Tiny garden

幸せのはじまり(6)

 俺達が観たのは、よくあるラブコメ映画だった。
 筋書きは果てしなくありきたりで、思い込みの激しいヒロインが自分なりの恋を求めて東奔西走するが、彼女を想い大切にしてくれる相手は実はすぐ傍にいた――という、開幕五分でオチがわかるような内容だ。これでもし予想通りのエンディングが来なければ逆に観客が暴動を起こすだろう。デートムービーに衝撃のラストは必要ない、俺達にとってもそうだった。

 映画のヒロインはフットワークこそ軽いがいささか直情的で、人の話を聞かない傾向がある。その辺りは正直、園田にも似ていた。園田も身につまされるところでもあるのか、序盤のヒロインの暴走は神妙な顔つきで観ていた。俺はと言えば、そんな園田がおかしくて笑いを堪えるのが大変だった。
 ホットドッグは上映前に食べてしまったので、俺は右手で園田と手を繋ぎ、左手にポップコーンを持って時々彼女に差し出した。彼女の左側に座ったのには訳がある。どの辺りで指輪を渡そうか、光るスクリーンを見ながら考えていた。
 どんなエンディングを迎えるかはわかっている。不安はない。
 ただ園田が映画に夢中になっていたら、その時は邪魔にならないタイミングを見計らう必要があるだろう。
 二人きりで観ていた頃は邪魔してばかりだったからな。プロポーズの時までそれでは、一生言われそうな気がする。

 しかし、気がつくと園田は俺を見ていた。
 光る映画のスクリーンとは対照的に、客席は照明が落とされていて薄暗い。園田の顔はスクリーンから光を浴びて白く浮かび上がるように見えた。表情は笑っているわけでも困っている様子でもなく、ただちらちらと視線を向けてくるので、俺はしばらく横目で窺った後、声に出さず口だけを動かして尋ねた。
『何?』
 すると彼女はかぶりを振った。何か言いたいことがあるわけではないようだった。
 だがそれからも園田は俺をじっと見つめていて、俺が繋いだ右手に力を込めても微動だにしない。どうかしたのかと見つめ返してみたが、彼女は微かに笑っているだけだった。
 幸せそうな顔だった。
 その顔を見たら俺も決心がついて、左手に持っていたポップコーンの容器を彼女に差し出した。
「悪い。少し持ってて」
 小声で囁くと、園田はすぐに頷いて容器を受け取る。二人で結構食べていたから中身は大分減っているはずだ。園田がその中を覗き込んでいるうちに、俺は繋いでいた手もそっと離して、自分の手を拭き始めた。手はきれいにしておかなければいけない。俺のもそうだが、彼女のもだ。

 自分の手を拭き終えると俺は園田の小さな左手を取り、指の一本一本を丁寧に拭いてあげた。園田は目を瞬かせていたが特に抵抗もせず、されるがままだった。関節の目立たない女らしい指を清めた後、俺は上着のポケットに隠していた指輪を取り出した。
 指輪を通す為、左手の薬指をつまんで軽く持ち上げた時も、園田は黙っていた。
 結婚を控えた人間にとっては特別な意味のある指だというのに、彼女は予感すらしていないようだ。全く抵抗もせずに俺の行動を受け入れた。
 だからマンダリンガーネットの指輪も、彼女の指にすんなりと通った。
 細い指の付け根までゆっくりと下ろしていくと、指輪はスクリーンの光を受けて美しく輝いた。
 そこまで来てようやく、園田は事態に気づいたようだ。奥二重の瞳を大きく瞠り、自分の左手をまるで初めて見るもののように凝視している。表情は張りついたように固まり、しばらく指輪を見下ろした後でこわごわと面を上げて俺を見た。唇が震えているように見えたが、何も言えないようでもあった。
 俺は彼女に笑いかけると、今まで持っていてもらったポップコーンの器を彼女から受け取る。
「ありがとう。あとは俺が持つよ」
 園田は返事もせず、もう映画を観る余裕もない様子で自分の左手を見ていた。女らしいほっそりとした手にシンプルなデザインの指輪はとてもよく似合っていたし、左手の薬指に俺が贈った指輪があるというだけで、俺自身も深い充足感を覚えた。

