Tiny garden

恋と愛(4)

 披露宴はつつがなく、そして幸せに幕を下ろした。
 以前、石田は俺と霧島に『藍子の為ならゴンドラにだって乗る』などと言っていたが、実際の披露宴にゴンドラは登場しなかった。それどころか取り立てて派手な演出や物珍しい仕掛けもなく、せいぜい披露宴の終盤に新郎新婦の生い立ちを写真で辿るスライドショーがあった程度だ。最後は新婦からご両親への感謝の手紙で締めくくられていた。幸せそうな笑顔で手紙を読み上げる花嫁に涙はなく、隣に立つ花婿もまたいい笑顔で花嫁を見守っており、そんな二人を自分の席から眺める俺も温かい気持ちになる。
 笑顔の絶えない披露宴というのもいいものだ。
 ここであえて涙を見せないところは、いかにもあの夫婦らしいと思う。

 全てが済んだ後、石田と少しだけ話す時間を持てた。
 出席者の見送りが大方済んでからわざわざ呼び止められて、俺と霧島と石田の三人で、会場前の廊下で立ち話をした。
「ありがとう。お前らのおかげでいい式になったよ」
 正装の石田が俺と霧島に向かってそう言った。
 結婚式に披露宴と、終日主役を務め上げた石田は疲れていていて当然だろうに、未だに疲労の色一つ見せずに笑っている。至っていつも通りの不遜な笑顔に、こっちもいつも通り応じてやることにする。
「俺も我ながらナイス選曲だと思ってるんだ。石田に捧げる歌なんて、これしかないだろうと」
 すると石田はツッコミを諦めたみたいな顔で、うんうんと二度頷いた。どうやらあの歌、新郎にはご満足いただけたようだ。
 同じ廊下の向こうの隅では、ウェディングドレス姿の花嫁を囲んで女性陣が撮影会を行っている。きゃあきゃあと笑う華やかな声がこちらにも聞こえてくる。女の子同士楽しげでいいものだ、とこちらの目尻まで垂れてくる。
 もちろん一番垂れているのは当の新郎の目尻だ。今日は人相すら変わってしまったように見え、甘ったるい目で花嫁へ投げる視線といったらこっちが糖度過多で倒れそうになるほどだった。
 それを見て、俺は新郎に告げた。
「結婚後の惚気も楽しみにしてるよ」
 歌の前にしたスピーチと同じ言葉を、改めて石田に言っておく。
 どちらかが所帯持ちになるまでつるむような間柄になるとは思っていなかった。そこまで続いたとして、さすがに結婚してしまえば以前のように飲みに行くことはなくなるだろうとも思っていた。
 だがどうやら、これまで以上に長い付き合いになりそうだ。
「ええ」
 すぐに霧島も続けた。
「惚気てない石田先輩は石田先輩じゃないですからね、いくらでもどうぞ」
 すると石田はにやりとした。
「言ったなお前ら……覚悟しろよ。そうなったら俺は自重も遠慮もしないぞ」
 そもそも石田の辞書に自重だの遠慮だのという言葉は載ってもいないだろう。俺も霧島も長い付き合いだから、そのくらいちゃんとわかっている。
「俺達が真面目に聞くかどうかはまた別の話だがな」
 だから、俺も笑い返した。
「うんざりしてきたら聞き流す」
「聞かねえのかよ。そこは聞けよ、酒のつまみとして」
 さすがに本腰入れて聞く気にはならないかもな。石田の惚気をつまみにしたら、きっと酒が甘くなる。
「でも半年もすれば、今度は安井先輩が惚気る側に回ってるんじゃないですか」
 そこで霧島が早くも裏切り、俺に刃を向けてきた。
「入籍、年明けの予定なんですよね?」
「そうだったよな。彼女の誕生日に籍入れるとか言ってたろ」
 石田の言う通り、俺と伊都は来年の一月十日に入籍するつもりでいた。
 彼女は入籍日にさほどこだわりがないらしく、『無理に私の誕生日にしなくてもいいんだよ』と言ってくれていた。どちらかと言えば切望しているのは俺の方だ。
 様々な思い出が残る一月十日を、俺達の人生における最高の日にしたいと思っていた。
「お前の結婚式、呼んでくれるんだろ? 楽しみにしてるからな」
 本日の主役のその言葉に、俺も思わず笑いながら応じる。
「じゃあ今度は石田に何か頼もうかな」
「いいぜ、俺が新郎の友人代表としてスピーチしてやるよ」
「お前のスピーチか……頼むからちゃんと全年齢向けにしてくれよ」
「何言ってんだ安井、表現の自由をここで行使しないでいつ使う」
 むしろ結婚式のスピーチで表現の自由を行使して何をする気だ。
 俺が苦笑すると、隣で霧島も吹き出していた。
「せっかくですから俺のスピーチを超えてくださいね、石田先輩」
「大きく出やがったな霧島。わかった、安井の結婚式を楽しみにしてろ!」
 楽しみにしていていいのだろうか。一抹の不安が過ぎったが――まあ、いいか。
 多分、俺がやったことをやり返される程度のことだ。そしてそんなものは、どこの結婚式にだってあるだろう。

