Tiny garden

あかいいと(1)

 五月の連休は、俺の実家に帰ることが決定してしまった。

 俺としては順番的にも園田家への挨拶が先だと考えていた。
 前時代的な感覚と言われそうだがこちらは嫁に貰う側、あちらは大切な愛娘を嫁に出す側である。

 伊都はご両親に対し俺のことを話しておいてくれているそうで、それもいい方に盛っておいてくれているとのことだった。
「さすがに盛らなくてもいいよ。いざ会った時にがっかりされたら困るだろ」
 やんわり俺が断ると、伊都ははにかむ笑顔で答える。
「大丈夫。安井さん――じゃない、巡くんと会ってがっかりする人なんていないよ」
 彼女からのそういう言葉はもちろん嬉しい。お世辞で言うような性格じゃないとわかっているし、そう口にする時に照れてくれたからだ。
 ただ伊都が俺を見る目と他の人間、こと年長者が若造を見る目は異なるというのも常識だ。俺は職場でそういった人生の先輩がたからの容赦ない値踏みは散々受けてきているし、まして娘を強奪しようとしている男に対する父親の目は鵜の目鷹の目なんてものではあるまい。
「そう言ってくれるのは嬉しいけど、要は惚れた欲目ってやつだろ」
 だから俺が彼女の肩を抱きながら言うと、伊都はあっさりとかぶりを振った。
「違うよ事実だよ」
「そこはあえて惚れた欲目だって言ってくれ」
「なんで? 安井さんは私の見る目が間違ってる方がいいの?」
「……今はそれでもいいと思えた」
 要は彼女からの甘い言葉が欲しかっただけだ。その点は少々当てが外れた。

 ともかくも俺はせっかくのゴールデンウィークを園田家のご挨拶に当てよう、そうでなければひたすら伊都といちゃいちゃして過ごそうと考えていたのだが、その点についても当てが外れる展開となった。
「うちのお姉ちゃんがね、是非安井さんに会いたいって言ってるんだけど」
 フルネームは存じないが旧姓が園田実摘さんであることは存じている伊都のお姉さんは、今は旦那さん、娘さんと共に実家から離れた土地で暮らしているそうだ。伊都とはかなり歳が離れているらしいが、姉妹仲は非常にいいようで、去年も伊都はお姉さんと姪御さんに会う為に帰省していた。
「でもお盆休みじゃないと帰ってこれないんだって。来るならお盆にしてって言ってた」
 そして伊都はお姉さんの話をする時だけ、少し甘えた妹らしい口調になる。
「だから今回予定がないなら、安井さんのご実家にご挨拶に行かない?」
 相変わらず俺を名前で呼ぶのには慣れていない。『巡くん』と呼んでくれるのは本人がちゃんと意識している時だけで、気を抜くとすぐにいつもの『安井さん』呼びになる。
 でも俺がそんな伊都を黙って見つめれば、はっと気づいてすぐに言い直す。
「……巡くんの、ご実家に行かない?」
 そういうところも可愛いな、と俺はいつも思っている。
「こっちを優先して、伊都のご両親が気を悪くされないかな」
「しないと思うけどなあ。うちの親、そういうの気にするような性格してないよ」
 そこで伊都は、俺をいつもほっとさせてくれる朗らかな笑みを浮かべた。
「それにうちの親、私がお嫁に行けるかどうか密かに心配してたらしいから。貰い手があってよかったよかったって安心してるとこだし、ちょっとやそっとじゃ文句なんて言わないよ」
 文句を言われないことを盾にこちらの無理を通すというのもさすがにどうかと思うが、伊都がそう言うなら、そこまで深くは考えなくてもいいのかもしれない。何より園田家の都合に合わせるのが筋だ。
「もうすごいんだよ、うちのお父さんお母さん。最近じゃ電話する度に安井さんのこと聞いてきて」
「俺の話? それで伊都は多少盛ってるって言ったのか」
「うん。今までは結婚しろ嫁に行けなんてそれほど言ってこなかったのに、相手が見つかったらこうだよ」
 ご両親もこれまでは遠方へ勤めに出た伊都に配慮して、そういった心配をあえて伝えてこなかったのかもしれない。しかし内心では一向に結婚する気配のない彼女に気を揉んでいたのだろう。俺が上手くやっていればもう少し早く安心させることができた可能性もあった、そう思うと申し訳なさも大きいが、だからこそ俺の責任は重大だ。
 遅くなった分、伊都を誰より幸せにしなくてはなるまい。

