Tiny garden

二人暮らしのルール(5)

 仕事のある日は各々風呂にゆっくり浸かり、疲れを癒すことにしている。
 いや、俺はそれに同意も納得も何もしてない。してないのだが伊都が強硬に主張するのでやむなく従っているまでだ。
 俺はいつだって伊都と一緒に風呂に入りたいと思っているしその主張を包み隠さず彼女に伝えているが、どうもこの件に関してはまだ意見の隔たりが大きいようだ。伊都が首を縦に振ってくれることは今まで一度もなかった。
 とは言え仕事の後、それも自転車通勤で十キロ近い距離を漕いでくる伊都には入浴も大事な休息の時間なのだろう。そう思い、仕事のある日は俺も早々に諦めるようにしていた。彼女もそういう心境をわかってか、俺に先に入るよう勧めてくる辺りがなかなかの策士である。
「安井さん、お風呂湧いたから先どうぞ。一番風呂だよ」
 そう言って個包装の入浴剤を手渡してくる。最初にこれを投入して泡の出るさまを楽しむ権利を進ぜよう、ということらしい。
 そんなもので誤魔化されるか――と言いたいところだが俺もこれが発泡しながら次第に小さくなっていくのを眺めるのは好きだった。せっかくだからありがたく頂戴して、俺は先に一人で入った。

 春とは言え、夜間はまだ冷え込む四月上旬。
 俺は一番風呂でじっくり温まってからリビングへ戻った。
「上がったよ。伊都も入っておいで」
 ソファに座って待っていた彼女に声をかけると、伊都は勢いよく立ち上がった。
「うん、行ってきまーす」
 彼女がバスルームへ向かうのを見送った後、手持ち無沙汰になった俺はテレビを点ける。ちょうど撮り溜めていた音楽番組がいくつかあったので、待ち時間の間に消化してしまおうと思ったからだ。

 しかし一曲目のイントロが流れた瞬間、まるで被せるように俺の電話が鳴った。
 発信先は弟だった。テレビの音量を下げながら、電話に出る。
『めぐ兄ちゃん、結婚すんだって? 父さんから聞くまで知らなかったんだけど』
 翔と話をするのも久々だったが、口調からしてあまり変わりはないようだった。来年には父親になると聞いていたものの、だからと言って急に立派になるということもないみたいだ。
「まあな、今すぐって話でもないけど」
 俺が応じると、
『何で俺には報告しないんだよ。めぐ兄ちゃんは相変わらず秘密主義だよなあ』
 翔は不満げにぼやいたが、奴に報告しなかったのには理由がある。

 かつて翔と一緒に住んでいた頃、『どんな子と付き合ってるのか教えろ』とせがまれて伊都の写真を――あの森林公園で撮影した一枚を見せたことがあるのだ。
 しかもその後、彼女と別れたことも翔にだけは話してある。
 その上で彼女とよりを戻したと知られれば、翔はゴシップネタに食いつく芸能記者のように俺を質問攻めにするだろう。そもそもどうして一度別れたのか、どういう経緯でよりを戻すに至ったのか、ぶっちゃけ別れてからも引きずってたんじゃないの、などと聞かれたら俺は平然としていられる自信がない。
 とは言え、両親や兄貴には紹介しておいて翔にだけ伊都を会わせないというわけにもいかない。いずれ露呈する真実ではあるのだが。

『めぐ兄ちゃんの嫁さんどんな人? 可愛い? やっぱ脚きれい?』
 こっちの憂鬱も知らず、翔は矢継ぎ早に尋ねてくる。
「そのうち会わせるよ。嫌だけど」
 俺が追及をかわそうとすれば、すかさず突っ込んできた。
『嫌だとか言うなよ。俺にとってはお義姉さんだし、仲良くしたいと思ってんのに』
「……その時はお手柔らかに頼むよ」
『お、何だよ兄ちゃん。俺にからかわれそうなネタでもあるわけ?』
 まさに、ある。翔にとっては絶好のからかいの種が。
『一回喋ってみたいなー。そこにいないの、嫁さん』
「今、風呂入ってる」
『そっか残念。じゃあゴールデンウィークにでもこっち連れてくれば?』
「来月か? いや、考えてもなかった」
『俺も兄さんも休みだしさ、めぐ兄ちゃんだって休みだろ。実家で全員集合とかいいじゃん』
「悪くはないけど、ただ彼女の実家にもまだ行ってないしな」

 お互いの実家へ挨拶に行く、という話は既に持ち上がっていた。五月の連休でそのどちらかを済ませてしまうという選択肢も当然あった。
 だがこういうのはまず俺が彼女の家へ行き、ご両親に挨拶をするのが筋ではないかと思う。先に俺の実家へ行くのは順番が違う気がするし、嫌なことは先延ばしにしたいというのも割と真っ当な人間心理であると思う。
 何にせよ俺の独断で決めていい話じゃない。

