Tiny garden

さよならを越えていく(1)

 十一月に入り、俺は三十一歳になった。
 三十歳になる時にはある程度抵抗なり、憂鬱なりがあったものだが、さすがに一つ増えて三十一になったからとがたがた言う気にはなれない。これからいくつも歳を重ねていく覚悟ができたというほどでもなかったが、まあ多少、諦めはついた。
 それに園田がいるなら、いくつになっても俺の隣にいてくれるというなら、歳を取ることなんてどうってこともない。
 むしろこれから毎年のように彼女に誕生日を祝ってもらえるなら、俺はどんどん歳を取って何度も何度も園田と一緒の誕生日を迎えたい。

 迎えた誕生日当日、俺は車を走らせ園田を迎えに行った。
 当然ながら俺はいつになく浮かれていたし、一人の車内でも音楽をかけながらついつい歌まで歌ってしまうほどだった。
 彼女を部屋へ招く準備は万全に整っている。部屋の掃除は先週のうちに済ませたし、窓を磨いてカーテンも洗った。ベッドのシーツも洗った。彼女に渡したいとずっと思っていたものも改めて用意した――合鍵はずっとしまい込んでいてもさすがにくすんでしまったようで、今は鈍い銀色に光っている。だがそれも俺達が越えてきた年月を思えば当然だろうし、だからこそ今の俺達にふさわしいのだと思う。
 ただ一つだけ、腕時計は今更渡すのも気が引けて、まだしまい込んだままだった。
 とは言え捨てるのももったいない気がするし、いつか園田に事の次第を打ち明けて、笑いながら古い腕時計を眺めるのがいいかもしれない。

 そんなことを考えながら彼女のアパートの前に辿り着くと、膝丈のスカートをはいた園田が小さく手を振ってくれた。俺がスカートにしてくれと事前に頼んでいたからだ。
「安井さん、誕生日おめでとう」
 助手席に乗り込んでくるが早いか、彼女がそう言った。
 がたがた言う気にはなれないといっても、園田に祝われるのはやはり嬉しい。俺は柄にもなく照れながら礼を言った。
「ありがとう。お蔭様で三十一だよ」
「そうだね、ちょっと大人になったんじゃない?」
 園田は手早くシートベルトを締めると、運転席の俺を見ていたずらっ子みたいな顔をする。
「その言い方だと、まるで今までの俺が大人じゃなかったみたいだな」
 俺が軽く睨めば、すぐにあっけらかんと笑ってくれた。
「うそうそ、冗談だよ。あんまり変わってないかも」
 いつもの明るい笑顔に見えた――が、一方で少しだけ疲れているような様子も窺えた。

 最近、広報課の仕事が忙しいという話はちらほら聞かせてもらっていた。
 そのせいかもしれないが、動き出した車の中で彼女はあまり口数が多くなく、シートに寄りかかって物思いに耽るように窓の外を見ていた。信号停止の際に盗み見たその横顔は、あまり元気がないようだった。

「疲れてるのか」
 俺が尋ねると、園田ははっとシートから身を起こした。
「ううん、そこまでじゃないよ。昨日遅かったから今日も起きるの遅くて、まだ目覚めてないのかも」
「ちゃんと寝てきたか? 何だったら俺の部屋にはベッドもある」
「最近の安井さんダイレクトマーケティングじゃない? 私が『そうだねじゃあ借りようかな』なんて言うとでも思う?」
 彼女がまくし立てるように反論してきたので、俺も笑って応じておく。
「言ってくれたら喜んで貸すよ。それにステルスしたら園田、気づいてくれないだろ」
 二人で軽口を叩きあいながらも、園田のことが気にかかったのも事実だった。いつも快活で健康的な彼女が疲れた顔を見せることは滅多にないから、調子がよくないのではないかと心配になる。
「でも、無理はするなよ。何かあったら言ってくれ」
 そう告げたところで信号が変わり、俺は再び車を動かす。
 すると園田が小さく溜息をついた。
「今のところは全然平気なんだけどね……」
「やっぱり、年末か?」
「何か来月、やばいかもしれない」
 彼女がぼやくのが隣から聞こえ、具合が悪いわけではないようだと俺はいくらかほっとする。
 しかし広報課が忙しいのはどうやら事実であり、確定事項のようだ。社内報や広報誌などで最もスケジュールを重視し、連休の影響も受けやすい広報課は、特に年末年始が一番立て込むものらしい。
「早くもクリスマス終了のお知らせ?」
 俺が聞き返すと、そこで彼女は吹き出した。
「クリスマスなんて毎年ないも同然じゃない。来月超忙しいの」

