Tiny garden

さよならを越えていく(6)

 とてもじゃないが、ソファに座ってじっと待ってなんていられなかった。
 寒い中を歩いてくる園田の為に暖房を強くした後、俺は玄関に立って彼女がやってくるのを待っていた。室内と違って玄関先はひやっとする寒さだったが、どうしてもここで園田を待ちたかった。もう夜も遅いからインターフォンを鳴らすと近所迷惑かもしれない、などというお題目も一応はある。
 だが何よりも、一分一秒でも早く彼女の顔を見たかっただけだ。

 どのくらい待った頃だろう。
 アパートの外階段を上がってくる、静かな足音が聞こえてきた。
 隣人という可能性もあるかと思ったが、途中、手すりに重い鞄がぶつかる音が聞こえて、園田だとわかった。いても立ってもいられなくなり、俺は彼女が階段を上がり切ったタイミングで玄関のドアを開けた。
 ドアを開けるとすぐに冷たい風が吹き込んできて、インターフォンの上にある外灯の明かりがドア前に立つ園田を照らしていた。彼女は不意を突かれたからか、口を開け目を丸くして、驚きの表情で俺を見ていた。くたびれて、化粧もいくらか落ちた顔は、それでも長い距離を歩いてきたせいなのかどこかいきいきとしていた。瞠られた瞳は輝き、頬には赤みが差している。乾いた唇からは白い息が漏れたかと思うと、次の瞬間夜の風に溶けていった。
 すぐに、言葉が出なかった。
 来てくれて嬉しい。会えて嬉しい。出張帰りで疲れていて、しかもこんなに遅くまで残業をしていた園田が俺のところへ駆けつけてくれて、たまらなく嬉しいはずなのに胸が詰まって上手く言葉が出てこない。こんなに、何を言っていいのかわからなくなることなんて、今まであっただろうか。
 だがそういうものなのだと理解していた。いとしい人が自分の為にひたむきな思いでしてくれたことを受け止める時、嬉しくて、胸が詰まって、こうして言葉が出なくなるもの。
 あの時、園田はそういう気持ちを、罪悪感と間違えたのかもしれなかった。

 俺は改めて園田を見下ろす。
 赤い頬の彼女は両手にケーキの箱を、肩からはドラムバッグを提げていた。ちらりとはにかんでから、俺に向かってケーキの箱を差し出してきた。
「ケーキ、私もあるんだけど……」
 そうだった。アイスケーキのことで彼女に助けを求めたのはいいが、どうやら助けがいるのはお互い様だったようだ。
 俺は箱を受け取ってから聞き返す。
「これ、何ケーキ?」
「フランボワーズのムースだよ」
「俺はアイスケーキだ。被らなくてよかった」
 ケーキの箱は片手で持ち、もう片方の手で彼女が提げているドラムバッグを預かった。昨日持った時よりも軽く感じたのは、きっと気分の問題だ。
「入れよ。寒かっただろ」
「うん。お邪魔します」
 園田が玄関に入ってくる。音を立てないようにドアを閉め、こちらに背を向けて靴を脱ぐ。スーツのタイトスカートから伸びたきれいな脚はストッキング一枚の無防備さで、いかにも寒そうだった。
 脱いだ靴を揃えてから立ち上がった園田がこちらを振り返ったので、確認の意味も込めて俺は彼女に顔を近づけ、その唇に唇で触れてみた。思った通り、氷のように冷たかった。
「冷たいな……出張の後だし風邪引くなよ、園田」
 思わず忠告すると、園田は困ったように笑った。
「平気だよ。安井さんの顔見たら元気出たから」
 俺みたいなことを言うなと思う。
 しかし言葉通り、園田の表情は明るく、幸せそうだった。
「なら、これからでもパーティができそうだな」
 俺はそう言い、彼女を促して暖かなリビングへと向かう。ケーキとバッグもそちらへ運び込んで、まずはパーティの準備をしなくては。