「ちょっとまだわからない、一応考えとくよ」
 俺は即答を避けた。
 どうせ五月の連休の過ごし方は伊都とも相談しようと思っていたところだ。近いうちに話を振ってみよう。
『前向きに考えといてよ。そもそも兄ちゃんとだって全然会ってないんだしさ』
 翔はけたけた笑った後、唐突に声を潜めた。
『ところで、嫁さんのこともうちょい教えてくんない?』
「会えばわかるだろ。口で説明するのは難しいんだ」
『何か言いにくいことがあるっぽいな、めぐ兄ちゃん』
 我が弟ながらなかなかの鋭さだ。ぎくりとした。
『あ、やっぱ社内恋愛なの?』
「……まあな」
 俺が渋々肯定すると、電話の向こうからは悪魔みたいな笑い声が聞こえてくる。
『マジ? 大丈夫かよめぐ兄ちゃん、元カノだって同じ社内にいるんだろ?』
「だとしたら、何なんだよ」
『いかにもな修羅場じゃん。結婚式には呼ぶなよ、火花ばちばちで大変なことになんぞ』
 何を楽しそうにしているのか。まるで修羅場になるのを待ち望んでいるかのような物言いだった。
 しかしそんな修羅場は起こらない。起こりようがない。そんなものを期待されても困る。
「呼ぶも何も同一人物だからな」
 どうせばれる話だと、さらりと言ってやった。
 翔は数秒間沈黙した。多分、その意味をすぐには理解できなかったのだろう。
 しばらくしてから混乱した様子で、
『――え? めぐ兄ちゃん今何つった?』
「言った通りだよ。あ、彼女がそろそろ上がるみたいだから切るぞ」
『いやいやちょっと待てって、それってもしかしてあの写真の彼女と――』
「じゃあまたな、翔。そのうち連絡する」
 有無を言わさず電話を切る。
 さしもの翔もかけ直しては来なかったようだ。実家に帰って顔を合わせたらあれこれ突っ込まれるだろうが、その時までに対策を練っておこうと思う。
 バスルームからは微かな水音が聞こえてくる。伊都なら上がるまでにもう少しかかるだろう。
 俺はテレビの音量を元に戻し、ろくに見られなかった音楽番組を冒頭まで早戻しした。

 やがて、バスルームの扉を開ける音がした。
 伊都は風呂から上がってからも長くて、身体を拭き、完全にパジャマを着込み、顔の手入れをして髪を乾かしてからようやく戻ってくる。全く隙のない完全防御っぷりが少々つまらない。たまにはもう少し無防備に、タオル一枚で俺の前に現れてもいいのに。
 しかし彼女が戻ってくる、そのことだけでも十分嬉しい。二人暮らしを始めたのは伊都と片時も離れていたくないからだ。一人きりの時間にはもう飽き飽きしていた。やはり伊都が隣にいてくれる方がいい。
 もう少し待つつもりで、俺はテレビに再び見入る。ちょうど最近よく聴くバンドが演奏を始めたところだった。聴き慣れた曲も生で聴くと印象が違うものだ――これは録画だから厳密には生演奏じゃないのだが、さておき。
「――くしゅんっ」
 録画した生演奏の合間に、可愛いくしゃみがすぐ横から聞こえた。
 伊都だとすぐにわかったが、もう上がってきたのだろうか。いつもより早い気がする。急ぐあまり髪を十分に乾かさないで戻ってきたのだろうか。
 四月の夜はまだ冷えることもあり、油断するとすぐ湯冷めしてしまうだろう。俺はソファから立ち上がり、戻ってきた彼女を出迎えようとテレビの前から離れた。
「伊都、大丈夫か? 湯冷めすると風邪引くぞ」
 声をかけながらリビングを出ると、確かにそこに伊都はいた。
 バスタオル一枚だった。

 彼女は俺が出てくると思わなかったのか、目を丸くしてこちらを見ていた。
 髪はまだざっと拭いただけで、水気を含んでぺったりしていた。身体にはタオル以外のものを身に着けておらず、肩は剥き出し、脚もほとんど隠せず露わになっていた。おまけにタオルが小さいのか、裾の方でスリットのように合わせ目が開いて素晴らしい眺めを披露していた。露出した肌にはまだ水滴さえ付着しており、彼女が随分慌てて戻ってきたのは明白だった。
 しかしいつも完璧なまでに武装して戻ってくる伊都が、なぜ今夜に限ってバスタオル一枚で戻ってきたのか、それが大事な問題だ。
 いや、それすらどうでもいいか。
 目の前で伊都が無防備な姿を俺に晒してくれている。きっとこれは神様が善良かつ勤勉な俺に与えてくれたご褒美だと思う。ありがとう神様、いただきます。

