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携帯電話を握りしめて眠る夜(3)

 結局、堂崎は帰りのホームルームまでおとなしくしていた。
 挨拶の後はすぐに教室を飛び出してしまったが、ひとまず春はほっとする。これが水曜日だけでなく毎日ならいいのにとも思いつつ、兄の変化を心から喜んでもいた。

 堂崎がいなくなった後の教室は、放課後らしく賑わっている。
 帰り支度を始めた春のところにも、温子がぱたぱた駆け寄ってきた。
「春、これから暇? 空いてたら本屋さんついてきてくれない?」
 傍らを、美和が片手を挙げて通り過ぎていく。彼女はこれから部活で、後に続いた静乃は塾がある。帰宅部で習い事もないのは温子と春だけだったが、その春も今日は暇ではなかった。
「ごめん。今日は早く帰らなきゃ駄目なの」
 手を合わせて詫びれば、途端に温子は寂しそうな顔をする。
「えー、そうなんだ……」
「ごめんね。家の用事があって」
 その答えは半分嘘で、半分本当だ。どちらにしても友人からの誘いを断るのは本位ではなかったから、申し訳なく思う。
「それじゃしょうがないよね。春の家、厳しいもんね」
 温子も『用事』の中身について深く追及はしてこなかった。桂木家の古風な教育方針はこの名門校ですら珍しいほどで、友人たちの中でも門限は一番厳しかったし、携帯電話を持たされていないのも春だけだ。本当なら付き合いが悪いと仲間外れにされてもおかしくないくらいだが、温子たちは春の家庭環境にどちらかと言えば同情的だった。
 もちろん、事実を知ればまた違う反応を示すのだろうが。
「そうだ。携帯のこと、お母さんに聞いてみた?」
 ふと思い出したように温子が尋ねてきて、春は苦笑しながらかぶりを振る。
「ううん、まだ。切り出すきっかけがなくて……」
「そっかー。ま、こういうのは長期戦になるもんだからね、気長にチャンス待とうよ」
 温子は春が携帯電話を持っていないことを気にしていて、自身がいかにして母親を説き伏せたか、その手練手管を事細かにレクチャーしてくれたのだった。皆が持っているから、持っていないと遊びに行く時不便だからとそれらしい理由を挙げて説得してみたらと教わったのだが、春の両親はそんな理由で娘に高級品を買い与えることはまずない。春の方にも遠慮があって、結局母親には切り出せていなかった。
 そうこうしているうちに春は携帯電話を手に入れた。――兄としか繋がらない電話は巾着に入れた上でカバンの奥底にしまってあって、温子たちには見せていない。見せられない。
「ありがとう、温子。チャンスが来たら頑張ってみるね」
 言葉ではそう答えると、すかさず温子がえへへと照れてみせる。
「お礼なんていいのに。じゃあ今度暇があったらよろしくね」
 春も笑顔で頷く。
「うん。バレンタインデーの結果も聞きたいしね」
「あっ、そうそう! その話もするから絶対付き合って!」
 目を輝かせた温子は、堂崎にバレンタインのチョコレートをあげたらしい。直接手渡しではなく、吉川のような舎弟たちを介して渡したと聞いていた。一月には誕生日プレゼントも贈っていたそうだから、堂崎にもその好意は伝わっていてもおかしくないのに、堂崎が春の前で温子の名前を出すことはなかった。それどころか他の女性の話をすることさえない。
 春からすれば、兄を好いてくれる人がいるのはうれしい。悪く言われても仕方ないとと思っているだけに、温子が堂崎を誉める度にくすぐったい気分になる。だが温子の堂崎に対する評価は恋愛感情による補正が大分かかっているものだから、美和や静乃、他のクラスメイトたちとの評価とはまるで違っているのが少し切ない。
 出来れば、皆に好きになってもらいたかった。

 春が通う高校は地元でも有数の名門校であり、中等科からそのまま進学してくる生徒が多かった。堂崎もそのうちの一人で、だからこそ彼の悪名は学年に留まらず、校内中に広まっていた。
 一方、中学は公立校だった春は言わば外様で、入学したての頃は兄の動向を気にしていたのもあって、クラスになかなか溶け込めなかった。しかし同じく外部入学の美和や温子に声をかけられ、何となくグループを作るようになった。外様ではないが一人きりでいた静乃も後から加わり、今では気の置けない友人同士だ。
 正直に言えば、シニカルな美和や楽天的な温子とはそれほど話が合うと思っていないし、逆におとなしい静乃と二人でいると会話が続かなくなってしまう。三人の方も、付き合いの悪い春に対しては思うところだってあるだろう。多少の噛み合わなさや軋轢があっても友人関係が続くのは、学校生活を群れずに切り抜けるのは難しいから、これに尽きる。たかだか十五、六の少年少女にとって、よりどころのないことほど辛いものはない。
 あの堂崎が舎弟なるものを持ったのも、そういうことではないかと春は思う。
 冷めているように見える兄だって、一人きりはきっと辛いはずだ。

