Tiny garden

幸せのはじまり(5)

 一月十日の朝は、温かいまどろみの中で始まった。
 うとうとしながらも、隣に園田がいるのを感じている。同じ布団に包まりながら、彼女の体温とすべすべした肌の感触を確かめている。
 こうして目覚める瞬間、隣に彼女がいることが何よりも幸せだった。もしかしたら人生において無上の幸せとは、冬の朝、暖かい布団の中に愛する人と二人でいることかもしれない。

 そんなことを考えつつまどろんでいると、不意に閉じた瞼の向こうで眩しい光がちらついた。
 はっと目を開くと、いち早く起き上がった園田がベッドの横のカーテンをめくり、窓の外を覗いているところだった。差し込む光を浴びた白い背中が朝日以上に眩しかった。
「……おはよう。早いな、起きるの」
 俺が声をかけると、彼女はすぐに振り返る。
 同時にその手からカーテンが逃げるように離れ、寝室には程よい薄暗さが戻ってきた。
「ごめん、起こしちゃった?」
 園田は目を擦る俺を見て笑っていた。一月十日、一つ歳を取って二十九になった彼女の、この日初めての笑顔は晴れやかだった。
「いや、起こして欲しかったからちょうどいい。もう朝だろ?」
 彼女の誕生日を祝う為、今日は予定をみっちりと入れていた。買い物をして映画を観てお茶を飲んで――そういうものを全て余裕を持ってこなすには、早めの出発の方がいい。
 正直、昨日上着のポケットに指輪を隠してからというもの、そわそわと気が逸っているのも事実だった。早く渡したい。園田を驚かせてみたい。
「うん。何時かは見てないけど」
 彼女の言葉に、俺はベッドの枕元へ手を伸ばす。
「時計ならここにある」
 布団から腕を出すと、剥き出しの皮膚に冷え込んだ朝の空気が染みた。手探りでいつもの位置にある腕時計を掴み、引き寄せてから文字盤を覗き込む。朝の六時半だった。

 出勤日なら少し寝坊をしたかと慌てる時刻だが、休日なら早いくらいかもしれない。
 もっとも園田は休みの日でもやたら早起きだ。今日は特に彼女の誕生日だから、早く目が覚めてしまったのかもしれなかった。
 俺はまだ少し眠い。それと寝室の空気が思ったよりも下がっていて、布団の中から出たくない。だが園田を一人で起こしておくのも気が引けるし、部屋の暖房を入れさえすれば起きる気になれるだろう。

「六時半か。午前中から出かけるんだったらちょうどいいくらいかな」
 自分への発破のつもりで言うと、上体を起こした園田が俺に笑いかけてくれた。
「休みなんだし、まだ寝ててもいいんだよ」
 それが『もう少し二人で寝ていよう』という誘惑なら喜んで乗るが、園田は既にちっとも眠そうではなかった。
「お前が二度寝に付き合ってくれるならそうするけどな」
 俺が確かめようと切り出せば、彼女はまるで脅かすように応じてくる。
「二度寝なんかしたら、私は本格的に起きられなくなるよ。いい?」
「それもそうだな。起きるか」
 口ではそんなことを言ってみたものの、俺はまだ布団の暖かさに抗えそうになかった。向こうがしてくれないならこちらから誘惑しようと、腕を伸ばして起き上がっている園田の身体を捕まえる。彼女は気を抜いていたのか、俺が引き寄せるとあっさりと倒れ込むように布団の中へ戻ってきた。
 腕の中に戻ってきた彼女の肩や背中は、朝の冷気ですっかり冷たくなっていた。にもかかわらず園田は俺の方を向き、苦笑気味に尋ねてきた。
「起きるんじゃなかったの?」
「ちょっとだけ。あと五分」
「もう……いいけどね。お休みだし」
 ありがたいことにお許しが出た。