 石田夫妻に暇を告げた後、俺と伊都、それに霧島夫妻は揃ってホテルを出た。
 九月の夜更けは温い風が吹いていて、披露宴で軽く飲んだ後の身体には少し蒸し暑いくらいだった。
「ゆきのさん、帰りに何か食べてきませんか」
 タクシー乗り場まで歩き出しながら、霧島が夫人に声をかける。
「緊張が解けたせいか、今更お腹が空いてきまして……どうでしょうか」
 いつも酒を飲む時には麺類を嗜む霧島のことだ。披露宴のディナーはフレンチと日本料理の折衷で大変美味しかったのだが、恐らく物足りないと思っているのだろう。
 そういえば俺も飲み足りないと思っていた。余興の為に乾杯の一杯だけで抑えておいたが、こういう夜はもう少し飲みたい気分だ。霧島も奥さんとどこかへ寄っていくつもりのようだし、俺も伊都を飲みに誘ってもいいかもしれない。霧島の結婚式の時と同じように。
 そこまで思い至ったところで、霧島夫人がにっこり微笑んだ。
「映さんがそう言うと思って、材料を買っておいたんです」
 途端に霧島の表情が輝く。
「本当ですか? さすがゆきのさん、用意がいい」
「何がいいですか。冷やし中華、焼きラーメン、まぜそば、あとは……」
「あ、まぜそばがいいです。この間の、すごく美味しかったですから」
「わかりました。帰ったらお夜食にしましょう」
 夫妻の会話を聞いているとこちらまで腹が減ってくる。霧島夫人は料理上手だから、外で食べるより家で食べる方がいいのかもしれない。
 ところで、俺達はどうしようか。この後どこかへ寄っていこうか。前に彼女を誘ったバーは駅が近くて便利だが、ここからタクシーで乗りつけ飲んだ後、またタクシーに乗って部屋まで帰るというのも少し億劫だ。うちのアパートの近くに手頃な店でもあればいいのだが、あいにくとあの辺にそういうものはない。
 となると、このホテルの近くで店を探す方がいい。
「伊都、俺達は――」
 俺は隣を歩く伊都に切り出そうとした。
 だがそこで、すかさず彼女がにまっと笑った。
「私も豆腐なら買ってあるよ!」
 打てば響くような素早い反応だった。俺は驚き、すぐに聞き返す。
「お前も用意がいいな。けど疲れてないか?」
「全然だよ。軽く食べるでも、飲み直すでもできるよ」
 伊都は朗らかに答えた。酒のせいだろうか、それとも他の理由からなのか、とても機嫌がいいようだった。
 もしかしたら、いい結婚式の後だからかもしれない。
「なら、飲み直す方がいい」
 俺もますますいい気分になって答えた。
 料理上手というなら伊都だってそうだ。今は寄り道をする必要はなく、部屋へ帰れば二人でのんびりと酒が飲める。幸せになったものだと、しみじみ思う。
「了解! ならお酒だけ買って帰ろうよ、うちになかったよね?」
「そうだな、そうしよう」
 伊都の言葉に頷き返した時、霧島がこっちを向いて冷やかすように微笑んだ。
「安井先輩と園田さん、すっかりご夫婦ですね」
「もう一緒に住んでるんですから、同じことですよね?」
 霧島夫人にもくすくす笑われて、俺は悪い気がしなかったが、伊都は少し恥ずかしそうだった。
 だがそれも直に本当になる。次は俺達の番だ。

