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優しい嘘に呑まれないように(10)

「じゃあ、桂木さんを呼んでくるから」
 堂崎の母がそう告げた時、春はさっきの兄とのやり取りを思い出してぎくりとした。
 だが相手の方もすぐに気づいたらしく、すまなそうに言い直された。
「あ……そういう意味じゃないわ。ええと、あなたをおうちに送ってもらわなくちゃいけないと思って言ったの。それだけよ」
 ほっとしたのは束の間、春は間髪入れずにそれを拒んだ。
「いいです。私、一人で帰れます」
 そうでなくとも、ここで父と顔を合わせることに抵抗があった。今朝は嘘をついてしまったし――見え透いたものだとしても嘘は嘘だ。それに今は着物を着ている。
「父は仕事中、なんですよね? だったら別に……」
 春が尚も固辞しようとすると、堂崎の母は春の着物にちらと目を走らせた。
「だけど帰る前に着替えをしなくちゃいけないでしょう?」
「はい。でも、脱ぐだけなら私一人だって」
「そうじゃなくて、離れに行くのに案内が必要なんじゃない?」
 言われて春は、かもしれない、と思う。案内が必要なほどややこしい構造の家ではなかったはずだが、むしろ家を出て、庭を歩くのが難しそうだ。来る時は足元と着物の裾に注意を払うのが精一杯で、兄の付き添いがなければ歩くことすらままならなかった。そんな状況で離れの位置まで覚えていられるはずもなく、そのことに思考が行き着くと春も頷くより他なかった。
「そうですね……。あの、父は……」
 何を聞きたいのかわからなかったが、後ろめたさだけははっきり自覚出来ている。ぼそぼそと続けようとした春に対し、堂崎の母は優しく、宥めるように笑いかけた。
「大丈夫よ、桂木さんはちゃんとわかっているから」

 その言葉は本当だった。
 堂崎の母親がまたね、と気安い挨拶を残して部屋を出た後、五分と経たぬうちに養父は現れた。朝出て行った時と同じスーツ姿で、音もなくふすまを開けた直後の表情はやや緊張気味に、それでも春の顔を見た途端、ほっとしたようになった。
「……春」
 養父はまさに何もかもわかっているらしく、現れてからも多くは語らなかった。名前を呼んできた声は落ち着いていて、春は戸惑いながらも応じる。
「お父さん」
 この人をそう呼んだら、兄はきっと怒るのだろう。だが兄はここを去り、今はもういない。いつものように呼んでもいいはずだった。
 養父は一瞬、目を伏せた。それから小さく顎を引く。
「帰るか、春」
 普段からそう多弁な人ではなかったし、言葉の器用そうな人でもなかった。それでもこういう時は何か、もっと言葉が欲しいと思う。どんなものでもいいから。
 着物を着ていることにも、春がここにいることにも、何も言ってはくれないようだ。
「あの、私、嘘をついて……」
 ごめんなさいと言う前に、養父はかぶりを振った。白髪混じりの髪はきれいに撫でつけてあって、そのくらいの動作では崩れない。仕事のある日の髪型だった。
「それはいい。そんなことは気にしなくていい」
 そう言われて素直に気持ちを切り替えられるほど、春は大人ではない。むしろかえって悩ましい思いがした。叱って欲しかったのかもしれない。本当の父親なら、血の繋がった娘が嘘をついて家を出てきたことに、両親にも言えない場所へ出向いたことに、きっと怒ってくれるのだろうから――いや、何を考えているのだろう。春は慌ててその思考を追い払う。血の繋がりはなくたって、春の父親はこの人だけなのに。
 今日は考えさせられることが多過ぎた。一度に押し込まれて頭が締めつけられるようで、ぎちぎちと痛くなってくる。父が来てくれて気が緩んだせいかもしれないが、何だかどっと疲れを感じた。着物を着た身体が重い。
 言いたいことも聞きたいこともたくさんあったのに、もう口を開く気にならなかった。
 父も気が急いた様子で、春に部屋から出るよう促してきた。
「着替えを済ませなさい。服があるのは離れだったな」
「……はい」
「じゃあ、こっちだ」
 ここで働いているだけあってか、父は全く迷わずに廊下を進み、相変わらず人気のない勝手口まで春を通した。そこには雨カバーをつけた草履と兄のゴム長とが揃えて置かれていて、土間床には黒ずんだ染みが広がっていた。思わず春が唇を噛むと、不意に父が手を差し伸べてきた。
「掴まりなさい」
 父の手は皺だらけで、兄の手よりもずっとごつごつ、ざらざらしている。さっきまでどんな仕事をしていたのだろう、触れると驚くほど冷たかった。
 兄の感触を知るまでは、春の知るほぼ唯一の男性の手、だった。最近は触れることもなかったその手に掴まりながら、春は草履を履く。罪悪感が募り、履き終えた後はすぐに離した。

