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この声は聞こえていますか?(6)

 時々、奇妙な夢を見る。
 内容はいつもほとんど同じだ。初めのうちは少し昔の記憶を組み立て直したもので、終わりの方は知りもしない、想像だけで作られた夢。

 春が自らの出生を知ったのは、小学校に上がって間もない頃だった。
 父親は幼い春にもわかるように、丁寧に説明してくれた。自宅の居間で、差し向かいで座らせて話をした。あの頃の記憶はいつも一続きになって甦る。正座をしていた足に残った畳の跡と、隣室にいる母親が息を殺している気配と、緊張に強張る父親の、当時から皺だらけだった顔。
 話の内容は今になって思えば、酷く直截的だった。父親はずばりと言った、春と両親には血の繋がりがないこと、春の生みの親はこの街に住んでいること、けれどその人たちとはもう一緒に暮らせないから、桂木の家に引き取られてきたということ。――六歳そこそこの春にはわからない話も多かった。『血の繋がり』がどういうものかがまずわからなかったし、両親が本当の親ではないとか、他に親がいるのだとか、初めはちんぷんかんぷんで聞いていた。お蔭で悲しむ暇がなかったのが幸いだった。
 父親は根気よく、春がわかるようになるまで繰り返し繰り返し話した。一日で全てを教え、理解させることは出来なかったから、日課のように毎日言い聞かせた。

 堂崎家は江戸時代から続く豪商であり、藩からも掛屋として重用されていたという。世が明治に移ってからは銀行の経営者一族として名を馳せ、この地で栄華を極めてきた。先代の当主が――堂崎新の祖父に当たる人物が病に倒れて以降は経営から退いたものの、いまだ大株主として影響力を保持しているらしい。表向きは何不自由のない、恵まれた家系に見えた。
 しかし、家の中では絶えず争乱が芽吹いていた。代々の当主が蓄え続けた財産は人の目を眩ませ、心を蝕み狂わせた。あの家に生まれたきょうだいが争わなかったためしはなく、争いは大抵の場合、誰かの謎めいた失跡や死によって幕を引かれた。もちろん仲のよかったきょうだいだっていた、だが彼らもそれぞれの配偶者や友人に唆されれば血を分けた相手と戦うことを選ぶ。そうして何代も続いた災厄の歴史に、しきたりという楔が打ち込まれることとなった。
 血縁者でさえ憎しみ合うしかないのなら、堂崎の家を継ぐ者は孤独になるよりほかなかった。

 歴史の話も小さな春には難しかったが、叱られないようにじっと聞いていた。昔のことなんてちっともわからなかった、でもそれ以上にわからないのは、きょうだいなのに争い合う人たちのことだった。春にはきょうだいはいない、でも小学校の友達にお姉さんのいる子がいて、その子は歳の離れた、きれいで優しいお姉さんのことをとても好きらしくて、事あるごとに得意満面で自慢していた。だから春にもきょうだいとはとても大切な存在だと知っていたし、大切な人と争うことがあるのが不思議だった。
 父親が話の途中で湯呑みに手を伸ばした時、思い切って聞いてみた。
 ――どうしてその人たちは、きょうだい同士で争ったりしたのですか。
 大人の話に口を挟んではいけないといつも言われていたのに、その時は不思議と怒られなかった。父親は寂しげに春を見据え、短く答えた。
 ――彼らにしかわからない話だ。あの家にはお金がありすぎた。
 それから父親は、でも、と続けた。
 ――でも、春。お前がうちに、桂木の家に来たことであの家は救われる。争いにはならないし、憎しみを持つことはないだろうし、誰も亡くなったり、姿を消したりしない。皆が平穏に暮らしていける。だからずっとここにいるといい。私たちの娘でいるといい。
 淡々と、娘を慈しむ目で語りかけた。
 ――私たちはお前を本当の娘だと思っている。ここにいる限りは不幸せなことも、悪いことも起きはしない。お前はあの家に戻ってはいけないんだ、わかるだろう?
 春だって、初めて名前を聞いたばかりの家に戻りたいとは思わなかった。話を聞いた後でも春にとっての両親は桂木家の二人だけだった。お父さんとお母さんの子でいたい、とそれだけは強く思いながら、頷いた。
 ――はい。私も、お父さんとお母さんのお傍がいいです。
 すると父親は皺の深い顔をわずかに緩めて、肩の荷が下りた様子でようやく、一番肝心なことを打ち明けた。
 ――春、もうわかっているかもしれないが、あの家には今、お前のお兄さんがいる。
 ――お兄、さん?
 ――そうだ。お前の、双子のお兄さんだ。

 しきたりの楔は十六年前、母親が迷い、悩みながらも産んだ双子の絆を引き裂いた。
 雪の降る元日の未明、先に生まれてきたのは春で、その数十分後に堂崎新が生まれた。双子は先に生まれた方が下と決まっていたから、兄妹はそこで命運を分かたれた。春は母親に抱かれることなく桂木家に引き取られ、そのまま育てられた。
 春に名前をつけてくれたのは、実の母親だった。事実を教えられるまで春は、冬生まれなのに『春』という名前であることを不思議に思っていたが、父親から実の兄の名を聞いた時、込められていた意味を知った。

