Tiny garden

恋と愛(2)

 クロークに荷物を預けた後、俺と霧島は式場の担当者と軽い打ち合わせをした。
 俺は披露する曲の最終確認、霧島はスピーチの段取りについてだ。霧島は相変わらず緊張している様子だったが、さすがに現場まで来ると覚悟も決まったらしい。
「ここまで来たらやるしかないですよね」
 打ち合わせを終えてロビーへ戻る途中、霧島は俺にそう言った。
「そりゃまあ、やらないって選択肢はないだろ」
 当たり前のことを言うものだと俺は笑いを堪えたが、堪えきれていなかったらしい。霧島が眉を顰めた。
「なんでそこで笑うんですか、失礼ですよ」
「いや、悪い。当たり前のことを真面目な顔で言われたのが面白くて」
「だからって笑うとか……後輩を励ましたり、勇気づけるって選択肢はないんですか」
「俺から励まされてお前、素直に聞くか? 何か裏があるって思うだろ」
 聞き返すと霧島は数秒間の思案の後に頷いた。
「確かに」
 どっちが失礼なのやら。
 だが、こういう時は下手な説得より笑い飛ばしてやる方が案外効くものだ。案ずるより産むが易し、伊都もそう言っていた。
「そうと決まったらもっと笑われてこい」
 俺は携帯電話を取り出し、画面を確認しながら霧島に言った。
「石田が控え室に来ていいってさ」
 タクシーの車内とホテル到着後の二度、俺は石田へ連絡を入れていた。石田からの返信はたった今あったばかりで、『もう着替えも済んで身動き取れないからこっち来てくれ』と記されていた。
「花嫁さんもいるんですか?」
 真っ先に霧島はそう尋ねてきた。
 上司の方は二の次という全く潔い態度だ。もっとも俺も花婿より花嫁の方に興味がある。誰だってそうだろう。
「一緒にいるそうだ」
 と、石田からのメールにはあった。
「なら、是非。花嫁さんは本日の主役ですからね」
 霧島はてきめんに相好を崩し、緊張を自ら笑い飛ばすいい表情で答えた。

 ロビーに戻った俺達を、ベンチソファに腰かけた伊都と霧島夫人が迎えてくれた。
 伊都は自前のデジカメを弄っている。シャンパンゴールドのカメラはもう五年以上使っているはずだが、レンズの伸縮も問題なく、調子もいいようだった。
「園田さん、広報のお仕事もあるんですって」
 霧島夫人が言うと、伊都も苦笑を浮かべた。
「小野口課長に頼まれちゃってね」
「また社内報の記事用か」
「そう、『主任さんだし社内婚だし、載せない理由ないよね』って」
「ならちょうどいい。石田が控室に来ていいって連絡くれたよ」
 俺は彼女のデジカメを指差す。
「披露宴前に試し撮りも兼ねて、新婚夫婦を弄りに行こう」
「お邪魔していいの!?」
 伊都が興奮気味に立ち上がる。急にテンションが上がったのか、勢いをつけすぎてソファの脚にふくらはぎをぶつけたほどだ。そしてそのことに照れながら続けた。
「それは見に行きたいな。石田さん達、もう衣装着てるんだよね?」
「ああ。そのせいで身動き取れないって言ってた」
「見た目以上に重たいですからね、ドレスって」
 霧島夫人の言葉には経験者ならではの実感がこもっていた。
 この人のウェディングドレス姿も大層きれいだったが、さて本日の花嫁はどれほど美しいことだろう。花婿はまあ、何となく想像がつくからいい。
「園田さんはどんなドレスを着るか決めてるんですか?」
「ううん、全然。ネットで調べたけど絞りきれなくって」
 ロビーを離れて控え室に向かう間、霧島夫人と伊都はドレス談義を始めていた。俺と霧島はその後に続きながら、華やかな女性陣を背後から眺めて楽しんだ。
「ウェディングドレスは当然いいものだが、こういうドレスもこれはこれでいいな」
「全くです」
 霧島も真面目な顔で頷いている。
 本日の霧島夫人は目が覚めるようなターコイズブルーのドレスを着ていた。やはり時季柄を考慮してか、あるいは旦那の趣味を考慮してかノースリーブのドレスだ。落ち着いた雰囲気の彼女にターコイズブルーはよく似合っていた。
 もちろん伊都が着ているオレンジのワンピースも素晴らしい。伊都にはオレンジがよく似合うし、濃い目の色合いは彼女の肌をより白く、きれいに見せてくれる。
「男の着るものなんてブラックスーツがせいぜいで、面白みがないですよね」
「まあな。楽ではあるけどな」
 俺と霧島もそんなふうに語り合った。