「違う、違うよ! 着替えを忘れちゃったから取りに来ただけだよ!」
 伊都がまるで俺の心を読んだみたいに声を張り上げた。胸元を隠すみたいに両手でタオルを引き上げてみせたが、お蔭で脚の方が更によく見えた。
「何だ、俺に見せに来てくれたんじゃないのか」
 俺は口では残念がりつつ、視線は決して彼女から外さなかった。滅多にないこの素晴らしい眺め、是非とも目に焼きつけておかねばならない。
「珍しく伊都が直球で誘ってきたのかと思った」
「誘ってないから! て言うかじろじろ見ない!」
 伊都は俺を咎めたが、俺の前から立ち去ろうとするそぶりは見せない。
 着替えを忘れたと言っていたから、着替え一式を回収したらまた洗面所へ取って返すつもりなのだろう。その為にも俺に立ちはだかられていると邪魔だと、そういうことか。俺としては喜んで邪魔したい所存だ。
「じろじろ見たくなるような格好しといて無理言うなよ」
 こういうミスをすることが伊都にもあるんだなと、俺は微笑ましい気持ちで彼女を見ていた。
 一人暮らしの頃はどうだったのだろう。誰も見ていなくても着替え一式を持ってバスルームへ向かったのか、実は誰も見ていない時はひとり無防備な姿で過ごすこともあったのか――想像も大いに膨らむが、しかし今は目の前の現実の方が大事だ。
 俺を追い払うのを不可能と判断したのか、伊都は俺の視線を振り切るようにバスタオル一枚で奥の部屋へ消えた。そして手早く着替え一式を回収してこちらへ戻ってきたが、俺はそれを阻むように彼女の前へ立つ。
「服着るの? 髪だけ乾かしてそのまま戻ってこいよ」
 途端に伊都がむっとして、俺を睨んだ。
「寒いからやだ。何だか知らないけど喜びすぎだよ、安井さんは!」

 だがこの状況で喜ばない男などこの世にいるだろうか。
 その上俺は彼女との同棲生活を始めるに当たり、こういった状況が発生することを心より期待していたのである。だがその期待も伊都のガードの堅さの前には一切叶うことがなく、もうこれは一緒の入浴を強引に決めてしまうしかないのではとさえ思い始めていたところだ。
 まさに今、好機来たれり。こういう状況を俺は待っていたのだ。

「好きな女がバスタオル一枚で出てきて喜ばない男の方がおかしいだろ」
 俺はそう言うと、彼女が懸命に押さえているタオルの合わせ目に手をかけた。
 たちまち伊都はびくりとして、タオルを押さえていた手に力を込める。
「わああ何すんの! タオル引っ張らないでよ落ちるから!」
「むしろ落ちろ!」
「な、何言ってんの安井さんの馬鹿! 直球馬鹿!」
 タオルを剥ぎ取られまいと必死になって防衛する伊都は狼狽しながら俺を罵った。が、あいにく俺はそうやって彼女に罵られるのがとても好きだった。普段めったに人を悪く言わない伊都がそんな言葉を口にするのは俺に対してだけ、それもこういう状況下でだけだ。
 俺はもうすっかりその気になっていたが、濡れた髪が彼女の首筋に張りつき、剥き出しの腕が粟立っているのを見て、もう少しばかり待たなくてはならないようだと思い直した。彼女が風邪を引いては困る。
「いいから急いで髪乾かせよ、風邪引くぞ」
 そう告げた俺の言葉に、伊都は迂闊にもほっとしたようだった。
「引き止めてたのは誰だ!」
 あからさまに油断した様子で声を上げたから、俺は笑って釘を刺しておく。
「髪乾かすだけでいいからな。先にベッドで待ってる」
 それから不意を打ち、立ち尽くす彼女の唇に軽くキスをする。伊都はいたいけな少女みたいに戸惑い俺を見たがもう遅い。湯冷めしないよう、俺が温めてやる必要があるだろう。
 俺は宣言通り、一足先に寝室へ向かうことにした。もちろんその途中でリビングに立ち寄り、点けっ放しだったテレビをしっかり消しておく。直前までかかっていた曲を軽く口ずさみながら寝室の戸を開けると、背後で伊都が洗面所へ駆け込み、まずドライヤーを動かす音が聞こえてきた――。

