Tiny garden

幸せのはじまり(3)

 今年最初の出勤日は、休みボケを引きずりつつもどうにかこなした。
 何しろ今日は園田の手作り弁当というお楽しみがある。昼休みには美味しいものにありつけるとなれば仕事だって捗るし、休み明けの気だるさもさほど気にならない。ただ楽しみなのが余程顔に出ていたのか、人事課の課員達には不思議そうに尋ねられた。
「課長、新年早々随分と機嫌がいいですね。何かあったんですか?」
 その問いには無難な答えを返しておいたが、きっと後々『あの時機嫌がよかったのは……』などと憶測を呼ぶに違いなかった。

 新年早々、昼休みには午後二時に入った。
 もっともこれは意図的にしたことでもある。いざ弁当を食べ始めたら仕事で呼び出されたりして邪魔が入らないよう、ある程度片づけてから休憩に上がりたかった。
 それともう一つ、混み合う社員食堂ではそれだけうるさいのに捕まる可能性が高い。まさか石田も新年早々こんな遅くに休憩に入ったりはしないだろうし、霧島は挨拶回りで忙しいはずだから社食に現れることもないだろう。園田とのことを知られたくないわけではないのだが、今日の弁当は俺一人でじっくりと堪能したかった。
 何せ初めて作ってもらった弁当だ。

 俺は社食が静かになる頃合いを見計らい、彼女から預かった弁当箱を携えて食堂へ向かった。
 思った通り、社員食堂は程よく空いていた。俺は空いているテーブルの一つに座ると、いそいそと弁当が入った巾着袋の口を開く。
 弁当箱と巾着はセットになっているのか、袋の中から現れたのもうぐいす色の弁当箱だった。長方形の二段重ねで、蓋には梅と思しき木に止まる一羽の可愛い鳥のイラストが描かれている。蓋を開けてみると上段がおかず、下段がご飯となっていた。
「おお……」
 そして中身を見た途端、自然と感嘆の声が漏れた。
 メインのおかずは豆腐だと聞いていたが、思っていたのとは違った。黄色い卵の衣にいい焼き色がついた――これはピカタだろうか。別の食材のピカタなら食べたことはあるが、もしかして豆腐でピカタを作ったのか。衣にはうっすらとパセリがまぶしてあるようで、どんな味がするのか一層楽しみになってきた。
 他には緑鮮やかないんげんとウインナーの炒め物、さつまいもとにんじんの煮物が添えられていた。白いご飯にはごま塩が振りかけられていて、なかなか見映えもいい。女の子の作ったお弁当らしい彩りのよさと、男向けに作られた食べ応えがきちんと両立したメニューだ。
「いただきます」
 恐らく広報課で仕事中であろう園田に手を合わせて、食べ始めた。

 まずはメインに箸をつけてみる。予想通り中身は豆腐で、ふわふわした衣との相性は抜群にいい。見た目からはわからなかったが衣にはチーズも混ぜてあるようで、その塩味が淡白な豆腐の味とよく合い、ご飯のおかずとしても優秀な仕上がりだった。
 いんげんとウインナーの炒め物は胡椒が利いていてこれも箸が進んだし、さつまいもとにんじんはやや甘めに艶よく煮つけてあって、箸休めに最適だった。
 半分近く食べてしまってから園田が『温めてもいいお弁当だよ』と言っていたのを思い出したが、冷めても十分美味しかったのでそのままいただいた。今度、出来立てを食べたいとねだってみよう。

 おかずを一巡したところで、次は何を食べようかと迷っていると、
「お疲れ様です、安井課長」
 不意に頭上で穏やかな男性の声がした。
 箸を止めて顔を上げると、弁当と思しき大きな包みを抱えた小野口課長が俺のいるテーブルの脇に立っていた。新年早々こんな時間に休憩に入るのは俺くらいのものだと思っていたが、どこの課長さんもご多忙のようだ。
「お疲れ様です。小野口課長もこれからお昼ですか」
 とっさに俺が聞き返すと、小野口課長はにこやかに頷く。
「そう、ちょっと遅くなっちゃってね。それでは、安井課長もどうぞごゆっくり」
「え……ああ、ありがとうございます」
 呆気に取られたのは、その言葉の直後に小野口課長が俺のテーブルの傍を離れ、食堂の奥へと歩いて行ったからだ。
 あの人は愛妻弁当を見られるのが嫌なのだそうで、いつも一人で食事をしている。だから同席を求められるとは思っていなかったが、にしてもただ挨拶の為だけに声をかけてくるとは思わなかった。てっきりこの弁当が園田の作ったものだとばれて、何か冷やかしめいたことでも言われるのかと――そんなはずはないか。弁当の中身を見ただけでわかるほど、あの人も目敏くはあるまい。
 せっかくの昼食を中断させられて、少し警戒しすぎていたかもしれない。俺は再び素晴らしい食事へ戻ることにした。

