Tiny garden

目撃者かく語りき(2)

 実際に石田と話をする余裕ができたのは、八月に入ってからのことだった。
 梅雨が明けるとそのまま繁忙期に入ってしまい、とても飲みに行く暇なんて作れなかった。今年度もやはり目が回るほど忙しく、特にお盆休み前は睡眠時間も満足に取れないほどだった。
 そんな中でも伊都はおにぎりに夕食の作り置きにと俺を支えてくれた。夏の盛りの蒸し暑い朝、彼女が用意してくれる豆腐丼の美味さと言ったら言葉にできないほどだ。

 そして迎えたお盆休み初日、溜まっていた家事をこなすと午後からの時間がぽっかり空いた。
 石田のスケジュールが空いていることも知っていた。来月に嫁入りを控えた小坂さんは、このお盆休みを家族と過ごすと決めているとのことだった。恐らくご両親と水入らずで過ごす最後の連休になるのかもしれない。
 それで石田も『独身最後の連休』と銘打って、このお盆休みは車の手入れをしたり部屋を片づけたりして過ごすのだと言っていた。俺も事前に『飲みに誘うかもしれない』というようなことを告げておいたので、恐らく誘っても問題はないだろう。

 問題があるとすれば、伊都を一人で置いていくのが心苦しいということだ。
「別に気にしなくていいのに。私は適当に過ごすよ」
 伊都は明るく言ってくれたが、俺は気にする。
 ここ一ヶ月ほど仕事漬けの日々を送ってきただけに、休みに入るなり外へ飲みに行くというのは少々気が引けた。だがこの連休は俺達も予定がいくつかあり、今日明日を逃せばもう自由になる時間はない。
「旅行の準備も大体できたし、いいんじゃない」
 彼女の言葉通り、俺達は遠方にある伊都のご実家への帰省を控えていた。俺にとっては結婚のお許しをいただく一大イベントだ。彼女のお姉さんご一家の休みに合わせて、お盆休み後半に向こうへ伺うことになっている。
 となるとやはり、今日が最適なのかもしれない。

「一応、あいつにも聞いてみるよ」
 俺は彼女に断わり、石田に電話をかけた。まだ日も傾かない午後三時、既に暇を持て余していたのか、石田は三コール目が鳴り終わる前に電話に出た。
『よう安井。俺は独身最後のお盆休みを満喫してるところだ』
「そりゃよかったな。楽しんでるか?」
『まあまあだ。明後日くらいには持て余しそうな気もしてるが』
 そう言うと石田は電話の向こうで唸った。
『しかし、独身のうちにやっときたいことって案外ないもんだな。むしろ夫婦でやりたいことの方が多い』
 確かにそうだ、と俺も内心で同意する。俺も石田ももう三十一歳――いや、石田はもう三十二か。独身生活も一人暮らしも長くやりすぎて飽きが来ているところなんだろう。俺も石田と同じように、今は伊都と二人でしたいことばかりだ。
「なら、二人で飲みに行かないか」
 俺は石田に誘いをかけた。
「そういうのも結婚したら行きにくくなるだろ、今のうちに」
『まあな。藍子一人を置いて夜出かけるなんて、考えるだけで胸が痛むもんな』
 石田はさりげなく俺の胸が痛むようなことを言った。
 ちらりと傍にいる伊都を窺う。彼女はリビングのソファに座り、石田と通話する俺をどこか愉快そうに注視していた。何が楽しいのかはよくわからない。
「店は俺が探しておくから、夕方にでも出てこいよ」
 誘ったのはこちらなので、その辺りの責任は請け負うことにした。
『わかった。んじゃ任せるぞ』
 向こうも快く応じてくれた。
「ああ。俺もお前に話したいことがあったしな」
『……そうだったな、当然いい報告なんだろ?』
 にやにや笑いが目に浮かぶくらい、石田の声は弾んでいた。
 いい報告と言えばそうなのだが、それ以上に間違いなく驚かせてしまう報告でもある。正直、事実をありのままに打ち明けた後の石田の反応は想像がつかない。気分を害すことはないだろうが、少しは怒るかもしれないし、怒る余裕もないほど混乱するかもしれない。とりあえず洗いざらい吐けとゆさぶりをかけられるのは確実だろう。
「まあ、そうだな。報告したいことがあると言ってもいい」
 俺が認めた途端、石田は遠慮会釈もなくげらげらと笑った。
『何だよそれ、もったいつけるだけじゃなくて格好までつけんのかよ』
 思いきり笑われて、正直ちょっと悔しかった。だがもったいつけていたのは事実なので反論のしようがない。
 気を取り直して話をまとめにかかる。
「じゃあ店が決まったら改めて連絡するからな」
『了解。また後でな』

