Tiny garden

二人暮らしのルール(3)

 仕事がある日の朝は、彼女はとても早く起きる。
 まだ寝ている俺に気を遣ってか、ベッドからすり抜けるように音もなく出ていく。そのまま足音を忍ばせて歩いていくものの、俺の方は彼女の体温が離れた時点で自然と目が覚めてしまう。
 薄目を開けて窺うと、伊都はチェストから着替えを取り出している。今日は天気がいいそうだから自転車で行くのだろう。何を着ていこうか迷うこともあるようで、今日も引き出しを開けてから少し考え込んでいた。
 もっとも熟考も五分ほどで終わり、サイクルウェアを選び出した伊都はそれらを抱えて寝室を出ていく。俺がまだ寝ていると思っているはずなのに、彼女は決して寝室では着替えない。やがて書斎代わりにしている部屋の方から微かな衣擦れの音が聞こえてきて、俺は内心非常に残念がった。

 彼女との同棲生活が始まり半月が過ぎたが、たった一つだけ不満に思う点がある。
 それは伊都に隙がなさすぎるということだ。
 この通り着替えは俺に見えるところではしないし、入浴後も必ず洗面所でパジャマを着込んでから戻ってくる。せっかく楽しい二人暮らしを始めたというのに、俺の前で着替えをしてみせるとか、風呂上がりにバスタオル一枚でうろうろするとか、あるいは一緒に風呂に入るとかしてくれたらいいのにと思う。だが彼女にそれとなく水を向けても拒まれるばかりで、特に一緒の入浴は彼女に言わせれば恥ずかしいし、入浴の意味がないそうだ。
「安井さんと入ったらのんびりできなさそうな気がするし」
 伊都は警戒するような目つきで俺の提案を一蹴した。
 実際、のんびりさせるつもりはなかったのでご明察といったところだ。
 だが俺は諦めていない。この同棲生活を始めたのはやがて来る結婚生活のリハーサルでもあるし、もう片時も離れていたくない、一緒にいないなんて意味がないと思ったからだが、これまで普通に付き合っている段階では見られない彼女が見られるかもしれないと思ったのも理由の一つだった。
 ごく自然体の、飾らない、誰かの目を気にしていない彼女の姿を見られたら――伊都は俺ほど見栄っ張りでもないので同棲を始めてからも実に彼女らしい自然な、気取らない暮らしをしていたようだが、俺が望むようなサービスショットを拝める機会は未だ訪れていなかった。だからこそ諦められなかった。
 いつか彼女を上手いこと言いくるめて、バスルームに引きずり込んでやろうと思っている。

 しばらくの間、俺は消えゆく彼女の温もりに縋るようにベッドの中にいた。
 だがキッチンからいい匂いが漂ってくると、寝たふりにも飽きてさっさと寝室を出る気になった。
「おはよう、伊都」
 声をかけると、キッチンに立つ彼女が振り返る。途端にその顔が輝いた。
「あっ、おはよう安井さん。今朝は早いね」
「いい匂いがしたからな。お湯沸かしてもいいか?」
「いいよ、私も紅茶飲みたい」
「承りました」
 俺は返事をすると、やかんに水を入れて火にかけた。
 それから隣で弁当箱におかずを詰め込む伊都を眺める。サイクルウェアの上にエプロンをした彼女は今朝もきれいで、弁当を作る横顔は幸せに満ちていた。料理の時は伸ばしかけの髪を束ねるようになっていて、そのお蔭で丸くて可愛い耳や白いうなじを髪をかき上げなくても観察できるようになっていた。結んだ髪はすずめの尻尾みたいに短く、触ると上質の毛筆みたいに柔らかい。
「今日のお弁当は肉豆腐だよ。食べる頃には味染みて美味しいよ」
 俺に髪を弄られながら、伊都は笑って弁当を詰める。
 彼女が作ってくれる弁当はいつでも美味いし、朝起きて用意してくれるのはありがたいのだが、大変じゃないかとも思う。お互いに仕事をしているのだから無理をしなくてもいいとは言っておいたが、彼女は繁忙期に入るまでは続けたいと答えていた。
「お弁当の分少し残ったから、朝食べる?」
「いいのか? 喜んでいただくよ」
「もちろんいいよ。朝と昼のメニューが同じで、申し訳ないけど」
「俺は気にしない。伊都が作ってくれたものなら何でも美味いからな」
 そこで彼女は弁当の残りの肉豆腐を小鉢に盛り、俺の為に朝食を用意してくれた。