 そこで俺は二十九歳になったばかりの園田を力の限り抱き締め、布団の中で脚を絡めて逃げられないようにした。
 彼女の脚は上半身ほどは冷たくなかった。冷えた背中を布団と俺の腕で温めていると、園田が顔を上げてきたので、至近距離にあるその顔に告げておく。
「誕生日おめでとう」
 去年の一月十日は、朝のうちには言えなかった。
 こうして朝一番に誕生日を祝えるのは今の俺の特権だ。そして、幸せなことだ。
「ありがとう。やっぱり嬉しいね、お祝いしてもらえるのって」
 園田もまた幸せそうに口元をほころばせる。
 下唇の方が厚みがある彼女の唇は、寝起きだというのに艶があり、薄暗さの中でもきれいな色をしていた。俺は誕生日最初のキスをする為に目を閉じ、唇を重ねた。園田も自然にそれを受け入れてくれた。
「二十代最後の一年間の幕開けだな。若々しくて羨ましいよ、全く」
 唇を離してから、俺は笑って呟いた。
 出会ってからもうじき九年、当たり前のように成長も変化もしている園田だが、その朗らかさと可愛らしさは一向に衰える気配がない。彼女ならこの先何年経っても、何十年経っても朗らかで可愛いままだろう。
「二つしか違わないのに年上ぶっちゃって」
 園田がなぜか俺をからかってきたので、俺も誇らしげに言い返した。
「年上は年上だろ。俺はもう三十代だし、人生の先輩だよ」
 そして人生の先輩なりに彼女の誕生日の始まりを祝ってやろうと、抱き締めた園田の髪を撫で、その隙間に覗く耳を指先でくすぐった。彼女が軽く身を捩ったので、唇や顎や肩に俺の唇で触れてみた。どこもまだひんやりと冷たくて、起きる前にもう少し温めてやった方がいいと感じた。
「……起きるんじゃなかったの?」
 彼女は俺の魂胆なんて見透かしたみたいに、先程と同じ問いかけを口にする。ただ先程よりも吐息まじりの声になっていた。
「もうちょっとだけ。二十九歳初日のお前を堪能してから」
 俺は彼女にねだると、拒まれなかったのをいいことにしばらく彼女の身体を温めた。愛情込めて、念入りに温めたせいで起きるのはやや遅くなったが、園田は俺を責めなかったし、俺も悪いことをしたとは思っていない。

 準備をして、正午近くに部屋を出た。
 祝日だけあって道は混んでいたし、どこも人出が多いようだ。車を走らせているうちに振袖や羽織袴に身を包んだ若者達を何度か見かけた。今年の成人の日は一月十日だ。その日に彼女が誕生日を迎えるというのもなかなか面白いなと思う。
 そんな誕生日の園田がまず指定したのは買い物だった。俺はてっきり服でも買いに出かける気なのかと思っていたが、さすがは園田、ナビをしながら俺を誘った先ではサイクルショップが待ち構えていた。

 俺にとっていわゆる自転車屋とはおじさんが一人でやっているような小さな店という印象しかなく、子供の頃はパンク修理を頼みに出かけては、タライに張った水の中にチューブを沈めるおじさんの作業を見守った覚えがある。もちろんそう頻繁に行くものではなく、実家に住んでいた頃でも年に一度足を運ぶかどうかという程度だった。
 しかしここのサイクルショップは俺の記憶にあるものとはまるで違った。広い店内に何十台と陳列された自転車と各種パーツの他、ヘルメットやサイクルウェアまで豊富に取り揃えている。その眺めと言ったらまさに自転車王国と呼ぶのがふさわしい。店員もおじさん一人というわけではなくざっと見たところ四人はいたし、そのうちの一人と園田は挨拶をしていたが、しっかり名前を覚えてもらっていた点を見るにどうやらこの王国の常連扱いらしい。タイヤのゴムと機械油の混ざり合う独特の匂いだけが、俺の記憶の中にある自転車屋と唯一同じだった。

 自転車王国の内部を歩く園田は、俺をパーツばら売りのコーナーへと案内した。
 これも初めて見る光景だったが、店内にはサドルやハンドルといったパーツが単品で販売されており、それを好きにカスタマイズして自分で組み立てるなり、店に頼んで組み立ててもらうなりできるらしい。
 園田はその売り場でサドルやハンドルなどを熱心に見ながら言った。
「そろそろカラーリングを変えたいと思ってて。ずっと今の色のままだったでしょ」
 だがそれを聞いた時、俺は内心焦った。
 なぜかと言うと、彼女の自転車のカラーリングに合わせて指輪を選んだからだ。今日ここで変えられたら間が悪い。
「色変えちゃうのか。今の色、園田にすごく似合ってるのに」
 俺が残念がると、園田は嬉しそうに目を細めた。
「そう? 私も気に入ってるから嬉しいな」
 気に入っているなら尚のこと、なぜ色を変える必要があるのか。俺は彼女を説得しにかかった。
「なら変えるなよ。俺としてはオレンジって園田の色なんだ」
 そう言われて、園田はきょとんとしていた。本人にはあまり自覚がないものらしい。
「去年、自転車通勤の時には大抵オレンジの服を着てきてただろ」
「ああ、それはね。愛車の色に合わせたんだよ」
 彼女が頷いたので、俺は更に続けた。
「それに天気予報の晴れのマークはオレンジ色だ」
 今更な話だが、これを打ち明けるのは少し照れた。
 いつからか、天気予報を見る目的が変わっていた。昔とは違う理由で毎日天気予報を確かめるようになっていた。
「だから、天気予報を見てるといつも園田のことを考える。明日は晴れだから自転車で来るかなとか、夜には雨が降るっていうから電車だろうな、とか」
 それも始まりは去年の一月十日だったのかもしれない。
 雪が降って、朝、偶然園田に会えた。そのことをとても印象深く思っていたから、俺は彼女を追い求めるが如く天気予報を熱心に見るようになった。
「雨の方が一緒に帰れるから嬉しいけど、晴れの方がお前には似合ってる。そういうことを、天気予報を見ながらいつも考えてる」
 俺の言葉に、園田は照れたように唇を結んだ。瞬きの多い瞳が恥ずかしそうに俺を見て、しばらくしてから言われた。
「……じゃあ、次もオレンジ系にしようかな」
 俺も園田がそう言ってくれてほっとした。だから強く念を押した。
「その方がいい。よく似合ってる」
 きっとこれから渡す指輪とだってよく似合うに違いない。
 上着のポケットに隠した指輪は、まだひっそりと出番が来るのを待っている。

