Tiny garden

さよならを越えていく(7)

 酔っ払っているみたいな顔をした園田が、恥ずかしそうに言った。
「この状況でそれ言うと、ちょっといかがわしい……」
「いかがわしいって何だ。悪いことでもするみたいじゃないか」
 俺は笑って彼女を咎める。

 これからするのは悪いことじゃない。
 お互いに愛しあう者同士がその想いを直に確かめる。昔の俺達にとっては当たり前だったことを、これからもう一度、改めて当たり前にするだけの話だった。

 園田は、彼女の手首を掴んでいた俺の手を一旦解くと、黙って手を繋ぎ直してきた。彼女の手はいつものようにひんやりと冷たく、今はとても気持ちがいい。重ねあわせた手のひらに俺の熱が吸い込まれていくような感覚があった。このまま彼女と触れあっていたい――できればもっと広範囲で。
 ねだるように空いた方の手で彼女の髪を撫でる。園田もまた、気持ちよさそうに目を細めていた。その顔を見たら、あっさりと箍が外れた。
「愛し合うのは悪いことじゃない。恋愛の楽しみの一つだ」
 そう言うと、俺は繋いだ手に力を込めて彼女の身体をソファに押し倒した。
 音を立ててソファは軋み、わずかに弾みながら俺達二人分の体重を受け止める。仰向けに倒れた園田が、覆い被さる俺を見上げて困り果てた顔になる。タイトスカートの脚はそれほど大きく開かず、脚の間に俺が膝を立てると、スカートが抵抗を示すようにぴんと張ってみせた。
「本当に楽しそうに言うよね」
「園田は楽しくない?」
「楽しいわけないよ。恥ずかしいし緊張するし心臓ばくばく言ってるし」
 早口でまくし立てる園田は、目尻に涙を浮かべていた。潤んだ瞳は熱っぽく俺を見つめていて、すぐにまた雫が零れ落ちそうだった。ブラウスに包まれた胸がゆっくりと上下を繰り返していたから、こんな状況でも呼吸を落ち着けようとしているのかもしれない。
「そういうところも変わってないな。本当に可愛いよ」
 俺は倒れた彼女の髪を尚も撫で、指先で梳いた。

 変わっていなくて、少しほっとしていた。
 初めて押し倒した時もこうだったな。園田は目に涙を浮かべて、真っ赤な顔をして俺を見上げていた。何度か罵られた記憶もある。
 あの頃と違うのは、園田が俺を見る目がほんのちょっとだけ柔らかいところだろう。これから何が起きるか知っているから、昔みたいに怖くはないのかもしれない。少しくらい、期待してくれているのかもしれない。

「でも、明かりくらい消して……くれるよね?」
 そんな彼女がおずおずと問いかけてきたから、俺は即座にそれを拒んだ。
「嫌だ。お前が見えなくなる」
「見ないでよ……安井さんこそ全然変わってない、そういうとこ」
 変わっているはずがない。俺だってこういうのは久し振りで、四年前のあの頃以来だ。そしてあの頃と同じ相手をずっと好きでい続けたのだから、変わっている方がおかしい。
「いい趣味だろ?」
 俺が聞き返すと、彼女は眉を顰めた。
「全然! 言っとくけど誉めてないからね!」
 手厳しい物言いに俺は思わず目を見開いた。
 ここは誉めてくれてもいいところだと思うのだが――俺の、恐らく俺を表面的にしか知らない人から見れば意外なくらいの一途さに、当の園田は感動してくれてもいいはずなのだが、今の反応は正直心外だった。

 だが俺を見上げた園田は、次の瞬間おかしそうに吹き出した。
 きっと俺が妙な顔をしていたからだろうが、こんな時に笑い出すなんて昔の彼女なら考えられなかったことだ。
 園田は変わった。
 いい意味で変わった。彼女の魅力的なところはそのままで、少しだけ大人になった。俺はそんな彼女が眩しく思えて、しばらくその笑顔を見つめていた。今の園田を抱いたらどんな感じなのだろう、楽しみだ。
 そして彼女が笑うのをやめ、いくらか落ち着いた穏やかな微笑を浮かべた時、俺も顔を近づけてゆっくりと唇を重ねた。園田は目をつむって、幸せそうにそれを受け入れてくれた。