 代わりに俺は彼女の為に紅茶を入れ、彼女はそれを味わい、飲み終えたところで席を立つ。
「紅茶美味しかった、ありがとう。準備終えたら私、先に出るね」
 自転車で出勤する日は朝食を早めに、軽めに取るようにしているらしく、俺が起きてくる頃には大体済んでいるのが常だった。朝食を一緒に取れるのは雨の日と休みの日だけだ。寂しくないとは言わないが、彼女と暮らす以上は彼女の生活のリズムも尊重したいと思っている。
 伊都は自転車通勤用の鞄を身体に巻きつけると、朝食を済ませて食器を洗い始めた俺に言った。
「そろそろ行くけど、いい?」
「わかった、見送るよ」
 俺は玄関まで出て、先に出勤する伊都を見送ることにした。
 彼女はスニーカーの紐を丁寧に結ぶと、すっくと立ち上がって振り返る。
「行ってくるね。安井さん、また後で」
 これから会社に行くというのに、俺に向かってとびきりの明るい笑顔を向けてきた。
 その笑顔を見る度に『今日が休みだったらいいのに』と思いつつ、俺も表向きは爽やかに応じる。
「ああ、気をつけて」
「安井さんもね。じゃ、行ってきます」
 伊都が軽く手を挙げる。
 俺は応じる代わりに手を伸ばして彼女の顎を掴むと、軽く上を向かせてから唇を重ねた。
「……毎朝するよね、安井さん」
 一度目のキスの後で伊都が呟き、上目使いに俺を見る。
「いってらっしゃいのキスは定番だろ。忘れたら大変なことになる」
「何か支障でもあるの?」
「俺の仕事に差し障る。だから毎日しよう」
 そう告げて、今度は腰を抱き寄せつつ彼女の唇を塞ぐ。
 彼女は抵抗しなかったが、二十秒後にやんわりと俺を押しのけてきた。
「ねえ……いってらっしゃいのキスにしては、ちょっと長くない?」
「ばれたか。今のは違うやつだ」
 俺がにやりとすると、伊都は赤い顔で唇を尖らせた。
「仕事に、行きにくくなるんですけど……」
 こちらとしては、今の表情と言葉の方が余程効いた。
 なぜ今日は休日じゃないのかと、彼女が出ていってからもしばらく悶々とさせられた。

 彼女の出発から遅れること三十分後、俺も部屋を後にする。
 天気がいいので駅まで歩いて電車に乗った。伊都は今頃どの辺りを走っているだろうと考えながら、車窓を流れる景色を目で追った。俺も自転車の購入を本格的に検討しているところで、いつかは伊都と二人で自転車通勤ができたらと思っている。せっかく一緒に暮らしているのに一緒に出勤できないのは、やはり少し寂しい。
 会社に到着した後は一旦ロッカールームに立ち寄り、弁当箱をしまっておく。昼の楽しみがあれば今日も頑張れる。朝の肉豆腐も美味かったが、伊都の話では味が染みてもっと美味くなっているということだ。俄然期待したくなる。