 カラーリングを変えることを取り止めてくれた園田は、ハンドルに巻くバーテープだけを購入することにしたようだ。それもやはり鮮やかなオレンジ色を選んでいた。
 その後で今度はペダルのコーナーに足を運んで、いくつか興味深げに見て歩いていた。俺は彼女についていきながら、時々彼女に素人丸出しの質問をぶつけた。
 特に気になったのは、園田が食い入るように見ていたペダルだ。普通のものよりも小さく、形も微妙に違っている。とても靴底を乗せて安定させられるとは思えないサイズと形状をしていた。
「これって普通のペダルじゃないのか? ちょっと小さいけど」
「うん、靴を固定して漕げるペダルだよ。前からちょっと欲しかったんだよね」
「へえ、いろんなのがあるもんだな。これを使うと速く走れるようになるとか?」
「速くと言うより、漕ぎ易くする為のものかな。足の位置が固定されると安定感が違うからね」
 自転車について語る時の園田は実にいきいきしている。人間誰しも自分の好きなものを語る時は表情が変わるものだ。霧島がお気に入りのアーティストと奥さんについて語る時、あるいは石田がカメラと彼女について語る時と同じような顔つきを、今の園田もしていた。俺について語る時もこんな顔をしてくれていたらいいのだが――などと、ちょっと思ってみたりもする。
「安井さんの部屋から会社までって、坂道いっぱいある?」
 そしてふと、園田が俺に質問をぶつけてきた。
 唐突な問いに俺は困って苦笑した。さすがに会社までオール徒歩で通ったことはないし、車だとわかりにくい勾配の坂道もあるだろう。とりあえず知っている範囲で答えておく。
「いきなり聞かれてもわからないけど、車で走った感じだと、行きは長い上り坂があるな。陸橋のとこ」
「そっか……一度、試しに走ってみた方がいいね」
 すると彼女は真面目な顔で考え込み始めた。どうやら一緒に住んでから通勤をどうするか、考えているらしい。
「やっぱり、結婚してからも自転車通勤するのか」
 今度は俺が彼女に尋ねた。
 そうだろうとは思っていたし、園田がそうしたいならやめさせるつもりはなかった。俺の部屋から会社までの距離も相当なものだが園田なら苦でもないだろう。事故にだけ気をつけて、楽しく走ってくれればいい。
「駄目? 安井さん、私と一緒に出勤したい?」
「そりゃしたいよ。でも園田の楽しみを奪っちゃ悪いからな」
 彼女の問いに俺は吹き出した。
 もちろん一緒に通勤できたらとは思うが、それは雨の日だけでもいい。園田にあんな素晴らしい表情をさせてくれる趣味を、俺も大切にしてやりたいと思う。
 と思っていたら、
「じゃあ安井さんも始めればいいよ、自転車通勤」
 園田が驚くほどの気軽さで俺に勧めてきた。
「俺が?」
 思わず聞き返す。
「興味ないとは言わないけど……今から乗って、園田と一緒に走れるかな」

 前々から気になってはいたし、園田がどんなやつに乗っているのかと調べてみたことはある。
 だがパーツをバラで購入して組み立てている彼女の自転車はネットで検索してぱっと出てくるものではなかったし、ロードバイクは初心者が気軽に乗りこなせるような品でもなさそうだった。
 もし園田と一緒に乗れたら、一緒に通勤もできるだろうし素晴らしいことだと思う。だがもうかれこれ九年近く乗り続けている彼女に、自転車に乗ったのは四年前の森林公園以来、あの時だって久し振りだったという俺が果たしてついていけるだろうか。

