Tiny garden

二人暮らしのルール(4)

 伊都と暮らすようになってから、仕事を終えて部屋へ帰るのが楽しみになった。
 今までだって帰るのが嫌だったわけではない。くたくたに疲れて部屋へ帰り着くとほっとした。だが一人暮らしの部屋には何もなく、帰ってから食事の支度や風呂の用意をするのは面倒だったし、夜になると暗くて自分で明かりを点けなければいけない。何より、誰もいない静かな部屋へ帰っていくのは時々酷く気が滅入った。
 明るい部屋で、誰かが帰りを待っていてくれるのは、とても幸せなことだ。
 俺も、彼女も、ずっと一人暮らしだった。そういう温かさを味わうのは随分久し振りだった。だから先に帰った方が相手の帰りを待ち、迎える為の準備をすると約束しあった。
 もっとも伊都は、夕飯の支度だけはしなくてもいいと俺に釘を刺してきたが――食事だけは自分で作りたいそうだ。料理の腕では彼女の足元にも及ばないので、俺もそれでいいと言っておいた。

 今夜は彼女の方が先に帰った。俺も午後八時には部屋へ帰り着いたが、玄関のドアを開けると香ばしいバター醤油の美味そうな匂いが漂ってきた。
「お帰り、安井さん!」
 俺が玄関に入ると、すかさず伊都が出迎えにすっ飛んできた。
 もう着替えを済ませた彼女は食事の支度をしていたのだろう、愛用のエプロンを身に着けている。靴を脱ぐ俺に嬉しそうな笑顔を向けてくれたから、俺まで嬉しくなる。
「ああ、ただいま」
 帰りを待っていてもらえるというのは、いいものだ。今、しみじみと実感している。
「ご飯、ちょうどできてるよ。先に食べるよね?」
 伊都も仕事の後だというのに、表情は朗らかで疲れの色は見えない。おまけに夕飯まで作っておいてくれたそうで、いい匂いを嗅いだら俺も急に腹が減ってきた。今夜の献立は一体何だろう。
「そうするよ、ありがとう」
 俺は彼女に返事をしながら靴を脱いだ。
 そしてネクタイを緩めつつリビングへ向かう。伊都も俺を誘導するみたいに先に立って歩いていく。ぎりぎり結わえられるだけの長さの髪がひょこひょこ揺れて、可愛いなと思う。
 リビングに入った直後に彼女の肩を掴んで、頬にただいまのキスをする。一足先に帰っていたからか、それともキッチンで火を使っていたからか、彼女の頬は温かかった。
 伊都は驚いたのか、弾かれたように顔を上げた。
 何も言いはしなかったが、目が泳ぎ、明らかにまごついているのがわかった。
「このくらいで照れるなよ。可愛いな、伊都は」
 俺がからかうと、伊都は拗ねて唇を尖らせた。
「しょうがないでしょ、慣れてないんだから。そのうち平然とするようになるよ」
 彼女はそう主張するが、俺達はつい最近初めて付き合ったというわけでもない。むしろよりを戻した時点で手慣れた感じになっていてもいいはずだが、未だに照れが残っているのが伊都らしい。二十九になっても初々しいと言うか、照れ屋だと言うか――。
「どうかな。お前なら一生照れまくってそうだ」
 思わず笑う俺を、伊都は軽く睨んでから言い返してきた。
「……そこまで言うなら確かめてね。一生」
 もちろん、望むところだ。
 伊都なら結婚する頃になっても、子供ができて母親になっても、おばあさんになったってやっぱり照れながら俺にキスされてる姿しか想像できない。まさに一生かけて確かめなくては。

 俺がスーツの上着を脱いでいると、伊都はてきぱきと食器をテーブルに並べ始めた。
 こってりと焼きつけられた厚揚げと野菜がご飯の上に載せられた丼が見える。彼女が言っていた通り、出来たてでとても美味そうだ。
「厚揚げ丼だ」
「そうだよ」
 俺の言葉に、彼女は得意げな顔をした。
「そういうの食べたいかなと思って、味つけ濃い目のメニューにしたんだ」
「今日辺り、食べたかったんだよ。美味いよなこれ」
 バター醤油味の厚揚げ丼は伊都の得意料理の一つで、俺の好物の一つでもあった。それまでは献立の脇役といったイメージだった厚揚げだが、厚揚げ丼においては見事に主役を張ってくれている。バターの効いた甘辛味がご飯に合いとても美味い。
「出来たてだから美味しいよ。手洗っといで」
 伊都の言葉に、俺は素直に従った。着替えを済ませたら洗面所へ直行し、手洗いうがいをする。いい気分で鼻歌だって出る。
 まさに夢のような生活だ。帰ってきたら彼女がいて、美味い夕飯ができていて、二人で一緒に食卓を囲めて――それも夏の繁忙期にはなかなか叶わなくなるのかもしれないが、だからこそ今のこの時間は大切に味わっておきたかった。