 確かに、就職してからクリスマスを当日のうちに祝う機会はほとんどなかった。
 我が社は十二月ともなればお盆に引けを取らないくらい忙しくなるし、平日で仕事があればそれは残業があるということを意味するから、早く帰ってクリスマスパーティなどというのもなかなか厳しい。
 だがクリスマスが近づいてくると街は賑わいイルミネーションは点り気温は下がり、俺もつられるように人肌が恋しくなったりするものだった。今年くらいは楽しい祝い方をしたい、と柄にもなく考えている。

「でも今年のクリスマスは土曜だ」
 俺は食い下がるように彼女に言った。
「イブは無理でも、クリスマスくらいは一緒に過ごせるかもしれない」
「どうかなあ。その頃は私も安井さんもくたくたの干物になってるかもしれないよ」
 園田の返事ははっきりしなかったが、声は明るかったし、少なくとも嫌がっているようには聞こえなかった。
「干物なら水かければ戻るだろ。平気平気」
 だから俺も混ぜっ返すように答え、その後で念を押しておく。
「お互いくたびれてなかったらでいいから、考えといてくれないか」
 別にクリスマスにこだわっているわけではない。これからやってくるあの時期特有の人恋しさもさることながら、俺はかつて仕事の忙しさから彼女を失った経緯がある。同じ失敗を繰り返したくないからこそ、この時期のイベント事は大切にしたかった。
 二人でパーティが理想だが、できなければ五分くらい顔を合わせるだけでもいい。あの頃のように忙しさにかまけて園田を寂しがらせることはしたくないし、俺だってもう見栄を張ることなく、寂しい時には寂しいと言って彼女の元へ飛んでいきたい。
「いいよ」
 少し考えてから、園田はそう言ってくれた。
「ただ来月、出張があるんだよね」
 もっとも、直後に釘を刺すような言葉が続いた。
「十二月に? 大変だな」
「そうなの。しかもまだ日程決まってなくて。それでなくても十二月は忙しいみたいだし、年明けすぐに広報誌の入稿があるし、社内報だって来月分更新したらすぐ新年の分を作り始めなきゃいけないしでばたばたなのに。その上出張なんて、なかなかにヘビーだよね」
 ずらずらと読み上げられるスケジュールには俺の方まで眩暈がした。そんなに立て込んでいる時期に出張を捻じ込むなんて無茶ではないかと思えるが、園田なら上司に言われたら嫌な顔一つせずすっ飛んでいくんだろう。
「出張って何しに行くんだ」
 年末にまさか研修でもなし、何があるのかと思って尋ねると、
「取材。て言うかインタビュー、広報誌の記事用の」
 心なしか得意そうに園田が言った。
「おお、何かそれ格好いいな。雑誌記者みたい」
 たちまち俺の脳内にはソファに座り、物腰柔らかに取材に挑む園田の姿が浮かんだ。
 よくテレビのインタビューで女子アナが座っているあの一人がけソファは、スカートの裾とそこから伸びるすらりとした脚ばかりに目がいくのが困る。ましてや園田だ、俺好みのよく引き締まったきれいな脚の持ち主だ。取材相手が俺のように園田の脚ばかりじろじろ見てしまうような男じゃないといいが、いっそパンツスーツで行くように仕向けてみるかと考えたところで、彼女が語を継いだ。
「だよね。そこは全然不満とかないんだ。だから絶対って約束はできないけど、それでもよければ」
 俺もすぐに、妄想から現実に切り替えておく。
「わかった。今は覚えておいてくれるだけでいいよ」
 妄想に耽るのも楽しいものだが、今は現実の方が比べものにならないくらい楽しい。クリスマスの約束も現実になり、あの頃にはできなかった過ごし方が彼女とできたらいいと思う。もちろん理想としては土曜日曜と二人きりでゆっくりできるのがいい。
「安井さんだって忙しいんだから、身体第一にしてね」
 助手席から彼女の、気遣うような優しい声がする。
 その声が胸の奥にすうっと染み込んでいくと、不思議な実感が静かに込み上げてきた。
 かつては手が届かなかった未来に、俺達は辿り着こうとしている。
「心配してもらえて嬉しいよ」
 こちらから気にかけるだけではなく、俺のことも気にかけてもらえる。お互いを想いあい、案じあうことができている。そういう懐かしくも温かな幸せが、今年の誕生日には訪れていた。