 女性は女性で苦労があるらしく、特に職場の結婚式ともなると『以前着たドレスを今回も着て出席する』などというわけにはいかないらしい。だからこそ伊都も今回ワンピースを新調したわけだ。
 でもお蔭でいいものが買えた。これは是非別の機会にも着てもらわなければもったいない。俺は彼女のワンピース、特に揺れる裾の辺りを眺めながら後ろを歩いていた。この丈にしたのも正解だったようで、伊都のすらりとした脚が存分に眺められた。

 そこでふと、俺は彼女のきれいな脚に目を留め――、
「伊都」
 慌てて先を歩く彼女に追いつくと、身を屈めて彼女に囁いた。
「ストッキング、伝線してる」
「えっ、嘘!」
 伊都もびくっとして立ち止まり、すぐに立ち止まって自分の膝の裏を見た。先程ソファにぶつけた辺りだろう、縦に十センチほどの伝線が生じている。
「教えてくれてありがとう、全然気づかなかったよ……替えてこないと」
 困り果てた顔の伊都がその直後、提げていたハンドバッグを見下ろす。財布と携帯電話、それにデジカメが入っているのが奇跡と思えるくらい小さなハンドバッグだった。
「そうだった、替えはクロークに預けた方の鞄に入れてたんだ」
「なら、取りに戻ろう。披露宴まではまだ時間もあるし」
 俺は言い、霧島夫妻には先に石田の元へ行ってもらうよう頼もうとした。
「悪いけど、霧島達は先に……」
「私達なら待ってますよ。急がなくて大丈夫です」
 霧島夫人は笑顔でそう言ってくれたが、伊都はためらってから首を振った。
「ううん、先行っててよ。巡くんも」
「俺も? いや、俺は付き合うよ」
「石田さん達を待たせたら悪いでしょ、私もなるべく急ぐから」
 その時、伊都は珍しく頑なな表情を見せた。
 今度は俺が躊躇する番だった。伊都を待ちたい、一緒に行きたいのはやまやまだったが、本日の主役に呼ばれて遅れて行くのもさすがに失礼だろう。むしろ俺が先に行って、伊都が遅れて来る旨を伝えておく方がいい。
 何よりも、彼女がそうして欲しいようだったから、
「……わかった、先に行ってるよ」
 少し考えて、俺は頷いた。
 それで伊都もほっとしたように笑う。
「じゃあ、また後で。すぐ追い着くからね!」
 言うが早いか身を翻し、ホテルの廊下を早足で引き返していった。健脚を誇る彼女の姿が曲がり角の向こうに消えるまで、一分とかからなかった。
「いいんですか? 待っててあげなくて……」
 霧島夫人は気遣わしげだったが、俺も伊都に倣ってかぶりを振った。
「伊都ならすぐに来れるよ。あの脚だ、走らなくても速い」
 それから二人を促し、再び控え室目指して歩き出す。
「にしても先輩、園田さんのことよく見てるんですね」
 歩きながら、霧島がからかうように言ってきた。
「普通気がつかないですよ伝線なんて」
 要は『脚ばかりよく見てるんですね』とでも言いたいんだろう。霧島らしい見え透いた手だ。
「それはお前が二の腕ばかり見てるからだろ」
 俺がやり返したら霧島は閉口し、横を歩く奥さんにくすくす笑われていた。
 もっとも、伊都のことをよく見ているのも事実ではある。脚だけではないつもりだが。