「いただきます」
 手洗いうがいを済ませた俺は、食卓に着くなり手を合わせた。
 そして伊都が見守る中、早速丼を手に取って箸をつける。こってりとバター醤油が絡んだ厚揚げは程よい焦げ目がついており、表面はかりっとしている。添えられた薄切りのじゃがいももしっかりと焼き目がついていて、ほくほくした食感が食べ応え十分だ。何よりこの味、昔と何ら変わりない、俺の好きな味つけだ。
「うん、美味い」
 俺が息をつきながらそう言うと、伊都は表情を和らげ、胸を撫で下ろしてみせた。
「そう? よかった」
 それからようやく、彼女自身も箸を取る。誉められて嬉しいのか、とろける笑顔で食べ始めた。
 俺にとってはその表情も厚揚げ丼もこの上ないご馳走だった。胃袋だけではなく、心まで満たされていくのを感じながら俺も食事を続けた。
「仕事して帰ってきたら温かいご飯が待ってる、って最高の贅沢だよ」
「そんなに喜んでもらえるなんて嬉しいな。できれば毎日贅沢させてあげたいけど」
 伊都がはにかんで応じる。
 彼女のその言葉はもちろん嬉しいのだが、それで無理をするようにはなって欲しくない。広報の仕事も立て込む時は非常に立て込むと去年一年で十分わかったことだし、伊都が忙しい時は適度に手を抜くなり、すぐに食べられるものを買ってくるなり、あるいは外食するなりすればいい。
「忙しい時は大変だろ。無理はしなくていいからな」
 俺が気遣うと、伊都はそれに頷きつつ、 
「でも、こう見えても一人暮らしの頃からずっと自炊してきたからね」
 こちらの心配をかわすみたいに続けた。
「忙しい時の手の抜き方だってわかってるし、大丈夫だよ」
 そういう物言いには二十九歳の女性らしい自負が覗いている。俺があれこれ余計な気を回すまでもなく、伊都なら無理をしないやり方も熟知しているんだろう。
 それもそうか。彼女だって俺と同じく、今年で社会人十年目だ。
「頼もしいな、伊都は」
 俺が感心して彼女の名を呼ぶと、伊都は視線を合わせた後で急に恥ずかしそうにしてみせた。どぎまぎしたように目を逸らす――こういうところはやはり、二十九歳らしくない照れっぷりだ。
 まあ、それもそれで可愛いから、いいか。
 にやにやしながら厚揚げ丼を食べ進めていると、
「ねえ」
 不意に彼女が、居住まいを正して呼びかけてきた。
「何?」
 箸を止めて顔を上げれば、彼女は照れながら言葉を継ぐ。
「私もそろそろ、安井さんを名前で呼びたいんだけど、なんて呼べばいいかな」

 唐突な申し出だった。
 今度は言われた俺の方が照れる番だった。
 ちょうど先日、名前で呼び合う霧島夫妻を見て、俺は伊都に何と呼んでもらえるんだろうと考えていたばかりだった。将来的には同じ名字になるのだから、と伊都も思っていたのかもしれない。

