Tiny garden

さよならを越えていく(4)

 何の予定がなくても、クリスマスの気配は近づいてくる。
 コンビニやケーキ屋でクリスマスケーキの予約が始まったかと思えば、十二月に入る頃には街並みにもイルミネーションが点り、すっかり聖夜仕様となっている。
 気温がぐっと下がり始める冬の入りには、どこの店でもクリスマスソングがかかるようになった。街行く人もどことなくそわそわしている。

 ただクリスマスが近づいてこようと俺個人には全く何の関係もない。
 一緒に過ごしたい相手は多忙を極めており、イブの予定は空っぽだ。当然、翌日も何もない。
 それも今だけの辛抱、全てを乗り切ってしまえばまた二人で過ごせる時間がやってくるとわかっているが、園田と離れて仕事に没頭していると、ふと無性に寂しくなってクリスマスが憂鬱になってくる。気温が日に日に下がっていくのが肌に感じられるから、彼女の温もりが欲しくなっているのかもしれない。

 一方の園田は、相変わらず仕事に打ち込んでいるようだった。
 以前のように退勤後にメールをくれていたが、十二月に入ってからはそのメールの頻度がぐっと落ち込んでしまった。疲労が蓄積しているのか夜の間は返信がなく、翌朝になって慌てたように『ごめん、寝落ちてた』と連絡をくれることもあり、俺としてはいささか心配だった。
 もっとも俺の方も仕事が立て込むにつれ、メールの文面が必要最低限の連絡のみになりつつあることは否定できない。それならせめてと社内ですれ違った時には目配せするようにしていたが、そうすると園田もおかしそうに笑い返してくれるのが、最近の唯一の慰めだった。
 会えない間もこうして愛を確かめあってはいたが、この関係をどう呼んでいいものか、彼女からはっきりした答えはまだ貰えていなかった。
 昔とは違い、俺達の関係を他の誰もが知らないというわけではない――小野口課長は知っているし、どういうわけか広報の東間さんもご存知らしい。だから以前のように何もなかったようになってしまう不安だけはない。だが――。
 そろそろ答えが欲しい、そう思うのは焦りすぎだろうか。
 こういう曖昧な関係を楽しむのも悪いものじゃない。普段なら、違う季節ならそう思って園田を待っていられたかもしれない。だが冬とクリスマスの訪れが、なぜか無性に俺の心を掻き乱していく。
 穏やかな気持ちで仕事に没頭していたいのに、じっとしていられなくなっていた。

 その気持ちに拍車をかけたのが、石田だ。
「悪いな、得意先でどうしても買ってくれって言うから。もしよかったら安井も手伝ってくれよ」
 クリスマスも近づいてきたある日、営業課主任はいきなり人事課に押しかけてきたと思えば、俺にクリスマスケーキを買えと催促してきた。
 差し出されたリーフレットを受け取り、そこに掲載された丸いケーキの写真を見るなり、俺は思いきり顔を顰めたくなった。
「俺に、一人で食えって? このいかにもなオーナメントの乗っかった丸いケーキを」
 思わず聞き返したくもなる。
 甘いものは嫌いではない。と言っても男一人で丸いケーキを食べるのは何だか絵的にもシュールだしおまけに虚しい。
 しかもリーフレットに掲載されたケーキはどれもがクリスマス仕様で、小さなリースを飾ったメッセージ入り板チョコやら、マジパン製のサンタやら、もみの葉や赤い実のピックやらでデコられたケーキばかりだった。そいつを一人の部屋に持ち帰って一人でもそもそと食べる情景は、筆舌に尽くしがたい不憫さではないだろうか。
「いや、食えるだろ。飾りが目障りだって言うんならどかせばいいんだし」
 石田はさらりと無神経な答えを寄越す。

 これがもし園田と一緒のクリスマスだったなら喜んで注文しただろう。
 リーフレットを一旦預かり持ち帰って、園田と二人で相談したりもできたかもしれない。あるいは園田もまた石田からケーキの購入を頼まれ、二人で二ホールのケーキをやっつける羽目になっていたかもしれない。そうなったら園田はきっと声を上げて、すごく楽しそうに、朗らかに笑ってくれたことだろう。
 だが、しつこいようだが今年のクリスマスは俺一人だ。
 一人で一ホールのケーキは肉体的にも精神的にも無理だったので、石田お薦めのアイスケーキを購入することにした。これなら食べきれなければ冷凍しておけばいい。

