Tiny garden

スタートライン(3)

 九月を迎え、俺達はかねてからの予定通り集まることにした。
 場所は女性受けを考えてこじゃれた洋風居酒屋、メンバーは言うまでもなく『いつもの』連中だ。もちろん今回から、そこに伊都が加わることになる。

 伊都は霧島夫人や石田とは旧知の仲なのだが、こういうふうに一席設けて集まるとなると緊張するのか、妙に表情がぎこちなかった。俺の隣に姿勢よく座ってみせたものの、どこに目を向けていればわからないというように視線を彷徨わせている。すっかり長く伸びた髪を高く結わえているから、笑みの強張る横顔がよく見えた。
「――というわけで、俺の彼女を紹介します」
 俺の方から口火を切ったのは、伊都の緊張ぶりを目の当たりにしたからでもあるし、それが連れてきた者の通すべき筋だろうと思ったからでもあった。
 むしろ、こんなふうに紹介してみたかった、の方が近いかな。
 石田や霧島夫妻、小坂さんの前で『俺の彼女です』なんて言って、皆の反応を見てみたかった。

 そして紹介してみたら、意外と愉快な反応を貰えた。
 にやにやといつもの態度を見せているのは石田だけで、霧島夫人は目の前の光景がまだ信じがたいというようにぽかんとしているし、霧島も慣れない様子でこちらを凝視している。小坂さんは伊都の緊張がうつってしまったのか、瞬きばかり繰り返している。
 いつもの面子に一人増えた、というだけではこうはなるまい。

「伊都とは大分前から付き合ってて、今は一緒に住んでる」
 俺は皆への紹介を続けた。
「明るい子だから心配はしてないけど、皆もよろしく」
 そう言われて伊都が恥ずかしそうに頭を下げる。
「園田伊都です。皆さん初めまして……では全然ないですね、えへへ」
「働いてるとこ同じだもんな。見知った顔だろ、そりゃ」
 石田が当然だと笑う。
 くしくも居合わせた三組が揃って社内恋愛という状況だが、俺達の場合は隠していた時間の方がまだ長い。噂にこそなっていたようだが、よくもばれなかったものだと思う。
「見知ったどころか……」
 霧島はわざとらしく溜息をついた後、伊都に向き直り、俺には見せないような優しい微笑を浮かべた。
「園田さんは、俺達の結婚式にも来てくださいましたよね。その節はありがとうございました」
「いえいえ。こちらこそご招待いただきまして」
 伊都も愛想よく笑い返している。
 俺は彼女の横顔を見つめながら、霧島達の結婚式の日のことを思い出す。あの夜の約束がなければ俺と伊都は昔のように飲みに行ったり、面と向かい合って話したりはできなかっただろう。そう思うと霧島にも感謝しておいていいのかもしれない。
「まさか園田さんと、こういう形で顔を合わせるとは思わなかった」
 あの日は美しい花嫁だった霧島夫人が、今は好奇心に目をくるくるさせながら伊都を見ている。
「本当だね。何かちょっと照れるね、今更だけど」
 はにかむ伊都が首を竦めるとすかさず身を乗り出してきて、
「それにしても全然知らなかった。園田さん、安井さんとはいつから?」
「ええと、おおよそで言うと去年辺りからなんだけど、その辺りはいろいろありまして……」
 そこで言葉を切って、伊都は俺の方を向く。
 恐らく『話してもいい?』という再確認だろう。だから俺も迷わず頷く。どうせ石田は何もかも知っていることだし、ここで誤魔化しても仕方ない。

 俺の了承を受けて、伊都はいつものように恥じらいながらで説明を始めた。
 五年前に付き合っていたけど一度別れてしまったことも、小野口課長の仲介でお見合いをしたことも、それからいろいろあってまた一緒にいるようになったことも全て話した――惜しむらくは『いろいろあって』の詳細をぼかしたことだ。
 霧島も霧島夫人もむしろそこが気になるというふうにうずうずしていたが、伊都が話し終えるまでは黙って聞いていてくれた。恐らく後からめちゃくちゃ突っ込まれることだろう。
 一人先に事情を話している石田だけが、思わせぶりににやにやし続け、その横で小坂さんがなぜか自分のことみたいに照れている。

