!」
 一昨日、という単語に春がびくりとすれば、静乃もどことなく反応に困った様子で、
「えっと……ど、どうだったの?」
 と尋ね、
「どうもこうもないよー! なし! 何にもなし!」
 温子は自棄酒を煽るみたいに、パックのピーチティーをストローでずずずと啜った。
 その後で溜息。
「いや別にさ、向こうもこっちのこと好きかもとか、そういう淡い期待は確かにゼロではなかったけどほぼゼロに近かったしさ、お返しが欲しかったわけでもないしさ、一言お礼くらいあったらいいなーって思ってたの。ちゃんとメッセージカードにアドレス書いたし! でも結局、ホワイトデーは音沙汰なし。昨日だって何にもなし」
「だーから散々言ってたでしょ。あいつはそういう奴なんだって」
「そのくらいならいっそすっぱり振ってくれたらよかったのになあ」
 美和の慰めと取れなくもない言葉には触れず、温子はまた溜息をつく。春は居た堪れなくなる。
 兄には一応、釘を刺しておいたはずだ。兄のことを好きな子は校内にだって大勢いるらしい。少なくとも温子はそうだ。だからそういう子のことも、少しは考えてくれたらいいのに。
 だが堂崎がそういう子たちのことを考えられなかったのは、もしかしなくとも一昨日の、つまり春のせい、なのかもしれない。あのごたごたがなければ、もしかしたら温子は――。
「今日だって学校来てないしさ」
 温子は堂崎の机に視線をくれた。主はいない。
「ホワイトデーがスルーでも、せめて顔くらい見れたら、目が合ったらって思ってたのに、外れ連発じゃん。もう最悪。へこむわー」
 彼女の口ぶりは軽かったが、想いそのものの真剣さは春もよく知っている。それだけに歯がゆいし、辛い。堂崎が教室に現れないのだって、間違いなく自分のせいだ。温子の気持ちを踏みにじっているのは堂崎ではなく、春自身なのだろう。
 ――私、どうしたらいいんだろう。
 繰り返されるばかりの自問。思わず肩を落とした時、
「あっ……もしかして、春もアレ?」
 ふと、温子がこちらを向く。
「……え? 何?」
「つまりほら、ホワイトデー的なアレで沈んでたりする?」
 言いながら温子は慌て出した。手を中途半端な高さに挙げて、何やらぎくしゃくし始めている。
「だとしたらこの話題まずい? そうなら言ってねやめるから!」
「えっと……?」
 ホワイトデー的な、というのは何のことか。ぴんと来ない春が瞬きをすれば、美和と静乃が取り押さえるような素早さで、
「馬鹿! あんた私があえて突っ込んで聞かなかったとこを突っ込んじゃってどうすんの!」
「そうだよ、そう思っても触れちゃ駄目。春だって答えにくいじゃない」
 二人がかりでたしなめられた温子は春に対し、恐縮しきった顔で手を合わせてくる。
「ご、ごめん、もしそうだったらお仲間発見で嬉しかったっていうか……あ、いやそうじゃなくて、とにかく、うん。それに春からその手の話題聞いたことなかったし、もしそうなら何かちょっと新鮮だなって……あーごめん、全然フォローになってないね!」
 そこまで言われるとさしもの春にも察しがついた。
 とどのつまり、温子は春が失恋でもしたのではないかと考えているらしく、また美和や静乃もある程度はそういった可能性を考慮していたようだ。ホワイトデーの二日後、何の脈絡もなしに沈んでいる女子高生の悩み事というなら、普通はそういう発想に行き着くものなのかもしれない。
 ホワイトデーが原因という点については当たっているのだが。
「あ、失恋とかじゃないんだけど……」
 暗い気分で春が答えると、三人も一層気遣わしげになる。揃って箸やらフォークやらを置き、口々に言ってきた。
「いや本当、無理して答えなくていいから! 人生いろいろあるよねマジで!」
「ていうか温子はもう黙んなよ。かえって気まずくなってんじゃん、空気読め」
「詳しくは聞かないけど……春、元気出してね。私たち、春の味方だよ」
 フォローにならないフォローを重ねる温子と、呆れ顔で彼女を制する美和、そして温かい眼差しを向けてくる静乃。答えなくてもいいと言われても、ここまで心配されてしまうと黙っているのも申し訳ない。しかし失恋ではないと言い張ったところで、今の三人にはそれすら方便だと思われてしまいそうだ。
 春には失恋の経験がない。というより恋愛経験そのものがなかった。自分が普通ではない家庭に育った事実を幼い頃から意識していたし、年頃になった今は兄のことばかり考えている。他の人間の存在が入り込む余地はどこにもなく、薄情さで言えば春も堂崎と大差ない。
 だが堂崎はとてもたくさんの人に好かれているようだし、その点で言えば自分は――。
「春もそんな困った顔しないの。聞かないって言ってんだから」
 美和がいつになく柔らかい声で言う。困っているというなら彼女たちの方こそ困り果てて、不安そうな顔をしているのに。
