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携帯電話を握り締めて眠る夜(4)

 二人が行くのはいつも同じ喫茶店だった。
 閑静な住宅街の一角にひっそり立つその店は、夕方ともなれば客はほとんどいなくなる。それでも堂崎の父は一番奥の、窓から離れた壁際の席につく。そして春にも向かい合わせに座るよう勧めてくる。
 店内にはコーヒーの豊かな香りが溢れていた。カウンターの奥にある焙煎機はマスターの自慢の品で、日替わりで提供されるブレンドが看板メニューだ。堂崎の父はいつもこれを注文している。春に対しては好きなものを頼みなさいと言ってくれるのだが、夕飯を作って待っている母のことを思えば、食べ物をオーダーする気にはなれない。だから春も、いつも同じ日替わりブレンドを頼んでいた。
 中学生の頃までは、コーヒーの味がよくわからなかった。堂崎の父と会うようになり、この店に連れてきてもらうまでは、砂糖とミルクをたっぷり入れなければ飲めなかった。今ではブラックしか飲まない。この店のコーヒーが美味しいことを、春はよく知っている。
「少し、痩せたかな」
 堂崎の父が春を見て、遠慮がちに尋ねてくる。二人で会うようになってから一年が過ぎていたが、距離の取り方にはお互いに慣れていないようだった。堂崎とはあんなに早く打ち解けられたのに、奇妙なものだ。
「きっと期末考査があったからだと思います。勉強をするのに忙しかったから」
 春が答えると、堂崎の父は微かな苦笑いを浮かべる。
「そうか。君は偉いな」
「そんなことはありません」
「いいや、新が『勉強に忙しい』なんて口にしたことはないからな。春さんはいい子だ」
 誉められるとどう反応していいのかわからず、春はコーヒーカップを持ち上げる。何度か息を吹きかける間に、この場合の模範解答を考え直してみる。
 もう一回謙遜しておくべきだっただろうか。そういう態度はあまり可愛くはないだろうが、この人の前で子供でいる必要はないのだ。きちんとしていなくてはならない。

 初めて会った日からずっと、春は堂崎の父親が苦手だった。
 いい人だとは思っている。父の――養父の雇い主で、失礼があってはいけないと両親から繰り返し繰り返し言い聞かされていたから、さぞ厳格で堅い人物なのだろうと想像していたが、話してみればごく普通の『父親』だった。車を自分で運転してくるのにも驚かされたが、春に対する態度の優しさ、物腰の柔らかさもまた意外だった。堂崎の素行を憂い、鬱屈を案じ、尽くす手の全てを拒絶された彼が縁を切った娘に縋るまでの葛藤は、春にもいくらか察しがつく。会うべきではない娘に接触せざるを得ないほど、父親は堂崎を愛しているのだろう。
 春が苦手だと感じるのはその人柄についてではなく、この関係についてうすぼんやりと抱く恐怖にある。
 里子に出されたそもそもの要因たるしきたりは、現代日本の法にそぐわず非現実的だ。そして堂崎家の歴史は性質の悪いおとぎ話のように不気味だった。本当なら父親だった人と相対することで、そういった得体の知れないものとも対峙しているような気さえして、春はいつも落ち着かない気分になる。