 弁当を美味しくいただきながら、こんな料理が毎日食べられたら最高だろうなと考えてみる。
 園田は豆腐が好きなだけじゃなく、豆腐の美味しい食べ方をよくわかっていて、それを適切に料理する腕だって持っている。もちろん当人の魅力だって言うに及ばず、要は俺にとって唯一無二かつ至高の嫁候補なわけだ。彼女との結婚生活では毎日のように、こんなに美味しい豆腐料理が食べられてしまうのだろう。
 早く、幸せになりたいものだと思う。
 今だって十分幸せだが、今以上に幸せになれるやり方を俺達は既に掴みかけている。あとは彼女に指輪を渡して、これからの約束をするだけだ。

 幸福な考え事に浸っているうち、弁当箱はいつしか空になっていた。
 空になってしまったことを残念に思うくらい、最高に美味い弁当だった。
「ごちそうさまでした」
 俺が箸を置き、一人そっと呟いた時だ。
「――そんなに美味かったか」
 背後で、今度は実に聞き慣れた男の声がした。
 反射的に振り向くと、真後ろの席になぜか石田がいた。何か言いたそうな顔をしながら、背もたれに肘を置いて、吊り上がった目で俺を眺めていた。いつの間にそこに座っていたのか、全くわからなかった。
 しかも、よりにもよって見つかると一番うるさくて面倒な奴に目撃されてしまった。
「い、石田、いつからそこにいた?」
 思わず声を上げた俺の問いに、奴は苦笑いを浮かべて答える。
「割と前からいた。声かけようかと思ったんだがな、どう見ても手作りって弁当食ってるところだったからまずは背後から見守ろうかと」
「ずっと見てたのか、悪趣味な奴」
 人が飯食ってるところを観察しているなんて品性に欠ける行為だと思う。だが石田は悪びれるどころか、抗議する俺にどこか非難がましい目を剥けてきた。
「その言い種は心外だな。こう見えても俺は心配してやってんだ」

 心配というのも全くお節介な話だったが、要は園田が見合いをして、結果として俺が園田に振られた――と石田が誤解している件についてのことだろう。
 あれからもう三ヶ月が経とうとしていたが、俺は振られるどころか実に幸せなクリスマスそして年末年始を過ごし、今に至る。その辺りの話、真実のところについてはまだ石田に打ち明けていなかった。
 だから今、石田に弁当を食べているところを見られたのは、いささか面倒な事態である。

「お前やっぱり顔に出るよな。食ってる間、顔がでれでれと緩みっ放しだったぞ」
 石田はからかう口調でそう言うと、自分の弁当箱を抱えて箸を動かしながら続けた。
「あんなににやにやしながら食ってるって、一体どんないい女に作ってもらったんだ。その弁当箱で自分で作ったってことはないだろ」
 と語る当の石田も、パステルブルーのストライプ柄というおよそ男の持ち物ではない弁当箱を手にしている。ちらりと目をやると中身は鰤の塩焼きのようだ。魚好きの石田にはぴったりのメニューだが、誰が作ったかは尋ねるまでもない。
「どこの誰だ? うちの社内か? せっかくだから教えろよ」
 石田は背もたれに乗せた肘で真後ろに座る俺をつついてきた。
 俺はその肘を追いやるように自分の背もたれに寄りかかり、どう答えたものかと溜息をつく。
「そんなに顔に出てたか、俺」
「出てた出てた。酷いもんだったぞ、にやにやと締まりもなくだらしのない犯罪的な顔つきで」
「そこまで言うか、お前……」
「事実なんだからしょうがねえだろ。毎回べた惚れする質なんだなとこっちが驚いた」
「石田には言われたくない。大体、お前の目はフィルターがかかってそうで信用ならないよ」
「ところが、目撃したのは俺だけじゃないんだな」
 不意に奴が、ぎょっとするようなことを言った。
 かと思うと石田は声を落とし、食堂の奥を示すように視線を走らせる。
「さっき広報の小野口課長がな、向こうの席から怪訝そうな顔してお前を見てたぜ。『なんでこんな緩みきった顔してんだろうな』って目で、しげしげとな。俺もよっぽど警告してやろうかと思ったくらいだ」

