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優しい嘘に呑まれないように(8)

 自分でも不思議なほど、春は冷静だった。
 むしろ慣れていたという方が正しいのかもしれない。予想だにしなかった驚くべき事実やすぐには受け止められないはずの複雑な事情も、別に今に始まったことではない。堂崎家の歴史は世間の常識に照らし合わせて考えられるようなものでもなかったし、高校の友人たちが聞けば『おかしい、変だ』と顔をしかめそうな事柄も、春はこれまで幾度となく受容してきた。
 何もかも、元々普通ではなかったのだ。
 堂崎の家も、それから自分の――桂木の家も同じように。普通の家庭では考えられないような決まりごとがあり、血の繋がったきょうだいは一緒にはいられなかった。他人の不ふりをしていなければならなかった。その根源にはかつて何代も続いた憎しみ合い疎み合う血筋がある。そういう家で起きた出来事に、もはや何を驚く必要があるだろう。

 どうりで似ていると思った。春はじっと、母に似た人の声を聞き続ける。
「あなたも知っているでしょう。この家では、きょうだいは一緒には暮らせない」
 堂崎の母は語る。淡々と。
「そうやって何人も亡くなってしまったから――それがこの家に根づいた呪いなのか、それともただ偶然が続いただけなのかはわからない。でも、この家にはルールが出来た。きょうだいが憎しみ合わないよう、この家の子供は一人きりにする、というしきたりが」
 そこで彼女は溜息をつき、
「私たちは双子だった。私と妹は同じ日に、ほんの少しの時間の差で生まれた。私の両親――そうね、あなたたちにとっての祖父母はとても悩んだそうよ。生まれてしまったものはどうしようもない、だけどこの家を守る為に、ひいては生まれたばかりのきょうだいを守る為にも、あのしきたりは覆せない。それで、妹は養子に出されることになった」
 次第に表情が暗くなる。
「でも、貰い手がなかったの」
 細い目は空ろに畳を捉え、声からも力が抜けていく。
「堂崎の家で起きたことを、全てではないにしても、知らない人はこの辺りにはいなかった。そんな家に生まれた子供を快く貰ってくれる人もいなかったのよ。かといって誰でもいいわけではなくて、素性のしっかりした人でなければと両親は考えていたようだった。そんな都合のいい引き取り手なんてそうそう見つかるはずもなかった、だから――」
 春が身を竦めると、堂崎の母はわずかに視線を上げて、目元を和ませた。
 ただし次に口にしたのは、表情よりも重い言葉だった。
「あなたも今日、見たでしょう。あの離れは、私の妹の為に建てられたものだったの。この家に生まれたきょうだいを、しきたり通りにを引き離す為の部屋。そうして私はこの家の跡継ぎとして、妹はこの家に住んでいる『よその子』として育てられた」
 ほんの少し前までいた、あの部屋の光景が春の脳裏によみがえる。春にとっては初めて足を踏み入れた場所だったのに、なぜか懐かしい感じがした。多分、匂いだ。
 ――そういえば確かに、お母さんの匂いがした。
 春の『お母さん』は今でも、こうして堂崎の母親と顔を合わせている今も一人だけだ。その母の昔の話を聞いて、春は居た堪れない気持ちになる。あんな小さな部屋で、母は、小さな頃から張り詰めた表情をしていたのだろうか。双子の片方として、この家から必要とされないまま。
「私は、それでも妹を大切にしてきたつもりだった」
 堂崎の母親は弁解するように言ったが、直後、自嘲気味に呟く。
「……いいえ、私がそう思っていたというだけで、妹がどう感じていたかはわからない。後からならいくらでも綺麗事を言えるけど、あの頃は私、何にも出来なかった。妹に姉らしく接することも、あの部屋から出してあげることも出来なかった。出来るかどうか、試そうとすらしなかった」
 春はこっそりと兄の姿を思い浮かべる。走り去ってしまった兄の背中を、春は呼び止めることも出来なかった。しようともしなかった。
「妹は高校を出てすぐに、この家を出たの。結婚することになってね、桂木さんと」
 父の話が飛び出したので、春はどきっとした。
 養父母の馴れ初めなど知らなかったし、これまで聞こうとも思わなかったが、まさかこんな形で教えられるとは。
「桂木さんはその頃からここで働いてくれていて、とてもいい人だったから、誰も反対しなかった。二人とも、今だってとても仲がいいでしょう?」
「は、はい」
 返事に困った春が曖昧に頷くと、堂崎の母親は微かに笑った。
「妹は、その時が一番幸せそうだった」
 幸せそうな母の顔を、春はとっさに思い出せなかった。最近はずっと目にしていないような気がする。今、母を苦しめているのはこの家のしきたりだし、そして再び生まれてしまった双子の片方、つまりは春自身でもあるはずだ。
「皮肉なことだけど、私たちは離れてから初めてきょうだいらしくなれたようだった。この家にいる時以上に話をするようになったし、困った時は助け合うことも出来た。私が結婚して、あなたたちがお腹にいるってわかった時もそうだった。妹は私に救いの手を差し伸べてくれた。怖くて、震えてばかりでどうしようもなかった私に」
 今も、声は震えていた。
「二代続けて双子なんて、まるで恐ろしいめぐりあわせだもの……私一人では乗り越えられなかった」
 春も聞いていた。――自分と兄を身ごもったと知った時、堂崎の母親は迷ったという。この家ではきょうだいは、一緒にはいられないから。それはしきたりで決められているからというだけではなく、積み重ねてきた出来事がそうさせた。
 産まないという選択肢もあったのだろう。考えると少しぞっとする。
「私が産んだ子の一人を、妹は引き取ってくれた。この家の血塗られた歴史から守る為に。双子のどちらも不幸せになることのないように。私たちは約束をしたの、あなたたちを私たちと同じような目に遭わせないって。離れに住まわせて『よその子』の扱いをするんじゃなくて、どちらかしか本当の子供になれないんじゃなくて、どちらにも家があって、お父さんとお母さんがいて、幸せに暮らしていけるようにって……」
 堂崎の母親は事実をごく短く、掻い摘んで話しただけだったし、それだけで先代の双子がどんなきょうだいだったかを全て察するのは難しかった。
 ただ二人が、堂崎と春の幸せを願い、幸せであればいいと考えてくれたことは事実だ。
 そうして双子は別々の家で暮らすようになり、春は兄の存在を知りながらも特別何かを思うこともなく過ごしてきた。兄と出会うまでは――兄のお目付け役を堂崎家から頼まれるまでは、間違いなく幸せだったはずだ。優しい養父母がいて、帰る家があって、ごく普通の子供として暮らしていた。ついこの間まではそうだった。
 だが、春は一つの疑問を抱く。
 ――それって、本当に幸せだった?
 兄といた時間はいつでも、とてもうれしかった。毎日は話せなくても、あまり長く一緒にはいられなくても、繋がっていられたらそれだけでよかった。触れると温かくて、確かに全てが満たされるように思えた。兄から贈られた携帯電話に、電話の出来ない真夜中でさえも縋っていた。学校にいる時も常に兄のことが気になった。友達の会話に出てくる兄の名を、混ぜこぜになった思いで聞いていた。
 そんな生活も、兄と出会わなければ起こりえなかった。
 それら全部が存在しなかった、起こらなかった日々を想像する。――果たしてそれは、本当に幸せだろうか。何も知らなければ、兄といる時間を、兄の深い想いを知らないままだったら、それでも自分は幸せだったと言えるだろうか。
 もちろん、不幸ではなかった。養子の引き受け手がいなかったという養母とは違い、春には育ててくれる両親がいた。二人とも嫌々ではなく、心から慈しみ育ててくれた。なのに幸せでないと言ったら罰が当たるだろう。
 ――でも。
 春は思う。
 何だか、わからない。