 テーブルの上にケーキを二つ並べた時には、もう日付も変わり、二十五日になっていた。
 俺が半分食べてしまった後のアイスケーキを見た時、園田は目を剥いた。
「アイス、安井さんが半分食べたの?」
「ああ。最初は一人で片づける気でいた」
 園田に助けを求めるつもりはなかった。そうしたい、という願望だけはずっとあったが、踏み止まるべきだと思っていた。
 だが踏み止まることをやめてしまったら途端に楽になった。幸せにもなれた。俺の部屋に園田がいて、スーツ姿ではあるが休日みたいに朗らかに笑っていて、ソファに座りながら上着を脱いでいる。一番上まできっちりとボタンを閉じた白いブラウスが眩しく、無防備だった。
 俺は彼女が脱いだコートと上着をハンガーにかけ、奥の寝室にしまった。しばらくは返さないつもりだった。
「でもこれって日持ちするんじゃないの? そんなに無理して食べなくても」
 園田がアイスケーキを睨んでから、おかしそうに俺を見る。
「確かに生ものじゃないけどな。冷凍庫を何日も占領されるのは敵わない」
 半ば自棄食いだったのは認める。だがとっとと片づけたかったのも事実だった。
「じゃあどんどん食べよう。ひとかけらも残さずに」
「そうだな。けど、俺はもうアイスはいい」
 俺が冷えた胃を温めるように腹に手を当てると、園田は妙に意気込んで言った。
「私、アイス担当でいいよ。安井さんはそっちのムース担当ね」
 テーブルの上、半円のアイスケーキの隣に並んでいるのは彼女が購入したフランボワーズのムースだ。よく熟したイチゴそのものみたいな、鮮やかな赤いジュレを載せたムースケーキは、まだ包丁を入れる前でつるりときれいなままだった。こちらなら胃を冷やさずに食べられそうだ。
「任せていいのか?」
 俺は問い、園田が即座に頷く。
「任せて。安井さんの胃腸は私が守るよ!」
「頼もしいな。是非とも生涯守ってくれ」
 プロポーズのつもりで言ってから、俺はもう一度立ち上がる。ケーキには飲み物が要る。これから冷たいアイスケーキを食べる彼女には尚更だ。
「ところで園田、何飲む?」
 尋ねると、彼女はにっこり笑って答えた。
「温かいのがいいな。この間のハーブティー、まだある?」
 だがあいにく、リンデンのハーブティーは昨日の時点で飲み切っていた。
「悪い、あれは全部飲んだ。コーヒーと紅茶なら出せる」
「ケーキだったら紅茶かな。お願いします」
「わかった」

 俺はキッチンで湯を沸かし、二人分の紅茶を入れた。
 熱い紅茶を注いだカップを二つ持ってリビングへ戻ると、園田は既にケーキを切り分けていたところだった。俺の皿にはムースケーキを、自分の皿にはアイスケーキをやたら大きく切り取って、豪快に載せていた。