 改めて飲み直すことにした俺達は帰宅後、早速準備を始めた。
 まず軽くシャワーを浴びてから、伊都がつまみを作り、俺は酒を用意する。どうせあまり飲めないので白ワインの小さなビンを買ってきた。
 彼女が作ってくれたおつまみは豆腐のチーズ焼きだった。水切りした豆腐にチーズを載せて焼く、シンプルながら美味しく香り高い逸品だ。伊都はいつも刻んだあさつきを添えて、見た目もきれいに仕上げてくれる。小鉢に入れると何だか懐石料理の一品にも見えてくる。
「大袈裟だなあ、巡くんは」
 伊都は俺の誉め言葉を聞いて、肩を揺すって笑っていた。
 リビングのソファに並んで座る彼女は、もうすっかり化粧を落とし、結わえていた髪も下ろしている。乾きかけの柔らかそうな髪からはチーズ焼きとは違ういい匂いを漂わせている。着替えも済ませ、今は部屋着のワンピース姿だ。
 着飾った伊都はもちろんきれいだが、今こうして素の表情でいる伊都もとてもきれいだった。
「大袈裟かな」
 俺は小鉢と箸を手に異を唱える。
「帰ってきてすぐにつまみが出てくるなんて、独身男には夢のような暮らしだ」
「このくらい誰でも作れるじゃない。載せて焼くだけだよ」

 確かに、そこだけ聞けば誰にでもたやすいように思える。
 だが実際は伊都のように見栄えもよく仕上げようとするならある程度の技術と経験が必要だろうし、作り慣れない人間にはまず豆腐の水切りからしてわからないものだろう。
 俺だって自炊経験がないわけではなく、かつては伊都が作ってくれた豆腐丼を自力で再現しようと試みたこともある。だができなかった。何度作っても同じ味にはならなかった。

「お前がいる生活って、いいな」
 チーズ焼きを味わいながら、俺は彼女に呟いた。
 ワインのグラスを傾けていた伊都が、そこでちらりと俺を見る、照れたような上目遣いの眼差しの後、やはりくすぐったそうに笑っていた。
「いいでしょ。豆腐料理ならいくらでもお出しできるよ」
「別に食べることだけを言ってるんじゃないからな」
 そこは誤解されても困るので注釈を入れておく。
 伊都が隣にいてくれる生活は、全てがいい。彼女がいなければ、俺は今日の石田の結婚式をどんな気持ちで迎えていたかわからない。
 霧島の時だってそうだった。皆が幸せになっているのに俺だけが取り残され、変われないままでいるようで、寂しさや妬みや焦りが胸の奥にわだかまっていた。もしもあの時、伊都に声をかけられずにいたら、俺はあの夜をどんな気持ちで過ごしただろう。今夜はどんな気分でいただろう。
 今となっては、振り返る時間さえもったいないような過去の記憶だった。
「傍にいてくれてありがとう」
 俺は彼女に顔を寄せ、その頬に軽くキスをした。
 伊都は一瞬びくっとしてから、たしなめるように眉を顰める。
「巡くん、もう酔っ払ってる」
「酔ってない。伊都こそ、恥ずかしいからって誤魔化すなよ」
「ご、誤魔化してない! そりゃいきなりで、びっくりしたけど……」
「だろうな、ばればれだよ」
 俺が鼻で笑ったからか、伊都は少し悔しそうに白ワインを呷った。彼女の方こそもう酔ってでもいるのか、耳たぶまで赤くなっている。
 その赤さを、可愛いな、と思う。