 それにしても話を聞く限り、伊都のあっけらかんとした性格は園田家伝統のものであるようだ。お姉さんもこんな調子なのかもしれない。だとすると園田家はさぞかし朗らかで平和な家庭なんだろう。
 残念ながら安井家はその対極である。男ばかり三兄弟の家庭は常に汗の匂いがするむさ苦しさで、高いエンゲル係数と頻発する兄弟間対立によって家の中は常に穏やかとは言いがたかった。まして俺は無駄に責任感が高い兄貴と甘ったれの弟の間に挟まれたあわれな次男。それはもう苦労も多かった。兄貴が弟を叱る時には盾にされ、逆に俺が弟を叱れば兄貴にチクられる。全く不公平な星の下に生まれたものだと何度思ったかわからない。
 そこへ来て俺の結婚話だ。挨拶がてら帰省するとなれば兄貴は長男としての責任を果たそうと無駄に張り切るだろうし、既にある程度の事情を知っている弟は格好の獲物を手ぐすね引いて待ち構えている状態だと思っていい。
 ぶっちゃけると、あんまり帰りたくない。

「俺の実家なんて後回しでもいいよ」
 そういう気持ちは俺の態度からも滲み出ているようで、伊都はそこで怪訝そうにした。
「安井さん……巡くん、帰りたくないの?」
「伊都を連れていきたくないわけじゃないけど、うるさいのがいるってわかってるからな」
 俺はそこまでしか言わなかったのに、彼女には『うるさいの』というのが誰か察しがついたらしい。すぐに言われた。
「私は見てみたいよ。巡くんのお兄さんと弟さん」
「見る価値なんてこれっぽっちもないぞ。先に言っとくけど断じて似てないし」
 俺は眉を顰める。
 しかしこれは多少の見栄だったかもしれない。俺自身は実際、兄貴とも弟とも似ていないと思っているし、あの二人も口を開けばそう言う。恐らく三人全員が、自分こそ一番いい男だと思っている。だが親戚一同からの評価は『安井家の似た者三兄弟』みたいな扱いである。特に声は似ているらしく、揃って変声期を迎えた後では誰が電話に出たかわからないと言われるほどだ。
 伊都がくすくす笑った。
「いいじゃない、似てない兄弟っていうのも。それはそれで面白いよ」
「まあ、俺が一番いい男だというのは前置きするまでもないけどな」
「そうだろうね」
 彼女は頷いたが、本気なのか流されたのかはいまいち読み取れなかった。
「是非お会いしたいな。巡くんのご兄弟に会ったって言ったら、石田さんに羨ましがられそう」
「なんで石田が羨ましがるんだよ……」
 と思ったが、確かに石田も霧島も俺の兄弟の話には興味津々で食いついてきそうだ。もちろん、今後のからかいのネタとして。
 さておき話を戻せば、嫌だ嫌だと言っても伊都にはいつか会ってもらわなければいけない相手だった。嫌なことを先延ばしにするか今のうちに済ませてしまうか、違いはたったそれだけだ。だったらこのゴールデンウィークでやっつけてしまう方がいいのかもしれない。

 話が大体まとまってしまったので、俺は実家に連絡を取った。
 両親によればゴールデンウィークは特に予定もなかったらしく、俺が帰らないなら兄貴のところの子を連れてどこかレジャーでもと考えていたそうだ。
 しかし俺が伊都を連れての帰省を匂わせると、いいから来い早く来いとせっつかれた。実家には泊まるところもあるしと言われ、ホテルを取ってくれるような気配りもないらしい。

