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この声は聞こえていますか?(2)

 放課後を迎える頃には、大粒の雨が降り出していた。
 教室の窓に音を立ててぶつかってくる水滴。ガラスはほんのり曇っている。厚いコートを着てきてよかったと春は思う、外はいかにも寒そうだ。
 学校を出たらあの公園へ行こう。今日は堂崎が電話をくれると言っていた。

「春、がっちり着込んできたんだね」
 コートのボタンを喉元まで留め、屋外の気温に備える春に、静乃が声をかけてきた。少し羨ましそうにしている。
「私も冬のコート、もうちょっと取っておけばよかったな。最近暖かかったからクリーニングに出しちゃった」
 そう続けた静乃は、制服の上に長めのカーディガンを羽織っただけ。確かにこれでは心許ない。
 もっとも静乃はバスで下校する為、徒歩で帰る春とは防寒対策への気構えも違うのかもしれない。他には温子もバス通学で、今日は静乃の塾もないから二人で帰るとのこと。美和は既に部活に行っているから、そういう時、春は静乃たちとバス停まで一緒に歩くことにしている。
「天気が悪くなるとまだ寒いよね」
 春は首を竦めて答える。コートを着ていたとしてもこんな天気の日には長く電話も出来ないだろう。堂崎もあれで心配性だから、風邪を引く前に帰れと言いそうだ――兄の反応を想像して、既に浮かない気分でいた。
「早く暖かくなって欲しいな、春休みが寒いのは寂しいもの。ね、温子」
 おっとりと笑う静乃の左隣、いつも明るい温子は答えない。
「温子?」
 名前を呼ばれても彼女は無言だった。そして教室のある一点を見つめている。横顔がいつになく真剣なことに気づき、春はその視線を追う。
 温子が注視していたのは、男子生徒の大きな背中だ。――カバンを脇に抱え、誰と話すでも挨拶するでもなく騒がしい教室を出て行こうとする堂崎新。
 なるほど、と春が思った拍子、堂崎がふと足を止めた。
 戸口からこちらを振り返る。
 何気ないそぶりだった。朝と同じように春を探したのかもしれない。
「あっ」
 温子が小さく声を上げる。それが聞こえたかどうか、すぐに堂崎はそっぽを向いて、今度こそ本当に教室からいなくなる。春は目を合わせる暇もなかったし、その時の堂崎の表情を確かめることも出来なかった。探してくれたのかどうかすら掴めなかった。
 その代わり、友人の上気した顔は存分に眺められた。
「ねえねえ、今の、今の見た?」
 ようやく春と静乃に目を向けた温子は、小声ながらも興奮を隠しきれない様子で尋ねてきた。
「堂崎、私のこと見てなかった? ちょこっとだけだけど、横目で、ちらっと」
「……堂崎くんが?」
 静乃がその名前を口にする時、温子とはまるで違うトーンになる。当人がもう教室にはいなくても怯えているみたいだった。そして判断を仰ぐように春に視線を投げかけてきたから、春は自信のない言い方で答える。
「見てた、かもしれない。こっちは向いてた」
 たちまち温子の目が輝いて、
「そうだよね! 見てたかも、私のこと見てたかも……!」
 うれしくてたまらない様子で息をつくから、春と静乃も顔を見合わせ、小さく笑う。春は今のところ恋愛をしたことがないし、温子以外の、美和や静乃からその手の話を聞いたこともない。だから温子の『恋する女の子』らしい態度は物珍しくもあるし、おかしくもあるし、微笑ましくもある。
「やっぱりプレゼントがよかったのかな。誕生日と、バレンタインにもあげたし、名前覚えてもらえたのかも!」
 温子はぴょんぴょん飛び跳ねながら、落ち着かない感情に任せて語る。
「それにほら、来週じゃない! 来週にあるじゃない!」
「来週? って何のこと?」
 急に来週と言われても、春はさっぱり閃かない。一方静乃はすぐに察したらしく、笑顔で説明を添えてきた。
「ホワイトデーだよ、春」
「……ああ、そっか」
 なるほど。春が内心で唸っていれば、
「どうしよう! お返し貰えちゃったらどうしよう! 何かもう今からどきどきしてきちゃった、来週まで心臓持たない!」
 明るい色の髪を振り回して温子がじたばたし始める。その姿が小動物みたいに可愛かったから、春はなぜか無性に責任を感じた。
 妹として、兄には確かめておくべきかもしれない。温子をぬか喜びさせるのは悪い。目が合っただけでこんなにも喜んでくれているし、こんなにも強く好きになってくれているのだから。
 それにしても。
 ホワイトデーを忘れているなんて、自分はあまり可愛い女の子ではないみたいだ。春はこっそり苦笑した。

