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短気な男子学生と無関心なクラスメイト(1)

 がたん、と椅子の倒れる音が響いた。

 それまで教室は静まり返っていて、授業中だというのに舟を漕いでいる者までいるほどだった。冬休みを間近に控えたクラスにはおよそ緊張感などなかった。しかし大きな音を耳にするや否や、皆が揃って一方向を見遣る。或る者は教科書の陰から、或る者は顔を動かさずに横目でだけ、クラス中が一様に怯えた視線を向ける。
 熱心にノートを取っていた桂木春も、一度は手を止め、音のした方を見た。しかしすぐに逸らした。いつものことが起きただけだとわかったからだ。
 頭髪の薄い中年の教師も、いつものように声を上げる。
「ど、堂崎! 授業中に席を立つんじゃない!」
「うるせえよ」
 返ってきたのは低い、舌打ち混じりの反抗。春にとっては聞き慣れた声で、クラスメイトたちにとってもうんざりするほど聞いているはずの声。堂崎が授業中に席を立つのは日常茶飯事で、大抵の場合、そのまま教室からいなくなる。今も、つかつかと席を離れていく足音が聞こえる。
「こら! どこへ行く!」
 飽きもせず、教師は堂崎を呼び止める。教職への責任感がそうさせるのだろうが、止せばいいのにと春は思ってしまう。どうせいつものことなのだから、注意をすればどうなるかくらいは知っているはずだ。
「保健室」
 堂崎がお決まりの答えを吐く。彼が嘘をついていることは春にだってわかる。
 中年教師もわかっているらしい。すぐさま咎めた。
「嘘をつくな! いつもそう言ってどこぞへ消えてるじゃないか! とっとと席に着け!」
 ――懲りないな、あの先生。
 春は心中密かに呟く。それから取っていたノートに視線を戻した。今のうちに黒板の内容を写しておこうと思う。この後、授業にならなかったら困るから。
 直後、椅子が倒れた時よりも大きな音が響いた。堂崎が教卓を蹴りつけた音だ。春以外の皆が息を呑む。
「気分悪いんだよ、放っとけよ」
 低く険しい堂崎の声が、苛立ちを含んだトーンに変わる。彼は気が短い。そんなことも皆、既に把握しているはずなのに。
「ま……待て! 授業中だと言ってるだろうが!」
 戸口へ向かう足音を制止しようと、中年教師が怒鳴った。
 すぐさま、
「放っとけって言ってんだろこのハゲ!」
 堂崎は教室中を震わせる声量で怒鳴り返し、荒々しくドアの開く音が後に続いた。廊下を駆けていく靴音は直に聞こえなくなった。教室には静寂が戻る。
 春は面を上げ、教卓から距離を取った位置で身を竦めている中年教師の姿を見遣る。他の教師たちと比べるとよく頑張った方だと思う。教師たちの中には堂崎の態度に手を焼き、我関せずと無視を決め込んでいる者もいるくらいだ。
 広い額に汗を浮かべた教師は、やがて絞り出すような呻きを立てた。
「全く、あいつにも困ったものだ……!」
 彼がなぜあんなふるまいをするのか、教師たちはわかっているのだろうか。春は溜息をつく。無関心を装う、十五歳の春にはわかっていた。