「大丈夫。私だって一ヶ月くらいで慣れたし、最初のうちは合わせてあげるから。練習にも付き合うよ」
 園田は何の心配もしていない口調で続けた。
「森林公園で一緒に漕いだ時だって、安井さん結構頑張ってたじゃない。きっと練習すればすぐものにできるよ。ね、また一緒に走ろうよ。買う時は相談に乗るから、何でも聞いて」
 話しているうちに彼女の目がきらきら輝いて、もちろん好意から勧めてくれているのだろうが、引き下がりにくくなってきた。
「……そんなに目を輝かせて迫られるとな」
 俺もこれだけ園田が夢中になっているものに興味がなかったわけではないし、若いうちに運動を始めておく方がいいかもしれないと思っている。それに一昨日、彼女が『趣味繋がりの夫婦もいいね』と羨ましそうな顔で言っていた。その言葉を真に受けるなら、俺も今が始め時なのかもしれない。
 やがて、俺は決断した。
「わかった。今日は買わないけど、とりあえず品物だけ見てみたい。案内してくれ」
「やった! じゃあ行こうすぐ行こう、ロードバイクの売り場はこっちだよ!」
 園田が俺の手を、ぐいっと子供みたいな勢いで引っ張る。
 俺は彼女に続いて歩き出しながら少し笑った。
「自転車のこととなると特別はしゃぐな、園田は」
「だって嬉しいから。夫婦で共通の趣味があるって素敵じゃない?」
 彼女はやはりそう言ってくれたが、いざ乗るとなったら俺はそれなりに努力をしなければならないだろう。
「趣味にできるようにしなきゃな……約束したからな、練習付き合えよ」
「もちろんだよ!」
 園田はいい笑顔で頷いた。
 その顔を見ていたら、努力もしないわけにはいかないよな、と思ってしまう。むしろ俺が頑張ればこの笑顔をいつでも見られるのだから、努力のしがいもあるというものだ。

 サイクルショップでロードバイクの現物を眺め、彼女の買い物を済ませた後、今度は郊外のショッピングモールへ車を走らせた。
 モールの最上階はワンフロアまるまるシネコンになっていて、俺達は映画をそこで観ると決めていた。駐車場に車を入れ、エレベーターで最上階を目指す。エレベーターの扉が開いた途端、シネコン独特の薄暗さと静けさが俺達を出迎えた。
 観る映画は事前に決めてあって、既にネットで座席の予約も済ませていた。チケットの発券を終えた後、売店でポップコーンやホットドッグを買い込んだ。朝食が遅かったので、昼は映画館で軽く済ませるつもりだった。どうせ映画が終わったら軽くお茶でも飲むのだろうし――その頃にはお互い興奮しきっていて何も喉を通らない心配があるが。

「園田はビールでもよかったのに」
 売店のメニューにアルコールがあるのを見つけて、俺は彼女に言ってみた。彼女が注文したのは俺と同じホットコーヒーだった。
「まだ昼間だし、私一人で飲むのもちょっとね」
 彼女は首を竦め、ポップコーンや飲み物を載せたトレイを持つ俺を笑って見上げる。
「今日は一緒に映画見られるだけで十分だよ。初めてだしね、二人で来るの」
「確かにな。もっと早く来たかったよ」
 俺は万感込めて答えた。
 あの頃手が届かなかった場所に、今の俺達はいる。かつては彼女の部屋で、人目を避けるように息を潜めて映画を観ていた。今はもう人目を避ける必要もなければ、二人で映画館に来てはいけない理由だってない。
 だから、指輪を渡すならここにしようと思っていた。
 初めて来た、だがとても思い入れの深い場所だ。
「あ、もう入場できるよ」
 園田が指差した入口ゲートの上部、そこ設置されたモニターに俺達が観る映画のタイトルが表示されている。清掃も済ませ、次の回の観客に入場が許されたという旨のアナウンスも流れた。
「じゃあ行こうか、園田」
 俺はトレイを手に、彼女を促した。バケツみたいな大きさのポップコーンに二人分のドリンクとホットドッグを載せたトレイはなかなかの重量感だった。持っているのは辛いほどではないが、これがあると手を繋げないのが困る。
 二人分のチケットを手にした園田が嬉しそうに応じる。
「うん、映画館すっごい久し振り! 楽しみだよ」
 もちろん俺も、彼女とは違う意味で楽しみにしていた。
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