「じゃあ結構長いお付き合いなんだ」
 大方の説明が終わった後、霧島夫人は驚いた様子で感想を述べた。自分達の交際よりも昔から付き合っていたと言われればさすがに驚くものだろう。
「いや、長いって言っても間空いてるし、まだブランクの方が長いくらいなんだけどね」
「でも本当に気づかなかった。まして一緒に住んでたなんて、わからないものですね」
 霧島夫人はそう言った後、思い出したように続けた。
「あ、思い出した。私が結婚する時、園田さんには結構冷やかされた覚えが……」
 たちまち伊都の肩がびくりと跳ねる。
 俺にとっては初耳だったが、同僚であれば当然そういうやり取りもあったことだろう。因果応報、というほど重くもないが、幸せな出来事も巡り巡っていくものだと俺はしみじみ思っている。
「い、いやいや、その辺はもう時効じゃない? お手柔らかに頼むね、長谷さん」
 あたふたと弁解する伊都に、霧島夫人は小首を傾げて焦らすように答えた。
「どうしようかなあ。考えてみれば、園田さんからはそういう話聞いたことなかったし」
「いろいろ聞きたくなるよな。俺もまだ聞いてねえことあるし、ここは根掘り葉掘りしようぜ」
 微笑ましいガールズトークにいきなり石田が割り込んで、不穏な発言をし始める。
「こないだ十分根掘り葉掘りしたでしょ、石田さんは!」
 伊都がやり返しても、相手はあの石田だ。怯むどころかますます火がついたように叫んだ。
「あれで済んだと思ったなら大間違いだ! プロポーズの言葉もまだ聞いてねえしな」
 途端、霧島夫妻と小坂さんがぴくりと反応した。
「えっ、プロポーズ?」
「したんですか!? 初耳ですよ先輩!」
「何て言ったんですか、知りたいです!」
 口々に迫られて伊都はもはや対抗もできなくなったのか、頭を抱えて俯く始末だ。
 仕方ないので俺が助け舟を出す。
「ぺらぺら喋るな、石田。伊都も困ってるだろ」
 とりあえず最もうるさく厄介であろう石田に釘を刺してみたが、あの石田が聞く耳を持つはずもないともわかっていた。
 事実、石田は反省の色を見せることなく俺に向かって言い放つ。
「言っただろ、どうしたって冷やかされる運命なんだよ。諦めろ」
 それは俺もこうして集まるからには冷やかされる覚悟でいたが、だからと言ってどんな質問にも包み隠さず答えるというわけではない。俺達にだって一つくらいは、二人だけのものにしておきたい思い出がある。別に意地悪で教えたくないわけではない。大切だから、しまっておきたいだけだ。
「嫌だ。プロポーズの言葉なんて、伊都以外には聞かせたくない」
 だから俺は、きっぱりと拒んだ。
 だが格好よく決めたつもりの台詞は、石田と霧島からすればむしろ格好の獲物だったようだ。ふたりはますます勢いづいて素早くツッコミを入れてきた。
「そっちの台詞の方が恥ずかしいだろ!」
「聞いてる俺達が顔から火が出そうですよ!」
 全く、いちいち細かくうるさい連中だ。俺が何と言ったってあれやこれやと難癖をつけては冷やかしてくるくせに。ようやく俺がめでたい知らせを持ってきたというのに、もう少し優しく、穏やかに祝う気持ちはないのだろうか。
 いや、祝ってくれる気持ちがあるだけいいか。
 俺だって霧島や石田が幸せな時はこういう弄り方をしていたし、今回はそれがまともに返ってきただけだろう。
「ああもう、うるさいなお前らは……!」
 俺はいかにもうんざりしたというように文句を言おうとしたが、どういうわけか口元が緩んできて上手く言い返せそうになかった。
 それどころか、とうとうこの日が来たのだと幸せを噛み締めてすらいた。
 本当ならもっと早く訪れていてもおかしくはなかった今日――でも今更、後悔はしない。俺と伊都は辿るべき道を辿って今日へ行き着いたのだ。