 園田が車の中ではいつも通り、明るく振る舞っていた。
 だが途中でスーパーに立ち寄り買い物を済ませ、その後車がアパートのある住宅街に入ると、何かを予期したように急に口数少なになった。
 アパートの駐車場に車を停め、外へ出た時にはすっかり雰囲気に呑まれていたようだ。硬い表情で二階にある俺の部屋を見上げていた。傍目にはどこにでもあるような、ファミリー向けの二階建てのアパートだ。だがかねてからずっと――四年も前からずっと彼女を連れてきたいと思っていた。昼下がりの光を受けて輝く窓ガラスの向こう、俺の部屋が何もかも準備を整えて彼女を待ち構えている。
 車の中は温かかったが、車を降りると途端に冷たい木枯らしが吹きつけてきた。もう十一月だと実感する。
「中、入ろう。風冷たいし」
 俺は後部座席からスーパーの袋を下ろすと、風に吹かれて突っ立っている彼女を促した。
「……うん。お邪魔します」
 園田はいやに重々しく頷き、階段を上がる俺の後を神妙についてきた。

 玄関の鍵を開け、彼女を招き入れる。園田は恐る恐ると言った様子で玄関をくぐり、まず三和土の上で履いてきたハイヒールを脱いだ。屈んで靴を揃える後ろ姿が妙に色っぽく映り、俺も鼓動が速くなるのを感じた。
 彼女が俺の部屋にいる。
 ずっと昔から願ってきたことが、ようやく現実になろうとしている。
 その背中を抱き締めたい衝動に駆られたが、立ち上がった園田がいまだに緊張した面持ちだったのでぐっと堪えた。ここで手を出して、逃げられても困る。
 今回はただのお部屋招待というだけではなく、将来的に彼女とここで住むことも想定した上での、言わば内覧みたいなものだ。靴を脱いで上がった彼女に、俺はまず入ってすぐのところにある洗面所やトイレ、バスルームなどを案内した。
「ここのドアがトイレで、奥にあるのがバスルーム。中も見る?」
「いや、中まではいいよ。そんな突飛なつくりじゃないでしょ?」
「わからないぞ。何なら試しにシャワーでも浴びるか」
「結構です」
 園田はにべもなく俺の提案を一蹴した。別に乗ってくれるとは思っていなかったが、軽く睨まれたのがかえって愉快だった。

 その後で居室の方も案内した。
 ダイニングやリビング代わりの一室を一通り見てもらった後、奥の二室のうち、まずは書斎代わりに使っている方のドアを開ける。
 かつては弟の部屋として壁という壁にポスターが貼られ、万年床を中心に見るも堪えない惨状だったこの一室も、今ではパソコンデスクと本棚、それにCDラックがあるだけだ。オーディオボードは寝室に移してしまっていたから、今はこぎれいを通り越してやや殺風景な部屋に見える。
 だがそうしたのには理由があった。
「こっちの部屋に、園田が持ってきたいものを置けると思う」
 彼女と一緒に住むことを考え、こちらの部屋はなるべくあけておこうと思ったのだ。彼女もいろいろと持ち込みたいものがあるだろうし、使い慣れた家具だってあるはずだった。それに自転車の置き場も必要だ。
「もし邪魔ならCDは向こうの寝室に移してもいいし。結構あるんだろ、嫁入り道具」
 最後の一言はわざと口にした。
 途端に園田は息を呑み、視線を泳がせた後で唇を尖らせてきた。
「あれ? 何か俺、おかしなこと言った?」
 俺がとぼけて首を傾げると、彼女はむっとしたように俺を見返しながら、やけに挑戦的な口調で尋ねてくる。
「本当にめちゃくちゃ荷物持ってくるけどいい?」
「いいよ。でも一体何をそんなに持ってるんだ」
「自転車用のヘルメットだけで七つはあるからね。あとサイクルウェアとシューズと」
 園田は当たり前のように答えた。
 が、俺はむしろ当たり前のように驚いた。
「七つ!? いや、確かに毎日違うの着けてるなとは思ったけど……」
 自転車通勤の際、園田は割とファッションにも手を抜かない。サイクルウェアは普段着よりもバリエーション豊富に所持しているようだったが、自転車に乗る際のヘルメットもいくつか持っているらしいと知っていた。見るからにヘルメットらしい実用的なデザインもあれば、帽子と大差ない可愛いデザインのものもあって、随分こだわるものだと感心させられた。
 しかしだからといって七つもヘルメットを持っている必要があるのだろうか。
「普通の女の子だって、帽子ならそのくらい持ってるものでしょ。同じ同じ」
 園田は俺の動揺をよそに、何を驚くのかと言わんばかりの表情で言い切った。自転車に関しては全く妥協せず、自分の思う通りの趣味を貫くのが彼女の信条らしい。
 これは彼女と一緒に住むようになったら、俺も自転車のことをいくらか学ばなくてはならないかもしれないな。その辺りの覚悟は今のうちに決めておこう。