 ――お前のお兄さんの名前は、新という。新と春、二人で新しい年の始まり、という意味になる。

 それは引き裂かれた兄妹に唯一残された、割符のような絆の証だ。

 初めて話を聞いた日から、春は怖くて怖くてしょうがなかった。
 堂崎の家に戻る必要はない、父親からもそう言われていたが、それでも考えてしまう。もし万が一あの家に足を踏み入れるようなことがあったら、例えばおつかいの最中に道がわからなくなって、あの家にふらりと迷い込んでしまったらどうしよう。途端に不幸なことが起こるかもしれない。酷い目に遭うかもしれない。自分は名前しか知らないお兄さんに見つかって、憎まれて、殺されてしまうかもしれない。根拠もなくそんな考えに囚われては、布団の中でがたがた震えていた。
 小学生になった春にはもう一人部屋が与えられていたが、怖くて眠れない夜には両親の寝室を訪ねていった。両親も娘の怯えをわかっていたのだろう、叱りもせず寝床に入れてくれた。母親の胸は温かくていい匂いがして、反対側に寝ている父親もずっと自分を見守ってくれていて、安心して眠りに就くことが出来た。
 だが、十六になった春には逃げ場がなかった。もう両親の布団には潜り込めないし、その両親との間には見えないひびが入りつつある。学校の友人たちには事実を何一つとして打ち明けられなかったし、実の父親に会った時、自分の話をするのは気が引けた。寂しさ、恐怖、罪悪感、鬱屈。様々な気持ちを一人で抱え込んだまま、誰にも言えないままで日々を過ごしている。
 そんな時にこそ一番傍にいてほしい人は、悪い夢の中に現れる。

 古い記憶をなぞり、辿る夢の終わりで、春は兄の姿を見る。
 ずっと、会いたいとは思っていなかった。小さな頃は純粋に恐怖の対象だったし、もう少し大きくなってからも、会わない方がいいのだと考えていた。あの家を不幸にしてはいけない、兄を不幸にしてはいけない。お互いにきょうだいなんかいなかったと思っている方が幸せなはずだった。
 なのに、堂崎は春の存在を知った。
 春は堂崎に会う為だけに、あの名門校へ進んだ。
 兄は傷ついている。そして自分を求めている。そのことをわかっていたから春は、兄といる時間を作った。兄の望む限りは傍にいるようにした。
 その事実が夢の中では反転する。兄は春のついた嘘を知り、春が堂崎の父と繋がっていたこと、自分のお目付け役を務めていたことを知り、怒りに任せて春を突き放す。写真の中で見たあの冷たい眼差しを双子の妹に向け、容赦のない声で罵る。
 ――お前も皆と同じだ。お前なんか要らない。
 言われたこともない言葉を、春は、兄の声で再生出来た。
 後に続くのも想像だけで作り上げた光景だ。春は立ち去ろうとする兄の背中にしがみつき、腕を掴み、振り払われて地面に転がっても尚追い縋る。捨てられるのが嫌で、必要とされないのが嫌で、必死になって兄を捕まえようとする。引き止めようとする。心の底から求める。
 そうして何度目か、兄の背に手を思い切り伸ばした時に気づくのだ。
 自分の手にナイフが握られていることを。
 夢だから、驚くほど簡単に突き刺さる。
 夢だから、兄は声も上げない。血も出ない。ぶつかった時の衝撃も、刺された兄が倒れる音も、臥した兄に触れた時の体温もまるで感じられない。もう振り払われることのなくなった腕を掴んでも、広い背中に縋り揺さぶっても、温かくない。冷たい。
 無音の世界には場違いな悲鳴だけが聞こえる。けたたましい悲鳴は春の鼓膜を震わせ響き、やがてそれが本物の、自分の口から放たれているものだと気づいて――。

「――春、春っ! どうしたの!?」
 引きつった声に呼び起こされて、春はようやく目覚めた。
 とっさに起き上がると、部屋のふすまが開いている。そこに立つ母親の姿が暗がりの中でかろうじてわかった。それから自分の身体が汗ばんでいて、呼吸が乱れていることも。
「お、お母さん……」
 応えた声も荒れていた。喉が痛む。やはりさっきの悲鳴は夢ではなく、本物だった。
「夢を見たの?」
 部屋の中には入らず、ふすまの隙間越しに母は尋ねる。その頃にはもう完全に意識も覚醒していたから、急いで詫びた。
「ごめんなさいお母さん、私、寝惚けていたんです」
「……そう。びっくりしたわ」
「ごめんなさい」
 もう一度謝ると、母は首を横に振る。
「何でもないならいいのよ。おやすみなさい」
「驚かせてごめんなさい。おやすみなさい、お母さん」
 どんな夢を見たのか、なぜ悲鳴を上げたのかも追及せず、母はふすまを閉めてしまう。
 一人取り残された春は握り締めていた携帯電話を開き、今の時刻を確かめる。――午前二時。気味の悪い丑三つ時。
 ぐったりと布団に身を横たえ、携帯電話を閉じた後も、その滑らかな表面を見つめた。暗いところでは桜の色をしていない。今時分は兄も寝ているだろうから、かけたところで繋がりもしない。でも、話がしたかった。声が聞きたかった。兄に自分の悲鳴が届いて、ここへ飛んできてくれたらいいのに、と身勝手なことを思ってみる。

 夢の中ではいつも、春が堂崎を殺そうとする。
 それは実に衝動的なもので、憎しみはおろか殺意さえ曖昧だった。ナイフを手に取ろうと思うことは、夢の中でさえなかった。本当にそうする日が来るとも思わない。たとえ突き放されても嘘を糾弾されても、そうしたいとは望まない。絶対に。
 ただ、兄が傍にいない時は、迷ってしまうことがある。

 この再会は、果たして正しかったのだろうか。
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