 吊り目がちな眼が指し示す先には、さっき挨拶をしてきた小野口課長がいた。
 食堂の奥でやはり一人で席に着き、熱心に愛妻弁当を食べているところだ。既に弁当に夢中になっているのか俺達の方は見ていないが、それを言うなら俺だってそうだ。石田が背後の席に座ったことも、小野口課長があの席に着いたこともまるで眼中になかった。そのくらい弁当に夢中だった。
 これが違う相手なら、見ていったのも石田の勘違い、妄想だと断言することもできるが、相手が小野口課長では勘違いとも言い切れない。見た目以上に目敏い人なので、もしかすればこの弁当の製作者が園田であることすら察しがついているかもしれない。

「……いいだろ、幸せなんだから。不幸そうにへこんでるよりよっぽどましだ」
 俺は悔し紛れに、反論にもならないことを口にした。
 石田がうんうんと頷く。
「確かにな。振られてしょげ返ってる安井を見てるよりは、浮かれてだらしねえ顔してる安井を見てる方が冷やかし甲斐もあるしな」
 そして鰤の塩焼きを口へ運び、よく味わって飲み込んでから、思い出を手繰り寄せるみたいに話を継いだ。
「にしてもあれから二ヶ月……三ヶ月か? そんだけの間にもう弁当作ってくれる相手見つけたとか、さすがは安井、手が早いな。あの頃はどうなることかと思ったが、まあよかったよな」
 とても誉めている物言いではなかったが、安堵している気配も読み取れた。
 ここで石田に、実は園田と付き合っているんだと打ち明けたらどんな反応が返ってくるだろう。
 いや、それにはまず四年前の一件から逐一説明していく必要がある。四年前に俺と園田が一度付き合っていたことも、いろいろあって別れざるを得なかったことも、それ以降俺はずっと彼女を引きずり続けていたことも、あの見合いの相手が俺だったということも――そして今、彼女の為に指輪を注文して仕上がりを待っている最中だということも。
 しかしそういった話をするには、昼休みはあまりにも短すぎる。
「俺は別に、手の早い方じゃないけどな」
 その点だけ訂正した後、俺は改めて石田に持ちかけた。
「近いうちに話すよ、酒でも飲みながら付き合ってくれ」
 さすがに石田みたいに、プロポーズ前に嬉しそうに予告の連絡をするような真似はしない。別に自信がないからというわけではなく、どうせなら何もかも上手くいって、何の不安もない状態で全てを打ち明けたいからだ。石田も思っていた以上に俺を気にかけていてくれたようだし、事実の程を明かしたら何だという顔をされそうだが、だからこそいつか必ず話したかった。
「わかった、楽しみにしてる。せいぜい好きなだけ惚気ろよ」
 石田は俺の言葉に、あくどい狼みたいな顔でにやりと笑んだ。
 それからもう一度俺を肘でつついて、尋ねてきた。
「で、どんな女なのか、そこだけでも教えろよ。お前の願った通りの料理上手で、どうせ脚もきれいなんだろ?」
「もちろんだ」
 俺は力いっぱい頷いた。その二点については元々彼女を想定しての条件だったから、胸を張って認めることができた。
「脚だけじゃない。全部可愛いよ、彼女は。最高なんだ」
 そう言い添えると、石田は妙な顔をして俺を見た後、なぜか眉を顰めた。
「しっかしマジでだらしねえ顔してんな……なあ安井、今度は大丈夫だろうな?」
「どういう意味だよ」
「その顔からどん底に落っこちたのを知ってるから気になんだよ。ちゃんと脈があること確かめてからでれでれしろよな」
 もちろん、その点はしっかり確認済みだ。心配は要らない。
 しかし石田にそこまで言わせるほど、俺は彼女のこととなると顔が緩んでしまっているらしい。自分では全くわからないから一抹の不安が過ぎった。園田にもだらしない顔だと思われたら嫌だから、せめて一月十日はしっかり引き締めることを心がけよう。