 こんなふうに、俺達の同棲生活は目下順調だ。幸せすぎて怖いくらいだ。
 もっとも幸せであるに越したことはなく、それでなくても俺は自分で言うのも何だがこれまで大層辛い思いをしてきたので、これからは幸せしかないくらいでもいいと思っている。
 この先も伊都が俺の隣にいて楽しそうにしてくれたり、俺の失敗を笑い飛ばしてくれたり、俺のすることに照れてはにかんでくれたりしたらいい。他には何も要らないくらいだ。
 あえて贅沢なことを言うなら、たまには今夜みたいに俺の前で無防備な姿を晒してくれたりしたらもう言うことなしなのだが。

「私、次からは絶対着替えを忘れていかない」
 当の本人は、後になってそんな言葉を呻くように口にしていた。
 ベッドに二人で寝転がりながら、伊都はどこか恨めしそうに俺を見ている。俺の方はとてもいい気分で彼女を観賞していた。
「俺はああいうの、いつでも歓迎だけどな。いい眺めだった、眼福だ」
「おじさんみたいなこと言ってる……」
「だから俺はもう三十一なんだって。立派なおじさんだよ」
 そう言うと俺は隣で寝ている伊都を抱き寄せ、その伸びかけた髪を撫でた。まだ以前よりも少し長めという程度で、それほど大きな印象の変化はない。もう少し伸びたらまた違う顔の伊都が見られるのかもしれなかった。
 髪を撫でられると彼女は少し素直になり、目をつむってみせた。
「やっぱり、一緒に暮らすんであっても最低限の慎みは必要じゃない」
 そういう意識があっての、あのガードの堅さなのか。
 俺は腑に落ちた思いで笑い、彼女に腕枕をしてやった。もう片方の手で彼女の髪を梳く。伊都の髪は触り心地がよくて好きだ。
「伊都は十分慎んでるだろ。むしろたまには今日みたいにサービスしろよ」
「あんまり見せすぎて飽きられたら嫌だから」
 彼女がそう続けたので、俺はおやっと思う。
 あのガードの堅さの裏にそんな考えがあったとは、さすがに予想外だった。恥ずかしいからというだけではないのか。飽きられたくないと思ってもらえるとは、なかなか嬉しいものだ。

 目を閉じた伊都の顔は穏やかできれいだ。
 眠そうには見えないが、この時間を深く、静かに味わっているようには見えた。こうして俺に身を任せているこの瞬間の表情が、思わず見とれてしまうほどきれいだった。
 いつもこんなふうに、俺に任せてくれてもいいのにな。俺はどんな伊都を目の当たりにしたって飽きが来る気がしていない。それどころか、未だに俺の知らない顔がたくさん潜んでいるような気がしてならなかった。
 そういうものもこれからの二人暮らしで、共に歩む人生で、全部知りたい。

「へえ、可愛い心配してるんだな」
「おかしい?」
 俺が笑ったからか、伊都が不意に目を開けた。
 そしてひたむきに俺を見つめてきたから、俺もその奥二重の瞳に問いかける。
「そんなことで飽きるような相手と、もう一回付き合おうって気になると思うか?」
 きっと弟に顔を合わせたら驚かれ、そして散々からかわれることだろうが、俺は一度別れた――と言うよりほぼ振られた彼女を引きずり、何年もぐずぐずと想い続け、結局諦めることも忘れることもできなかった。その甲斐あって彼女を取り戻し、こうして世にも幸せな二人暮らしを始めている。
 飽きるどころか、以前付き合っていた時以上に新鮮で、わくわくしている。
 まだ俺の知らない伊都を見られるような気がするし、そのどんな顔も俺は好きになることだろう。伊都も同じように思ってくれていたらいい。
 彼女は思いを馳せるようにじっと俺に見入った後、優しい声で答えた。
「……思わない」
 そうだろう。俺達は単にかつての甘い記憶や幸せな思い出だけを忘れられなくて、こうして一緒にいるんじゃない。
 また二人で新しい幸せを見出し、作っていきたいと思うからこそ、共にいるのだ。
「お前に飽きるどころか、まだ知らない顔があるのかって思うことが今でもあるよ」
 俺は彼女と唇を重ねてから、そっと本心を打ち明けた。
「そういうのを見つける度に嬉しくて、でも少し悔しい気持ちにもなる。お前のことは何もかも知っておきたいって思うのにな」
 だからこの二人暮らしでは、何もかも包み隠さないくらいでもいいと思っているんだけどな。
 でも伊都がそうしたいと言うなら――俺は飽きる気なんて全くしていないけど、少しくらいは隠しておかないと飽きられそうで困るなんてが可愛いことを思っているなら、その辺りは譲歩してもいい。その代わりたまには一緒に風呂に入る機会でもくれたら、ありがたい。

 二人暮らしのルールは二人で作るものだ。
 これからの生活、あるいは人生に必要な決まり事を、二人でゆっくり考えていくことにしよう。
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