 雨上がりの外気はしっとりと重く、庭木の匂いも多分に含んでいた。
 そこかしこに出来た水たまりや、植え込みの抱える雨露を避けながら春たちは離れへと向かい、中へは春だけが立ち入った。さすがに父親と言えど、着替えをするところにはついてこない。外で待つと短く言われた。
 離れの部屋には春の着てきた洋服が丁寧に折り畳まれて置かれてあり、春は急いで重い着物を脱ぎ始めた。着替えながらもう一度、来た時から懐かしく思えた室内を眺め回してみる――鏡台のある辺りは言われてみれば、いかにも女性の部屋といったところか。年季の入った文机の前に母が座っている姿を想像してみようとしたが、話に聞いただけではまだ出来なかった。この家に母がいた、暮らしていたという事実すらまだ受け止め切れていない。
 本棚の本は外国のおとぎ話ばかりだった。シンデレラ、いばら姫、白雪姫にラプンツェル――母がそういう本を読むとは知らなかったし、読んでいる姿をイメージすることもやはり難しかった。
 ただ、似たような本ばかりだと思った。苦境にあるお姫様を、王子様が助けてくれる話。
 おとぎ話の中のお姫様は最後こそハッピーエンドでも、幕が開けてすぐは不幸な目にばかり遭っているものだ。そこに王子様が現れるまではちっとも幸せになれない。不幸せに囚われ、閉じ込められ続けている。それでも救いの手を辛抱強く待っていなければならない。
 この部屋に、この家のしきたりに囚われていた母の元には、王子様が来たのだろうか。
 それと、自分のところにもいつか、来るだろうか。王子様が。あるいは、救いの手が。
 少し考えかけて、だがすぐに止めた。自分はそこまで不幸ではないし、囚われても閉じ込められてもいない。両親を騙して家を出てこられるだけの自由と、この家を訪ねるかどうかの選択権くらいはあった。むしろ今日までの生涯を、母たちが辿ってきた道と比べて十分に幸せだと思わなければいけない。
 幸せだ。
 頭が痛くても、胸が痛くても、兄がここにはいなくても、自分は十分幸せなはずだ。
 春は本棚をじっと見据えた後で、再び身につけた私服のポケットを探る。携帯電話はそこにあった。着信もメールもなかったが、どうにか気持ちを奮い立たせた。帰らなきゃ。

 帰りは、裏口を抜けて外へ出た。
 もう日が暮れかけていた。雨上がりの夕方は空が奇妙な薄紅色で、思ったよりも肌寒い。
 堂崎の家の敷地から離れると、疲労感は一層強まった。ずっと息を詰めていたみたいに呼吸が苦しい。おまけに酷くくたびれていたから、春は足を引きずるように歩いた。その隣を父が、ゆっくりと付き添ってくれた。
 春が私服に戻ってから、父はやや緊張を解いた様子だった。とは言え普段から砕けたところをうかがわせない人だったから、家路に着いてからも会話は乏しかった。人通りの少ない住宅街を、二人でぎくしゃく通りゆく。
「疲れたか」
 歩きながら父は、春を目の端で見る。
 春も上目遣いに父を見た。ちゃんと顔を上げる気力はない。
「……はい」
「帰ったら少し休んだ方がいい。今日はまだ冷えるようだ」
「そうします」
 普通の家庭なら、親に対してこんな言葉遣いはしないものらしい。春だってそのことを知らなかったわけではないものの、今になって無性に物寂しさを感じていた。
 湿ったアスファルトの上、スニーカーの底がざらつく音を立てる。父の革靴の硬い音ととは噛み合わない。
「しばらく、休みを貰った」
 こつこつと足音の合間に、父のそんな呟きが落ちた。
 聞き違えたかと春が目を瞬かせれば、次の言葉も続いてきた。
「お前のせいじゃない」
 そう前置きして父は、もう一度目の端で春を見た。眼差しは優しい、だがどこか遠慮がちで、詫びようとしている風にも映った。春が歩きながら身構えると、父はやがて苦しげに告げた。
「……母さんが、体調を崩してる。さっき電話があった」
「え……?」
 ざわっと、全身が恐怖に震えた。
「それって、だ、大丈夫なんですか? どんな具合に……」
 即座に尋ねると、父は口元だけでようやく微笑む。
「心配は要らない。きっとすぐによくなる」
「で、でも」
「気にしなくていい。お前は……いいんだ、こんなことで苦しまなくても」
 父はどうしても春に心配をさせたくないらしい。その気持ちは推し量れたが、しかしよそよそしく思えて、くたびれきった春をかえって傷つけた。
「お前は悪くない」
 刻み込むように父は繰り返す。
「母さんもそう思っているし、ちゃんとわかってもいる。だから少しの間だけ、そっとしておいてやってくれ」
 そんな風に言われたところで、春は思ってしまう。気づいてしまう。
 ――私のせいだ。
 自責の念に駆られて、疲れきった頭は濁った答えを弾き出す。きっと母は春が堂崎の家に行ったことを知り、ショックを受けたのだろう。憤ったのかもしれないし、悲嘆に暮れたのかもしれない。古い記憶を甦らせて苦しんだのかもしれない。それでどうして春のせいではないと言えるだろう。
「私、お母さんに謝らないといけません」
 だがそう言っても、父は要らないとかぶりを振ってしまう。
「謝らなくちゃいけないことなんてない。……言ったとおりだ、自分のせいだとは思うな」
 ――でも、私のせいだ。
 自分が悪いのに謝ることも出来ず、叱られることもなく、どうしたらいいのかわからない。誰かに答えを貰いたい。こうしなさいと言って欲しい。誰かが強く言い聞かせてくれたら、今なら諾々と従える。
「……私、どうしたら」
 ぽつりと尋ねた春に、父はしばらく考えてから、やはりこう言った。
「何もしなくていい。お前は悪くない」
「嘘……」
「嘘じゃない。お前は、自分のことだけ考えてていいんだ。父さんたちのことは気にするな、考えなくていい」
 父は優しかったが、答えはくれなかった。
 そしてその優しさは、よすがを求める春をとうとう打ちのめした。
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