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優しい嘘に呑まれないように(5)

「外、雨降ってるからな。気をつけて歩けよ」
 堂崎は春を離れの玄関に座らせると、靴下を脱いだその足に足袋を履かせた。
「自分で履けるのに」
 一応そうは言ってみたものの、兄が聞き入れないことはわかっている。むしろ先程から、妹を自分の手で着飾らせることに喜びを感じているようだった。これが堂崎にとっての、妹に対してする兄らしいふるまいなのかもしれない。
 真っ白い足袋を履いた足を見て、同い年の兄はふっと笑う。
「やっぱちっちゃいよな、お前の」
「普通だってば」
 クラスの友人といる時は、特別小さいとも思えない二十三センチ。春は自分でも足を見下ろしてみて、兄が笑うのを変だと思う。
「何がおかしいの」
 ストレートに尋ねてみると、堂崎は珍しく素直な照れ笑いを浮かべた。
「おかしいってより、うれしい」
「うれしい?」
「ああ。俺と何もかも違うのがうれしい、双子なのにちっとも似てねえのが」
 視線を落として春の片足を取る、堂崎の手は大きい。だがさすがに足を包んでしまえるほどではなくて、指先が土踏まずに触れるのが少しくすぐったい。
「顔見る前までは、何もかも俺そっくりだったらどうしようかって思ってたけど――」
 そこで堂崎は言葉を切って、今度は草履を下駄箱から取り出した。光沢のある白の皮草履に、雨対策と思しき透明なカバーがかけられている。
「これ履いてても油断はすんなよ。足袋には染みるぞ」
「え、大丈夫かな」
「だから気をつけろって。あと裾もな、撥ねるから」
「う、うん。頑張る」
 頷く春に、堂崎は草履も履かせてくれる。伏し目がちな表情を上から覗き込む格好になり、春はしばらく兄の長くない前髪と、その影が落ちたきれいな鼻梁とを観察していた。眉は整えられているが細過ぎず、睫毛もそれほど長くはない。目元は今なら涼しげと形容しても差し支えないものの、時々酷く冷たくなる。本当にちっとも似ていないのに、出会った時から彼を兄だと思えたのはどうしてなのだろう。血の繋がりはそんなにも強固で、確かで、揺るがないものなのだろうか。
「よし……っと。じゃあ立ってみろ」
 草履を履かせ終えた後、堂崎は春の手を掴み、春もそれに支えられながらゆっくりと立ち上がる。
「平気そうだな。そろそろあっち行くぞ」
 見上げる位置に戻ってしまった兄は、ここへ来る時に着ていたレインコートを春に着せ、しっかりとボタンも閉めてくれた。離れの戸を先に開け、春が持ってきた紺色の傘を差す。シャワーのような雨が途端に傘に降りかかって、ぱらぱらぱらと微かな音を立て始める。
 ここまでずっとされるがままだった春は、最後に一度だけ離れの室内を振り返った。古びた空間はもう明かりも消えてしまっていて、ひっそりとしている。懐かしいように思えた匂いも雨の匂いに掻き消されて、たちまち認識出来なくなった。

 離れを出た後は、また庭を少し歩いた。
 忠告通りに春は足元にも、着物の裾にも気を配った。同じ傘の下を歩く堂崎も相当気にかけてくれていたようで、ゴム長の歩き方は来た時よりも慎重だった。それでもぴちゃりと水音がする度にどきどきしながら歩いていたから、どこか扉の前に着いて、そのドアノブに堂崎が手を掛けた時には心底ほっとした。
「ここが勝手口だ」
 堂崎はそう言って扉を細く開けてから、春の顔を見てそっと続けた。
「今は誰もいないようにしてある。俺は傘あるから、お前先に入れ」
 誰もいないといっても使用人もいる広い屋敷だ、いないのはあくまで勝手口付近のみであって、中に入れば誰かしらはいるのだろう。春はやや緊張したが、兄に促されればまごついているわけにもいかず、恐る恐る中に立ち入った。
 勝手口から上がった先は廊下だった。左右両側に扉があり、五メートルほど向こうで突き当たって左に折れている。台所に出るのではと思っていたので、本当に人の気配がないことにほっとした。
 傘を閉じた兄も中に入ってくる。扉を閉めた後は傘を置き、春のレインコートを丁寧に脱がせてから、上がれよと告げてくる。春は頷いて履物を脱ぎ、揃えて、その後で足袋の無事を確かめた。どうにか真っ白なままだった。
「上手く歩けたじゃねえか」
 同じく足元を確かめて、堂崎がにやっとする。誉めてくれたのかからかうつもりで言ったのか、今の春には掴み取れない。
 頬や口元がぴりぴりする。帯を締めた背中の辺りも引きつっているようだ。
「ねえ」
 春はあえて兄を呼ばず、小声で尋ねた。
「本当に、大丈夫かな」
 妹の怯えを見て取った兄は、片眉を上げて答える。
「緊張することねえよ。ここはお前の家だ」
 念を押すように言葉を重ねる。
「今はそう思えなくても、いずれそうなる」
 その言葉に対しては、否定も肯定も出来なかった。