 石田と約束をして通話を終えた後、俺は早速店探しを始めた。今夜の主賓は奴だから、行くなら石田好みの店がいい。美味い魚でも食わせてどうにか懐柔しようという魂胆だった。
 ネットでめぼしい店舗を漁ってみると、ちょうどいい炉端焼きの店を見つけた。予約を入れてから石田に店の位置を知らせて、午後五時に店の前で落ち合うことにした。駅近くの店なのでアクセスも便利だ。どうせ今夜はいくらか飲まされることになるだろうし――しかし潰れて伊都に迎えに来てもらうような事態だけは避けたいものである。
 何にせよ、石田と二人で酒を飲むのは本当に久し振りだった。ちょうど去年の秋、俺が振られたと誤解した石田に慰められて以来だ。そして石田が結婚すれば誘い辛くなるから、次の機会はしばらくやって来ないだろう。
 積もる話はここでまとめて打ち明けるのがいい。

 午後四時、俺は外出の支度を済ませて玄関へと向かった。
 靴を履き替えようと靴箱を開けたタイミングで、伊都が玄関まで見送りに出てきてくれた。彼女は俺が先に出る時、あるいは一人で外出する時は必ずこうして見送ってくれる。そうしてくれるのが嬉しい反面、伊都を一人で残していくことに申し訳なさを覚えることもあった。飲みに行くなら尚更だ。
「伊都はこれからどうする? どこか出かけるのか?」
 取り出した靴を置いてから、俺は彼女に尋ねた。
 すぐに伊都はかぶりを振る。
「ううん。外暑いし、家でご飯作って食べるよ」
 夕方になっても気温は全く下がる気配がなく、自転車でサイクリングついでに外食、というのも億劫なのかもしれない。
「ごめんな、一人で置いていって」
 俺は後ろ髪引かれる思いで彼女に詫びた。
「寂しくないか?」
 思わず聞いてしまう俺に、伊都は宥めるような笑みを見せた。
「平気だよ、巡くん」
 それから、少しだけ照れたように小首を傾げて言い添える。
「寂しくないとは言わないけど、久々なんだし楽しんできてよ」
 彼女には悪いが、全く平気だと言われるよりは『寂しい』と言ってくれる方がやはり嬉しかった。
 俺は手早く靴を履き替えると、玄関に立つ彼女の肩に手を回した。温い外気が滲んでくるような蒸し暑い玄関で、数秒間黙って彼女を抱き締めた。伊都も暑がったりせず、鬱陶しがることもなく、黙って俺の好きにさせてくれた。
「日付が変わらないうちに帰る。起きて待ってなくてもいいからな」
 彼女の耳元に囁く。
 伊都の髪はこの頃大分伸びていて、休みの日は緩く束ねていることが多かった。剥き出しの耳に唇で軽く触れると、伊都がくすぐったそうに笑う。
「うん、行ってらっしゃい。石田さんによろしくね」
「……行ってくる」
 挨拶の後で一旦身を離した後、俺は身を屈めて彼女の唇にもキスをする。
 伊都は目をつむってそれを受け入れた後、恥ずかしそうに俺を送り出してくれた。
「外、暑いから気をつけてね」
 その言葉通り、ドアを開けた途端むっとするような熱気が押し寄せてきた。
 八月の日暮れ前、空はまだ明るく、きれいに晴れていた。じりじりと焦がす西日の中を、まずは駅を目指して歩き出す。

 電車を降りて五分ほど歩くと、待ち合わせ場所である炉端焼きの店の前に辿り着く。
 石田は先に来ていて、俺に気づくと軽く手を挙げ、目を細めた。
「悪い、待たせたか?」
 俺が尋ねると奴は軽く肩を竦める。
「大して待ってない、気にすんな。早速入るか?」
「そうしよう。暑くて敵わない」
 駅からたった五分しか歩いていないのにもう汗が噴き出していた。俺達は涼を求めて我先にと店内へなだれ込んだ。
 午後五時、開店直後のはずだったが、炉端焼きの店内には魚介類を焼くいい匂いの煙が早くも漂いつつあった。俺達は奥の小上がり席へ通され、まずは適当に注文をする。ビールの中ジョッキを二つ、焼きししゃもと鮭とばは石田が、豆腐サラダと揚げ出し豆腐は俺が頼んだ。
「お前、相変わらず豆腐好きだよな」
 差し向かいに座る石田が、そこで複雑そうに眉を顰める。
「いいだろ、美味いんだから」
 俺が笑いながら反論すると、奴には苦笑されてしまった。
「お前、今の彼女に『何で豆腐好きなの?』って聞かれて答えられんのかよ」
「……別に、普通に答えられるよ」
 何せ、俺を豆腐好きにした当の本人が今の彼女だ。包み隠すことなく答えられる。
 だが石田はそうは思っていない。俺が今、園田ではない相手と付き合っていると思っている。まずはその誤解を正し、いつぞやの一件を説明し直さなくてはならない。

