Tiny garden

恋と愛(1)

 姿見の前でネクタイを締めていると、鏡面の隅に伊都の顔がちらっと映り込んだ。
 部屋で着替える俺をわざわざ覗きに来たらしい。興味深そうに目を輝かせているが、俺の着替えなんか見て面白いものだろうか。これが逆の立場だったなら、彼女の着替えを覗いただけであたふたされて睨まれて恥ずかしいからと追い出されるだろう。全く理不尽なものだ。
「何見てるのかな、伊都」
 鏡越しに声をかけると、彼女はいたずらがばれた子供みたいにはにかんだ。
「格好いいなあと思って。巡くん、正装似合うよね」
「ありがとう」
 素直に褒められるとこっちの方が照れる。俺は口元がほころぶのを誤魔化す為にすぐ語を継いだ。
「けど、職場ではいつもこんな格好してるだろ」
「スーツと正装は似てるけど違うよ」
 伊都は強くかぶりを振った。既にセットを済ませたハーフアップの髪がその度にふわふわと揺れる。
 この髪型は俺のリクエストによるものだった。霧島の結婚式の時の髪が可愛かったから同じようにして欲しいと告げたら、その通りにしてくれた。あの頃よりも伸びた髪にもよく似合っている。
「巡くんはフォーマルな格好が決まるよね、すらっとしてるからかな」
「顔がいいからだ」
 半ば混ぜっ返すつもりで答えたら、伊都は自分のことのように誇らしげな顔をした。
「それもあるね!」
 今日はまた随分とサービスよく誉めてくれるものだ。もちろん悪い気はしないが、今日の主役ではない身分としては少々くすぐったくもある。

 本日の主役は石田と小坂さんだ。
 正確には石田と石田夫人、と呼ぶべきだろう。二人は本日午前、既に入籍を済ませたとのことだった。俺はそれに立ち会ったわけではないが、律儀な石田からわざわざ報告を貰っていたので知っていた。
『石田藍子って違和感ゼロだと思わないか?』
 奴からのメールはそんなタイトルから始まっていた。
『まるで生まれた時からこの名前になると決まっていたかのように自然だ。これはもはや運命だろ。名前の馴染みようからして、俺たちの相性は最高だったという何よりの証拠だ』
 そんな浮かれ調子のメール本文を朝から読まされた俺の身にもなって欲しい。
 めでたい晴れの日に文句をつける気はないが、晴れの日であろうとも石田は石田だった。天晴れとでも言おうか。

 実を言うと俺は少々心配していたのだ。
 石田隆宏という男がどれほど神経図太く面の皮の厚い男かは九年以上の付き合いで身に染みてよくわかっていたが、そんな石田であろうとも結婚式という人生の一大ステージにおいては緊張したり、うろたえたりするのではないかと案じていた。正直に言うと興味もあった。石田がばりばりに緊張する顔をこの目で見てみたいと思ってすらいた。
 だがそこは新人時代からあの営業課でのびのびと、おおらかに過ごしてきた石田だ。このメールを見る限り、奴は至って平常運転である。安心した。
 ただ一つ突っ込ませてもらうなら、『石田』なんてありふれた名字に馴染まない名前なんてそうそうないだろう。俺も他人のことを言えた名字ではないが――しかしどういう巡りあわせか、俺の彼女は結婚してこっちの名字になったら『やすいいと』になってしまうのである。本人は気にしていないようだったが、ある意味これも運命というやつなのかもしれない。
 閑話休題。
 本日はそんな浮かれた石田の結婚式である。
 俺と伊都も披露宴に招待されており、今はその為の支度をしているところだった。