「ご協力ありがとうございます、人事課長殿」
 石田がふざけて礼を言ってきたから、俺は乾いた笑いで応じた。
「しかしお前な、独り身の男にこういう頼みを持ってくるものじゃないよ」
 クリスマスを祝わせるんだったらもっと適任の男がいるだろうに。既婚者なら退勤後、疲労困憊のところを押してのデートということにもならないし、さぞかしいいクリスマスを過ごすであろうことが想像できて、憎らしくなった。
「霧島も買ったんだろうけど、あいつはいいよな。奥さんいるから」
 俺が声に出して羨むと、石田も喉を鳴らして笑った。
「帰ったら二人で食べるって言ってたよ。当日は嫁さんがケーキ取りに来るって」
「あいつめ、クリスマスを満喫しやがるつもりだな」
「ケーキを口実に、誰か誘えばいいだろ」
 そう言って、石田が俺を嗾ける。からかい半分、探りを入れるの半分という口調だった。
「俺だって忙しいんだよ、この時期まで来たらもう諦めるしかない」
 口ではぼやいてみたものの――いや、口に出してしまったからこそ、諦めがつかなくなった。
 クリスマスが駄目ならせめて別の日でもいい、少しだけでも彼女に会いたい。

 園田の予定は事前に教えてもらっていて、把握済みだった。
 出発予定日の二十三日は、前日まで仕事が立て込んでいるので荷造りに追われる予定だそうだ。翌日、朝一のアポイントメントの為に前泊というのも大分前からの決定事項で、園田はホテルを取るのに相当苦心したらしい。メールで珍しく愚痴を零していた。
 つまり彼女は出張前日の二十三日も忙しいわけだ。会いたいと言っても迷惑がられるだけだろうし、俺も彼女に余計な負担をかけたくはない。
 だが一つだけ、彼女に迷惑をかけず、それどころか彼女に手を貸す形で会いに行ける方法がある。

 十二月二十三日、午前十一時。俺は園田に電話をかけた。
 繋がるかどうか不安だったが、彼女はすぐに出てくれたし、声は思ったよりも明るかった。
『あ、安井さん? どうかしたの?』
「どうしてるかと思ってかけた。園田、準備はできてるか?」
 俺の問いに、園田が少し笑うのが聞こえる。
『今、急ピッチでやってるとこ。もうばたばただよ』
「何時にこっち発つんだ?」
『午後四時。まあ間に合うとは思うんだけどね』
 あと五時間か。荷造りを今日やる予定だとは聞いていたが、それにしても慌ただしいことだ。
 それなら助けになれるだろうと、俺はすぐさま切り出した。
「結構早くに発つんだな、大丈夫か? よかったら駅まで送っていこうか?」
『え、休みなのに悪いよ。気持ちは嬉しいけど』
 園田は申し訳なさそうにしていたが、あまり驚いている様子はなかった。俺がそう言い出すことくらい見抜いていたのかもしれない。長い付き合いだからか。
 見抜かれていたことにほんの少し拗ねたい気分だったが、俺は正直に打ち明ける。
「そんなこと気にしなくていい。どうせお前に会う口実だから」
 こういう形でもいいから顔を見たかった。顔だけなら社内で、ほぼ毎日のように見かけてはいるのだが――近頃の園田は勤務中になると表情が硬く、見るからに追い込まれている様子だった。もちろん今は年末進行の真っ只中、表情が硬いのは彼女に限った話でもなかったが、そろそろオフの顔が見たくて堪らなくなっていた。
『頼めるならありがたいけど、本当にお願いしちゃってもいいの?』
 彼女が遠慮がちに聞き返してきたので、俺は念を押すつもりで告げる。
「ああ。俺としても、ちょっとでも顔を見られるなら嬉しい」
『じゃあ、道混んでるかもしれないから余裕持って、三時に迎えに来てくれる?』
「わかった。また後で」
 約束を交わしながら、俺はほっとしていた。園田に迷惑がられなくて、そしてこちらからの申し出を受け入れてくれて、本当によかったと思う。彼女の顔も見られるし。
 ただ、安堵している自分に気づいた時は若干恥ずかしく思った。まだまだ仕事納めまで日があるというのに、もうみっともなく縋っている。
「悪いな、押しかけるみたいで」
 それで思わず彼女に詫びると、
『そんなことないよ。私も会いたかった』
 俺の胸中すら見越していたのか、園田は優しい声で取り成してくれた。
 気遣いを含んでいたとは言え、彼女のその言葉には随分と救われた思いがした。