 程なくしてビールが運ばれてきたので、俺達は目の前に置かれたジョッキに手を伸ばす。
「じゃ、乾杯しようか」
 俺は石田に提案した。
 すかさず奴はにやりとして、
「何にだよ」
「そりゃお前の、独身最後のお盆休みにだろ」
「それだけか? 安井にだって何かあるんだろ、乾杯できそうなネタが」
「まあ、それは追々話す。素面で語ることでもないよ」
 俺がそう言ってジョッキを掲げると、石田も笑いながら自分のジョッキをぶつけてきた。
「だから、もったいつけんなっつってんだろ。この焦らし上手の見栄っ張りが」
「見栄は張ってない!」
 かちんとガラスの鳴る音がして、中のビールが大きな波を立てた。俺達は慌ててそれを口に運び、まずは少し飲む。渇いた喉を流れ落ちていく炭酸が、今日はことさらに美味く感じた。
 そしていくつかのつまみが運ばれてきて人心地ついたところで、俺は石田に切り出した。
「話したいことがあるって言ったよな」
「おう」
 ししゃもをかじる石田が視線を上げて俺を見る。探るような目つきだった。
 その目に臆したというわけではないが、今更のように気まずさが胸を過ぎる。俺も豆腐サラダをつつきながら語を継いだ。
「それなんだけど……お前が聞いたら驚くだろう、とは思う」
「驚くような話なのか」
「そうだな。今までずっと黙ってたわけだし」
「ずっとって言うほど長い付き合いなのかよ。ちょこちょこ怪しいとは思ってたがな」
 石田の物言いは自信ありげだった。
 随分前から目をつけていた、などと言わんばかりの口ぶりだ。

 だがそんな石田でもさすがに見抜けはしなかっただろう。『ずっと』といっても一年や二年のスケールではない。
 昔付き合っていたことも一度振られたことも、いろいろあってよりを戻したことも、石田には全てを話したいと思っている。

「相手、誰だ。うちの社内にいるんだろ?」
 俺の説明を待たず、石田は追い打ちをかけてくる。
 ここで嘘をついても仕方ないと、俺は頷いた。
「ああ」
「じゃあ誰だよ、言ってみろよ」
 更に促されたので、まだ冷たいビールで気合を入れ、一息ついてから答える。
「驚かせるようで悪いんだけどな、石田」
「そこまで念押すってどんな相手だよ。心配すんな、ちょっとやそっとじゃ驚かないって」
「いや、お前は絶対驚く。そして俺にいろいろ言いたくもなると思う」
「へえ……言いたいことがあってもまずは黙って聞いてろってか?」
「そうしてくれるとありがたい。話すとなると、ちょっと長くなりそうなんだ」
 前置きを重ねると、石田は次第に釈然としない顔になっていく。
「話が見えねえな。長くなるって、馴れ初めがか?」
「それもある」
「他には何があるって? 本当にもったいつけんなお前は」
「だから今から話すよ。聞いて欲しい」
 俺はジョッキを置いて居住まいを正し、鮭とばをくわえる石田をじっと見据えた。
 石田が黙って片眉を上げる。明らかに不審そうだ。
「実は……園田と、大分前から付き合ってる」
 彼女の名前を、いつも呼んでいるのとは違う呼び方で口にした。
「いや、付き合ってるどころか、ここ四ヶ月ほど一緒に住んでる」
 さっきビールを飲んだばかりなのにもう喉が渇いてきたが、ぐっと堪えて続ける。
「と言うか、プロポーズもして結婚するつもりでいる……」

 俺は一気に言ったつもりだったが、実際はぎこちない口調になっていたかもしれない。
 ただ聞き違えるような不明朗な言い方だけはしなかったつもりだ。店内は飲み屋らしく多少ざわついていたが、それでも石田の耳にはちゃんと届いただろう。

