Tiny garden

目撃者かく語りき(3)

 彼女を好きになってから、俺は随分と変わったと思う。
 豆腐をよく食べるようになった。
 髪を短くするようになった。
 やたらと天気予報を気にかけるようにもなり、自転車にも少しだけだが詳しくなっていた。
 彼女の笑顔一つで救われたような気持ちになったり、逆に彼女が傍にいない時の辛さを今更のように痛感したり、年甲斐もなく心を揺さぶられることも多かった。
 そういうものを経てきて何にも変わらないなんてことはないだろう。俺はしばらく会っていなかった兄貴にも見抜かれるくらい、確かに変わったのだと思う。長い付き合いの石田には、より顕著な変化として見えているのかもしれない。
 そう思うと、石田のその鋭い目つきが妙に末恐ろしく感じた。

 戦々恐々とする俺をよそに、石田は一杯目のジョッキをあっさりと空にした。
 そして、
「すみませーん」
 手を挙げて店員を呼んだ後、ちらりと俺を見てから注文を始めた。
「中ジョッキ二つお願いします」
「二つ? 石田、俺はまだ――」
 こちらのジョッキは空いてない。俺は制止にかかったが、石田はそれを読んでいたみたいに手を振った。
「どうせすぐに空くだろ、後で頼んだら二度手間だ」
「俺はそんなに飲まないよ、強くないの知ってるだろ」
「いやこのくらいは飲めよ。――すみません、ジョッキ二つで!」
 俺の反論なんて聞く耳も持たず、石田は注文を強行する。店員が立ち去ると、石田は全く悪びれない笑みを向けてきた。
「酔っ払わなきゃ言えんこともあるだろ。どんどん飲め、そして醜態を晒せ」
「嫌だよ。俺が下手なこと言ったらお前、ずっと覚えてるだろ」
「もちろん覚えてるし生涯ネタにするぜ。ほら、お替わりが来る前に飲め飲め」
 生涯なんて言い切るほど長い付き合いにする気なのか。俺は石田の気安さに釣られ、結局勧められるがまま一杯目のジョッキを空にした。

 程なくして二杯目が運ばれてきたところで、
「とりあえず、順繰りに話せよな」
 石田が俺をせっついてきた。
「初めて聞く話ばかりで理解が追い着かん。それもこれも安井が隠し事を溜め込むからだ」
「それは悪かったと思ってるよ。正直、言うタイミングを逃したってのもある」
「じゃあ今がそのタイミングだ。まず園田との馴れ初めから包み隠さず話せ」
 ここまで来たら隠しておく必要もない。俺は石田の言葉に頷き、豆腐サラダをつつきながら話し始めた。
「馴れ初めと言うか……初めに付き合おうってなったのは五年前だ。彼女とちょっと、デートっぽいことしてて、それで可愛いなと思って付き合おうって俺から申し込んだ」
 どうして伊都とデートすることになったか、その辺りの経緯はあえて省いた。石田も結婚を控えて今の彼女に夢中なのだから、わざわざ蒸し返すこともないだろうと思ったのだ。
 ただそれでも石田には何か思い当たる節があったのだろう。
「五年前……?」
 急に眉を顰めて考え込んだので、俺はちょっとの間言葉を止めた。
 石田も少ししてからかぶりを振り、言った。
「まあいいか。それでお前ら、一旦別れたんだったな。安井が変態だったからか?」
「何でだよ! あのな石田、俺とお前だったらお前の方がよっぽどアレだぞ!」
「いや俺なんて安井に比べたらノーマルだろ。俺は知ってるぜ、園田はお前好みの脚だ」
「……なんで知ってる?」
 しかし『脚のきれいな女が好き』なんていうのは大抵の男が多かれ少なかれ当てはまるような嗜好ではないだろうか。俺の場合はそれが若干顕著なのかもしれないが、伊都の脚なら誰だって一度はちら見してしまうだろうし、いいと思うに違いない。そういうのは変態趣味とは言わない。ごく普通の、自然の摂理というやつだ。
 と言うか、石田もちゃっかり見てるんじゃないか。小坂さんに言いつけるぞ。
「別れたのは……理由はいろいろあるけど、きっかけになったのは俺の異動だ」
 気を取り直して、話を続けた。
「あの頃は忙しさにかまけて何もかもおろそかになってた。それで彼女を不安がらせてしまった」
「確かに当時のお前、半分潰れかけてたもんな」
 石田もあの頃のことは覚えているのか、納得した様子で顎を引く。
「それで振られて、その後五年も引きずったのか。まあまあ見上げた一途さだな」
「だからそうでもないって。他の子と付き合おうかと思ったことだってあった」
「でも結局、園田を忘れられなかったんだろ? それを一途って言うんだよ」
 得意げな指摘を受けて、俺は返す言葉もなくビールの泡を啜った。