 人払いをしたのだろうか。二人で進んでいく廊下には全く物音がせず、また誰かとすれ違うこともなかった。それでも堂崎はいささか急ぎ足気味に歩いていたし、今になって急に着物の重さを意識し始めた春は、兄に遅れないようついていくのが精一杯だった。
 堂崎家の廊下は広く、兄妹が肩を並べて歩いてもまだたっぷり隙間があるくらいだった。扉があったのは勝手口付近だけで、しばらく行くと障子ばかりになった。そのうちの一つ、廊下が縁側に差しかかろうとした手前辺りの部屋を堂崎は開け、畳敷きの室内に春を通す。
 雨音がすぐ傍で聞こえる部屋なのに、中はほんのりと温かかった。床の間のあるその部屋はどうやら客間らしく、四畳半の真ん中辺りに四角い穴が開けられていて、茶釜がちりちり音を立てている。ここで火を熾し、湯を沸かしているようだ。
「ここでちょっと待ってろ。着替えてくる」
 室内を見回していた春に、堂崎が声を掛ける。ぎょっとした春は慌てて兄の袖を掴むと、思わず聞き返した。
「私、一人で待つの?」
 途端、堂崎には笑われた。
「馬鹿、何びくびくしてんだよ。おとなしく待ってろよ」
「わかってるけど……」
 不安を口にしかけた春を制するように、堂崎はその頭をぽんと軽く叩いた。ヘアピンのトンボ玉が揺れる、小さな音がする。
「すぐだから。なるべく早く戻ってくる」
 宥める声音で言われた。
 それだけで不安がなくなったわけではなかったが、気持ちはいくらか落ち着いた。ここまで来てしまったのは事実なのだから、びくびくしていても仕方がない。それよりもここでは、兄を困らせない方がいい。
 春は深呼吸してから兄の袖を離し、
「わかった。待ってる」
 自分でも情けないくらい、震える声を立てた。
 見上げた先の堂崎はいかにも困り果てた顔をしていたが、やがて溜息をついてから、やはり安心させるように笑ってみせてくれた。
「もし退屈なら掛け軸でも見てろ」
「見てもあんまりわからないよ」
 春がつられてちょっと笑えば、兄の笑い方も自然に和らぐ。
「でも茶道ってのはそういうもんだからな。ま、好きに過ごしてろよ」
 そう言い残して堂崎は部屋を出て行き、後には畳の上に立ったままの春と、ちりちり音を立て続ける茶釜とが残された。
 ――それと、背中が引きつるような緊張感も。

 堂崎の足音が聞こえなくなってから、春はもう一度だけ深呼吸すると、畳を踏みしめながら歩き出す。背筋を伸ばし、足捌きに注意を払いながら床の間の前に立つ。
 兄に答えて見せたとおり、山水画の掛け軸や枝垂れ柳と桃を飾った花入れの良し悪しはちっともわからなかったし、更に言えばあまり目にも入っていなかった。でもなるべく、鑑賞しているふりをしていようと思った。
 確証はない。
 だが、おぼろげに感じていた。
 視線か、あるいは人の気配か、誰かがすぐ近くにいるような空気。屋敷に足を踏み入れた瞬間から予感はあったが、この部屋に来た時により強く思った。静かな雨音と湯の沸く音だけでは覆い隠せていなかった。
 誰かいる。
 誰かが私を見ている。
 正体ははっきりしないが、その空気はかつての記憶を呼び覚ます。押し殺した呼吸と傍にいるはずの、じっと身じろぎもしない気配――桂木の父が幼い春に、堂崎家の話を語り聞かせた時とよく似ていた。母はいつも父と春の話には加わらず、隣の部屋で話が終わるのを待っていたようだった。母がはっきりと言ったわけではなかったが、幼い春にも、母がと隣室にいることはうすうす察せた。
 あの時と今は、同じ空気だ。
 春は掛け軸を見つめながら、何とも言えない複雑な思いを抱く。誰が、どんな意思を持って自分を気にしているのかはわからなかったが、ここでも兄と二人きりの時間にはならないのだろう。兄妹でいることも、もしかすると許されないのかもしれない。

 外は大分明るくなっていて、もうじき雨も上がりそうだった。
 障子越しの弱々しい光を頬に浴びながら、春もいつしか息を潜めていた。
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