 ネクタイを締め終えた俺はリビングに戻り、正装用のカフリンクスを留めにかかる。白蝶貝のカフスはそれこそ結婚式でもないと出番がない品だったが、ようやく見劣りしない年齢になったと最近思う。
 伊都は俺よりも早く準備を終えていて、リビングのソファに座って足をぱたぱたさせていた。膝丈のワンピースは今日の為に先日買ってきたばかりのものだ。夕日のような深みのあるオレンジを推したのは俺だった。あのマンダリンガーネットに合わせるなら、服もオレンジの方がいい。
 それに彼女には、オレンジ色がよく似合う。
「伊都も、すごくきれいだ。その色にして正解だったな」
 俺が誉め返すと、伊都は恥ずかしそうに首を竦めた。
「うん。巡くんの見立てがよかったからだね」
 ワンピースは九月という時季柄に合わせてノースリーブだった。伊都はその上に銀色のシフォンのストールを羽織っている。肩を覆い隠しているのが残念でもあり、少しほっとするところでもある。
「伊都、指輪は?」
 尋ねた俺に、彼女は左手の甲を掲げて示す。
「してるよ」
 ほっそりした薬指に、俺が贈ったマンダリンガーネットの指輪が光っていた。やはりオレンジがよく似合っている。
「もったいなくてなかなか着けられないから、こういう機会があってよかった」
 伊都が言う通り、彼女がその指輪をしているのを見るのは久し振りだった。
「普段から着けてくれてもいいのに」
 俺としてはちょっとした外出だろうと着けてくれても構わないと思っているし、デートの際はむしろ着けていて欲しいと思うのだが、伊都は指輪をなかなか箱から出そうとしない。
「だってもったいないよ、せっかく巡くんがくれたものなのに」
 言いながら、伊都は指を伸ばすようにしてしげしげと自分の左手を眺めた。
 リビングには午後の強い日差しが差し込んでおり、その光を浴びてマンダリンガーネットの指輪はこっくりとしたオレンジ色に輝いている。気に入ってはくれているのだろう、指輪を見下ろす伊都の表情はうっとりと満足げだった。
「せっかく俺があげたものだから、身に着けてて欲しいんだよ」
 俺はそう反論した。
 すると伊都はためらいがちに微笑んで、言った。
「なるべく、そうする。とりあえず今夜はずっとしてるからね」
「ありがとう」
 彼女が指輪をしてくれるのはもちろん嬉しいことだったが、それ以上に虫除けにも最適だと思っている。石田が以前言っていたことだが、結婚式を新たな出会いの場として考える人間というのもそれなりにいるのだそうだ。そういう連中に伊都が目をつけられては困る。
「でも、左手にしてたら誰かに聞かれるかなあ。正直に答えても大丈夫?」
 伊都は屈託なく笑いながら指輪を見つめている。
「大丈夫だから言えよ、婚約中ですって」
 むしろ正直に言っておいて欲しい、と思ったのが伝わってしまったか、顔を上げた伊都が真っ直ぐに俺を見た。
 そして腑に落ちた様子で顎を引いた。
「うん、そうするね」
 伊都があまりにも素直だから、俺は自分から言い出したにもかかわらず、その時少し恥ずかしくなった。
 面食らう俺の前で、伊都はソファから身軽に立ち上がった。そして目の前まで近づいてくると、俺のネクタイを指差す。
「巡くん、ネクタイちょっと曲がってるよ」
「うわ、気づかなかった。どっち側に?」
「私が直すからじっとしてて」
 細い腕がこちらに伸びて、俺のものよりも小さな手がネクタイの結び目をそっと掴んだ。

 呼吸が聞こえてくる至近距離で、彼女の目は思いのほか真剣に俺の白いネクタイを見つめている。
 華やかに着飾った伊都は化粧もきちんと終えていて、長い睫毛が今はことさらに長く、つややかに見えた。ふっくらした唇も口紅を塗られて美しい光沢を浮かべている。緩くまとめたハーフアップの髪からは彼女が愛用しているシャンプーのほのかな香りがした。
 俺はらしくもなくされるがままの姿勢で、すぐ傍にいる彼女に見とれていた。魅入られていたと言ってもいい。
 いつだったか、俺達がよりを戻す前にもこんなことがあった。と言ってもこんなふうにネクタイを直してもらったわけではなく、伊都が気づいて声をかけてくれただけだ。あの頃はそれだけでも嬉しかった。伊都と話ができるようになっただけでも嬉しくて、でも苦しくて、もどかしくて仕方がなかった。
 今の幸せは、あの頃の苦しさ、もどかしさを礎として築かれたものだ。
 こうしてかつてとの違いを噛み締める度、改めて幸せだと実感することだろう。
 伊都がいなければ今日の披露宴だって、どんな気持ちで出席していたかわからない。ずっとお互い独身だった石田の結婚を、柄にもなく寂しい気持ちで迎えていたかもしれない。さすがにそこまで感傷的だと我ながら気色悪いが――伊都がいてくれて本当に、よかったと思う。

「……はい、直った」
 ネクタイをきゅっと左に引っ張った後、伊都は手のひらで結び目を軽く叩いた。
 それを終了の合図と見て、俺はすかさず彼女を抱き締める。
「ありがとう、伊都」
「わあっ」
 伊都が声を上げて倒れ込んできたが、すんでのところで顔だけ背けた。一瞬拒まれたのかと思ったが、そうではなかったようだ。
「巡くん、シャツに口紅ついちゃうよ」
 まとめ髪のお蔭であらわになった可愛い耳が、少し赤くなっている。
「どうせジャケット着るから見えないよ」
「いやいや駄目です。落ちないんだからね」
「じゃあキスしていい?」
「それも駄目。せっかく塗ったの、落ちちゃうから」
「落ちないのか落ちやすいのか、どっちなんだ」
「どっちも。と言うか今したら、巡くんの口が赤くなっちゃうよ」
 それが困るというわけではないが、せっかく化粧をした伊都に要らぬ手間をかけさせるのは悪い。唇へのキスは帰ってくるまでお預けということになった。
 代わりに彼女の左手を取り、指輪が光る薬指の先と関節にそれぞれ唇で触れておく。
「……帰ってくるまでは、これで我慢しとく」
 俺の言葉に、伊都は披露宴が終わった後のことでも想像したのかもしれない。まるで着替えを覗かれたみたいにあたふたして睨まれた。
「もう、巡くんの馬鹿……」
 その口調が可愛いなと噛み締めてしまう俺も、大概浮かれているみたいだ。他人の結婚式だというのに。