 恋か愛かと言えば、間違いなく両方だ。
 俺は伊都を世界中の誰より強く愛しているし、同時に今なお恋に落ち続けている。"Can't Help Falling In Love"――まさにその通りだ。
 愛さずにはいられない、好きにならずにいられない。

 今夜歌ったばかりのメロディを酔いに任せて口ずさむ。
 すると伊都が、不意に俺の肩へもたれかかってきた。もう機嫌を直したのか、うっとりと目をつむっている。
 小鉢と箸を置いてその髪を撫でる。すっかり長くなった彼女の髪はそれでも柔らかく、触り心地がいい。
「いい披露宴だったね」
「そうだな。その点は文句なしだ」
「藍子ちゃん、きれいだったね。石田さんも素敵だったし」
「ああ。石田があんなに化けるなんて思ってもみなかった」
 石田夫妻は明日から新婚旅行に出かけるそうだ。行き先は北海道とのことで、今頃はきっと涼しくて過ごしやすいことだろう。土産を買ってくるから、帰ってきたらまた皆で集まろうと言われている。
「今日撮った写真も見せないとね」
 伊都が俺にもたれかかったまま、愛用のデジカメを操作する。
 ディスプレイには今日撮ったばかりの披露宴の模様が次々と写し出された。控え室で披露宴前に撮った皆の写真はくだけた笑顔で写っていたし、俺が撮影した新郎新婦入場ではカメラ目線の石田がばっちり残っている。その後も伊都は社内報用に、そして記念にと何枚も写真を撮っていたようだ。
「これなんてすごくよく撮れてると思うんだけど、社内報にどうかな」
 そう言って俺に見せてきたのは、本日の新郎新婦――ではなく、なぜか披露宴会場でマイクを手に熱唱している最中の俺だった。

 歌うのは恥ずかしくないが、歌っているところを写真に撮られるのはさすがにこそばゆい。割と浸りきった表情でいるから尚のことだ。
 写真に収めたいと伊都が思ってくれたのなら嬉しくなくはないが、これを石田の結婚式写真として社内報に載せられるのは――。

 俺が黙ると、伊都はおかしそうに笑い出す。
「ごめん、冗談。これは社内報に載せたりしないよ」
「からかったのか? 酷いな、伊都」
 ちょっと拗ねてみる。
 すると伊都は慌てて言い添えた。
「本当にごめん。歌ってる巡くんも素敵だなって思って、写真撮っただけなんだ」
 そんなふうに言われると、たちどころに悪い気がしなくなるから困ったものだ。
 そういえば前も、伊都に写真を撮られていた。あの森林公園のベンチで先に彼女が俺を写真に撮り、同じデジカメを使って俺も伊都を写していた。そもそも彼女は俺を撮るつもりでこのデジカメを持ってきていたのだ。その心境を想像するだけで、今でも胸が詰まる。
 あの日からずっと、俺は恋に落ち続けている。
「撮りたいって思ってくれるなら嬉しいよ」
 俺は心からそう思い、彼女に告げた。
 伊都もまた、安堵したように微笑んだ。
「撮りたいよ。だって巡くん、すごくすごく格好いいから」
 素直に誉められるとこっちが照れる。口元がほころんでくるから引き締めるのが大変だ。
「大袈裟だな、伊都は」
 さっきの彼女の言葉を真似して口にしてみると、彼女は目を丸くしてから肩ごとぶつかってきた。
「もう! これは事実だからね!」
「俺のだって事実だよ、嘘は言ってない」
「でも私の方がより強くそう思ってるから!」
「そんなことはないだろ。俺だって相当なもんだよ」
 こんな他愛ないやり取りだって本当に、本当に幸せだった。

 伊都が隣にいる生活って、いい。すごくいい。このまま夫婦になってしまいたい。
 ただ『俺達の番』を迎えるにあたり、俺達は石田や霧島達がしてきたのと同じことを一から考え、こなさなくてはならない――これからしばらくの間は、その問題と向き合う必要があるだろう。きっと忙しくなる。
 それも伊都となら、楽しいに違いないか。
PREV← →NEXT 目次
▲top