 俺がロッカーの扉を閉めたちょうどその時、ロッカールームのドアが開いた。誰かが入ってきたなと振り返れば、霧島がこっちを見て会釈をした。
「あ、先輩。おはようございます」
「ああ、おはよう」
 挨拶を返すと、霧島もロッカーに荷物をしまい、すぐに扉を閉めた。
「今朝も奥さんと出勤か?」
 からかうつもりで声をかけてみる。霧島がよく夫婦で出勤していることは石田からも聞いており、正直に言えば大層羨ましいと思っていた。
「そうですけど、何か」
 霧島は生意気な態度で返事をした。
「何かって何だよ。聞いてみただけだよ」
「安井先輩がそうやって聞いてくる時って嫌な予感しかしないんです」
「どういう意味だ。お前のところの主任と比べたら俺なんて人畜無害だろ」
「ぶっちゃけどっこいどっこいです。同レベルですからね、お二人は」
 限りなく生意気に応じると、霧島はいそいそとロッカールームを出ていこうとする。
 俺が後に続くと、廊下で待っていた霧島夫人が顔を上げ、にっこり微笑んだ。
「安井さん、おはようございます。一緒だったんですね」
「おはよう。なぜか知らないけど君の旦那さんに睨まれたよ」
 告げ口する俺を霧島は改めて睨み、奥さんはくすっと笑い声を立てる。
「朝から仲いいんですね」
「どう見たら仲良く見えるんですか、ゆきのさん……」
 霧島は深々と溜息をついた。
 そして笑っている奥さんに言い聞かせるように、
「じゃあゆきのさん、俺はもう行きますけど、安井先輩には気をつけてくださいね」
「おい、どういう意味の警告だ。俺がお前のきれいな奥さんに危害を加えると思うか?」
「だって先輩とゆきのさん、行き先同じじゃないですか。何か不安になるんです」
 人事課と秘書課は同じ二階にある。ロッカールームから向かう道程もまるで同じだ。
 しかしたかだか歩いて五分の距離でもあるからして、霧島の不安は全く的外れと言うか、つまらん嫉妬でしかない。
「妻帯者の割に器が小さいな霧島。たった五分でも奥さんが他の男と歩いてると気になるって?」
「相手次第ですね。安井先輩だと気になるんです」
「そうかそうか。じゃ霧島を思いっきり妬かせる為にも、一緒に行きましょうか奥さん」
 俺が声をかけると霧島夫人も心得たもので、霧島に向かって小さく手を振る。
「映さん、お仕事頑張ってくださいね。心配なんて要らないですからね」
「ゆきのさんのことは信じてますよ。じゃあまた後で」
 霧島も手を振り返す。当然、俺のことなんぞは完全スルーである。それでいてさりげなく信用していないとまで言い放つ辺り、つくづく生意気だと思う。

 それから俺と霧島夫人は、並んで廊下を歩き出した。
「相変わらず、君の旦那さんは君にぞっこんらしいな」
 歩きながら、既に結婚一周年を過ぎた夫婦を冷やかしておく。
 あの結婚式からもう一年が過ぎたのだから、時が経つのは早いものだ。霧島夫妻の仲も何も変わることはなく仲睦まじい様子だった。
 かつて営業課でマドンナ扱いを受けていた霧島夫人は、相変わらず愛嬌のある笑顔で答えた。
「ええ、お蔭様で。幸せにやってます」
「それはよかった。幸せじゃないなんて言ったら、社内の野郎一同で霧島を袋叩きだ」
「でも最近は、安井さんも随分幸せそうですよね?」
 ふと、矛先がこちらへ向いた。
 予期していない問いかけではあったが、それほど驚かなかったのはある程度心構えがあったせいかもしれない。あるいは、石田や霧島ほどはツッコミが厳しくなさそうな霧島夫人が相手だったからかもしれない。
 俺が答えを保留にしたからか、霧島夫人はどこか物問いたげに俺を見る。
「噂になってますよ、総務部全体で」
 人事と広報で、というならまだ仕方ないかと言えるが、気がつかないうちに随分と広まってしまっているようだ。
「……どんな噂かな。事実無根だったら大事だ、聞かせてもらわないと」
「安井課長に春が来たんじゃないかって皆が言ってます」
 声を落とした霧島夫人が、尚も続ける。
「何だか最近幸せそうだって。仕事をしていても顔つきが違うし、残業を嫌がって早く帰るようになったって。それと手作りのお弁当を食べているのを見たという人もいて――」
 なかなか的確な噂だと、俺は心の中で感想を呟く。
 どうやら見ている人間は思いのほかしっかり見ているものらしい。別に今の状態で隠し遂せると思っていたわけでもないが、こうもはっきり言われるとさすがにそわそわした気分になる。
「参ったな。俺に何かあるとすぐ噂になっちゃうのか」
 俺は冗談のつもりで肩を竦めた。
 しかし霧島夫人は、旦那によく似た気真面目さで頷く。
「それは悲しむ子だって大勢いますよ。安井さんですから」
「全く、もてる男は辛いな」
「そうですね。でも私と、それから映さんは、むしろ嬉しく思います」
 微笑む彼女が、あ、と思い出したように言い添えた。
「それともちろん、絶対に、石田さんもですね」
 俺はその言葉に、何となく答えにくさを感じていた。

