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願い事はひとつだけ(1)

 ホワイトデーの翌日、三月十五日。
 家の中は春が想像していた以上に静かで、息苦しかった。

 母親は昨日からずっと姿を見せていない。自分の部屋に閉じこもったきり、出てこなかった。相変わらず具合が悪いようだったが、どの程度悪いのか、これから先よくなるのかも全くわからなかったし、知らされもしなかった。母の面倒を見ているのは仕事を休んでいる父親で、三度の食事も彼が支度をし、運んでいった。しかし食もあまり進んでいないようで、食器を下げてくる時の父は暗い顔をしている。
 見ているのも辛くなって、春は自ら申し出た。
「私も何か手伝います」
 そう伝えると父は気遣わしげに笑んで、洗った後の食器の片付けを手伝わせてくれたり、洗濯物を畳むのを任せてくれたりした。ただ、母のところへ行くことだけはさせてくれなかった。
 春がそれに言及すれば、父は困った様子で息をついた。
「お前が悪いわけじゃない」
 前置きの言葉はずっと同じだ。
 嘘をついているわけではないようなのに、本当のことにも聞こえない。
「……ただ、母さんも今は混乱しているんだ。少しばかり考える時間も必要だろう、出来ればそっとしておいてやってくれないか」
 春も、その方がいいと思っている。昨日の今日ですっきりと落ち着けるものでもないだろう。まして嘘をついて母を傷つけたのは自分だ、こうして息苦しい罪悪感にさいなまれている時間も言うなれば当然の報い。これ以上ねだるわけにもいかない。
 母に会いたい、ということでもないのかもしれない。春がそれを父に頼んだのはあくまでも罪滅ぼしや謝罪に逃げ込みたい気持ちがあるから、であって、実際に会えばそれこそ詫び続けるよりほかに出来ることもないだろう。母だって春がそういう態度に出ると察しているから遠ざけようとしているのかもしれない。
 遠ざけられているのは確かだ。
「私、これからどうしたらいいんでしょうか」
 春はぼそりと問いを繰り返す。これもずっと同じだ。たった一日で口癖のようになってしまった言葉。
 母の為に、父の為に、兄の為に、実の両親の為に――誰もが喜んでくれる結末を探してみても、浮かんでくるはずもない。ならば自分の望む道をせめて見つけられたらいいのだろうが、今の春にはそれすら掴めなかった。
「お前はどうしたい」
 父は苦しげに尋ね返す。台所に立つ姿は十六年間のうちでも数度しか見かけていなかったが、料理も意外と器用にこなす人だった。今も、拭いた食器をしまい終えた春に、茶を入れてくれている。急須を傾ける姿は思いのほか様になっていて、父が普段どんな仕事をしているのか、おぼろげにわかってきた。
 湯気の立つ湯呑みが二つ。父の隣でそれを見下ろし、春は昨日を振り返る。
 結局、兄に茶を点ててもらう機会はなかった。――いや、なかったと言い切るのは早いだろうか。でももう、ないような気がする。
「まだ、わかりません」
 春は俯いて、低く答える。急須の傾きが戻り、父から湯呑みを手渡された。両手で受け取る時、気をつけろよ、と言われた。忠告通り両手で持った。
 そのまま台所のテーブルに着く。
 夜八時、家の中はここ以外は物音もしない。ここも十分過ぎるくらい静かで、母が起きてくる気配もない。父が差し向かいの椅子に腰を下ろした音を聞いて、救われた思いになる。
 湯呑みの中身は春にはまだ熱い。息を吹きかける手間を惜しんで、放っておくことにした。
「……新さん、は、私にあの家へ、来て欲しいって思ってるみたいなんです」
 待ち時間のうちに春は切り出した。
 父はすぐに頷く。
「そうだな」
「でも……私にとってあの家は、知らない家だから」
 不思議なことだが、兄に初めて会った時は全く『知らない』という印象がなかった。もしかするとそれは、兄に会うより先に写真を見ていたからかもしれない。カメラを睨みつけたあの写真の顔を知っていたからこそ、兄を、堂崎新を知ったような気になっていた。
 本当に知っていたかどうかは――。
 そしてあの家のことも、知らされていた事実よりもはるかに知らなかった事実の方が多かった。しきたりに縛られたきょうだいは他にも、すぐ近くにいたのだ。
「怖い、です」
 春は思う。湯呑みの熱さを押しのけて、悪寒が走る。
「知らないこと、知らなかったことがたくさんありすぎて、怖い。これ以上知ったら引き返せなくなるような気もするし、でも怖いから目を背けていたいだけのような気もするんです。あの家のこと……私は知っていいのか、関わらない方がいいのか、わからなくて」
 今までは、関わらない方がいいと言われていた。
 兄と再会してその封印が解かれてからも、母は春があの家と関わることを嫌がっていたし、父もどことなく心配げだった。それでも兄が喜んでくれるのはうれしかったし、春自身も兄といて、幸せだった。
 横たわる真実から目を背け、手近な温もりに縋っただけの『幸せ』だった。
 そろそろ考えなければならない。兄といること。兄の望むこと。他の誰か、近しい人たちの望むこと。そして春が、自ら望んでいること。