「……久し振りだから、やり方を忘れてるかもしれない」
 唇を離した後、俺は彼女のブラウスのボタンを外しながら耳元で囁いた。
 実際は忘れているというより、興奮のあまり忘れてしまいそうだという方が正しいのかもしれない。気が逸っているのが自分でもわかる。ブラウスの小さなボタンは外しにくくて、もどかしくてしかたがなかった。
「忘れてる人は、片手でボタン外さないと思う」
 園田が冷静に返事を寄越したので、その耳たぶを歯を立てて軽く噛むと、彼女はびくりとしてから俺を睨む。
「ほら、絶対忘れてないじゃない……。安井さんはそういうの忘れない人だよ」
「身体が覚えてたんだよ。園田に触れたらだんだん思い出してきた」
「私、そんなに変わってない?」
 ブラウスを剥がされて、彼女が恥ずかしそうに瞼を閉じた。
 俺は露わになった細い肩に唇で触れながら答える。
「いいところは何も変わってない。髪がさらさらなのも、肌が冷たくて気持ちいいのも、脚がきれいなのも」
 言いながら手を伸ばして彼女の脚を撫で回す。ストッキングは本物の皮膚よりもざらついていて、あまり好きな感触ではなかった。どうせなら直に触れたいと思う。
「安井さん、脚が好きだもんね」
 園田が納得したように言った。
 でも脚だけじゃない。園田なら何でも好きだ。
「それと匂いも、四年前と同じだ」
 彼女の首筋に顔を埋めるようにした途端、園田はそれから逃れようとするみたいに身を捩った。
「やだ、昨日の朝お風呂入ったきりなんだから……!」
「いい匂いだよ、すごく懐かしくて、どきどきする」
 あの頃の記憶が次々と蘇ってくる。園田がいて、あの頃みたいに幸せに抱きあえるのが本当に嬉しくて仕方がなかった。記憶にあったのと同じ彼女の匂いが、逸る気持ちを一層加速させていく。
「ね、今からシャワー浴びたいって言ったら怒る?」
 不意に園田が俺の頬を両手で挟み、首筋から引き離すみたいに持ち上げた。うるうると涙を浮かべた彼女の瞳が懇願するように俺を見ていたが、そういう顔を見ると余計に駄目だった。
「怒らないけど駄目」
 早くも俺の声は吐息混じりで、弾んでいた。十代じゃあるまいし、呼吸が荒くなるほど興奮しているのも格好がつかない。だがもう抑えられないところに来ていて、こうして遮られると苦痛さえ感じた。
「駄目? でも久々だからこそきれいにしときたいし」
 園田はこの期に及んで酷な、焦らすようなことを言ったが、切実そうな表情がわざとではないことを知らせていた。
「十分きれいだよ」
 だから俺も、彼女以上に切実な現在の状況を伝えておく。
「それと、察してくれ。どうして俺がお前をベッドまで運ぼうとしないのか」
 きょとんとする園田の手をやんわり振り払うと、俺は彼女が何か言う前にその唇を塞いだ。
 彼女の唇は柔らかくて気持ちよかったが、ただのキスではもう物足りなくなっていた。もっと深く味わいたい、身体が覚えていることを、彼女の懐かしさを、もっと深く突き詰めて、確かめたくてしょうがなかった。
「もう切羽詰まってて、余裕がないからだよ」
 彼女が欲しくてたまらなかった。
 四年なんて言葉では簡単に言えるが、途方もなく長くて、うつろで、孤独で気が狂いそうになるほどの時間だった。前にも思ったように、俺はどうして平気でいられたのか、今となっては自分でもわからない。だがその長い長い空虚な渇きを、今はすぐにでも彼女で満たしたいと望んでいる。
 懐かしい匂いの中、園田が俺の首元に腕を回してきた。柔らかくてすべすべした彼女の二の腕が俺に触れ、後頭部にはごつい腕時計が軽くぶつかってきた。
「……安井さん」
 かすれた声で彼女に名前を呼ばれ、込み上げてくるいとおしさに頭が真っ白になる。
 どうせ狂うならこんなふうに、幸せな気持ちでおかしくなってしまいたい。
「園田……」
 俺もその名を口にした。それが合図だった。
 唇がより深く重なる。しばらくはお互い、言葉らしい言葉も交わせないくらいに夢中になった。

 途中で、園田の腕時計を外してやった。
 彼女が愛用しているスポーツウォッチは頑丈にできていて、ぶつかると結構痛かった。彼女が俺の首にしがみついてくると、手首に巻きつけられたゴムベルトに俺の短い髪が引っかかることもあって、純粋に没頭していたかった俺は彼女からその腕時計を取り上げてしまった。