 一途なんてきれいな表現が似合うような恋ではなかった。
 彼女に振られてから何度となくよそ見もしたし、実際他の子に手を出そうと考えたこともある。
 だがそういう時でさえ、最後には伊都のことを考えた。彼女と付き合っていた頃、幸せだった頃の記憶が胸を過ぎり、同じことを他の相手と繰り返せるだろうかと考えた。それで結局、踏み切れなかった。

「前にも言ったと思うがな、安井が園田に惚れた理由は十分すぎるくらいわかる」
 石田もビールを呷りつつ、鮭とばをかじりつつ語る。
「お前みたいな捻くれた格好つけは、園田みたいな飾らない、明るい子を好きになるもんだ。もう長い付き合いだしお前の女の趣味はわかってる。その点園田は、安井の好みのおおよそを満たしてるしな。いい脚してて冗談が通じてじめっとしたところがない。そして大抵のことは明るく笑って許してくれそうだ」
 奴の分析があまりにも的確なので寒気がした。そこまで見抜かれるほどわかりやすい趣味をしていただろうか。酒の席で少し語ったことまで覚えている辺り、今夜も迂闊な発言をすればそれこそ生涯ネタにされ続けるだろうと確信できた。
「安井が片想い拗らせるあまり、見合いでより戻そうなんて暴挙に出るのもわかるぜ」
 更に石田がそう続けて、その点は事実であるにもかかわらず反論したくなった。
「暴挙って何だよ。ちゃんとした席設けて話し合おうとしただけだ」
「普通は元カノに見合いなんて持ちかけねえよ。誘い出す手段なんて他にいくらでもあるだろ」
「それは、しょうがなかったんだよ。小野口課長が――」
 反論しかけて、仮にも恩人に対して責任転嫁かと思い留まる。
 俺がぐっと詰まったのを見て、石田はうひひと悪魔みたいな笑い声を立てた。
「回りくどいやり方しやがって。そんだけ攻めあぐねてたんじゃ俺にも言えねえよな」
「違う、お前に話せなかったのはそういう理由じゃないよ」
「五年も隠してた理由なんて、見栄っ張りのお前が格好つかなかったから以外にあんのか?」
「それは……そういう部分もなくはない、けど」

 なくはない。でも全てでもない。
 初めはただ、伊都が隠しておきたいと言ったからだった。そのまま別れて、本当に誰にも言えなくなった。寂しさに潰されそうになっても、思い出が何度となくぶり返してきても、誰かの助けが欲しくなっても、彼女が黙っている以上は誰にも言うべきではないと思っていた。
 もしあの頃、石田に打ち明けられていたら何かが変わっていたのかもしれないが――。