 最後に案内したのは、書斎から向かって南側、リビングの隣にある寝室だった。
 そちらのドアが寝室に通じていると告げると、園田は臆したように俺を見た。
「開けちゃって大丈夫? 失礼じゃない?」
「大丈夫。きれいにしてるから」
 俺は頷いた。
 実際、掃除は抜かりなく済ませていたし、もちろん洗濯もだ。見られてまずいところは何一つとしてなかった。むしろ見てもらいたいと思っていたし、何なら寝ていってくれてもいいと言ってある。
 それで園田はおずおずと寝室のドアを開け、尚も遠慮がちに室内を覗き込んだ。移動してきたばかりのオーディオボードとクローゼット、それにベッドが置かれた部屋はぎりぎり手狭ではない割合を保っていた。園田は中に立ち入ると、きょろきょろと室内を見回してから、後を追ってきた俺を振り返った。
「さすが人事課長、広い部屋に住んでるね」
 彼女はそう言うが、残念ながらこの部屋には営業課時代から住んでいる。そのうちに当時の話をする機会もあるだろう。とりあえずは苦笑して、謙遜しておく。
「そうでもないよ。単身者向けじゃないから静かでもないし」
「何かそれっぽいね。外に停まってたの、大きめの車ばかりだった」
「ああ。夏休み中なんて毎日騒がしいよ」

 弟が実家へ戻ってから三年超の間、俺はここで寂しい独り暮らしを続けてきた。
 休日などに外でたまたま顔を合わせたよその部屋の住人一家に、何とはなしの劣等感、一層の寂寥感を覚えたことも一度や二度ではなかった。
 だがもしここで二人暮らしを始められたら、そう言う気持ちとも無縁になることだろう。

「でも日当たりはいいし、洗濯物の乾きも早い。立地は悪くないだろ」
「確かにいいね、南向き。冬でも暖かそう」
「それにコンビニもスーパーも歩いて行ける距離にある。どう? この物件」
 俺がこれでもかと好条件を挙げている間、園田は何かを気にするように辺りを見回していた。何か探しているというふうでもなかったが、少し落ち着きなく視線を巡らせていた。
 まだ、緊張しているのだろうか。
「……園田?」
 そっと名前を呼んでみる。
 彼女はこちらを向き、夢から覚めたような顔で俺を見た。半ば寝ぼけてぼんやりしているような、可愛い顔だった。何を考えていたのかはわからないが、まだ夢から覚めきらない目で見つめられるとそれだけで込み上げてくるものがあった。
「あ、ううん。何でも――」
 答えかけた彼女の頭を、俺はとっさに抱きかかえた。
 そして力づくで引き寄せると、こちらからも顔を近づけ、唇を重ねてみる。
 柔らかい感触を三秒間だけ味わい、すぐに離すと、園田は数秒遅れてから慌て始めた。
「な、何するの急に」
 たったこれだけのことで、彼女の瞳はもう潤んでいた。頬も既に真っ赤だ。
「誕生日なんだから、このくらいはいいだろ」
 俺が弁解すると、園田は案の定という表情になって俺を睨む。
「結局言うんじゃない、『プレゼントはお前』的なことを」

 その言葉は、四年前に俺が彼女に言った言葉でもあった。
 今年の俺はまだ言っていないはずだったが、園田の態度も四年前とは少し違っていた。その違いが何となく心地いい。

「貰っていい?」
 実際に尋ねたら違う反応が返ってくる気がして、俺は尋ねた。
 すると園田はより強く俺を睨み、噛みつくような口調で言ってきた。
「駄目。絶対駄目。と言うかご飯作るのがプレゼントじゃなかったの?」
 潤んできらきらしている瞳で睨まれても怖いどころか、ぐっと来るとしか言いようがなかったが、彼女の言うことも事実ではあった。俺はそちらの方も存分に期待していたし、久し振りだった。
「そうだった。じゃあまずは、ご飯を作ってもらおうかな」
 誕生日の夕食は彼女お手製の豆腐料理という予定だった。
 長い間ずっと食べたいと思っていたごちそうが、いよいよ食べられるようだ。
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