 三人で訪ねた控え室には、新婚の石田夫妻が待っていた。
 営業課にいた頃は若く、可愛らしい印象だった花嫁さんだが、こうして白いドレスに身を包んでいると急に大人の女性らしくなったように映る。勤務中はポニーテールでいることが多かった彼女も今日は髪を上品にまとめていて、頭上には銀色に輝くティアラを載せている。ドレスは裾が広がった華やかなデザインで、透き通ったレースの引き裾がとても美しかった。
 俺達が『小坂さん』と呼んでいたあの若い女の子とは、まるで別人のようだった。
「藍子ちゃん、すごーい! きれい!」
 真っ先に霧島夫人が飛んでいって、花嫁さんに声をかける。
 すると花嫁さんの表情もふわっとほどけて、いつもの可愛らしい笑顔が浮かんでいた。
「そ、それほどでもないですよ。誉められると照れちゃいます」
「だってすごく素敵です! いいなあ……いつまでも眺めていたくなります」
 先程の伊都と同じように、霧島夫人もすっかりテンションが上がってしまっている。子供みたいにはしゃいでは溜息をついていた。
「藍子ちゃんなら和装も素敵だったんだろうな……」
 挙式の方は身内だけで行うとのことで、俺達は招待されていなかった。事前に聞いていたプランによれば神前式だったそうで、その時には和装の花嫁さんと石田を見られたわけだ。その点は俺も少々惜しいと思う。
「お写真、楽しみにしてていいですか?」
 霧島夫人が水を向けると、白いフロックコート姿の石田は満を持してというように自分のカメラを取り出した。
「写真ならばっちり撮ってある。見ます?」
「わ、さすがは石田さん! 是非見たいです!」
 すかさず霧島夫人は飛びついてカメラの画面を覗き込む。
 だが俺と霧島は当然、呆気に取られた。
「カメラ持ってきたんですか、先輩! 今日はそんな暇ないでしょう?」
 全くだ。花婿が式当日にカメラを持ってきて花嫁さんを撮りまくるだなんてどれだけ余裕あるんだか。いや『撮りまくった』かどうかは画像を見なければわからないが、恐らく、むしろまず間違いなく連写で撮りまくったことだろう。何せ石田だ。
「そう言ったって、今日みたいな日に撮らないでいつ撮るんだよ」
 案の定、石田は驚かれる方が不思議だと言わんばかりに反論する。
「それでこそ石田だよ」
 俺は呆れるを通り越して感心し、花婿を褒め称えた。

 どうしても美しい花嫁にばかり目が行くのは仕方のないことだが、石田も本日は別人のように正装している。着丈の長い白のフロックコートは長身の石田によく似合っていたし、こういう機会でもないとすることもないアスコットタイも思いのほかよく馴染んでいる。カフスボタンは黒いオニキスで、石田もまたこういうものが自然と似合う歳になったのだと実感した。
 気がつけばお互い三十を過ぎていたが、こうして結婚を祝ってやるほどの仲になるとはな。入社当時は同期ということで当たり前のようにつるんでいたが、ここまで長い付き合いになるとは思ってもみなかった。
 やはり感慨深く、そのことが少し癪と言うか、居心地悪くもある。