 そして親との電話が終わった十数分後、見計らったように兄貴が電話をかけてきた。
『帰ってくるんだってな、めぐ。顔を合わせるのも久し振りだな』
 兄貴はそう言ったが、実は顔どころかこうして声を聞くのさえ久し振りだった。
 実家を離れて何年も経つと兄弟間の繋がりは次第に薄くなる。まして俺は一人で実家から離れた街で暮らしているから、何となく兄貴とも弟とも縁遠くなっている。時々ふっと思い出すことはあっても、定期的にあえて考えるような距離感ではなかった。
「ああ。兄貴とも、ちょっとは話せるかなって思ってるよ」
 伊都が傍で聞いているのもあり、俺が少々ぎこちなく応じると、電話の向こうで兄貴が笑った。
『ちょっとどころか! 話はみっちり聞いてやるよ、可愛い嫁さん捕まえたんだって?』
「そうだけど……翔から聞いたのか?」
『その通り。年下で明るくて脚のきれいな嫁さんだって絶賛してたよ』
 やはりか。翔のお喋り野郎め。
 昔からあいつはそうだ。俺が言うなって口止めしたことでもぺらぺら喋りおる。
『おまけに一度振られてもめげなかったそうじゃないか』
 兄貴が更にそう続けたので、危うく俺の心臓が止まるところだった。
「なっ……それも翔が言ったのか!?」
 俺の声が裏返ったせいで、傍にいた伊都が目を瞬かせる。何を話しているのか不思議そうだったが、とても彼女には言えない。
『全部聞いてるよ。めぐも意外と一途なところあるんだなと感心してたところだ』
 言う人が言えば嫌味になりそうな台詞も、うちの兄貴が言うと真実味があるから困る。割と本気で感心していそうなのがこの男だ。
「あいつ……! いい歳してぺらぺらと軽い口しやがって!」
 俺は思わず舌打ちしたが、
『じゃあ全部本当なのか。俺は翔が半分くらい盛ってるのかと思ってたよ』
 墓穴を掘った。
「いや、違う、あいつの言うことは……」
 俺が言葉に詰まると兄貴はまた笑う。
『でもまあ、せっかくだからお前の口からも聞かせてもらわないとな。土産はそれだけでいいから、気楽に帰ってこいよ』
 気楽どころかめいっぱい弄られに行くようなものではないか。今から気が重すぎてこのまま床にめり込みそうだ。
『ああもちろん、可愛い嫁さん候補も忘れずにな。社内恋愛なんだろ? お前の課長さんとしての働きぶりもじっくり聞けそうで楽しみだよ』
 兄貴の言葉を聞きながら、俺は思わず溜息をついていた。
 何だって自分の実家へ帰るのにこんな憂鬱な思いをする羽目になるのか。

 五月に入ってすぐの連休初日、俺達は旅支度を済ませて部屋を出た。
 俺の実家まで通常なら車で六時間ほどだが、大型連休中とあってはどこの道も混み合っているに違いなかった。コンビニで長旅に備えてコーヒーやガムを買い込み、前日に編集したドライブ用のプレイリストを再生する。
「俺の好みで編集してるから、飽きたら言ってくれよ」
 助手席の伊都に言うと、彼女はいい笑顔で首を振る。
「ううん、大丈夫だよ。私、巡くんの選曲好きだし」
 伊都は俺と違い、日常的に音楽を聴く習慣がない。自転車に乗っている間のイヤフォンは危険行為に該当するし、それ以外の時間でも音楽をかけることがまずないのだそうだ。それは二人暮らしを始めてからもずっとそうで、俺が音楽を聴く時は黙って付き合ってくれる。たまには伊都の好きな曲も、と言ってみるのだが、彼女は今みたいに笑ってかぶりを振る。
「何か、懐かしい感じがするよね。こういう曲」
 俺が好んで聴くメロコアを、伊都はそんなふうに表現する。
 出会う前、主に学生時代の彼女を俺は話で聞く程度にしか知らないのだが、伊都にも音楽を好んで聴く時期があったのだろうか。彼女が流行の歌を聴くイメージは何となく湧かなかったし、伊都が歌うのを聴いたのもほんの数回、それも同期と大勢で行った飲み会の席でだけだった。彼女の歌が上手かったかどうか、そしてどんな曲を歌っていたか、覚えていないのが全く悔しい限りだった。
「一時代を築いたいわゆる青春パンクも、メロコアを土台にしているからな」
「ああ、そっか。それで知らない曲でも聴いたことある感じがするのかも」
 車内に流れる激しいギターリフとは対照的に、車窓の景色は何ともゆっくりとまったりと流れていく。
 道はそこかしこが渋滞しており、途中から高速に乗ったにもかかわらず流れが悪く、速度は一向に上がらなかった。
 昼過ぎになっても高速を抜けられなかったのでサービスエリアで一度休憩を取り、食事を済ませることにした。