 向こうが春のことをどう思っているのか、正確なところは推し量れない。
 ただ堂崎の父の態度には、どことなく贖罪めいた優しさが窺えた。
「試験期間中はあまり食べられなかったのかな。もしお腹が空いているなら、好きなものを頼んでもいいんだよ」
 彼はそう言って卓上のメニューを手に取る。小さな店らしい手作りのメニューには、ケーキやパフェの写真が彩りよく貼りつけられていて、どれも美味しそうに見えた。春も甘いものが嫌いなわけでは決してない。だがどうしても、食べて帰るわけにはいかなかった。
「母が夕飯を作ってくれているので、結構です」
 春が固辞したので、堂崎の父は残念そうにメニューを戻す。
「あまり遠慮しなくてもいいのに。君にはいつも感謝してるんだ」
「お気持ちだけで十分です。こちらこそ、父がいつもお世話になっています」
「……ああ」
 会話が途切れた。
 同じタイミングでコーヒーを飲む、気まずい空気。
 糸口を探すのは堂崎の父の方が早く、春が思案に暮れるうちに言われた。
「ところで、新のことだが」
「はい」
 本題に入ってくれたことに、失礼だと自覚しつつも安堵する。春はカップを置いて背筋を伸ばし、堂崎の父は口調も面差しも穏やかに言葉を継いだ。
「茶道の件は、君から言ってくれたようだね」
 今日は水曜日だ。堂崎は今頃、茶道の稽古に励んでいるのかもしれない。
「あ……はい。新さんにお話ししました」
「そうだろうと思ったよ」
 答えを聞いた堂崎の父はほんの少しだけおかしそうにして、
「新は相変わらず君の言うことだけは聞くんだな。急に熱心にやり始めたから、驚いたよ」
 春もつられて軽く笑う。
「でも学校の授業や生活態度については、なかなかお願いするのが難しくて」
「それだって以前よりはずっといい。春さんのお蔭で、あいつは留年だってせずに済んだ」
「多分、お願いの仕方の問題なんだと思います」
 兄について堂崎の父に話す時、やけに他人行儀な物言いになってしまう。この人の前でさえ、春と堂崎は双子の兄妹ではいられなかった。
「新さんが茶道をやっている姿を見てみたいって言ってみたんです。きっと格好いいだろうって思いましたから。そうしたら……」
「それでか。どうりで」
 堂崎の父はどういうわけか照れたような顔をした。意外な表情に春が目を瞬かせると、いかにも意味ありげに続ける。
「あいつは今、君に格好いい姿を見せたくて、とても頑張っているところなんだ。それがどんなことか、私が言ってはいけないだろうから黙っておくけどね。君も知らないふりをしていてくれ」
 どうやら兄は、春の為に何かをしてくれようと努力を始めているらしい。そういう気持ちは無論うれしいのだが、誕生日には携帯電話を貰ったばかりだ。自分が兄を欺いていることを考えれば、兄の健気さには引け目を覚えてしまう。
「はい。もちろんです」
「うん。それでもし、新が君に、その姿を見せられる日が来たら――」
 話の途中に生じたわずかな間。堂崎の父はその時、胸中を隠すように目を伏せた。
「なるべくたくさん誉めてやって欲しい。無理を言うようだが、私の分まで」
「わかりました」
 春は素直に承諾した。
 それから兄の日々に思いを馳せる。――こんなに案じてくれている父親のことを、堂崎は激しく憎んでいた。堂崎にとってはあの古いしきたりこそが全ての歪みの元凶であり、それに与する者たちも等しく敵であると見なしているようだ。
 だがそれを言うなら、堂崎に隠れて父と会い、さも偶然のように再会を果たした春はどうなるのだろう。春もまた、しきたりに従順に与する者の一人だ。大切なはずの兄に罪深い嘘をついている。

 堂崎の父親とは小一時間ほどで別れた。
 帰りも自宅まで送り届けてもらい、春は丁寧にお礼を述べた。
「送ってくださってありがとうございました」
「気にしなくていい。こちらこそありがとう」
 運転席から振り返った堂崎の父が、また気遣わしげな声を零す。
「君には悪いが、また頼むよ。次は来週の水曜か、土曜か……近くなったら連絡しよう」
「わかりました。お待ちしています」
 あくまでも折り目正しく答えた春は、車を降りた後、すぐに家の中に入った。黒のセダンは春を下ろした後もなかなか走り出さないので、見送らない方がいいのだと察していた。かといって家の前で話を続けるのも、養父母を不安がらせるだけだ。
 自宅には既に春の父親が帰ってきていて、母親ともども気を揉んだ様子で娘を出迎えた。
「春、お帰り。あの方に失礼はなかったかい?」
 父親の問いに春は即答する。
「はい。きちんとご挨拶もしてきました」
 夕飯の支度は配膳まで済んでいた。小さな居間のテーブルには三人分の食器が几帳面に並んでいる。そこに春が目をやれば、すかさず母親は言う。
「今日は春の好きなシチューにしたの。すぐお夕飯にするから、楽な格好に着替えていらっしゃい」
「ありがとうございます、お母さん」
 春の返答に両親が表情を明るくする。家の中の空気は和やかで、出がけの緊張感が嘘のようだった。春は両親を不安がらせない為にも、大急ぎで自室に戻り、部屋着に着替えた。

 帰宅後もそんな風にばたばたしていたから、貰っていたメールへの返事は遅れてしまった。
 夜も更け、布団の中で開いた桜色の携帯電話は、放課後とはまた別のメールを受信していた。
 ――帰ってるなら返事くらい送れ。心配してんだぞ馬鹿。
 送信元は当然のように堂崎だ。その文面と、メール自体がそれ一通だけで留められていた辺りが兄らしい。返事を大分待たせてしまったから、きっと今頃はやきもきしていることだろう。
 春はメールの文章を考えるのが苦手だった。でも兄と話したいことはたくさんあったし、心配かけたことを申し訳なく思っている。そして心配してくれる人がいることをうれしくも思う。
 今日はとてもくたびれていたが、考えることが多すぎて頭も重く痛んでいたが、お詫びのメールだけは送っておかなければいけない。
 ――心配してくれてありがとう。ごめんね、お兄ちゃん。
 そう送った数分後に堂崎からの返信があった。無事ならいい、次からは気をつけろと短くまとめられていた。春はそのメールを開いたまま携帯電話を閉じ、目も閉じる。

 春にとって一番確かなよりどころは、兄よりも小さな手の中にある。
 縋るように握りしめたら、不安も痛みもふっと掻き消えた。今は繋がっていられるだけでも幸せだった。
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