 札付きの不良。
 堂崎新を評して、クラスメイトたちはそう言う。
 授業の妨害やサボりは当たり前、教師をも平然と怒鳴りつけ、備品は破壊し、舎弟を引き連れて校内を徘徊する――由緒正しき名門高校において、退学にならないのが不思議なくらいの問題児だ。
「ああいうのって迷惑だよねえ」
 と、クラスメイトのひとり、美和が言う。堂崎が教室にいないのを確かめ、その上で十分に声を潜めていた。
「授業は進まないし、あいつのせいでクラス全体が悪いみたいに言われるしさ」
「先生ももうちょっと何とかしてくれたらいいのにね。うちのクラスだけ授業が遅れるんじゃ困るよ」
 そう相槌を打ったのは静乃だ。頷きながらも時々、怯えたような視線を巡らせている。
 昼休みの教室は噂の当人がいなくとも、どことなく緊張感に溢れていた。皆、数人のグループに固まって、ひそひそと会話を交わす。堂崎がひと悶着起こした後は、いつもこうだった。
「でも、堂崎って格好いいよね」
 能天気に口を挟む温子。途端、美和と静乃の両方から突っ込まれた。
「ええ? ちょっとあんた、趣味悪いって」
「そうだよ。確かに顔は悪くないけど……」
「いいじゃない。ああいう影のある男って憧れちゃうよお。それにあれでも、中学の頃からすればおとなしくなった方だって聞くし、更生の余地はあるって。むしろ私が更生してあげたい!」
 二人の指摘もどこ吹く風で、温子はうっとり遠くを見ている。それで美和は肩を竦め、静乃は苦笑いを浮かべてみせた。
「まあねえ。あいつの家、お金持ちらしいし。結婚したら玉の輿だよね」
「黙ってたらすごくもてるタイプだろうにね、堂崎くんって」
「でしょでしょ! あれで付き合ったら、彼女だけにはうんと優しくしてくれるに決まってるんだから!」
 同意を得た温子は声を弾ませる。
 素行の悪い問題児とはいえ、整った顔立ちと体躯、それに家柄のいい御曹司という好条件を揃えた堂崎に、憧れを抱く女子生徒も少なくはなかった。不良の方が異性人気を集めるというお約束は、この名門校においても例外ではないらしい。
「優しいかねえ。むしろ女の子でも普通に殴ってきそうじゃない?」
「うん……手が出なくても、怒鳴られるだけでも嫌だな」
「そんなの付き合ってみなきゃわかんないでしょ? 思い切って告白しちゃおうかなあ」
 温子が言い募るので、美和と静乃は匙を投げたらしい。二人で溜息をつきつつ、ずっと黙っていた春に水を向けてきた。
「ねえ、春。あんたはどう思う?」
「堂崎くんと恋人同士なんて、考えただけで怖そうだよね?」
「……堂崎と?」
 春は弁当を食べる手を止める。そして考えてみせるふりだけをした。どうせ答えははっきりしている。
 すぐに軽く笑った。
「興味ないかな。どう考えたって恋人には選べない」
 その答えに、美和と静乃は得意げな顔をする。
「ほうら見なさい、春だってそう言ってんじゃない」
「温子だけだよ。堂崎くんと付き合いたいって言ってるのは」
「そんなことないってば。結構ライバルも多いんだから」
 ぷくっと頬を膨らませた温子が、更に続けた。
「堂崎って一月一日が誕生日なんだって」
「え? 何、お正月な訳?」
「あ、私も聞いたことある。元日生まれだから名前が『新』らしいよ」
「そうそう。もうすぐだから、何かプレゼントでもって考えてるんだけどね。ただ冬休み中でしょ? 学校では渡せないし、どうしようかと思って」
 温子と美和と静乃。三人がまだ十五歳の堂崎新について話すのを、春は無関心を装って聞いていた。彼についての話題の時だけ興味なさそうにふるまう春を、三人ともまだ不審には思っていないらしい。
「どうって、別に何でも贈ってやればいいんじゃないの。あんたのせいでこんなに授業遅れたんだよとか言って、その分のノート突きつけてやるとかさ」
 美和が言うと、温子は不満げな顔をする。
「やだよう、そんな色気のないプレゼント。って言うか堂崎、成績は悪くないじゃん。あれだけサボりまくってんのにさあ」
「頭いいのかもね、堂崎くん」
「違うでしょ。堂崎家の金の力で解決しちゃってんじゃないの」
「それは言い過ぎ!」
 温子が抗議の声を上げ、静乃が相槌を打ち、美和が本音を口にする。そんな三人のやり取りを、春は黙って頭に叩き込んでいた。
 堂崎新に関心があるのは春も同じことだった。むしろ温子あたりより余程興味を持っているのかもしれない。ただ、人前ではそういうそぶりを見せられなかった。
 決して恋人には選べない。
 春にとっての堂崎は、そういう相手だ。

 放課後、春は美和たちの誘いをやんわりと断り、真っ直ぐ家路に着いた。
 今日みたいな日はそうすべきと決まっているのだ。住宅街の一角にある古い和風邸宅の門を潜り、春は胸裏で予感を抱く。その予感は玄関の敷居をまたぎ、男物のスニーカーが揃えられているのを見つけた時、確信に変わる。
 春は嘆息し、自分も靴を脱いだ。そして手洗いうがいを済ませてから自室へと向かう。
 ふすまを開けると、畳の上で寝転んでいる制服姿の堂崎がいた。
「遅ぇよ」
 堂崎は毒づきつつ、決して起き上がろうとしない。当たり前のような顔でいる。春の家の者が用意したのか、傍らには座布団が敷いてあったが、本人は寝転がっていたかったらしい。それで春が、自分だけ座布団の上にぺたんと座れば、その膝の上に頭を乗せようとしてくる。
「甘えないで」
 文句を言おうが気にするそぶりもない。たちまちのうちに春の膝は堂崎の頭によって占拠された。重たかった。
「お前、真っ直ぐ帰ってきたんだろうな? 随分待ったぞ」
 膝枕をしてもらっている身分で、堂崎が不満げにする。春は彼の整った顔立ちを見下ろし、首を竦めた。
「私はちゃんと授業を受けてきたから。誰かさんとは違うの」
「あんなくだらねえ授業、受けてられるか」
「そういう言い方は嫌い。大体今日だって、先生に酷い口を利いてた」
 ぴしゃりと言ってやれば、膝の上の表情が気まずげに歪んでいく。春はその様子をしばらく、黙って見つめる。やがて鼻を鳴らすのが聞こえた。
「じゃあ」
 堂崎が唸るように切り出す。
「何て言ってやればよかったんだよ、あのハゲに」
 そういう問題じゃない。春はおでこを押さえつつ、たしなめる。
「まず、人の身体的特徴を論っては駄目」
「事実じゃねえか」
「身体的特徴を攻撃材料にする人は最低です」
「そうかよ」
 ちっと舌打ちが聞こえたが、構わずに春は続けた。
「それから、授業はきちんと受けること」
「無理だっつってんだろ」
「じゃあせめて、真面目に授業を受けてるクラスメイトの邪魔になるような真似はしないこと」
 そう告げれば、堂崎は首の向きを変えた。春の顔を見上げてくる、表情が複雑そうに映る。唇からは拗ねたような物言いが放たれた。
「あの教室に、授業をまともに聴いてる奴なんていたか?」
「私は聴いてたよ。後でノートを見せてあげる」
「……み、見てやってもいいけど」
 態度が幾分か軟化したようだ。こうなればいつものように、春のペースに持ち込める。堂崎に言うことを聞かせるのはさして難しいことではなかった。
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