 ペーパードライバーの伊都はサービスエリアにもあまりご縁がなかったと見えて、大はしゃぎでだだっ広い駐車エリアに降り立ち、街中にもあるはずのコンビニチェーンの店内を覗き、土産物を物色し、レストランの雑多なメニューに歓声を上げていた。
 ただこういうところのレストランに彼女の好きな豆腐メニューがあるはずもなく、その点だけは残念そうにしながらきつねうどんを食べていた。
「豆腐がなければ油揚げを食べるしかないよね」
 うどんを啜る彼女が真面目な顔で語るのを、俺も笑いながら眺めた。
「楽しそうだな、伊都」
「楽しいに決まってるよ! 安井さん……巡くんとの初めての旅行だよ!」
 俺がじっと見ていたからか慌てて言い直した伊都が、その後で目を輝かせた。
「私はお休みにどこか行くって言っても自転車だから。こんなに遠くまでは来られないじゃない」
「伊都ならどこまでも自転車で行けそうな気がするけどな」
 二十キロを平然と走り抜けてくる彼女だ。その気になればこのサービスエリアの距離までだって余裕で漕いでこられるだろう。
 俺も自転車の購入を検討している真っ最中なのだが、そのうちどこへでも自転車で行こうと言い出すのではないかと戦々恐々としているところでもある。俺が伊都についていけるようになるまで、一体どのくらいのトレーニングが必要になるだろうか……。
「距離的には大丈夫だけど、こっちの方は土地勘ないしね」
 伊都は首を竦め、それから俺を見てはにかむ。
「巡くんに知らないところへ連れてってもらう、っていうのがいいのかも」
 確かに俺の方には土地勘がある。高速に乗っていくつかの山を越え、いくつかのトンネルを抜ければ次第に故郷の街が近づいてくるのが車窓の風景からわかる。道路沿いの景色は数年単位で変わるものもあれば変わらないものもあり、車を走らせていると時々懐かしさが込み上げてきた。
 郷愁を募らせる俺とは対照的に、伊都は知らない土地への期待を抱いているのだろうし、少しくらいは不安もあるのかもしれない。旅行というのはお互いの距離を一層縮めるいい機会でもある。無理なく自然に相手に頼らせることができるからだ。
「向こうに着いたらあちこち案内するよ。観光名所はあんまりないけど」
 俺が言うと、伊都は嬉しそうに頷いた。
「うん、楽しみ! 巡くんの育った街とかご実家とか、早く見てみたいな」
 と言っても俺の故郷なんて大した街ではない。おおよその日本人が市名を読める程度の知名度はあるが、物珍しい観光名所がたくさんあるわけでもないし、買い物なら俺達が普段暮らしている街の方が余程便利だ。俺が故郷を出てきたのもあの街じゃ進学先が限られるからで、数年後には弟が同じように故郷を出て俺のところへやってきた。
 だがそれでも、幼年期、そして青春時代を過ごした思い出深い土地には変わりない。
 ずっと覚えているというほどではないがたまに蘇ってくる故郷の思い出の中に、これまで伊都が存在していたことはなかった。故郷と彼女を結びつける線がなかったからだ。だがそういう街に彼女を連れていって新しい思い出を作ろうとしていることには、俺も多少の楽しみというか、気分の高まりを覚えていた。

 サービスエリアを発った後、四時間ほど高速道路を走り続けた。
 ようやく高速を下り、更にそこから国道を走って故郷の街に入ったのは日没近くのことだった。俺は休憩も兼ね、コンビニで一度車を停めた。そして実家に電話を入れると、なぜか翔が出た。
『めぐ兄ちゃん着いた? 結構かかってんじゃん、やっぱ道混んでた?』
「ああ、酷かった。でももうじきそっちに着く」
 運転席で電話をする俺の傍ら、伊都は車を降りて大きく伸びをしているところだった。彼女にもすっかり長距離ドライブを味わわせてしまった。
『じゃあ待ってるよ。もう飯もできてるし酒の用意も万端だからさ』
 弟の声は楽しそうに弾んでおり、密かに顔を顰める俺を見透かしたように続ける。
『兄ちゃんの彼女にもゆっくり休んでもらわないといけないだろうしさ。早く連れてきてくれよ』
 俺にとっては嫌な予感しかしないが、伊都を休ませたいのもまた事実だ。
 溜息一つで覚悟を決めると、俺は答えた。
「あと三十分くらいでそっち着くよ。先に言っとくけど俺は飲まないからな」
『何言ってんの。たまの実家なんだし、心置きなく潰れるといいよ』
「彼女の前で潰れられるわけないだろ」
 俺が潰れたりしたら、伊都は完全アウェーの中で孤立無援の戦いを強いられてしまう。こういう時こそ彼女に自然と頼ってもらういい機会だ。俺が兄弟の質問攻めから彼女を守らなくてはなるまい。
 いや、もしかしたら矛先はずっと俺かもしれないが――。

 何にせよ俺は、故郷の街へ彼女を連れてきた。俺の実家ももう目と鼻の先だ。
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