「好きに呼べばいいよ、伊都。お前の呼びやすいように」
 俺は表向きは冷静に答えた。
 彼女がどんなふうに俺を呼んでくれるか楽しみだったが、伊都はそこで眉根を寄せた。
「呼びやすいようにって言われてもあんまりぴんと来ないんだよね」
 確かに、これまでは呼びやすいから俺を名字で呼んでいたのであって、他に呼びやすい名前があったなら彼女もそちらを選択していたことだろう。彼女からすれば、そうそう耳にする機会もない俺の名前は呼びにくいものなのかもしれない。
 とは言え、俺にとっては三十一年間連れ添ってきた名前だ。それを彼女が口にしてくれるというだけでも胸が高鳴るし、どう呼んでくれるのだろうと期待まで抱いてしまう。彼女の呼び方次第でまた俺達の関係が変わるのではないかとさえ思ってしまう。
「じゃあ、めぐるくん、だから……」
 彼女が俺の名をそう口にした時、不覚にもどきっとした。
 めぐるくん、か。女の子にそう呼ばれたのはいつ以来だろう。
 俺の内心の動揺など知らず、伊都は顎に手を当てて考え込み、しばらく考え込んでいた。やがて思いついたように唇を開く。
「……めぐめぐって呼ぶ?」
 思ったよりも、可愛いのが来た。
 さすがに面食らい、俺は慌てて彼女に告げた。
「悪いけど、それはお前限定だったとしてもさすがに恥ずかしい」
「え、そうかな。可愛くない?」
 伊都はきょとんとしている。まさか本気で俺に『めぐめぐ』が合っていると思っているのか。
「違う、可愛いからこそ恥ずかしいんだよ。忘れてもらっちゃ困るな、俺はもう三十一だ」
 三十過ぎの男を捕まえて『めぐめぐ』はかなり恥ずかしいし、石田や霧島に聞かれたらえらいことになる。あいつらなら俺がそう呼ばせていると思い込んでああだこうだと責め立てるに違いなかった。さすがの俺も彼女にそう呼ばせる趣味はないのであらぬ誤解は避けたいところだ。
「そっか、めぐめぐは駄目か……」
 冗談でもなかったのか、伊都は心なしか残念そうだった。
 そして逆に尋ねてきた。
「安井さんはお兄さんとか、ご両親からは何て呼ばれてたの?」
 それを聞かれると困る。

 というのも、俺が『めぐめぐ』呼びを拒否したい理由は、単に似合わないからだけではない。
 それどころか俺は小さな頃から、名前を縮めて女の子みたいに呼ばれるという罰ゲームのような状況を甘受してきた。そういう名前をつけられたのだから仕方ないというのも事実だが、大人になった以上は、そして好きな子にはもっと格好よく呼ばれたい。

 ともあれ、質問には正直に答えておく。
「いや、うちの親とか兄貴は、……めぐって呼んでたよ」
 正確には、親や兄貴は『めぐ』呼びで、弟は『めぐ兄ちゃん』だ。
 繊細な思春期の頃にはやめてくれと抗議したこともあったが、家族の誰一人としてそれを聞き入れてはくれなかった。
「子供の頃は結構からかわれたな。友達からはライアンって呼ばれてたし、ミュージカルで若草物語を観た時はずっとくすくす笑われてた」
 若草物語に登場するマーチ家の長女はメグだ。
 学校でミュージカルを鑑賞して以来、クラスの大人になりきれない連中からは女の名前だと散々からかわれた。毎度ダメージを受けるほど辛かったわけではないが、鬱陶しいのは事実だったし、もうちょっと男らしい名前だったらと思わなくもなかった。
「でも私も名前ではよくからかわれたよ。糸巻きの歌とかでめちゃくちゃネタにされたからね」
 まるでフォローでもするみたいに伊都が言った。
 とは言え彼女の表情には暗さがなく、彼女自身が自分の名前を気に入っていることがたやすく読み取れた。そうでもなければ毎度、自己紹介の持ちネタにはしないだろう。
「子供ってそういう単純なからかいが好きだからな。俺は伊都っていい名前だと思うけど」
 一月十日生まれだから、伊都。覚えやすくて可愛くて女らしい、とてもいい名前だ。俺は彼女の名前が好きだし、それを呼ばせてもらえることを誇りにも思う。
「私も、巡っていい名前だと思うよ」
 伊都が、俺を真っ直ぐに見る。
 やっぱり、彼女が俺の名前を口にすると心臓に来る。俺達の関係がまたいい方向へ変わっていくような期待感と高揚感がある。
「せっかく素敵な名前なんだから略さないで、巡くんって呼ぶ方がいいよね」
 彼女が悩みながらそう続けたので、俺はどぎまぎしながら打ち明けた。
「伊都にそう呼ばれると、何かちょっと、どきっとする」

 彼女に呼ばれると、この名前に深い意味があるようにさえ思えてくるから不思議だ。
 巡り巡って、こうしてもう一度、彼女と共にいる。向きあい、見つめあって日々を送っている。伊都が呼んでくれるなら、この名前も決して悪くはない。

