Tiny garden

二人暮らしのルール(1)

 長い冬が過ぎ、ようやく春がやってきた。
 三月最後の土曜日、まだ風は冷たいが、梅はとうに咲き終えて次は桜を待つ頃だ。天気さえよければ日の光が温かく、春特有の強い風すら気にならないこともある。

 俺は彼女のアパート前に車を停め、外へ出てからあくびを一つした。
「安井さん、おはよう!」
 伊都がドアを開け、外へ飛び出してきた。上着も着ないで階段を駆け下りてくる彼女に合わせて、少し伸び始めた髪がふわふわと浮かぶように揺れた。
「ああおはよう、伊都」
 あくびを噛み殺しながら応じると、彼女は俺の顔を怪訝そうに見上げる。
「あれ、寝不足? 昨夜遅かったの?」
「実はあんまり眠れなかった、楽しみすぎて」
 今日がやってくるのをもう三ヶ月以上も前から待っていた。もちろんその間にしておくべき準備もいくつかあったが、本来なら面倒事であるはずのそれらの準備さえ楽しくこなすことができた。昨夜なかなか寝つけなかったのも、やるべきことをほとんど済ませてしまった手持無沙汰さゆえでもある。
「目も真っ赤だよ、大丈夫?」
 伊都は心配そうに言った後、くすっと笑い声を立てた。
「楽しみすぎて眠れないなんて、安井さんも小学生みたいなとこあるよね」
「昨夜が一人暮らし最後の夜だからな。早く終わって欲しくてたまらなかった」
 肩を竦めた俺は、その直後手を伸ばして彼女の伸びかけた髪に触れた。まだ肩に届く長さではないが、彼女によればどうにか結わえられるだけの長さにはなったらしい。触り心地のいいさらさらの髪を撫でると、伊都はくすぐったそうに目を細めた。
「そんなに楽しみにしてくれてありがとう」
 昨夜はお互いに、一人暮らし最後の夜だった。
 今日、伊都はこのアパートを引き払い、俺の部屋へと引っ越してくる。念願の二人暮らしが始まるとあって、俺は浮かれるを通り越して大はしゃぎしている有様だった。昨夜ほとんど眠れなかったにもかかわらず、気分が高揚してちっとも眠くない。
「掃除ほとんど終わってるから、荷物積んだら大家さんに鍵を返すだけだよ」
 伊都が二階にある部屋を指差しながら言った。
「じゃあ早速積み込むか」
 俺はその言葉に頷き、車のトランクを開けた。

 もともと小さな部屋で暮らしていただけあって、伊都の荷物は本人が言うほど多くはなかった。
 まず背の低い衣類チェストが二つ、箱にしまわれたデスクトップパソコンが一つ。パソコンデスクも既に分解されて箱に収められていた。
 三十二インチのテレビに関してはまだ映るということで処分をためらっていたようだったが、ちょうど広報の東間さんがテレビの買い替えを検討していたそうで、先日引き取ってもらったという話だった。お蔭でここ一週間ほどの伊都はテレビなしの生活を送っていたようだが、特に支障はなかったとのことだ。
 それ以外の家具は処分するなり、同様に人に譲るなどして荷物を絞り込んでいたそうだ。