「辛かった時は、誰かに話して助けてもらいたいなんて甘えたことも考えたよ」
 俺は素直にそう打ち明けた。
「でも、言えなかった。言わなかったんじゃないんだ。全部そうだ、彼女に振られて以来、忘れることも誰かに打ち明けることも、一歩踏み出すことだってなかなかできなかった」
「そのくらい、べた惚れだったわけか」
 俺のかつての葛藤を、石田はたった一言で要約した。
 言ってしまえばそういうことになるのだが、俺の長々と引きずり続けた想いを簡単に片づけられたようで少々複雑だった。他人から見ればそんなものなのだろうか。
「しかしそれなら尚のこと、上手くいった後は嬉々として報告でもすりゃいいのに」
 石田がまた笑う。
「黙ってより戻しただけならまだしも、プロポーズして同棲までしてるって? 言えよ、そこは!」
「いや、それはその、言おうとは思ってたんだけどな」
 隠す理由がなくなってからも、なかなか打ち明けるタイミングが掴めなかった。その点については石田が結婚を控えて忙しそうにしていたからというのもあったのだが。
「正直、長い間辛い思いしてたってのもあって……いざより戻したら楽しくてしょうがなかったって言うか……」
 言葉にすると実に身勝手かつどうしようもない理由である。
「楽しすぎて、彼女といるのに忙しかったって言うか……」
 俺が照れながら打ち明けるのとは対照的に、石田はみるみる真顔になっていく。
「お前、そんなしょうもねえ理由で黙ってたのかよ」
「悪かった。石田には心配もかけたし、真っ先に話したいとは思ってたんだ」
「その申し訳なさと義理よりも、可愛い彼女の方を優先したと。そういうわけだな安井」
「そうでもあるけど、本当に言おうとは思ってたんだよ」
「そうでしかねえだろ! マジでしょうがねえ色ボケ野郎だなお前は」
「……そうだな。ごめん」
 詫びる俺を石田は吊り上がった目でしばらく睨んだ。
 それからふと、気になって仕方がないという顔つきになって口を開く。
「やっぱいいもんか? 同棲って」
「まあ……悪くはないよ」
 俺は控えめに答えた。
「やっぱり部屋に帰って彼女がいてくれるとほっとするし、そういう時は必ず迎えに出てきてくれるしな。あの笑顔を見ると、どんなに疲れてる時でもほっとする」
「へえ。すっかり幸せ満喫してんじゃねえか」
 石田が冷やかしてくるのを、今はちょっと心地よく感じていた。
「そのくらいはいいだろ、こっちは長い間辛い思いしてたんだ。プロポーズはしたけど、結婚するまでなんてとてもじゃないけど待てなかった」
 多分、伊都も同じように思っていてくれたのだと思う。結婚前に一緒に住み始めることは、二人の間ですんなりと決まった。
「で、早々に同棲か。やらしいなー安井は」
 呆れ顔の石田のその言葉に、俺も顔が緩むのを自覚する。
「何だよ。別にそういう目的だけで一緒に住んでるんじゃないって」
「半分以上はそういう目的だろ。安井の魂胆なんて透け透けすぎて丸わかりだ」
 それだってはっきり言って石田ほどではない、と俺は思う。きっと自分がそうだから他の男もそうだと考えているんだろう。本当にやらしいのは間違いなく石田の方である。
「そんなんじゃない。伊都は料理も上手いし、一緒に暮らしてても細やかに俺を気遣ってくれるし、何より一緒にいたいと思う相手だ」
 俺は面と向かって石田の戯言を否定した。
「夜中に起きてふと、彼女の寝顔なんか見ると可愛くてさ。それだけですごく満たされた気分になるんだよ。彼女のいない人生なんて考えられないのに、どうして今まで平気で離れていられたんだろうって思ってさ……もう離したくなくて、だから一緒に住んでるんだ」
 至って真面目に訴えたつもりだったのだが、そこで石田が思いきり顔を顰めた。
「お前、その話を結婚するまでお預け状態の俺に語るか」
「ちょっとくらい惚気たっていいだろ。俺だってお前の惚気は散々聞いてやったんだ」
 俺が言い返すと、石田はふんと鼻を鳴らす。
「今の惚気が『ちょっと』か? 相変わらず園田のこととなるとだらしねえ顔しやがって」
 と言った直後、急に目を細めてみせた。
「おい安井。お前の可愛いスイートハニーは今、お前の部屋にいるのか?」
「ああ、どこも出かけないって言ってたから――」
 うっかり答えてから、しまったと思った。
 たちまち石田は嬉しそうに唇の端を吊り上げて、
「呼べよ。せっかくだから園田も交えて、三人で飲もうぜ」
「伊都を? いや、それは……」
「何で駄目なんだよ。お前ら二人分の惚気話を俺が聞いてやるって言ってんだぞ」
「駄目ってわけじゃないよ、ただ急に何だと思っただけだ」
 まさかそう来るとは思わず、俺はうろたえた。
 伊都なら今頃は一人分の夕食の支度をしているところだろうか。連絡さえすれば来てくれそうな気もするが、彼女をこの場へ呼んだら一体どうなるのだろう。
「何か企んでないよな、石田」
 慌てて聞き返すと、奴はわざとらしく心外そうな表情を作る。
「企む? 何言ってんだ、お前への気遣いを無下にされても怒らなかった心の広い俺だぞ?」
「あ……それはだから、悪かったと思ってるよ。本当だ」
「謝れとは言ってない。ただせっかくのめでたい話だ、どうせなら園田も祝ってやりたいしな」
 どうも石田には引き下がるつもりなど一切ないようだった。
 もちろん俺としては伊都を招くこと自体に不満なんてないのだが――彼女がいると今以上に顔が緩んでしまいそうで困る、というくらいだ。
「いいのか、本当に呼んで」
「いいっつってんだろ。二人まとめて祝ってやるよ、むしろ祝わせろ」
「けど、結婚前でお預け状態のお前には目の毒だったりしないか?」
「言うじゃねえか安井。いいぜ、存分に羨ましがってやるからとっとと呼べ」
 本来ならもうちょっと迷うなり、遠慮するなりすべきなのかもしれない。だが俺は二杯目のビールが早くも回り始めていて、それもいいかななどと思ってしまった。
 だから、彼女に電話をかけた。