 俺はそう思っていたのだが、
「……そ、それともやっぱり、めぐめぐにする?」
 伊都は今更照れたのか、急にそんなことを言い出した。
 いかに彼女が呼んでくれるのだとしても、それだけは断固拒否したいところだ。俺は面食らった後、仕返しのつもりで切り出した。
「じゃあ俺もお前のこと、いといとって呼ぼう。いいよな、いといと」
 たちまち伊都が耳まで真っ赤になった。
 かと思うといやに慌てふためいて反論してきた。
「ええ!? やだよそんなの、何か、何て言うかすっごい浮かれたカップルみたいだよ!」
 そうだ、まさに浮かれすぎて理性までどこかへ吹っ飛ばしてしまったカップルみたいだ。
 でも今の俺達はほとんどそういう状態だと思う。ささやかな幸せにも酔いしれて、二人暮らしの楽しさに浸ってはこの一瞬一瞬をしみじみ噛み締めている。それに『いといと』というのは実際可愛くていい。少なくとも『めぐめぐ』よりは全然アリだ。
「それは元からだろ。だったらとことん浮かれてやってもいいと思わないか、いといと」
 俺が駄目押しのように言うと、伊都は両手をぶんぶん振り回して制止にかかる。
「ご、ごめんなさい! 恥ずかしいのわかったからいといとって呼ぶのやめて!」
「口にしたら調子が出てきたな。よし、今夜はずっといといとで行こうか」
 寝る直前まで耳元で囁いてやる。いつも以上に名前を繰り返し繰り返し呼んでやろう。
 調子づく俺を、
「わあああ! わかった、もうめぐめぐって呼ばないから! 普通に呼ぶから!」
 伊都はもはや懇願の姿勢で止めてきた。
「そんなに恥ずかしがるなよ。その真っ赤になった耳たぶとか、いといとらしくて可愛いな」
「だからもうやめてってば! 恥ずかしくて死にそうだよ!」
 さすがにからかいすぎたのか、伊都が両手で自分の顔を覆ってしまった。

 それはそれで可愛くて、髪の隙間から覗く耳の赤さにもぐっと来た。
 だが、あまり追い詰めると怒られそうなのでこの辺りでやめておく。せっかく美味しい夕飯を作ってもらったのだから、意地悪いからかいはほどほどにしておくべきだ。

「俺も、普通に呼んでくれたらそれだけで嬉しいよ」
 しばらくしてからそう告げると、伊都か顔を覆う指の隙間からこちらを覗いてきた。
「……どんなふうに?」
「そうだな……呼び捨てでも、『さん』付けでも、さっきみたいに『巡くん』でも」
 俺は真っ当な候補を三つ挙げた。
 すると伊都は顔を隠していた両手を下ろし、赤みの引かない顔で上目使いに俺を見た。
「安井さんはどれがいいの?」
「俺が決めるのか? 伊都が呼びやすいのでいいよ」
「私は、呼び捨てって柄でもないし、かと言って『巡さん』ってのも遠い感じがするから……」
 おずおずと、彼女は言った。
「やっぱり、『巡くん』がいいかな」
 耳に馴染んだ伊都の声が俺を呼ぶ。
 それだけで無性に胸が高鳴り、訳もなく笑いたくなってしまうから不思議だった。
「いいな。俺もそう呼ばれるの、好きだ」
 途端に伊都の目が輝く。少し嬉しそうに意気込んでみせる。
「ほ、本当? じゃあ練習するよ、すんなり呼べるように」
「練習しないとすんなり呼べないもんか?」
「そりゃそうだよ、ずっと『安井さん』って呼んでたんだからさ」
「じゃあ今から名前で呼んでみてくれよ」
 俺がねだると、伊都は目を瞠り、次いで気後れしたような顔つきになる。
 更にその後で言いにくそうに、まるで愛の告白でもするみたいにぎこちなく唇を動かした。
「め……巡くん……。ご飯もうじきなくなるけど、お替わりする?」
「何で名前呼ぶ時だけちょっと言いよどむんだよ」
「慣れてないからだよ。安井さん、わかってるくせに」
 伊都は早々に俺を名字呼びに戻した。
 そうしたら何だか寂しい気分になったので、早く慣れてくれたらいいなと思った。

 好きな子に名前を呼んでもらえるというのは、やはり幸せなものなのだ。
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