 温子と別れた後、春はまっすぐに帰宅した。
 家では硬い表情の母親が待ち構えていて、とっさに立ち竦んだ娘に言葉をかけてくる。
「お帰りなさい、春」
「……ただいま帰りました」
 萎縮する春の内心を見透かしてか、母親もためらいがちに目を逸らす。
 母子の間の複雑な緊張は去年からずっと続いている。それまでは古風ながらも優しく、温かい人だったのに、今では何かを気にし続けたままずっと張り詰めたようなそぶりでいる。もう以前の母に戻ることはないのかもしれない、春は漠然と思う。携帯電話について切り出す機会も恐らくはないだろう。
 血の繋がりのない母は女性にしては背が高く、なかなか身長の伸びない春はいつも見上げる格好になる。細い目も尖り気味の顎も春とは似ていないが、それを言うなら堂崎だって同じことだ。双子なのにちっとも似ていない。だから春は、気にしないつもりでいた。今まではずっとそうだった。
「今日はお約束のある日だったわね」
 娘の顔を見ないまま、母は続けた。
「いつものように迎えに来ていただくんでしょう? お待たせしないように急いで支度をなさい」
「はい、お母さん」
「それと……お夕飯は家で食べるの?」
「はい、そうします」
 二つ目の問いに春は大きく頷いた。それで母はほんの少し表情を柔らかくしたが、続く言葉は寂しげに聞こえた。
「あの方に失礼のないようにね」
「はい」
 春はもう一度顎を引き、その後ようやく靴を脱いだ。
 自室に入ってからは急いで着替えをした。着るものは大体いつも同じで、この時期は薄緑のセーターにジーンズという無難な服装だ。最初のうちは両親も『ジーンズなんて失礼だから制服を着ていきなさい』と言っていたのだが、二、三回会ううちに制服の方がかえって失礼だと気づいたらしく、それからは何も言わなくなった。
 出がけにふと気づいて、カバンから巾着を取り出す。中の携帯電話はメールを一通受信していた。送信元はもちろん兄だ。
 ――先に帰る。お前も気をつけて帰れ。
 短くそっけない文章はいかにも堂崎らしかった。春はそれを見てちょっと微笑んだが、返事を考える余裕はなかった。いつも、短く返事を打つのが苦手で、せっかくメールをくれた堂崎を待たせてしまうことがたびたびあった。今日みたいな日は考えることが多すぎて、余計に難しい。だから、帰ってきてからにしようと思う。

 不安そうな母親に見送られ、春は家を出る。その頃には外も日が暮れ始めていて、住宅街の狭い路地を走ってくる車は既にライトを点けていた。
 もう見慣れてしまった黒のセダンが、桂木家の前で停まる。春は一度お辞儀をしてから後部座席のドアを開け、運転席に向かって声をかけた。
「こんばんは。お邪魔します」
「どうぞ」
 運転席の男性が振り向き、控えめに笑う。白髪交じりの髪、目尻や口元にも皺が目立ち、風貌から年齢を推し量るのは難しい。ただいつもスーツを着ていたし、表情も常に上品な人だった。その畏まったいでたちのせいか、あるいは老け方のせいか、堂崎新にはあまり似ていないような気がした。
 春は後部座席に乗り込み、ドアをなるべく静かに閉める。何度か助手席を勧められたこともあったのだが、両親からはきつく言い渡されていたので春も後ろにしか座らなかった。親子ではない、他人の車に乗るなら、それはごく当たり前の礼儀だ。
「じゃあ行くよ。いつもの店でいいかな」
 男性が声をかけてきた。
「はい、構いません」
 それに春が答えると、男性は前に向き直って車を発進させる。

 振り向けば、リアガラスのフィルム越しに遠ざかる自宅が見えていた。
 母親は玄関ですら見送ってくれなかった。当然外に出てくるはずもないのだが、春はしばらく後ろを向いていた。車が角を曲がって、住宅街の景色に遮られるまで。
「……済まないね。いつも、君に頼りきりで」
 ぽつり、気遣わしげな声がした。
 春は急いで姿勢を正し、行儀よく答える。
「いいえ。お気になさらないでください、堂崎さん」
 その時、堂崎新の父親はそっと唇を結んだ。
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