 カップを手渡すと彼女は顔をほころばせたが、すぐに口はつけなかった。
 代わりにフォークを持ってアイスケーキに挑みかかり、まず一口目を頬張る。すぐに目をつむったのは冷たかったからだろうが、その顔が可愛いと思った。ソファの隣に座った俺は、吹き出しそうになるのをこらえながら尋ねた。
「美味い?」
「冷たい」
「だろうな」
 彼女の身も蓋もない答えに結局、笑ってしまった。
 園田もつられたように笑いながら、細い肩を震わせてみせる。
「美味しいんだけど半端なく冷たい。お腹の底から冷え込みそう」
「冷え込んだら言えよ。暖房大きくするから」
「あ、今のところは大丈夫。紅茶あるし」
 そう言うと園田は紅茶のカップに手を伸ばし、ふうふう息を吹きかけながら飲んだ。その後はまたアイスケーキの皿を取ってアイスを食べ、少し食べたらまた紅茶を飲む。お腹が空いていたのだろうか、なかなかいい食べっぷりだった。
 彼女の気持ちがいいくらいの食欲を見ていると、俺も甘い物が欲しくなってきた。
 早速、園田が切り分けてくれたムースケーキを食べてみる。ぷるぷるしたジュレははっとするほど酸味が強く、柔らかいムースの甘さと混ざりあうとちょうどよい味わいになる。これがクリームのケーキだったら早々に白旗を揚げていたかもしれないが、酸味のあるムースケーキで助かった。思ったよりも食べられそうだ。
「そっちも美味しい?」
 園田も俺を見て、ムースケーキに興味を持ったようだ。無邪気に目を輝かせて尋ねた。
 その表情に、俺の中にはちょっとした悪戯心が湧き上がる。
「美味いよ。食べてみるか?」
「いいの? じゃあ一口だけ味見」
 彼女が俺の皿にフォークを伸ばして来ようとしたので、俺は手を挙げてそれを制した。
 代わりに俺のフォークでムースケーキを大きく切り取ると、きょとんとしている園田の方へ向けてみる。
「クリスマスらしく食べさせてあげよう」
「はっ?」
 彼女は目を瞬かせたかと思うと、あたふたしながら声を張り上げた。
「な、なな何言ってんの、いいよ自分で食べれるよ!」
「いいから、ほら口開けて」
「いやいいってば。と言うかクリスマスらしくって何なの」
「クリスマスの夜に会うカップルなんて、大抵こういうことするもんだろ」
 どうせなら、よそのカップルがやっているような甘いじゃれ合いを楽しみたい。四年の空白の間にできなかったことを一つも取りこぼすことなく拾い集めていきたい。例えば、クリスマスにはケーキを食べさせあったりするとか。
「聞いたことないよそんなルール。それに一口にしては大きすぎるし」
 園田は強情にも抗議の声を上げた。疑惑の眼差しが俺の持つフォークに向けられている。
 フォークで掬い取ったムースケーキは彼女の決して大きくはない口に入りきるサイズではなかった。が、俺はあえて押し通した。
「心配するな、お前ならこのくらい楽に入るよ」
「何の保証なんだか……」
「とにかく早くしろ。今にもフォークから落っこちそうだ」
 俺が急かしたからか、園田は不満そうにしながらも観念した様子で口を開けた。

 その口に、フォークで押し込むようにしてムースケーキを入れてやる。
 やはり大きすぎたのか、園田が唇を閉じた時、口の端には唇の色よりも赤いジュレがひとかけら残った。園田は割と満足げにムースケーキを味わっていたが、自分の口元が汚れたことは気づいているのだろう。指先で拭おうとした。

 だが俺は機先を制し、そっと優しく彼女の顎を掴んだ。
「待って。園田、俺がやる」
「え――」
 戸惑う彼女の唇の端、赤いジュレを口で拾う。舌先に甘酸っぱさが広がり、唇では柔らかい感触を味わうことができた。さっき玄関でした時よりも冷たくなく、一口では足りないくらい極上の味がした。
 だが次の瞬間、園田は容赦なく拳を振り上げ、俺の肩を殴った。
「ああもうこの人は! こんなベタな迫り方ってどうなの!?」
 ある程度は手加減しているのかそれほど痛くはなかったが、俺はわざと声を上げ、ソファの上でよろめいた。
「いたっ、痛いよ園田。ぐーで殴ることないだろ」
「これがやりたくて食べさせたんでしょ、わかってんだから!」
「そうだよ。クリスマスだからな」
 こういうささやかな幸せを子細にわたって追求していきたいと思っている。何せ四年分だ、こうして事細かに拾い上げていかなければ追いつかない。
 だが園田は怒っている。怒りながら照れている。
「全く、安井さんは油断も隙もないんだから」
 アイスケーキにかぶりつきながらぶつぶつ文句を言っていたが、顔どころか首まで赤くなっているのが見えて、そうすると俺の口元が緩みそうになるから困る。紅茶のカップを傾け、その陰で密かに笑っておく。
 園田はそんな俺を見て、笑いを堪えるように唇を結んだ。素直に笑えばいいのに、そうしたら俺ももっと仕掛けていくのにな。
「そう怒るなよ。こんな真夜中に腹立てることないだろ」
 俺が宥めにかかると、園田はリビングの壁掛け時計に目をやった。
「怒るのに時間なんか関係ないよ」
 日付が変わってから四十分が過ぎている。そろそろどこのご家庭でもサンタクロースは一仕事終えて、眠りに就く頃だろう。だが俺はちっとも眠くないし、やりたいことがたくさんあった。
「せっかくいい夜なのに、怒ってるのももったいないだろって話だよ。もっといい話をしよう」
 俺は隣に座る園田の腰に手を回し、軽く力を込めて抱き寄せた。