 石田の結婚式は市内のホテルで行われる。
 ホテルまではタクシーを利用した。どうせ行き先は一緒だからと、霧島夫妻とも落ち合って四人で向かうことにした。俺と霧島は他の出席者よりも少しだけ早く会場入りする必要があったから、一緒に行く方がむしろ無駄がなくてよかった。
「もしかしたら、自分の式よりも緊張しているかもしれません」
 と語る霧島は、本日の披露宴にて『お世話になった上司であり先輩』宛てにスピーチをする運びとなっていた。普段から生真面目でお堅い男だが、今日はことのほか硬い表情をしている。
「先輩の式となると、やはり責任重大ですから」
 日頃、石田のことをああだこうだと生意気に扱き下ろす霧島だが、こういう時の態度には素直な本音が出るものである。何だかんだで石田のこと好きなんだろお前、といつもなら俺もからかってやるところなのだが、今は迂闊なことを言うとかえって重圧になりそうで言いにくい。
「大丈夫ですよ。映さんならできます」
 タクシーの後部座席で霧島夫妻は並んで座り、夫人が霧島の手を取って励ますように握っている。霧島もそんな奥さんに微笑みかけつつ、緊張のあまりそわそわしている様子だった。
 俺はそんな夫婦に後部座席を譲り、一人助手席に座っている。本当は伊都と並んで座りたかったのだが、霧島の緊張ぶりを見たら奥さんと引き離すのはよくない気がしたのだ。
 ちなみに伊都は霧島夫人の隣だ。彼女まで気遣わしげにしている顔がバックミラーに映っている。
「案ずるより産むが易しって言うし、やってみたら案外どうってことないかもですよ」
 霧島に向かってそんなアドバイスをして、本人には神妙な顔をされていた。
「ええ、俺もそう思うんです」
 しかし霧島はそこで溜息をついた。
「ただ、今日は石田先輩だけじゃなく、小坂さんの式でもありますから。可愛い後輩の為にも立派にやり遂げたいと言う気持ちもあります。いえ、むしろ小坂さんの為にこそいい式にしなくては……」
 抱負までがちがちに堅く、面白みに欠けていた。
 せっかくだから少し弄ってやろうか。俺は助手席から振り返って霧島に告げた。
「霧島、もう『小坂さん』じゃないんだぞ。ちゃんと呼んでやらないとかわいそうだ」
 途端、霧島は痛いところを突かれたというように言葉を詰まらせた。
「あっ、そういえば……」
「そうだ、今日からは石田藍子ちゃんなんですもんね」
 霧島夫人がそれに同調する。
「石田さんの言う通りしっくり来るね。昔から石田藍子ちゃんって名前だったみたい」
 更に伊都がそう言っても、霧島は気まずげな面持ちでいる。
「名前で……これから呼ばなきゃいけないんですよね」
「そうだぞ霧島。若い女の子相手でも照れずに行けよ」
「無理ですよ、照れます」
「そんなこと言ったって、スピーチじゃ『藍子さん』って呼びかけるんだろ?」
 まさかそれに抵抗があって緊張しているんじゃあるまいな。
 俺が疑惑の目を向けたからか、霧島は眼鏡越しに恨めしげな目を向けてきた。
「安井先輩はこういうの、不思議と緊張しませんよね」
「場数は踏んでるからな」
 霧島がスピーチをする傍ら、俺は余興を買って出ていた。結婚式で歌うのはこれが初めてでもないし、そもそも緊張するほどのものでもない。練習も伊都に付き合ってもらってみっちりやった。不安は何もない。
 だから、今日の披露宴は存分に楽しんでやろうと思っている。
「お前も楽しめよ、霧島。石田の真面目なところなんて勤務中でも滅多に見られないだろ」
 俺が煽るように言ったからか、そこで霧島は生意気そうな顔をした。
「確かにそうですね。その点はすごく楽しみです」
 もちろん俺も楽しみだ。
 石田の晴れ姿も、美しいであろう花嫁さんも、二人が用意した披露宴そのものも。
 この後に結婚を控えた俺と伊都にとっては、いい勉強の場にもなるだろう。俺達も来年にはと予定を立て始めていたが、どんな結婚式を挙げるか、具体的なところは何も決まっていなかった。こういう時は直に見てきた方がやりたいこともまとまるように思う。石田も『刮目して見よ』などと言ってくれていたことだし、大いに見物してやろう。

 そうこうしているうちに、俺達を乗せたタクシーはホテルの正面出入り口へと滑り込んだ。
 冷房が効いていたタクシーから降りると、九月の夕暮れらしい蒸し暑さがまとわりついてきた。俺達は早足でホテルのロビーへと歩を進め、入ってすぐのところにあった案内板の前で揃って立ち止まる。
 ディスプレイには見慣れた名前が記されていた。
『石田・小坂御両家様披露宴』
 目にした途端、不覚にも感慨深いと思ってしまった。少しだけ。
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