 伊都のことを打ち明けるのは、まず石田からと決めていた。
 それは別に霧島夫妻を蔑ろにしているというわけではなく、あいつとは伊都と同じくらい長い付き合いであること、そして去年しこたま慰めてもらったまま誤解を解いていないという理由からだ。さすがに今も失恋の痛手を引きずっているとは思われていないようだが、一時期でも酷く心配をかけたことは事実だ。正直に打ち明けたらどんな反応を寄越すか、さすがに想像がつかない。
 だが石田はこの時期多忙を極めていた。あいつ自身の結婚式を約半年後に控えているからだ。最近は結婚式場をようやく押さえ、衣装合わせを始めたところだと先日社内で顔を合わせた時に言われていた。俺の方の個人的な話をしたいと持ちかけるには、どうも時期が悪い。
 だからと言って、今この場で霧島夫人に事の次第を打ち明けるというのも微妙なところだった。夫人は伊都とも面識があり、秘書課時代の同僚として話もする間柄らしいので、ここで俺から打ち明けると伊都が慌てる羽目になるだろう。そして夫人から話を聞いた霧島に『俺には言わないでどうして妻に』とあらぬ不安を持たせることにもなる。この辺りの優先順位は割と重要だ。
 差し当たって、まず石田にはとっとと打ち明けてしまいたいのだが。

「石田の奴、最近忙しそうだからな」
 俺がそう口にすると、霧島夫人も頷いた。
「この間、藍子ちゃんとウェディングドレスの衣装合わせに行ったって言ってましたよ」
「言ってた言ってた。まだ衣装決めてもないのに浮かれてたな、あいつ」
 藍子なら何を着ても可愛いから悩む、写真を撮りまくってしまったなどと惚気を爆発させていた。そんな話を廊下ですれ違いざまに聞かされる側としては、まあめでたい話だからはいはいと聞いてやっているが、仕事中に不意打ちを食らうようで多少いい迷惑だった。
 とは言え近頃の石田を見ていると、明日は我が身という言葉が頭を過ぎることもある。
 俺も伊都だったらウェディングドレスは何を着ても似合うと思うし、早いとこ見てみたいとも思っている。きっと衣装合わせに出かけたら写真を撮りまくることになりだろうし、それを石田や霧島に自慢したくなるかもしれない。
 その時あいつらも同じように思うんだろう。めでたい話だがいい迷惑だ、でもはいはいと聞いてやろう、というように。
 そしていくらかは、幸せになってよかったと思ってくれるだろう、ほんのちょっとだけでも。
「もし噂の出どころと話す機会があったら、今はそっとしとけって言っといてくれ」
 別れ際、俺は霧島夫人にそう頼んでおくことにした。
 霧島夫人は考え込むような間を置いてから、穏やかな表情で答えた。
「わかりました。安井さん、今すごく幸せなんですね」
 表情とは裏腹に、その言葉にはどこか見透かしたような冷やかしの気配が含まれていた。
 どこまで見透かされているのかはわからなかったが――。
「……奥さんに冷やかされると、どう反応していいか迷うな」
 俺が困惑したのを見てか、霧島夫人は楽しそうに肩を揺すりながら笑った。
「やった。安井さんを困らせたって言ったら、映さんには感心してもらえそうです」
 この人は一体どこまで知っているんだろう。聞いてみたい衝動にも駆られたが、何となく、聞けなかった。
 小野口課長の食えなさにも通じるものがある、侮れない人だ。

 それにしても、『映さん』か。
 霧島とも長い付き合いなのに、まだ聞き慣れない呼び方だ。だがそれは、知っている中では霧島夫人だけが呼ぶ特別な呼び方だからかもしれない。俺も石田もあいつをわざわざ名前で呼んだりはしない。

 ところで伊都はいつになったら俺のこと、『安井さん』って呼ばなくなるんだろうな。
 何と呼んで欲しいか、具体的な希望があるわけではない。伊都が呼ぶんだったらフランクな呼び捨てでもぐっと来るだろうし、あえての『巡さん』でもなかなか、いいものだと思う。長らく『安井さん』と呼ばれ続けてきたのでこの呼び方にも愛着やら、いい思い出やらがあるのだが、将来は同じ名字になるのだ。そろそろ切り替えた方がいい。
 近頃では何を考えても、最後にはいつの間にか伊都についての思索に落ち着く。
 結局この朝も、俺は彼女のことばかり考えながら仕事を始めた。
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