 石田は、くわえていた鮭とばを真顔でぐいっと食いちぎった。
「安井」
「ああ、言いたいことがあるのはわかる。黙ってたのも――」
 俺の弁解を遮るように、奴は言った。
「お前まさか、妄想と現実の区別がつかなくなったのか」
「何でだよ!」
 意を決して打ち明けたのにまさかの妄想扱い。あんまりだ!
「お前も知ってんだろ、園田は去年見合いして、結婚するんだよ」
 苦虫を噛み潰したような顔つきで、石田はなぜか俺を諭しにかかる。
「どんだけ夢見たって園田はお前のものにはならん。いい加減区切りつけようぜ」
「いやもう俺のものなんだって! 見合いしたのも俺なんだよ!」
「おま……マジで大丈夫か? 片想い拗らせるにも限度あんだろ」
「だから妄想じゃないって言ってるだろ!」
 打ち明けたら石田には驚かれるだろうと思っていたが、信じても貰えないとは計算外だった。しかもこちらの古傷を抉るようなことばかり、わざとかと思うくらい突きつけてくるから泣きたくなる。
 俺は思わず溜息をついた。
「言うのが遅くなって悪かったよ。あの時園田と見合いしたのは俺なんだ」
「……は?」
 ここでようやく石田が、夢から覚めたような顔をした。
「広報の小野口課長にセッティングしてもらって、見合いしたんだよ」
 俺が説明を続ければ、それでもまだ信じがたいと言うように奴は呟く。
「マジかよ」
「ああ。それで上手くいって、今は同棲してる」
「同棲!? 話早いな、っつか手も早いな安井!」
 それはまあ、否定はしない。当の彼女にも散々言われたことだからだ。
 ただ、ことのほか話が早く進んだのにも理由がある。
「しかしそれが事実なら、何だって園田と見合いなんてしたんだよ」
 石田が狼みたいに鮭とばを噛み切りながら言った。
「だから事実だって。何だってってどういう意味だよ」
「お前らなんて大分前から普通に仲いいだろ。今更見合いの席要るか?」
「それは……」
 さすがは石田、つつかれたくないところに限って妙な勘のよさを発揮しやがる。
 俺が言いよどむと、石田も腑に落ちない顔つきでしばらく黙ったが、やがてはっとしてみせた。
「あっ、それよりもお前、園田と見合いしたってことはあん時振られてなかったってことだろ?」
 今気づいたのか。
 それは俺も謝りたいと思っていたから、神妙に答えた。
「そういうことになる。あの時は悪かった、正直に言えなくて」
「何だと……! 安井、俺があん時どんだけ心配したかわかってんのか!」
「わかってる。感謝してるし、申し訳ないとも思ってるよ」
「申し訳ないで済むかこの野郎。俺の心配を返せ!」
 石田は歯を剥き出しにして俺を糾弾した。ただでさえ吊り上がった目を更に吊り上げ、
「いいか、俺の心配は男が相手の時は別料金だ。一分一億円だぞ!」
 小学生みたいなことを言うなと思ったが、立場を弁え、ツッコミはしないでおいた。
 あの時、石田が俺を気にかけ、心を砕いてくれたのは事実だ。俺もそのことに関してはちゃんと謝りたいと思っていた。
「ごめん、石田。あの時はどうしても言い出せなかったんだ」
 俺は深く頭を下げた。
 石田が黙る。沈黙が流れる前に、俺は自分で話を進めた。
「その理由についても話せば長くなるんだけど、……実は」
「まだ何かあんのかよ」
「ある。実は、園田とは五年前に一度付き合ってたんだ」
「――五年!?」
 今度は声を裏返らせた石田が、その後でむせた。
 慌ててビールをごくごく飲んでから、深い吐息と共に呟く。
「五年……そんなに前から付き合ってて、黙ってたってことか?」
「いや、違う。一度振られて、でも何と言うか、諦めがつかなくて――」
「それで見合いして、焼けぼっくいに火がついたってわけか」
「……そういうことになる」

 もっと詳細を語るなら、見合いの話だって彼女を取り戻す為の策の一つだったのだが――この分だとそれらも全部告白せざるを得ない気がする。

 その予感を裏打ちするように、少しの間考えていた石田が急に意地悪く笑い出した。
「しかし五年って……安井、お前そんなに一途な男だったのかよ」
「な、何で笑うんだよ。別に五年間ずっと彼女を追っ駆けてたわけじゃない」
「どうだかな。この間の振られっぷりだって真に迫ってたし、案外苦戦してたんじゃねえの」
 つくづく、石田は鋭い。
 ぎくりとした俺に気づいたか、石田は意味ありげに唇を歪めて、
「そう言や、お前が豆腐食うようになったのっていつからだったっけな」
 テーブルの上に置かれた、俺の食べかけの豆腐サラダを指差した。
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