 この手も、遂に俺のものだ。二度と離さない。
 やがて彼女は指輪をした手で、俺の右手を強く握ってきた。動揺のせいか急に冷たくなった彼女の手は震えていて、手を繋ぐことすら満足にできないようだった。俺が指を絡めるようにして繋ぎ直すと、しばらくしてから彼女の手の震えは収まり、冷たかった手にもゆっくりと体温が戻っていった。
 それから俺は視線をスクリーンへ戻した。いくつか見逃したシーンはあったがそれでも結末は予想通りだろうし、その上でエンディングを見届けたかった。
 園田がスクリーンを見ずに繋いだ手ばかり見ていたから、余計にそう思った。

 映画鑑賞を済ませた後、俺達はモール内にあるカフェで休憩することにした。
 園田はすっかり興奮していて、映画館を出た時から頬は真っ赤に上気していたし、雲の上でも歩いているみたいに足取りもふわふわしていた。アイス豆乳ラテを注文して一息つくと、溜息まで震えてのがおかしかった。
 豆乳ラテのカップに添えた左手には指輪が光っている。彼女は何度も何度もそれを眺めては俺に礼を言ってくれた。
「指輪、ありがとう。この宝石、すごくいい色だね」
 どうやら気に入ってもらえたようで、俺もほっとした。
「そう言ってもらえてよかったよ。マンダリンガーネットだ」
「マンダリンガーネット……へえ、こういう色のガーネットもあるんだね」
 彼女が宝石の名前を繰り返す。

 ガーネットにしようと思ったのは彼女が一月生まれだからだが、この宝石の色を見せてもらった時、これしかないと思った。
 実際に指輪をしているところを見てもそう思う。透き通ったオレンジ色は、オレンジのサイクルウェアと同じくらい彼女によく馴染んでいた。いつでも晴れの日みたいに明るく輝いている園田に、オレンジ色はこの上なくよく似合う。

「園田にはオレンジがいいと思ったから」
 俺は何でもないそぶりで打ち明けようとした。
 だがどうも、得意げな口調になってしまうのを抑えきれなかったようだ。そこで園田はとても楽しそうに笑い始めた。
「だから、色を変えない方がいいって言ったんだ」
 彼女が言っているのはサイクルショップでの会話についてだろう。
 愛車の色を変えたいと園田が言い出した時、俺は慌てて止めてしまった。勘のいい奴ならそこで『なぜ止めたのか』を考えるのだろうし、場合によってはこちらの意図にも気づくのだろうが、どちらにせよ渡してしまえば明らかになる話でもあった。
「そう。お前が『カラーリング変えたい』って言った時、少し焦ったよ」
 だがこうして、指輪を無事に渡すことができた。
 そして園田は、マンダリンガーネットを気に入ってくれたようだ。
「もうずっと変えられないなあ、色」
 指輪を見つめながら呟く園田の瞳は潤んで揺れていて、まるで泣き笑いの表情にも見えた。
 それでいて、映画館で見た時と同じように、幸せそうだった。

 同時に俺も幸せだった。園田が俺の前で、俺のしたことによってこんなにも嬉しそうにしてくれている。それだけで俺はこれから先、何だってできると思う。
 結婚生活に必要なのはまさにそういう気持ちだろう。
 彼女の為なら、何でもできる。

「だけど、指輪をくれるなんて思わなかったな……何か、こういうことしなくてもいいところまで、話が進んでるって思ってたから」
 園田がはにかんで言った。
 確かにそうなのかもしれない。プロポーズめいたことはこれまで何度も口にしていたし、合鍵を渡し、一緒に住む算段をして、園田は引っ越しの準備さえ始めていた。お互いに結婚について言葉にして語り合うようになっていた今、改めてプロポーズなんて園田には想像もつかなかったのかもしれない。
 だが、いつだったか石田も言っていた。
 今更だとしても、あえて形式的なことをする方が、女の子は喜ぶものなのだ。
 俺も園田を喜ばせる為なら何でもするつもりでいた。だから指輪を用意した。
「こういうことはきちんとやっておかないと格好つかないだろ」
 俺は言って、彼女の左手に目をやる。
 すると園田も俺によく見えるよう、紙のカップに添えていた左手を軽く上げてくれた。
「ありがとう。嬉しかったよ」
 彼女の言葉に、俺は頷いた。
「ああ。俺も、喜んでもらえてよかった」
「でも私、指輪のサイズを教えたことあった? 話してなかったと思うんだけど」
「昔から知ってたよ」
 知っておきたくて、彼女が寝ている隙に測ってみたことがある。最近になって測り直す機会があったが、四年前と何も変わらなかった。
 四年越しになってしまったが、ようやく指輪を渡せてよかった。
「改めて、言わせて欲しい」
 俺は背筋を伸ばし、彼女を真っ直ぐに見つめた。
 彼女が瞬きの後で俺に視線を返す。どこか怪訝そうにしながらも口元は笑っていた。
 そんな彼女に俺は告げた。
「……結婚しよう、伊都」