『あれ? どうしたの巡くん』
 三コール目で電話に出た伊都は、俺が電話をかけてきたことを不思議に思っているようだった。
「伊都、もう夕飯食べたか?」
 俺が尋ねると彼女はいつもの明るい声で言った。
『まだだよ、これからご飯炊くとこ』
「そうか、ちょうどよかった」
 これで伊都が食事を済ませた後だったら誘いにくかったが、そうじゃないなら都合がいい。
 俺は片耳を塞いで、居酒屋のざわめきを遮りながら続ける。
「面倒でなければでいいんだけど、お前も出てこないか?」
『私も? いいけど、そっちはいいの?』
「違うんだよ。石田に全部話したらさ、せっかくだからお前も呼ぼうって言い出して」
 事情を打ち明ける俺を、石田はテーブル越しににまにまと、愉快そうに笑んで観察してくる。
 その顔がちょっと腹立たしかったので、俺もわざとこう言ってやった。
「めでたい話なんだから祝わせろとか何とかうるさいんだ」
『石田さんがいいなら、私も構わないよ』
 伊都はくすくす笑っている。こちらの誘いを悪い意味では取らなかったらしい。
 俺もほっとして、
「じゃあ悪いけど、今からこっちに……」
 と言いかけたところで、急に石田が真向いから身を乗り出してきた。
「お前の可愛いスイートハニーは何だって? 来れるって言ってたか?」
「うるさいぞ石田。ちょっと黙っ――」
 慌てて追いやろうとした俺の手から、奴は楽しげに携帯電話をもぎ取ろうとする。
「うわっ、ちょっと待て、返せ!」
「いいからちょっと替われよ。俺も園田に言いたいことがある」
 石田は子供でもあやすように俺の額を手で押さえつけ、電話から俺の指を剥がそうとまでしてきた。もちろんこっちだってそうそう譲れはしない。精一杯抵抗した。
「駄目だ、俺の電話だし俺の彼女だぞ! 話なら俺がする!」
「安井は家帰ればいくらでも話せるだろ。すぐ終わるから貸せって」
「嫌だ! お前は絶対に余計なことまで言うだろ!」
 だが最終的には酒に弱い方が負ける。自明の理だ。
 既に酔いが回り始めていた俺の隙を突き、石田は携帯電話をぱっと取り上げた。
「あっ石田! 返せ!」
 俺の抗議も意に介さず、奴はこちらにくるりと背を向け、伊都と通話を始める。
「よう園田。事情は安井からあらかた聞いたぞ」
 通話の相手がいきなり変わったことを伊都はどう思っただろう。石田はそこで少し笑った。 
「ああ。お前のダーリンが惚気七割事実三割でたっぷり話してくれたよ」
 何がダーリンだ。惚気だってそんなに多くない!
 伊都が何か言ったようで、石田が俺の方をちらっと振り返る。
「気にすんな。悪いのは薄情者の安井であって園田じゃねえよ」
 明らかに俺への当てつけである。
 無論、悪いのは俺なのだが、さすがにちょっとむかついた。
「まあ、それはな。その辺の込み入った事情は会った時に聞いてやる。それより、来れるんだったら早く来いよ。せっかくだからお前からも話聞きたいし、俺だって祝ってやる気はなくもない」
 石田がそう言うと、伊都は恐らく前向きな返事をしたのだろう。急に石田が悪い顔で笑んだ。
「お、待ってるぜ。早くしないとお前の彼氏がどんどん自爆して、えらいことになるから気をつけろよ」
「自爆なんてしてないだろ」
 すかさず俺は反論したが、石田が聞く耳を持つはずもない。うひひと悪魔の笑い声を立てた。
「お前ら、もう一緒に住んでんだってな。結婚まで待ちきれなかったって安井が自供してたぜ」
 電話の向こうで彼女が赤くなるのが目に浮かぶようだ。
 多分、伊都は聞き返したのだろう。巡くん何て言ってたの、とか。他に変なこと言ってなかった、とか。
「そうだな、部屋に帰ったら園田が迎えに出てくれるのが嬉しいとか、夜中に起きて園田の可愛い寝顔を見るのが幸せだとかそういうことは――」
 嬉々として石田が暴露にかかったので、さすがに黙っていられず掴みかかった。
「石田、いい加減にしろ! 返せ!」
「まだ話の途中だ、おとなしく待ってろ」
「いいから電話寄越せ!」
「嫌だもっとバラしてやる」
 まだ彼女と繋がっている俺の電話を、まるで子供みたいに再び取り合う。だが今回は俺が勝った。石田の手から力づくで携帯電話を奪い返すと、何事もなかったかのように伊都へ話しかけた。
「伊都、そこまで急がなくてもいいからな。慌てないでゆっくり来いよ」
「うっわ、何その優しい声。彼女の前ではそんな声で喋るんですね、安井くんは!」
「お前はちょっと黙ってろ」
 口笛を吹きそうな勢いで冷やかしてくる石田を睨んでから、俺は伊都に向かって告げた。
「……そういうわけだから、待ってる」
『うん、わかった。じゃあお店の場所教えてくれる?』
 伊都は俺達のやり取りをどう聞いたのだろう。笑いを堪えるみたいに声が震えていた。
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