 今はリビングのテーブルの上にある。紅茶のカップや空のケーキ皿と一緒に、無造作に放置されている。
 園田のほっそりした手首には何もなく、俺が掴んで軽く握ると、彼女は無言で気だるそうに腕を動かしてみせた。手首の先には彼女らしい小さな手がある。女らしい関節の目立たない指と艶のある爪を、俺はためつすがめつ眺めた。
「汗でぺたぺたしない?」
 しばらく俺が手首を握っていたからか、ふと園田がかすれた声で聞いてきた。
 いつになくハスキーに聞こえる声が色っぽくて、俺は少し笑う。
「園田、声嗄れてる」
「誰のせいだと思ってんの」
「俺のせい? 俺は別に声を出してくれなんて頼んでないよ」
「もう……」
 さすがに疲れているのだろうか。園田は苦笑しただけで、あまり反論してこなかった。
 代わりにソファの上で俺に寄りかかってきた。全身から汗が引いていないせいか、彼女の身体は冷たく感じられた。俺が彼女を抱き留めると、園田は俺の胸の上にひんやりした手を置いた。お返しとばかりに脚を絡めると、その冷たさが心地よくて離れがたくなった。
「喉乾いた」
 彼女が嗄れた声で囁いてくる。
「何か飲むか?」
「うん、でもまだいい。あと、やっぱりシャワー浴びたい」
「いいよ。俺も今はもう切羽詰まってない」
 俺が許可を出すと、園田は黙って俺を見つめてきた。少し目が赤くなっている。目尻から頬にかけて、涙の跡も残っていた。絡めた脚にはいくつか鬱血が残っているはずで、あとでそれを眺めるのが楽しみだと思う。
 こういう顔もやっぱり可愛いな。俺は満ち足りた思いで園田を見つめ返した。
 切羽詰まってはいないし余裕もなくはないが、彼女が欲しいなとは思う。一時的にだけじゃなくて、永久に。このまま俺の部屋にいてもらいたい。帰したくない。
 そう思った時、俺はもう一度、胸の上に置かれていた彼女の手を取った。すべすべした手のひらと真っ直ぐな指先を代わる代わる眺める俺を、園田は怪訝そうに見ている。
「何見てるの?」
「園田の手。可愛い手だなって」
「そうかな、普通じゃない?」
 彼女はそう言うが、俺にとっては普通の手じゃない。ずっと繋いでいたくなるくらい気持ちのいい手だ。そしてもう二度と離してはいけない手でもある。何があっても、どんな理由があったって離さない。
 俺はその手を長いこと眺めていたが、どうして見ていたか、本当のところはまだ彼女には黙っていた。
 これからシャワーを浴びた彼女が眠ってしまったら、サイズを測っておこうと考えていた。

 翌朝は、朝のうちには起きられなかった。
 俺も園田もベッドに移動した後は泥のように眠ってしまって、目が覚めたのは昼前だった。だがその頃には俺もちゃんと目的を果たしていたし、そもそも今日は土曜だから遅く起きても問題はなかった。出張帰りの園田を休ませてやりたかったのもあり、時間を気にせず好きなだけ眠ってから起きた。

 そして起床後、園田は俺の為に豆腐丼を作ってくれた。材料は全て俺の部屋に揃っていたから買いに行く必要もなく、そのことを彼女には大層驚かれた。
「すごいね、安井さん家。豆腐どころかネギやかつお節まで常備してるんだ」
「たまに自分で作ってたからな。園田の見様見真似で」
 だが記憶を頼りに作った豆腐丼は、記憶の通りに美味しくはならなかった。何度作っても上手くいかなかった。
 今、リビングのテーブルの上には俺が真似をして作ったのとは違う、本物の豆腐丼が置かれている。温かいご飯の上に少し崩した豆腐が載っており、たっぷりの薬味をかけ、更にその上から調味料を回しかけてある。いい匂いがした。そういえば昨夜ケーキを食べたきりで、たちまち腹が減ってきた。
 俺はその丼を手に取り、まずは一口味わった。冷たい豆腐と温かいご飯が混ざりあい、程よい温度になっていく。だしの効いた調味料が豆腐の淡白な味わいを引き立て、更にご飯を進ませる。もう一口、更にもう一口と食べたくなるこの味わい、まさに園田の豆腐丼だ。
「そう、これだ。この味だ」
 思わずしみじみと語れば、園田はにっこり笑って聞き返してきた。
「思い出の通りの味だった?」
「ああ。俺はどうやったって、この味を再現できなかったのにな……」
 豆腐丼を食べる俺に、彼女は黙って温かな眼差しを向けてくれていた。初めて豆腐丼をごちそうになった時と同じように、俺が美味いと思っていると信じて疑わない顔だ。あれは豆腐丼の出来に自信があるからだろうと当時は踏んでいたのだが、今はそれだけではないような気がしてならなかった。
 俺が美味しそうに食べるのが、嬉しくてたまらないみたいだった。
「これなら毎日でもいい。毎日食べたい」
 だから俺は素直に訴え、園田もプロポーズめいた言葉に動じることなく笑ってみせる。
「いいよ。いつでも作ってあげる」