 それでもさほど大きくない俺の車に一度で詰めるかどうかという量だったが、伊都はトランクと後部座席のみならず助手席にも段ボールを積み込んだ後、愛用の自転車を担いで階段を下りてきた。頭には一つしまわずに残しておいたヘルメットを被っている。
「やっぱ自転車は積めそうにないし、私はこれで走っていくよ」
「……本気か?」
 思わず俺は聞き返した。
 聞いたところによれば、伊都が住んでいたこの部屋からうちの会社までは十キロと少しの距離があるそうだ。そして俺の部屋はこのアパートから我が社を挟んで反対側の方角にあり、やはり会社までの距離は十キロ超といったところだった。
 つまりは、
「ざっと見積もっても二十キロはあるぞ。さすがにくたびれるだろ」
 自転車で漕いでくるにはいささか無理のある距離ではないか。俺は彼女を制止したが、言った後でふと、昔の彼女の言葉を思い出した――『たったの』十七キロだよ。大したことないよ、と言い放たれた時の二重の衝撃は未だに忘れがたかった。
「大した距離じゃないよ」
 案の定、伊都はさらりと言い切った。
 そして念を押すように続ける。
「でも安井さんより早くは着けないと思うから、荷物そのままにしといて。降ろすのも二人でやろ」
「いいよ、降ろしとくよ」
 俺は彼女の提案をやんわり拒んだ。
 実際、いかに彼女が健脚でも車と自転車じゃ勝負にならない。よほどの渋滞に巻き込まれでもしない限りは俺が先に着くだろう。そうなったら荷物を下ろしておいた方が手っ取り早いし、伊都の負担も軽くなる。
 合理的な意見だと思うのだが、伊都はそこで眉を顰めた。
「駄目、私の引っ越しだからね。安井さんにばかり負担かけられないよ」
「俺達の引っ越しだろ、二人暮らしになるんだから」
「それは確かにそうだけど……」
「ましてや近い将来家族になるんだから、遠慮なんか要らないよ、伊都」
 俺が言い聞かせると、伊都は少しはにかんでからようやく頷いた。
「わかった。でも無理はしないでね、安井さん寝てないんだし」
「心配しなくていい、寝てないけど頭は超冴えてる」
「それってハイになってるだけじゃない?」
「そうとも言うな」

 今回の引っ越しは単なる同棲生活の始まりというだけではない。
 将来的には結婚し、夫婦になることを見据えた上での二人暮らしの始まりだ。
 互いの実家にはもう報告を済ませていたし、近いうちにそれぞれ挨拶に連れていくことも約束していた。それらが滞りなく片づいたら来年度中には籍を入れようと話してもいた。結婚記念日をいつにするかが目下の悩みどころだったが、せっかくなので一月十日がいい、と俺は密かに思っている。
 何にせよ、伊都にも俺がただの同居人ではないということをわかってもらいたい。現状では婚約者であり、確定事項として未来の夫であり、家族になる相手なのだからもっと気安く頼ってくれていい。
 俺だって婚約者兼未来の嫁である彼女の為なら、どんな手間でも厭わないつもりだった。

「なら、今日の晩ご飯は私が作るよ。何がいい?」
 伊都が意気込んで尋ねてきたので、今度は俺が笑う番だった。
「今日くらいは楽しよう。引っ越し当日に料理する人間はそうそういないだろ」
「そうかな。やっぱ蕎麦とか食べるのが習わし?」
「蕎麦か、たまにはいいな。出前でも取るか」
 春風に吹かれながらそんな会話を続けていたら、アパートの大家さんが現れた。七十を過ぎていると思われる老婦人は空っぽになった部屋をざっと検分した後、伊都から部屋の鍵を返却され、代わりに手渡しで敷金を返していた。
「ご結婚されるんですってねえ、おめでとうございます」
 大家さんの言葉に伊都は大いに照れていた。
「ありがとうございます、何て言うか、めでたくご縁がありまして……」
 もじもじしながらそれだけ応じるのがやっとだったようだ。
 俺も初対面の相手に祝われるのは少々照れたが、当然ながら悪い気はしなかった。

 大家さんに挨拶を済ませた後、俺と伊都はアパートの前で一旦別行動を取ることになった。
「あとでね、安井さん。寝不足なんだから運転気をつけて」
「伊都こそ急がなくていいからな、ゆっくり安全運転で来てくれ」
 本音を言えば少しの間でも離れていたくはなかったのだが、下手なことを言うと伊都は本気で愛車をぶっ飛ばしてきそうなのでやめておく。やはり安全第一だ。
 オレンジのサドルに跨った彼女が軽快に走り出すのを見送った後で、俺も車を出した。
 信号で車を停める度、あるいは再び動き出す度に積まれた荷物がごとごとと賑やかな音を立てる。衣類などもあるからか、そこはかとなく彼女の匂いがするような気がして、一人の車内で俺はかえって寂しい気持ちになった。