 あれだけ怒っていたから抵抗するかと思いきや、園田はソファの上で自分から距離を詰め、そっと俺に身を寄せてきた。
 肩がぶつかる。
 園田の身体の温もりがより近くに感じられて、自然と心臓が高鳴った。

「あれ、今度は素直だな。ベタな迫り方だって言わないのか」
 感心する俺に、園田はつんとして答えた。
「アイス食べてたら寒くなったからね」
 口調こそ素っ気なかったが、顔は真っ赤に上気しているし視線は落ち着きなく泳いでいる。触れあった肩が小さく震えているように感じられたのも気のせいではないだろう。
「寒いのか? じゃあ俺が全身全霊で温めてやる」
 ちっとも寒そうには見えない園田に、俺は下心を隠さず申し出た。
 園田はこちらを見ず、唇を尖らせる。
「あ。それはめちゃくちゃベタだね、手口が」
「いいだろ、楽しいんだから。こうなったら思いきりいちゃいちゃしよう」
 そう言うと俺は彼女を改めて抱き寄せ、火照った頬に短くキスをした。
 園田はくすぐったそうに目をつむり、されるがままだった。薄いブラウス越しに彼女の身体の柔らかさが感じ取れて、腰に回した手を動かし、撫でたくなる。
「お前もまだ眠くないよな?」
「平気だよ」
「俺も今夜は眠れそうにない。何ならこのままずっと起きてようか」
 俺が囁きかけると、園田は考え込むように黙り込んだ。

 相変わらず赤い顔をしているし、視線はほうぼうに泳いでいる。だが表情は思いのほか硬くなく、恋する女の子らしくそわそわしているのがわかった。
 四年前とは違い、これから何が起きるのか知っているからだろう。
 その上で、ちょっとは期待してくれているのならより嬉しいんだが。
 当然、俺も期待している。こうして真夜中に俺の部屋を訪ねてきてくれた以上は、ケーキを食べて夜更かししておしまい、なんてことはないだろう。その辺りはお互い織り込み済みで、そしてお互いに望んでいることだと思いたい。

 急に静かになったリビングで、やがて園田がぎこちなく面を上げた。
 俺はずっと彼女を見つめていたから、彼女が顔を上げれば自然と目が合う。奥二重の瞳を潤ませた園田が、俺の顔をじっくりと見上げた後でまたぎこちなく俯いた。
 さらさらの髪が俯く彼女の顔を半ば覆い隠しても、その隙間に覗く首筋の赤さは隠せていなかった。俺がそこへ触れようと手を伸ばしかけると、まるでそれを察したみたいに園田が、残りのアイスケーキに手を伸ばす。
「溶けちゃいそうだから」
 言い訳みたいに園田が言った。
「どっちが?」
 俺が問うと、彼女には恨めしそうに睨まれた。
「……わかってるくせに」