 仕事始めということで、その日は残業もそこそこに、早めに切り上げて帰ると決めていた。
 ちょうど園田も同じ頃合いで上がれるという話だったので、二人で一緒に帰ることにした。
「弁当美味かったけど、温めて食べるのを忘れた」
 駅までの道を歩きながら、俺は彼女に弁当の感想を告げる。昼間食べたあの味を思い出すと、早速腹が減ってきて困った。
「冷めてても十分すぎるくらい美味かったけどな。温かいのも食べてみたい」
 俺の感想を、彼女はすぐにおねだりだと察したらしい。白い吐息と共に笑ってくれた。
「うん、いいよ。今度作ってあげる」
 夜になっても外は雪がちらついていて、剥き出しの頬が凍りつきそうなほど冷え込んでいた。
 駅までの道には見事に雪が降り積もっており、足跡だらけの歩道を、俺達は転ばないようあえてゆっくり歩いた。震えるほど寒くても、ゆっくり歩きたい理由がいくつかあった。

 俺は園田の手を掴んで、自分のコートのポケットに引き入れていた。
 ポケットの中で繋いだ手はいつものように冷たく、それが歩いているうちにだんだんと温かくなっていくのが嬉しかった。手を繋いでいると自然と距離が縮まって、肩が時々ぶつかるくらいの近さで歩けるのも、幸せだった。

「手を繋いで歩くの、やっぱりちょっと恥ずかしいね」
 園田は俺の行動に首を竦めたが、手を振り解こうとはしなかった。
 そもそも以前の彼女なら外で手に触れることさえ抵抗を示したはずだった。こうして駅まで手を繋ぐことを許してくれたのも、本当に、心から嬉しかった。
「俺は恥ずかしくないな。もっと見せびらかして歩きたい」
 そう言って胸を反らすと、彼女は照れ笑いを浮かべて俺を見上げる。
「でも、結構見られてるっぽいよ。今日だって、安井さんがお弁当食べてるとこをうちの課長が見たって」
 どうやら石田の言ったことは正しかったようだ。俺にも予想はついていたが。
「石田も言ってた。小野口課長が、俺が弁当食ってるところをしげしげと見てったって」
「石田さんが? ってことは……」
「ああ。石田にも見られたし、その上散々なことを言われた」
 俺はその『散々なこと』の詳細を語らなかったのだが、それだけでも園田には伝わってしまったらしい。彼女はくすぐったそうに微かな笑い声を立てた。
「小野口課長がね、安井さんが幸せそうにお弁当食べてたって言ってたの。そういうことかな」
「似たようなことだ。石田はもっと口が悪いし、めためたに言われたけどな」
「何となく想像できるよ。安井さん、どんな顔してお弁当食べてたの?」
「自覚はないんだけどな。皆に言われてるってことは、きっと緩みきった顔なんだろ」
 自分の顔は鏡にでも映してみないとわからないし、始終鏡を見ながら暮らそうとは思わない。皆は俺の顔がだらしないとか、でれでれだとか言うだろうが――きっとこれから先は今まで以上にたっぷり言われるようになるだろうが、それもまた幸せの証だと思いたい。
 少なくとも、四年前にはなかったことだからだ。
「安井さんは、緩んだ顔でも格好いいと思うけどな」
 園田ははにかんで、そう言ってくれた。
 それで俺が目を向けると、たちまち顔を赤くして俯かれてしまったが。
「ずっとそう言ってもらえるようにありたいよ、俺は」
 半ば独り言みたいに、決意表明のつもりで呟いてみる。
「ずっとそう思ってるよ」
 すぐに園田はもう一度言ってくれたが、その言葉に甘えすぎることなく、決める時は決められる男でありたいと思う。
 勝負の時は近い。上手くいかないなんて思っちゃいないが、どうせなら笑い話ではなく、いい意味で思い出に残る日にしたかった。
 しかし園田の言葉が心強くて、俺に勇気をくれたことも確かだ。

 礼を言う代わりに、ポケットの中で繋いだ手をぎゅっと強く握ってみた。
 園田はおずおず顔を上げたかと思うと、幸せそうに俺を見て、小さく頷いてみせた。
「……本当だよ、安井さん」
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