「春さん」
 呼びかけられて、春は夢から覚めたように瞬きをする。
 堂崎の母親は少しの迷いを見せた後で、
「私たちのしたことが結果的にあなたを苦しめてしまったこと、謝らなくてはならないわね。……ただその前に、一つだけ聞かせて」
 意を決したように背筋を伸ばした。
「新は、あなたと一緒に暮らしたいと望んでいるわ。きょうだいらしく、家族らしくいたいって。さっきも言っていたでしょう、あの子は気の短いところがあるから、ついあなたを急かしてしまったけど」
 そこからは淀みなく、やはり淡々と続けてきた。
「でも、あなたはどうかしら? あなたは、新と一緒がいい? 一緒に暮らしたいって思ってる?」
 あまりにあっさりと口にされたので、ちゃんと聞こえたにもかかわらず、春は耳を疑った。
「……え?」
「わかってるわ。そうすることはしきたりに反する。よくないって言う人もいるでしょうね、だけど……」
 こくりと堂崎の母親が頷いてみせる。その時の表情は凛々しく、真剣だった。
「その方があなたたちにとって幸せなら。あなたたちが、一緒にいた方がいいと言うなら、考えるから」
 そして駄目押しのようにもう一つ、
「出来るかどうかじゃなくて、したいかどうかで答えてちょうだい。あなたの幸せの為なら、私も、それからきっと妹も、必ず力を尽くすから」
 と付け加えた。

 そんなこと、考えてもわからないのに。
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