 午後三時より少し早めに、園田のアパート前に車を停めた。
 恐らく窓から見ていたのだろう。俺が電話で呼ぶまでもなく、すぐに部屋のドアが開いて園田が姿を現した。コートを羽織った彼女はかなり大きめのドラムバッグを肩にかけている。俺もすぐに車を降り、アパートの階段まで駆け寄った。
 階段を上がっていくと、ドアに鍵をかけていた園田がこちらを振り返る。私服姿の彼女を見たのは久し振りだったが、勤務中と比べて気が抜けているからだろうか。一瞬はっとするほど、気がつかないうちに痩せてしまったように見えた。顔色も白く、目の下には隈があり、俺を見て微笑む顔は疲れのせいか弱々しい。
 だがその疲れ切った微笑が、息を呑むほど色っぽかった。
 彼女にとっては誰にも見せたくはないであろう顔を、俺には晒してくれたという事実に、場違いにも胸が震えた。
「持つよ。重たいだろ」
 俺は彼女に手を差し出した。
「本当に結構重いよ。いろいろ入ってるから」
 警告と共に園田が手渡してくれたドラムバッグは、言葉通りずっしりと重い。出張は一泊で表向きは半日となっていたはずだが、それにしては重すぎる気がした。
「一泊の荷物だよな?」
 思わず尋ねると、園田は気だるそうに首を竦める。
「持ってくもの多いんだもん。パソコンにレコーダーにスーツにヒールに」
 どうりで重いはずだ。
 俺はバッグを車のトランクルームに積み込むと、運転席に乗り込んだ。ちょうど彼女も助手席に座り、シートベルトを締めている。
「一人で行くのも大変そうだな。俺も一緒に行ければよかったのに」
 冗談でもなく言った俺に、園田はうきうきと楽しげに応じてくる。 
「安井さんも一緒に行く? 今からだとぎりぎり日帰りってとこだけど」
「そんなこと言うなよ。本当に行きたくなるだろ」
 俺が軽く睨んだからか、彼女は困ったように黙って笑う。その顔につい俺までつられたくなる。
「明日が仕事じゃなければな。一緒に行って泊まってくるのに」
 園田は俺の言葉に何も答えなかった。駄目だとも言わなかった。

 車を発進させて、住宅街を抜けるまでは順調だった。
 だが大きな通りへ出るとたちまち道が混み合い始めた。イルミネーションが点った街並みを、車はゆっくり通り抜けていく。
 混み合っているのは車道だけではなく、歩道もそうだ。今日のうちからクリスマスを楽しもうとしてか、家族連れやカップル、学生の集団などが連れ立って歩いているのが見えた。どの顔も皆、楽しそうだ。
 それを、助手席の園田はぼんやりと眺めている。
 疲れを隠せていない横顔が、フロントガラス越しの聖夜の眺めを羨ましげに見つめていた。