 答えを見つけなくてはならない。
「新さんは」
 と、父は兄を――堂崎新を、畏まって呼んだ。
「お前が戻ってきたら、きっと幸せなんだろうと思う」
「でもあの家に、きょうだいでいたら、不幸せになるかもしれないんでしょう」
「……わからん」
 顔に刻まれた皺が深い苦悩を示す。萎れた声が後に続いた。
「わからない、としか言えん。今まではずっとそうだった。あの家には不幸せな歴史が続いていて、だからこそしきたりが生まれたのだろうし、今のご時勢でさえ守られようとしている。それはやむを得ないこと、だったのかもしれない」
 最後の言葉を口にした後で、父は申し訳なさそうに春を見据える。
「お前を悩ませているのも歴史どうこうよりも、しきたりそのものなんだろう。あんなものがあるからお前は、こんなに苦しんでいるのに……」
 では、しきたりが存在しなければよかったのだろうか。
 堂崎の母はそれを取り払ってしまう気でいるらしい。堂崎もまた然りだ。仲のよいきょうだいならば、凄惨な骨肉の争いを免れて、長く共にいられるのだろうか。
 春があの家に行けば、全て丸く収まるのか。
「双子、だから余計に、なのかもしれん」
 父は湯呑みに口もつけず、唇を結ぶ。
「たった数時間だ。それだけの差で、同じ日に生まれたきょうだいが引き離される。本当の両親と共に暮らせる真っ当な幸せから、たった数時間の差で零れ落ちてしまう。それは不幸なことだ……もう一人の幸せを目の当たりにしたなら尚のことだ」
 それからふと、細かい皺の目立つ瞼を伏せる。
「双子はな。先に生まれた方が下なんだ」
「……そう、なんですか。じゃあ私は……」
「ああ。新さんよりも早く、お前が生まれた。お前の方が先に、光に溢れた、眩しい世界を知ったはずだった」
 母親の胎内の記憶など十六の春にはあるはずもなく、漠然とイメージしてみるしかなかった。暗い、暗い場所から抜け出して、明るいところへ赴いていく想像は、しかし案の定というべきか、上手くいかなかった。その時自分は、光差す世界をどう思っただろう。
「なのに……」
 父は俯いていた。
「あの人――母さんと、話していたんだ。お前を引き取ると決めた時、お前をせめて不幸にはしないと。せめて真っ当に育ててやろうと。私も子供を一から育てるのは初めてだったし、あの人もそうだった。だから至らないところも多かっただろうが、お前は私たちにはもったいないくらいのいい子に、いい子すぎるくらいに育ってくれた」
 春は自分のことをいい子だとは思っていない。本当のいい子は嘘をつかないものだろうし、両親をこんなに思い悩ませたりもしないはずだ。春にあるのは他人の言うことを聞く従順さだけで、それは今も惰性のように機能し続けているし、次の命令を待ってもいる。
 誰か、私に『こうしろ』って言ってくれたらいいのに。
 兄ですら、春には身の振り方を選ばせようとした。答えろ、と言った。だから答えられなかった、のか。
「お前を幸せにしてこれたかどうかはわからん」
 そう言って、父は自嘲めいた笑声を漏らした。
「情けない話だが……自信がない。私はあの家のことをお前の頭に刻み付けて、かえって身動きの取れないようにしてしまったのかもしれない。それで今も、お前を悩ませている」
「そんな……」
「だが、お前には幸せになって欲しい。これだけは確かに、胸を張って言える」
 言葉とは裏腹な、弱々しい台詞だった。
 もうじき還暦を迎える父の、いつになく小さく見える姿を、春は物寂しい心で眺めた。父はやはり、答えをくれないようだ。どうしても自分で掴むよりほかないのだろうか。母は――ここで母に会わせて欲しいと望むのは、やはり逃避だろうか。
 やがて、温くなってきた湯呑みを手にしたまま、春はそっと打ち明けた。
「私、お父さんとお母さんと一緒にいて、不幸だったことはありません」
 父は何も答えない。
 春も、それしか言えなかった。

 部屋へ戻ると、携帯電話の背面ディスプレイがちかちかしていた。
 兄からのメールだ。
 昨日の出来事が出来事なだけに、何が書いてあるのだろうと春は怯えてしまったが、蓋を開けてみれば簡潔な文章があるだけだった。
 ――明日、会いたい。話がしたい。
 詳細に触れない内容がかえって焦りを煽り立てる。明日は月曜、約束をしようがしまいが兄とは顔を合わせることになる。憂鬱だった。答えも、明日までには出せそうになかった。
 兄は今、何を思っているだろう。知っているはずの相手のことが、今はちっともわからない。

 いいよ、と短い返事を送った後、春は部屋のカーテンを開け、外をそっと覗き見た。昨日で降り尽くしたのか、雨はもう降っていなかった。明日は傘が要らないだろう。
 明日のことを思った時、ふと誰かの面影が過ぎった。意外にも兄ではなかった。明日はその顔も見られるかもしれない。別にうれしいわけでもなかったが、何となく、それこそ逃げ道を探すように思ってみた。

 あの人、風邪引いてないといいけど。
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