 春は三人の顔をじっと見つめ、それから思った。
 ――自分は、私は、どうだっただろう。
 私のことを好きでいてくれる人たちに、それだけの気持ちに見合うこと、何か出来ていただろうか。
 兄だけではないはずだった。桂木の両親も、友人たちも、多かれ少なかれ春を好いていてくれた。そういう存在を今まできちんと顧みたことがあっただろうか。兄のことばかり考えるあまり、ごく身近にある優しい気持ちや空気のような温かさを見落とし続けてきたのではないか。堂崎ほど多くの人に好かれているわけでもないけれど、決して揺るがないと言い切れるような絆があるわけでもないけれど、春にだって自分で築いてきた領域がある。
 友人たちとは、初めは『外様』同士の連帯感だけだった。一年近く付き合っていても打ち明けていないこと、嘘をついたことはいくらでもある。これからだって全てを明かす機会はないだろう。嘘も重ねていくのだろう。だとしても、ここにあるのは紛れもない友人関係のはずだ。
「……あの、私」
 春が呟くように切り出した時、三人はそれぞれびくっとした。
 それでも何も言わずにいてくれたので、続けてみた。
「私……今、親と気まずくて。それで……」
 正直に話したところで、友人たちが何か解決の手立てを取ってくれるわけでもない。春もそれを期待して零したつもりはなかった。
 ただ、言いたかった。正直に話してみたかった。
「喧嘩、とか?」
 美和が恐る恐る聞き返してくる。次に温子が、
「あ、もしかしてこないだのケータイのこと? だとしたらごめん、私が変な――」
「違うよ、そのことじゃない」
 即座に春は否定した。それからふと、口元に苦笑いが浮かんだ。
「喧嘩でもないんだ。何て言うか、上手く話せてない、のかな。進路……のことで。うん、そういう関係のことで気まずくなってて、私も向こうもお互いに避けてる感じで、家の空気もよくないの。だから……」
 言葉は意外なくらい、するすると流れ出た。
 そして打ち明けただけなのに気分が、少しばかり軽くなったように思う。
 ――変な話だけど。
「あー、そっか……」
 美和が腑に落ちた顔つきになる。途端に彼女も苦笑した。
「わかるよー、うちの親も本当そうだもん。もうこっちの話聞かないっていうかさあ」
「そうそう! 話は聞かない頭は固い、そのくせ偉そうなんだもんね、嫌になるよねー」
 それに温子が便乗する。相当鬱憤が溜まっているのか、うんざりしている様子だ。
「親って、本当に子供だったことあるのって感じしない?」
 意外にも、静乃までが話題に食いついてきた。控えめに肩を竦めつつ、
「うちの親、二言目には『お父さんの若い頃は……』って言うんだけど、子供時代やったことあるならどうして私の気持ちもわかってくれないのかなって、時々思うよ。そのくらい、全っ然、わかってないんだから」
「理解してないよね。頭ごなしの説教でこっちの気持ちが動くかっつーの」
「むしろ親の方こそ少しは学習して欲しいんだけどねー。子供のやる気を引き出すのも親の役目でしょみたいな」
 三人がそれぞれに不満を吐露し合うのを、春は呆然と受け止めている。
 春は両親と喧嘩をしたことも、頭ごなしの説教だって食らったことはない。でも理解して欲しいと思うし、理解したいとも思う。その気持ちは多分、どんな人間にも少なからずあるものなのだろう。たとえ血の繋がりがなくても、自分のことを好きでいてくれる相手には。
「春もさ、辛かったらうちにおいでよ」
 不意に美和が、そんなことを口にした。
「何か春って親に逆らえないっぽいみたいだけどさ、一度家出とかしてみたら親も反省して、いろいろ考えてくれるかもよ?」
「家出かあ……」
 春はもう一度苦笑して、思い浮かべたこともなかったその単語を頭の中で繰り返す。あの家を出て行くなんてこと、今でも、やっぱり考えられない。考えたくないのかもしれない。
「まあそういうんじゃなくても、家にいづらかったらいつでもおいで。三日……いや、一週間くらいならどーんと来いって。うちの親はどうとでも誤魔化せるし」
 美和が制服の胸の辺りを叩けば、
「私の家も大丈夫だよ。何かあったら……何もなくてもいつでも来ていいから、ね? あんまり思いつめないで、こういう時こそ頼ってね、春」
「あーうちもうちも! っていうか家出まで行かなくても、お泊り会って名目でもよくない? ちょうど春休みだし、春の気が済むまで皆でお泊りとかさー」
 静乃も、温子も、彼女たちらしい物言いで心を配ってくれる。
「じゃあ、いざって時はお願い」
 三人の言葉に春はそう答え、その後で今更のように照れて、笑った。
 好きだ、と思った。
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