 俺の部屋に着いたのも、当然ながら俺の方が先だった。
 車を駐車場に入れ、早速荷物を部屋の中へ運び込む。さすがに楽な仕事ではなかったが、伊都の到着前には全て済ませることができた。とりあえずできることをとパソコンデスクの箱を開け、組み立てを始めたところで玄関のドアが開き、伊都の声が聞こえてきた。
「ごめん、やっぱり私の方が遅かったね」
 彼女の声は少し慌てているようだった。
 すかさず俺も立ち上がり、玄関まで迎えに出る。
「荷物、全部運んどいた。自転車も部屋に入れるだろ?」
「あ、うん。全部やらせてごめんね、すぐにフック出すよ」
 二十キロも走ってきたせいか、さすがの伊都も汗をかいていた。見た目はキャスケット帽のようなヘルメットを脱ぐと、濡れた髪が額や頬に張りついていた。
 その汗を追い払うかのように伊都は大きく息をつき、俺に向かって申し訳なさそうな顔をする。
「でもごめん、その前にちょっと着替えてきていいかな。汗かいちゃって」
「もちろんいいよ。何ならシャワー使ってもいい」
「ううん、それは荷物片づけてからにする。汗拭くだけでいいよ」
 彼女はやや気忙しそうに、早口になって続けた。
「荷物も安井さんに運ばせちゃったし、待たせて悪いと思ってるんだけど……」
「悪いなんて思ってないし、俺が好きでやったことだ」
 伊都があまりにも恐縮しているから、俺は軽く笑い飛ばしておく。
「それにさっき言っただろ、遠慮する必要はないって」

 これからは二人暮らしだ。
 お互いに気遣うべきこともあるだろうし、労りあう必要もあるだろう。
 だが遠慮は要らない。伊都にはこの部屋でもできる限り快適に、楽しく、そして幸せに暮らして欲しいし、俺自身がそれを阻害するような存在にはなりたくない。したいこと、して欲しいことがあるなら正直に言って欲しいし、我慢はして欲しくない。
 もちろん俺だって彼女に見栄を張らず、遠慮だってしないつもりでいる。

「まず着替えておいで。その方が次の作業にも集中できるだろ」
 俺が促すと、彼女は苦笑いを浮かべた。
「ごめんね、ありがとう。すぐに済ませるよ」
「急がなくていいよ、あと謝る必要もない」
 同棲初日からそんなに気を遣って謝りまくっていたら、そのうち伊都が擦り減ってしまいそうだ。もっと俺みたいにふてぶてしく振る舞ってくれていいのに。
「これから長く一緒に暮らすんだから、お互い謝るのは本当に必要のある時だけにしよう」
 彼女には明るく笑っていて欲しいから、俺はそう告げた。
 伊都はゆっくりと瞬きをした後で大きく頷き、笑った。
「……うん、そうだね。安井さんの言う通りだよ」
 ずっと一緒にいれば、心から謝らなくてはならない機会だって必ず生じることだろう。そういう時は気持ちを偽らずに謝ればいい。
 そうじゃない時は謝罪の言葉よりも、もっと違う言葉が聞きたい。
 それは伊都だってわかっているんだろう。
「ありがとう、やっぱり安井さんは優しいね」
 感謝と共に言ってきたから、俺も笑って応じておく。
「優しさだけで言ってるわけじゃないよ、伊都が相手だから言ってる」
 玄関に立ちっ放しの彼女の頬を手のひらで撫でると、途端に伊都がびくりとした。
「だ、駄目だよ触っちゃ汗かいてるから!」
「俺は気にしないよ」
「私が気にするの!」
 彼女は愛車を一旦玄関へ収めてから、靴を脱いで部屋の中へ上がる。
「じゃあ着替えてくる! ちょっと待っててね」
 朗らかにそう言った彼女は、既に所定の位置に置かれている衣類チェストから着替えを取り出す。そして彼女を追って部屋へ入った俺に向かって、ふと訝しげな顔をしてみせた。
「安井さん、これから着替えるんだけど……」
「この先家族になるんだし、別にいいだろ。見てたって」
「よくない! と言うか何で普通に見る気になってるの!?」
「もう見たことあるし、今更隠す間柄でもないかなと」
 俺は平然と言ったつもりだったが、伊都には睨まれ、部屋の外へ追いやられた挙句、戸をぴしゃりと閉められた。
「安井さんの馬鹿!」
 同棲初日から馬鹿と言われてしまった。
 もちろんのことながら悪い気はしないし、非常に幸先のいいスタートである。