「安井、あまり俺の器のでかさを誉めるなよ。照れるだろ」
 口を開けばいつもの石田だったが、それはそれで、いいのかもしれない。
 俺が内心頷いていると、石田がふと訝しそうに目を瞠る。
「ところで安井、お前の最愛の彼女はどうした?」
「俺の最愛かつとびきり可愛い彼女なら、取りに行くものがあってクロークに戻ってる」
 あれからもう十分近く経っているし、伊都の脚ならそろそろ追い着いてくる頃か――いや、履き替える時間があるか。もう少し遅れるかもしれない。
「多分もうすぐ来ると思うんだが、時間大丈夫か?」
 俺が聞き返すと、石田は余裕たっぷりに頷いてくれた。
「ああ、ゆっくりしてけ。何なら園田が来るまで、俺が撮った俺のスーパー可愛い新妻の写真でも見てくといい」
「……先輩がた、よくそんな恥ずかしい台詞を言い合えますね」
 霧島は呆れていたようだが気にしない。
 他人の結婚式で何を浮かれているのかと自分でも思うが、今夜はとにかくそういう気分だった。

 その後、名前にふさわしい藍地の色打掛を着た花嫁さんの写真を見せてもらったり、おまけで羽織袴がやたら似合う石田の写真も見てやったり、スピーチの件を思い出す度に緊張し始める霧島を皆で弄ったりしていると、控え室のドアが静かに叩かれた。
「お邪魔しまーす、園田です」
 伊都が息を切らしつつ現れ、石田夫妻に向かって頭を下げる。
「石田さん、藍子ちゃん、この度はおめでとうございます」
 思いのほか手間取って、急いで駆けつけたのかもしれない。ハーフアップの髪が少し跳ねていた。
「ありがとうございます、園田さん!」
 新婦が感激した様子でお礼を言うと、伊都もすかさず駆け寄って、
「わあ、藍子ちゃんすごくきれい! ドレス似合う!」
 やはりはしゃいだ声を上げ始めた。

 それから霧島夫人と二人で花嫁を三百六十度からためつすがめつ眺め、すっかり夢中になって見惚れていた。持ってきたデジカメで女の子ばかりの記念撮影まで始めていたが、俺の胸には広報の仕事のことを忘れているのではないかという疑念もちらっと浮かんだ――楽しそうだからあえて黙っておいたが。
 代わりに俺も、幸せな妄想を始める。こうして他の花嫁のドレスに夢中になっている伊都は、自分の結婚式ではどんなドレスを着るのだろう。石田夫人が着ているようなふんわりしたドレスもいいものだが、伊都ならもう少しボリューム控えめで細身のドレスでもいい気がする。その方がきれいな脚のラインを生かせる気がするからだ。
 何を着ても、彼女ならきれいだろうと思う。
 そしてそんな彼女と結婚できる俺は、その瞬間、世界で一番幸せだろうと思う。

「最愛の彼女が来た途端、あからさまにでれでれしやがって」
 本日世界一幸せな花婿が、わざわざ俺を冷やかしに来た。
「してたかな。顔に出てた?」
「出てる出てる、現在進行形でな」
「だとしても、今日の石田ほどじゃないよ」
 石田の方こそ、でれでれするあまり吊り上がった目が今日はすっかり垂れ下がっている。式と新婚旅行を終えて会社に戻ってきたら垂れ目になっているかもしれない。
「このまま行くとお前、名刺の写真撮り直す必要がありそうだぞ」
 俺が石田の目元を指差すと、石田は顔を引き締めもせずにすっかりとろけきった笑顔で応じた。
「参ったな、幸せすぎて人相まで変わってしまったか」
 言葉の割にちっとも参った様子はなかった。
 むしろこの上なく、今までのどんな時間よりも嬉しそうだ。

 俺は石田のいろんな顔を知っているから、今日ばかりはどれだけ惚気られても、目の前ででれでれされても素直によかったと思う。少なくともへこんでいるよりはよほどいい。このままずっと、奥さんのことで毎日でれでれしていればいい。
 だが俺が今思ったことを、石田も俺の結婚式で思うのかもしれない――なんて考えるとこそばゆくて仕方がなかった。
 少なくとも俺は、美しい花嫁になった伊都の前では顔を引き締めていたいと思うのだが、石田を見る限りたやすいことではなさそうだった。
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