 名前を呼んだのも四年ぶりだった。
 可愛くて、一度聴いたら忘れられない、とてもいい名前だと思う。一月十日生まれだから、伊都。その名前を今日呼ぶことができたというのも幸せなことだ。
 ただ久々すぎたせいで自然に呼べたかどうかは怪しいものだった。

「久し振りに呼んだな。何か、気負ったみたいになって恥ずかしいけど」
 俺が照れると、彼女もぎくしゃくした動きで頷く。
「あ、うん。すごい、久し振りだね」
「昔も何度か呼んでみたけど、慣れなかったからな、お互い」
 四年前から、ずっと呼びたいと思っていた。当たり前だが社内では他の誰も呼んでいない彼女の名前を、俺が呼べたらいいと思っていた。独占欲を満たしたいという気持ちがあったのも事実だし、その上で俺は、彼女の名前も好きだった。
 だが俺はその前から何年も彼女を『園田』と呼んでいたから、名前で呼ぶのはお互いになかなか慣れなかった。何度か試してはみたがその度に彼女は照れるを通り越して狼狽し、微妙な反応を見せた。それを繰り返すうち、やがて園田の方からやんわりと、先延ばしにすることを提案され――結局あれから四年も呼べないままだった。
「でも、これからは呼ぶよ。ずっと『園田』じゃ夫婦っぽくないもんな」
 これから俺達は同じ苗字になるのだから、名字で呼びあうと不便だし、それに何だかもったいない。
 一月十日生まれだから、伊都。俺が好きな彼女の名前を、これから大切に呼んでいきたいと思う。
 彼女は――伊都は、また瞳を潤ませて俺を見た。うるうると水面みたいに揺れる瞳で俺を見つめ、燃えるような真っ赤な頬をして、唇は幸せそうにほどけて柔らかく笑んでいる。その唇が動いて、彼女は優しい声で言った。
「うん。何て言うか……いい夫婦になろうね、私達」
「そうだな。さっき見た映画の結末みたいに」
 俺も万感込めてそう答えた。
 だが予想通り、伊都は映画の結末をちゃんと見ていなかったらしい。最後はどうなったのかと聞かれたから、俺は見た通りの結末を彼女に教えた。
「王子様はすぐ近くにいた。それに気づきさえすれば幸せになれる。そういう物語なんだ」
 どこにでもあるようなありふれた筋書きだが、だからこそ誰もが幸せな幕引きを願うものだ。
 俺達もまた同じように、予想通りの幸せを皆に願ってもらえるような夫婦になりたい。そう思う。

 こうして俺は無事に指輪を贈り、正式なプロポーズを済ませることができた。
 ただこれから彼女と共に暮らしていくに当たり、もう一つだけクリアしておきたい問題があった。
 誕生日の予定を全てこなし、ショッピングモールを後にしてから、俺は彼女を自分の部屋へ招いた。そして彼女に、ずっとしまっておいたプレゼントの包みを差し出した。
「これ、貰って欲しいとは言わない。でも隠し事もしたくないから、見ておいて欲しい」
 俺が切り出すと、ソファに座っていた伊都はきょとんとした。
「え……どういうこと? これ、私に?」
「四年前に買った。誕生日プレゼントのつもりで」
 買った直後は忙しくて、だから二人きりで会えたらいつでも渡せるようにと車の中に積んでおいた。
 だがそこまでしても、彼女に渡すことはできなかった。
「四年前……」
 俺の言葉を繰り返した伊都の表情が強張る。
 すかさず俺が隣に座ると、気まずげに口を開いた。
「あの時も買ってくれてたんだ……あの、ごめん、私――」
「過ぎたことだろ、謝らなくていい」
 彼女の髪を撫でながら言葉を遮ると、むしろ俺の方が気まずくなって少し笑った。
「渡せないままずっと持ってたからな。捨てられなかったし、忘れられなかった。つくづく暗いよな」
「ううん、そんなことない」
 伊都は強くかぶりを振ると、真面目な面持ちで続けた。
「これ、貰ってもいい?」
「中身見ないうちからか? 四年前に買ったやつだよ、もう古くなってる」
「悪くなるようなものなの?」
「そうじゃないけど、伊都が恥ずかしいだろ。古いモデルのやつだと」
 そこまで言われても彼女は中身が予想できなかったようだ。唇を引き結んでから言った。
「開けてみてもいい?」
「いいよ。俺も見て欲しかった」
 俺が即答すると、伊都は変色してしまった包装紙を丁寧に剥がした。そして中から現れた箱の蓋を開け、現れた革ベルトの腕時計を見て目を丸くした。
「あっ、腕時計! わあ……すごく可愛い!」