「園田、羨ましそうな顔してる」
 大して進まないうちから信号で停止した車の中で、俺は彼女に声をかけた。
 すぐに園田が振り向く。悪戯が見つかった子供のような顔をしていた。
「顔に出てる?」
「出てる。喉から手が出るほど物欲しそうな顔してる」
「そんなにかあ……。よくないね、気をつける」
「いいよ。俺だって最近は幸せそうな連中がどいつもこいつも妬ましい」
 クリスマスに思い入れはない。だがそれは俺も、外を歩いている連中だってそうだろう。
 それでも街が輝き、浮かれ調子でいるこの時期は、一人でいるのがことさらに寂しくて堪える。イルミネーションやクリスマスソングはまるで幸福の象徴のようで、こんなに何もかもが美しい季節にお前はなぜ一人ぼっちでいるのかと責め立てられている気分になる。俺だって好きで一人で過ごすわけじゃない。
「単に一人でいる時よりも、好きな相手がいて、でも一緒にいられないって状況の方が辛いな。クリスマスは」
 俺の言葉に園田が深く頷き、直後、信号が変わった。
 車が動き出す。流れはまだ遅いが、目的地の駅には少しずつ近づきつつあった。
 彼女と二人でいるのもあとわずかだ。せっかくの時間を恨み節やら、妬み嫉みで潰してしまうのはもったいない。
「でも今日、こうして会えただけでもよかったよ」
 心からの思いを込めて、俺は助手席の彼女に告げた。
「そうだね。ありがとう、来てくれて」
 園田も穏やかに応じてくれる。彼女が俺を見ているのが、視界の隅にちらりと見えた。
 その顔に、俺はそちらを見ずに笑いかけておく。
「お前、いつの間にかちょっと痩せたな」
「え、そう? 最近不規則なせいかな……」
 心なしか嬉しそうな反応があったが、あまりいい痩せ方ではないから喜ばれても困る。
「それに目の下、隈がある」
「あ、うん。気づいちゃった? 化粧でカバーしてるつもりなんだけど」
 次の指摘は恥ずかしかったのか、彼女は照れたように小さく笑った。
「よく見てる顔だからな。疲れてればすぐにわかる」
 俺はそう言ったが、今日初めて気づいたことでもあった。
 勤務中に顔を合わせても全く気づけなかった。それだけ園田が隙を見せず、気を張って仕事に向かっていたということだろう。
 仕事を離れて初めて見せた弱々しい顔も、これはこれでいい。
「明日は多分もっと疲れた顔してるよ。もし会っても見ないでおいてね」
「嫌だ」
 園田の懇願を、俺は笑って撥ねつけた。
「俺は好きだよ。園田の疲れた顔」
「ええ……それ喜んでいいの?」
「さっき迎えに行った時、部屋から出てきた園田の顔見て、可愛いなと思った」
 彼女は複雑そうな声を上げたが、信号でまた車を停めてから、俺は彼女に向き直る。
 助手席のシートからじっと俺を見つめる彼女は、やはり疲れた顔をしている。抱き寄せて少し休ませてやりたくなるような、頼りなげな姿に見えた。こういう時こそ頼られたいものだが、あいにくとそれだけの時間がない。
「完璧にそそられた。弱ってる園田もいいな」
 俺が率直に告げると、園田はどぎまぎしたように俺から目を逸らした。
「安井さんこそ……何て言うか、疲れてるんじゃない?」
「かもしれないな。心の栄養、及び癒しが欲しいんだ、俺は」
 休ませて欲しいのも寄りかかりたいのも、実は俺の方なのかもしれない。外の景色が駅に近づいていくのがわかり、次第に切ない気分になってくる。もうじき園田を送り出してやらなければならないと思うと、わかっていたことだが寂しかった。
 それをどこまで察したのかはわからないが、彼女が空元気の声を張り上げた。
「じゃあ癒しになるようなお土産を買ってきてあげるよ。何がいい?」
「何も要らない。お前が無事に帰ってくるだけでいい」
 俺はきっぱりと言った。
 そして信号が変わり、車が動き出してから、更なる本音を呟いてみる。
「いや、黙って帰りを待つより、このまま攫って帰りたいな……」
 この車から出したくない。どこにも行かせたくない。いくら俺がそう思ったところで、別れの時間は刻一刻と近づいていた。
 園田もそれをわかっているからか、その後はずっと口数少なだった。

 本当はどこかに停めて別れを惜しみたかったが、これもクリスマスのせいか、駅前の駐車場はどこも満車だった。
 平面はおろか立体駐車場すら全滅という惨状を受け、やむなく俺は園田を駅前のロータリーで降ろすことにする。
「送ってくれてありがとう」
 駅前に到着すると、園田がシートベルトを外そうとした。
 俺はその手を掴んで制し、こちらにぐっと引き寄せた。疲労のせいかあっさりと倒れ込んできた園田の顔に、俺は自分の顔を近づけてキスをする。彼女の唇はこんな日でも柔らかくて、今日はほんのりと温かく感じられた。
 ここにはずっと車を停めておけるわけじゃない。唇を離すと、園田は俺を宥めるみたいに手のひらで頬に触れてきた。
「明日には会えるよ、安井さん」
 それはそうだろう。明日にはきっと会社で会える。
 だが今の園田とはもう会えない。出張を終えてスーツ姿で戻ってきた園田はきっと疲れの色も見せず、また真面目に仕事に打ち込むのだろう。こうして弱い顔を見せてくれるのも今だけだ。
 だから離したくない。
「……わかってる。手のかかる男だな、俺は」
 残り時間を気にして、俺は惜しみつつも彼女の手を離した。
 そして先に車から降りると、トランクルームに積んでいたドラムバッグを園田に手渡す。
 園田はそれを受け取ると、いつものようにあっけらかんと笑ってみせた。
「本当にありがとう。会えて嬉しかったよ、安井さん」
「ああ、俺もだ」
 俺もなるべく笑って応じた。

 それから園田がなかなか駅舎へ行こうとしないから、俺もその意味を察して運転席へ戻る。
 手を振ってから車を動かすと、園田も小さく手を振って、それからずっと俺を見送ってくれた。俺の車が駅舎の前を離れ、ロータリーを出ていくまでずっと、十二月の寒風に吹かれながら見送ってくれていた。
 その姿を最後はミラーに映しながら眺め、空っぽになったような車内で溜息をついた。
 別れたばかりなのに、もう会いたくてたまらなくなっている。
 明日会えるまで丸一日くらいだろうか。長いな。
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