 昨夜とはまた少し、雰囲気が違っているように映った。
 今までよりも確信的と言うか、俺と暮らす未来について、彼女もはっきりしたビジョンを持てるようになってくれたのかもしれない。あるいはそういうものがまだなかったとしても、何を差し置いてでもまずは俺と共にいたい、離れたくないと思ってくれているのだろう。
 俺も同じだった。何を差し置いてでも園田と一緒にいたかった。

「楽しみにしてるよ、ここで一緒に暮らせる日を」
 だからそう告げて、念願の豆腐丼を食べ続けた。そのうちこれが、日々の定番メニューになる日がやってくるのかもしれないと思うと幸せすぎて、胸が苦しい。
「何か私、安井さんのおかげで月曜日からまた頑張れそうだよ」
 園田も同じように、豆腐丼を食べながらそう言った。彼女の意識はまだ年末進行の方に向いているらしい。
 いや、俺も忘れていたわけではないが、今は正直忘れていたかった。仕事納めまであと三日だが、その三日間が今は随分長い時間に思えてしまって困る。これまで四年待ち続けた俺が三日も待てなくなっているなんて現金なものだ。だが本来は待てない気分でいる方が正常なのだろうと思う。
「俺のおかげ? 逆だろ、俺が貰ってばかりだ」
 彼女に視線を返しながら言うと、園田は目を瞬かせる。目元はまだ少しばかり腫れぼったいが、目はもう赤くなかった。
「え、そうかな。私はケーキ以外何も持ってきてないよ」
 とぼけたことを言うものだ。ケーキ以上に素晴らしいものを、俺の元へ運んできてくれたというのに。
「そんなことない。ケーキも豆腐もそして園田も美味しくいただきました」
 俺はわざとそういう物言いをして、彼女に昨夜のことを思い出させようとした。園田が仕事の話を匂わせたから、こちらへ引き戻したかったというのもあった。
 もちろんそのやり方は効果覿面で、園田はたちまち目に見えてどぎまぎし始めた。かっと頬を赤くしたかと思うと、自棄になったように声を上げる。
「言っとくけど、私なんかより豆腐の方が栄養もあるし美味しいんだからね!」
「論点はそこなのか!」
「そうだよ。ノートーフ、ノーライフだよ!」
「照れ隠しにしちゃ大きく出たな。お前の人生、豆腐で成り立ってるのか」
 その物言いはとても彼女らしいと思うし、実際彼女が愛する豆腐は俺の人生にも意外なほどがっちり食い込んできた。今や俺の方も豆腐なしでは生きられない身体となりつつある。
 それからもちろん、園田がいてくれないと駄目だ。
「でも確かに、俺達の人生には豆腐も必要だよな」
「そうでしょ?」
 園田は得意げに胸を張った後、俺に向かってあっけらかんと、ひとかけらの憂いもなく朗らかに笑ってくれた。
 俺は何度目にしたかわからないその笑顔に目を奪われ、少しの間、息もできないまま見とれてしまっていた。
 そうだ、この笑顔もまた俺の人生には必要不可欠だった。こうして笑いかけてもらえたら、俺は二度と道を誤ることなく生きていける。離してはならない手を離すこともなく、つまらない見栄を張って行き詰まることもなく、ただひたすらに、ひたむきに彼女を想い続けていよう。

 幸せな時間の中で、俺は思う。
 俺達はようやく、あの日のさよならを越えることができた。
 この先に待っているのは別れの言葉も要らない、今以上に幸せな日々だろう。
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