 やがて園田は俺が残したアイスケーキを全て胃に収めた。
 さすがに身体が冷えたのだろう。食べ終えた後で身震いしていた。
「寒っ」
 そこで俺は笑いながら、彼女の頬に両手を、挟むように添える。
 寒いとは言うが彼女の頬は、むしろ俺の手が溶けてしまいそうなほどに熱を発していた。
「心配するな。俺がちゃんと温める」
 軽く上を向かせて告げると、園田は黙って瞬きだけした。
 いつものように文句を言うか、混ぜっ返して誤魔化してくるかと思ったが――そうしないということは、こっちも図に乗っていいのかもしれない。
 無言でいるのが答えだろうと、俺は彼女の唇にキスをした。ほんのりとバニラの香りがした。
 それから額をくっつけて、込み上げてくる幸福感にしみじみ酔いしれる。
「長かったな、今日まで」
 至近距離から見つめる園田の顔には俺の影が落ち、まるで彼女ごと飲み込んだ気分になる。
 そして俺が見つめていると、彼女は恥ずかしいのを思い出したように目を逸らした。
「どうして目を逸らす?」
「だって、恥ずかしいし」
 園田がぼそりと答える。
 初めてでもないのにと思ったが、『初めて』よりも『久し振り』の方が照れるものかもしれない。
 俺も園田も四年前はお互いのことをよく知っていたが、四年の間にどこか変わっていてもおかしくはない。それを確かめるのが楽しみな反面、何だか少しくすぐったい。
「照れてるんだ」
 俺が指摘すると、彼女は不満げに唇を尖らせる。
「そうだよ、悪い?」
 下唇の方が厚いその唇の形が、今はぐっと色っぽく見えた。

 俺は彼女を見下ろしながら、その髪を撫でた。
 園田の髪は記憶の通りに柔らかく、さらさらしていて、室内の明かりの下で艶やかに光っていた。手で触れると心地いい質感も変わっていない。ずっと撫でていたくなる。
 髪を撫でられると園田は、まるで毛並みを撫でられた猫みたいにおとなしくなる。

「可愛いな、園田は。純情なところは変わってないのか」
「よく言うよ。安井さんだって大概純情じゃない」
 俺の言葉に彼女は即反論してきたが、まさにその通りなので認めるより他ない。
「じゃなきゃ、好きになった相手を四年も引きずらないだろ」
「それもそうだね」
 もちろん、相手が園田だったからというのもあるだろう。
 石田の言う通りだった。
 俺みたいに根性捻じ曲がった捻くれ者の格好つけは、園田みたいに明るくて、いつでも笑ってくれるような女の子を好きになってしまうものだ。記憶の中で、彼女と過ごした時間はいつも笑いと幸せに満ちていた。かつて確信した通りだ。
 俺は、園田とだったら何でも乗り越えていけるし、幸せになれる。
「改めて考えると、四年って長いね」
「長いよ。しかも時が経てば経つほど忘れられなくなる」
 俺は強く溜息をついて、ともすれば蘇りそうになる長く苦しかった頃の記憶を追い払う。
「時が全てを忘れさせてくれるなんて言葉があるけど、あれは嘘だってわかったよ。忘れるどころか後になってから思い出すことばかりだ」
「そんなに私のこと思い出してくれてたの?」
 なぜかそこで園田が嬉しそうな声を上げたので、俺は彼女を軽く睨んだ。
「お前、それがどんなに寂しくて空しいことかわかってるのか?」
「も、もちろんわかってるよ。私もたまに思い出してたし」
 それが事実だったとしたら、思い出していたなら、もっと俺が恋しくなっていてもいいはずだ。
 なのに一時期の彼女と来たら、まるで俺とのことなんてなかったように振る舞っていた。
 俺はずっと心でも、身体でも覚えていて、園田のことばかり考えていたし夢に見ることさえあったというのに。

 俺は悔しくなって、また彼女に額をくっつけた。
 そして揺れる瞳を覗き込みながら問いかけた。
「なら、覚えてるかどうか確かめてもいいよな?」
「何を?」
 園田はわかっているが知らないふりをしたい、という態度で聞き返してきた。
 そういうことならと、俺も誤魔化さずに宣告することにした。
「言っただろ。こういうことは、身体の方が覚えてる」
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