 だが、一つだけ心に留めておかなければならないことがある。
 ここはまだゴールではない。俺と伊都が行き着いたこの場所はまだ道半ばで、途切れることなく未来へと続いている。その道の先には霧島夫妻、あるいは石田と小坂さんがいる。俺達は同じ行き先を目指して、弛まず、足を止めずに進まなくてはならない。
 そうすることで今以上の幸せが掴めるのだ。

「……しかし、珍しいですね。顔が緩みきってる安井先輩ってのも」
 霧島が呆れた口調で俺に言う。
 さっき伊都に挨拶をした時は仏のように微笑んでいたというのに、相変わらず先輩に対して敬うという気持ちのない奴だった。
「幸せいっぱいってのが顔に出てますよ。そんなんでよく今までばれませんでしたね」
 ただ、霧島のツッコミはまだまだ手ぬるいと言うか、いくらでもかわしようがある程度だ。石田みたいに全身全霊で突っ込んでくることまではないので、俺も澄まして答えることができる。
「仕事にプライベートを持ち込むわけにはいかないからな。その辺りの線引きはちゃんとするさ」
「よくもまあぬけぬけと格好つけたことを言いやがって」
 一方、放っておくと本気で厄介なのがこの石田だ。
 営業畑にて九年も口八丁で戦い抜いてきただけあり、相手がどこを攻められれば弱いかをわかっている。さて、俺の場合は――。
「こいつ、こないだは俺にずっと秘密にしてた理由を『彼女と二人きりの時間が楽しすぎて』とか何とか言ってたんだぞ」
 石田は不躾にも俺を真っ直ぐ指差すと、実に意地悪そうな笑みを浮かべた。
「ちゃっかり同棲までして、さぞかしたっぷり楽しんだんだろうな」
 どうやら石田は、俺が先を越すように伊都と同棲を始めたことをこの上なく根に持っているようである。お前も今月には結婚するだろうが。
「そうだったんですか?」
「そんなことまで喋ったの?」
 霧島夫人と伊都が同時に口を開いたので、俺はうろたえた。
 伊都に知られたのはまずい。恥ずかしがり屋の彼女はそういう恋愛事情を他人に知られることに抵抗があるはずだ。俺は惚気たい方だし自慢してやりたい気持ちもあって、先日飲んだ時にはついぺらぺらと喋ってしまったが、早いうちに石田を黙らせた方がいいかもしれない。
 しかし今は全方向から向けられる鋭い視線への弁解が必要だ。
「いや、それはしょうがないだろ。俺だって石田や霧島みたいに社内恋愛堪能したかったんだよ」
 俺は赤面する伊都に、興味津々らしい他の女性陣に、非難がましい目つきの霧島に弁解を始めた。
「何年もそういうのとはご無沙汰だったし、無事によりを戻せたばかりだったしな」
 もっとも、どう言おうと言い訳にしかならなかった。俺が色惚けのあまり皆々様への説明を怠り、彼女と過ごす薔薇色の日々に夢中になっていたと思われても仕方がない。と言うかまあ、ほとんどそれが事実だった。
「だからって報告遅すぎでしょう、先輩。やり直せたのが嬉しいのはわかりますが、夢中になりすぎです」
 霧島は本当に可愛げのない後輩だ。もっともらしい顔で説教までしてきた。しかもその言葉に石田がうんうんと頷いている。
「何だよお前ら。俺の長年寂しかった男心に共感も同情もしてくれないのか」
 俺は同じ男として連中に理解を求めたが、
「理解はするがこっちは不義理働かれた側だしな。しばらくこのネタで弄り倒すから覚悟しやがれ」
「安井先輩って意外とのめり込むタイプなんですね。彼女さんにめろめろじゃないですか」
 石田には脅され、霧島にはからかわれ、あえなく撃沈と相成った。
「意外とって何だ。のめり込めない恋愛なんてそもそもする価値ないだろ」
 あとでぼそぼそ反論してみたが、これはもはや負け惜しみである。
 確かに連中の言う通り不義理を働いたのは事実であり、そしてめろめろなのもまた否定できない事実である。そういう相手でなければこんなに長く引きずるものか。
「だけど安井課長と園田さんのお話、運命的で素敵ですね。ロマンチックです!」
 と言ったのは小坂さんだ。
 この場の最年少にしてただ一人、俺達をからかおうとする意思のない善良な女の子。石田の彼女、もとい三週間後で奥さんとなる小坂さんが、石田と籍を入れ石田姓になる過程であいつに染まってしまったらさぞかし悲劇だろうなと思う。しかし一年半付き合ってもなお彼女はこうだから、余計な心配かもしれない。
「園田さんは安井課長や隆宏さんと同期入社なんですよね」
 小坂さんが伊都にそう尋ねた。
 二人は今日が初対面、みたいなものだった。もっとも同じ職場だけあって挨拶はしたことがあるし、顔くらいは知っている間柄らしい。
「そうです」
 伊都は深く頷き、
「だから二人の入社当時のこととか、どんな新入社員だったかもいろいろ知ってるよ」
 そこで意味深げに笑んだ。
 彼女のそういう笑い方もあまり見ないもので、これはこれで得意げな様子が可愛いのだが、『いろいろ知ってる』の部分には焦らざるを得なかった。俺と石田がどのような新入社員だったか、この場で公開すると先輩としての沽券に係わる。
「おい待て園田、俺らの若気の至り的なものを酒のつまみにする気か」
「伊都、俺はお前を信じてるからな。恥ずかしいネタの暴露はしないよな?」
 石田と俺は慌てて伊都に縋りついたが、それがまずかった。
 たちまち小坂さんの瞳が輝いたかと思うと、
「それ、とっても聞きたいです! よかったら教えてください!」
 聞いたところで小坂さんは石田に幻滅するような子ではないだろうが、だからと言って公開したい話でもなかった。俺も石田ももう三十過ぎだ。若かりし頃の失敗なんぞ酒のつまみにもしたくない。