 着替えを終えた伊都と二人、その後も引っ越し作業を続けた。
 パソコンデスクを組み立てて部屋へ置き、パソコンも箱から出して机の上に設置した。段ボールの中身はこの時期着ない衣類や仕事用の資料、書籍、あるいは自転車を手入れする為の道具などで、そういった品もしまうべき物はしまい、並べるべき物はきちんと並べた。
 作業は無理せず休み休み行ったが、それでも日が暮れる頃にはめでたく一段落していた。

 夕飯は引っ越しらしく蕎麦を取ることに決めていたが、伊都が祝杯を挙げたいと言い出した。
「ちょっとだけでいいから飲まない? お祝いもしたいし」
 そこで俺は車を出し、二人で近くのスーパーにてアルコール類や軽いおつまみを買い込んだ。午後六時には蕎麦の出前を取り、届いた蕎麦とつまみが並ぶ食卓を囲んで、二人で缶ビールを掲げた。
「それでは、引っ越しお疲れ様でした。かんぱーい!」
「かんぱーい」
 伊都の朗らかな音頭に合わせて、ビールの缶をぶつけあう。
 彼女は実に美味しそうに喉を鳴らしながらビールを飲むと、ほうっと深い溜息をついた。
「一日で全部片づいちゃうとは思わなかったなあ。安井さんのお蔭だよ、ありがとう」
「どういたしまして。お前の為ならこのくらいは働くよ」
 俺が答えると、伊都はたちまち恥ずかしそうに目を逸らす。
「そういうの、面と向かって言われると照れるんだけど……」
「俺は言いたいから言ってる。本当のことだしな」
 すると彼女は何か言いたそうにしながらも、誤魔化すようなそぶりで缶ビールを口元へ運んだ。唇が嬉しそうに解けていたのがちらりと覗いていた。
 お互い疲れていたせいか酒の進みは遅かったし、それでも酔いが回るのは早かった。いつからか伊都はほんのり赤い頬をしてテーブルに肘をついていたし、俺も蕎麦を食べ終えた後は次第に瞼が重くなってきた。
「安井さん、眠い?」
 何度か伊都に問われて、かぶりを振った覚えがある。
「昨夜もあんまり寝てないんでしょ? ベッドに行ったら?」
 彼女が隣に来てくれて、俺の顔を覗き込んでくれたのも恐らく夢ではなかった。
 それで俺は彼女を抱き寄せ、温かい身体をそのまま床に押し倒した。何度か唇を重ねて、まだシャワーを浴びてないからと軽い抵抗を受けたが押さえ込んだつもりだった。
 だが途中で、夢と現実の境目が曖昧になった。柔らかい唇にキスしては意識が遠くなり、また戻ってきて目の前の顔に近づいて――と繰り返すうち、いつからか俺は彼女を抱き締めたまま心地よい温かさに落ちていった。

 ふと気がついた時、リビングの明かりはまだ点いていた。
 俺の身体にはタオルケットがかけられていて、俺は床の上に仰向けに横たわっていた。起き上がると、飲みの途中だったはずのテーブルはすっきり片づいていてきれいなものだった。壁掛け時計は午後九時半を差している。夕飯を食べ始めたのが六時だったから、いつ寝落ちたのかは不明だが二時間以上は寝入ってしまったようだ。
 と言うか、寝てたのか。俺は。

 それから我に返ってリビングを見回すと、伊都の姿がどこにもなかった。
 寝落ちる直前、確かに彼女を抱き締めていた記憶があるのだが、彼女は俺の隣に寝ていることもなければソファに座っていることもなかった。ただキッチンに目をやると、彼女の姿こそなかったが、洗い終えた蕎麦の丼が重ねられているのが見えた。
 俺はそれを見て、訳もなく幸せな気持ちになる。
 もう一人暮らしではないのだと、改めて実感する。
 それから耳を澄ますと、バスルームから水音が響いているのが聞こえてきた。どうやら彼女がシャワーを浴びているらしい。伊都がこの部屋のバスルームを使うのは初めてのことではないが、こうして断りなく使ってくれていると、ここが彼女にとっても『自分の部屋』になったように思えて無性に嬉しかった。
「……いや、喜んでる場合じゃないか」
 一人暮らし歴の長さからすっかり増えた独り言の後、俺は立ち上がってタオルケットを畳んだ。
 記念すべき同棲初日から何を寝落ちているのか。ここはしっかり目覚めておかないと、もったいないじゃないか。
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