 そして外履きのローファーの中には、折り畳んだ紙が押し込まれていた。
 生徒玄関で靴箱を空けた瞬間に春は気づき、その時はまだ興奮気味の温子と彼女を宥める静乃とに見つからないよう、素早く手の中に隠した。握ったその手をコートのポケットに差し入れ、拳を開いて紙を落とす。
 見なくてもわかる。絶対に、堂崎からだ。
「来週までなんて待ちきれないよー、まだ木曜なんだよ!」
「そんなこと言ったって時間は早く進んだりしないよ」
「進んでよ、むしろ誰か進めてー!」
「無茶言わないの」
 ホワイトデーの話題に終始する二人を横目に、春は落ち着き払って靴を履き替える。そうしながら兄からの手紙の中身を想像する。まず間違いなく今日の約束についてだろう、急がない用事なら電話で話せばいいのだから――となるとこの手紙は、なるべく早めに目を通しておくべきかもしれない。
「ねえ春、温子が無茶を言うの。時間を早く進めて欲しいんだって」
 カーディガンの前を引き合わせるようにして、どことなく寒そうな静乃が訴えてくる。春はつい吹き出した。
「それは無茶だね」
「ほらー。春だって言ってるよ」
「じゃあ私どうしたらいいの? 心臓ばくばくのままで一週間待てって言うの?」
 確かに温子の動じぶりでは、一週間待つのは辛いだろう。ホワイトデーは来週の土曜日。正しくは九日間も待たなければいけない。
「待った分だけ、いい結果が出るといいね」
 とりあえずそれだけは、心から告げてみた。
 温子は一瞬きょとんとして、それから満面の笑みで頷く。
「……うん」

 実のところ春は、兄に誰か好きな人がいるとは思っていない。
 双子だからというわけではないが、わかる。女の子に限らず、誰もいないに違いなかった。兄が春のことしか見ていない事実も、春もまた同じように、兄しか見ていない現実もわかっている。
 堂崎が誰かと付き合う、という想像も出来ない。たとえそれが温子であろうと、あの兄の隣にそういう意味合いで誰かがいる場面はまるで思い浮かばなかった。他の女の子と話をしているところを見たことがないから、当然かもしれない。
 でも、兄に誰か好きな人が出来ても、嫌ではないと思う。決して。
 それどころか、誰か好きな人がいてくれたらとさえ思う。自分が十分過ぎるほど愛されていることを春は知っていたから、その分の兄の幸せと心の平穏を願っている。春は堂崎の妹だが、『堂崎春』には戻れない。そのことを堂崎はまだわかっていないのだ。

 静乃や温子とは、高校近くのバス停前で別れた。
 そこからしばらくいつもの道を歩いた後、角を曲がって、バス停からはどうやっても見えない辺りでようやく足を止める。
 紺色の傘の下でポケットから取り出した手紙を開く。傘の色を映したメモ用紙には、思った通りに兄の字で、メッセージが記されていた。
 ――今日は雨で寒いから、外で電話は禁止。図書室で待ってるから来い。
 図書室、という単語に思わず目を瞠る。どこの、とわざわざ示していない以上は高校の図書室を指しているのだろうが、素行不良の兄と静かな図書室とは相容れないもののようにも思えたし、待ち合わせ場所に校内を指定してくるのも初めてのケースで戸惑う。
 今までは外で会うことや、春の家に堂崎がやってくることはあっても、高校の中で話をしたことはなかった。クラスメイトとしてすらなかった。もし誰かに見られたら、不安はある。
 春は困惑しながらも、ひとまず手紙を丁寧に畳み、再びコートのポケットにしまった。
 傘を叩く雨音に急かされながら、高校へ戻る道を歩き始める。静乃たちがまだいるかもしれないバス停は迂回して、それでもなるべく近道をして。
 堂崎はもう図書室で待っているはずだ。九日間と言わず少しの時間でも『遅い』と言う兄だから、きっとさっきの温子以上にそわそわしているに違いない。急がなければいけない。
 ローファーが水を跳ね上げ、靴下に冷たく染みる。折り畳み傘の重みが春を引きとめようとしたが、構わずにひたすら走った。
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