 思えば失敗の多い人生だった――。
 だが数え切れないほどの失敗を経験したからこそ、今の俺があるのだろう。失敗からは必ず学ぶことがあった。同じ過ちは繰り返さないと誓った。恥を掻き、もがき苦しんでもなお折れない心を持てたのは、いくつもの失敗とそれに伴う苦い思いのお蔭でもあるのだろう。

 そうして俺は、一度失いかけたものを取り戻した。
 今は俺の隣で、何やら楽しそうに笑っている。初めて連れてきた『いつもの飲み会』で、もうすっかり緊張は解けてしまったようだ。伊都らしい明るさがその笑みから窺えた。
 連れてきてよかった。
 連れてこられて、よかった。

「俺も聞きたいです是非。先輩がたは『昔から模範的社員だった』みたいなこと言ってますけど、嘘ですよね」
 霧島がまた小生意気なことを言い出したので、俺の感慨もぶち壊しだったが――。
「嘘なのは安井だけだ。俺はルーキー時代から立派で礼儀正しく生真面目な社員だった!」
「何を言う石田! 俺の方こそ石田と違って品行方正な社員だったんだよ、なあ伊都?」
 慌てふためく俺達を見て、伊都はあっけらかんと笑っている。
 どこにいても、誰といても変わらずこちらへ向けてくれるその笑顔が、俺はとても好きだった。
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