 細いブラウンの革ベルトと、ピンクがかったゴールドで縁取られた文字盤。女物らしくやや小ぶりのデザインで、当時デート用にと服を買い直した彼女に似合うものをと選んだ。
 だがいかんせん四年前のモデルだ。今となっては同じものを店頭で購入できないだろう。腕時計自体は長く使うものだし、革製品は使い込めば味が出るというが、これはベルトも文字盤も新品同様でかえって不恰好かもしれない。だから無理して身に着けて貰おうとは思わなかったのだが――。

「やっぱりこれ、貰ってもいいかな。大切にするから」
 伊都は目を輝かせて俺にねだった。
「いや、四年前に買ったやつだよ。腕時計が欲しいならまたの機会に新しいのを買おう」
「ううん、これがいいんだよ。四年前の安井さんが買ってくれたこれがいい」
 嬉しそうに笑んだ彼女は箱から腕時計を取り出し、自分の左手首に巻きつけた。近頃の彼女は俺と会う時、愛用のスポーツウォッチを外してくるようになっていた。だがそのことを指摘すると真っ赤になって拗ねるのも知っているで、俺も近頃は言わないようにしている。
 四年前にイメージしていた通り、彼女のほっそりした手首とデート用の服装に、革ベルトの腕時計はとてもよく似合っていた。だが俺はまだ受け入れがたく、伊都が懇願の眼差しを送ってくるのに困惑していた。
「なあ、もし俺に気を遣ってるんだったら……」
「そういうのじゃないから! 本気で欲しいんだって、見てわからないかな」
 そこで伊都が怒ったように唇を尖らせたので、俺は短く溜息をついた。
「本当にいいのか。新しいの買ってもいいんだぞ」
「これがいいの。大切にするよ」
「古いやつだと着けてて恥ずかしくないか?」
「四年前に貰ってたって、今でも使ってたと思うよ。同じことでしょ?」
「かもしれないけど……さすがに縁起悪いだろ。俺達が一度別れたやつなのに」
「それを四年経ってから貰えたっていうのは、いい巡りあわせじゃない?」
 伊都は朗らかに言い放つと、腕時計のベルトを締めた。
 薬指に指輪を、手首に腕時計をした左手をどこか誇らしげに掲げたかと思うと、俺に向かって笑ってみせた。
「安井さんが私の為に考えて選んでくれたってだけで、私はすごく嬉しいし、大切にするよ」
 それはわかっている。彼女は物を大切にするだろうから、俺が贈ったものだってずっときれいに使い続けてくれることだろう。
 だからこの腕時計も、たとえ四年前に贈っていたとしても、今みたいに新品同様の輝きをしていたかもしれない。
 そう思うとようやく俺も、かつての思い出を受け入れる気になれた。
「そこまで言うなら貰ってくれ。遅くなって悪いけど」
 俺の言葉に、伊都はいい笑顔で応えてくれた。
「ありがとう安井さん! 今日は最高の誕生日だよ!」
 そんなふうに言ってもらえて、俺もとても幸せな気分だ。
 感謝を込めて、俺は彼女を抱き寄せた。そして耳元でこう囁いた。
「まだここは幸せの始まりだ。来年の方が最高の誕生日かもしれない」
 すると伊都は顔を上げ、しばらく俺を見つめてから照れた様子で言った。
「今より幸せな誕生日って、ちっとも想像つかないよ……」

 なら俺が、それを必ず見せてやる。
 いつでも昨日より幸せな今日を、彼女と共に過ごしていきたい。
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