Tiny garden

秋の日に訪れる(7)

 当然ながら、知らない話ではなかった。
 園田の見合い相手は俺だし、結婚をするという相手も俺以外には考えられない。むしろ彼女が石田にそう明言してくれたことを喜ぶべきだった。
 だが、石田の突き放すような言い方が、なぜか心に痛かった。

「多分、園田はお前にも言うつもりだったと思う」
 石田はにこりともせず、言葉を選ぶように話を継いだ。
「でも俺が止めたんだ。園田の幸せに水を差したくなかったからな」
 その言葉に俺は、相槌も打てずに黙ってビールを飲んだ。無性に喉が、口の中が渇いていた。
「安井も顔に出る質だって十分わかったからな。お節介だとは承知の上で、俺が伝えることにして園田を口止めした」
 言われるほど顔に出ていた自覚はないのだが、園田本人にも言われていたから、本当に出ているのだろう。最近、幸せすぎたからだろうか。
 彼女のことはずっと前から、それこそ四年前から好きだったのに、今頃になってわかりやすいだの顔に出ているだのと言われるのは妙な感じがした。今までの俺は巧妙に本心を隠しおおせていたのだろうし、それが最近気の緩みから漏れ出るようになっていた、ということなのかもしれない。
 内心でそう結論づけた俺は、ぼちぼち石田に事実を打ち明けようかと思い、
「なあ、石田」
「言いたいことはわかってる。でもとりあえず、黙って聞けよ」
 口を開いたところで石田に遮られた。
 手持ち無沙汰になってもう一度ビールを飲み始めた俺に、石田は尚も言ってくる。
「こうして前もって言ってやったんだからな。園田はお前のものじゃないんだから、妬いても顔に出すなよ」
「――ごほっ」
 今度の言葉は先程以上に鋭く、俺の胸に刺さった。そのせいかどうかはわからないが飲んでいたビールの炭酸が渇いた喉に引っかかり、思わず咳き込む。
 途端に石田が、憐れむように俺を見てくる。
「この期に及んで格好つけんなよ。めちゃくちゃ動揺してんじゃねえか」
 してないと言いたいところだったが、実はしていた。
 自分でも理由がわからなかった。石田は俺達について誤解をしていて、本当のところは園田の見合いの相手は俺で、だから彼女は俺のもので間違いない。
 そのはずなのに、なぜか石田の言葉一つ一つがやけに痛々しくぶつかってくる。
「してないよ。ちょっと、むせただけだ」
 俺は咳き込みながらハンカチで口元を拭った。
「嘘つけ。顔に出てるっつってんだろ」
 石田もビールをぐいぐいと飲み、深く息をつく。ジョッキの中身は残りわずかだが、それを指摘してやる余裕はなかった。
「すぐに諦めるなんて無理な話だろうがな、いいところで覚悟は決めとけ」

 諦めるとか、覚悟とか。
 そういう選択肢はこの四年の間に一度として存在しなかった。初めはもっと軽く考えていたせいもあるが、途中からは本当に引き下がれなくなっていた。諦めるなんて考えもしなかったのは、きっとこの恋を手放したら今よりもっと酷いことになると心の奥底でわかっていたからかもしれない。
 古傷が疼くような、不快な痛みがどこかに走った。

「園田だって、お前にも祝って欲しいと思うだろうしな」
 そこまで語ると石田は不意に俺の顔を見て、すぐに表情を引きつらせた。
「――安井。お前、泣いてんのか」
「な、泣いてない。何言ってんだ」
 突っ込まれて慌てて否定しても、石田の俺を見る目はすっかり同情一色だ。
「涙目になってんぞ」
「違う、これはさっき、ビールにむせたからだ」
 俺はそう言い張ったが奴が信じてくれていないことは明白だった。遂にジョッキを空にした石田が、長く深い溜息をつく。
 それから、独り言のような静かな声音で言った。
「別にいいだろ、泣いたって。そんだけ悲しいなら」
「だ……から、泣いてないって言ってるだろ」
 言葉に詰まりながらも反論すると、石田は俺から目を逸らし、尚も呟くように続ける。
「じゃあ今から遠慮なく泣け。俺は引かねえから」
「泣けって言われて素直に泣けるか」
 いつもの軽口のように言い返しながらも、俺は内心うろたえていた。

 そもそも失恋して泣くなんて、女の子ならともかく男がやっていいものでもないはずだ。男が泣いていいのは生まれてきた時だけ、少なくとも俺はそう思って生きてきた。
 だがこんなふうに勧めてくるということは、四年前、石田はいくらかでも泣いたのだろうか。
 その後に園田に振られた俺が、諦めるという選択肢を選んでいたら、やはり涙を流す羽目になっていただろうか。
 今だから冷静に振り返られることだが、俺は彼女を想い続けることで失恋の傷の痛みから目を逸らし、遠ざけてきた一面もあった。いつかまた、二人でいられるようになる。そんな儚い希望が願望に変わり、そして現実的な欲求に変わっていく間、俺は彼女を失った辛さや寂しさを和らげることができていた。だが園田が俺の元へ戻ってきた今、一人きりで耐え忍んだ期間を振り返ると、その痛々しさと苦痛に自分で眩暈がするほどだった。
 どうして俺は、ずっと平気でいられたのだろう。
 まるで麻酔でもかけられていたみたいに、あの頃の俺は痛みを忘れていた。そのことを直視した瞬間、今更のように胸が苦しくなってきた。

 俺が思い出に耽っている間に、石田は店員を呼んで追加の飲み物を注文していた。
 すぐに水割りのグラスが二つ運ばれてきて、半ば押しつけるように渡された。
「とりあえずどんどん飲め。酔っ払った方がまだ気が楽だろ」
「明日も仕事だぞ、石田。俺はあんまり強くないんだから」
「明日も仕事だからこそだ。お前、今の気分で明日出勤できんのかよ」
 石田はそう言うと、いち早くグラスを傾け始めた。もともと強いせいもあるだろうが、険しい顔つきの石田には酔っ払う気配がまるでない。
 渋々俺もグラスを持ち、とりあえず一口飲む。
 何だかよくわからない気分になっていた。今の俺は十分幸せで、石田に心配される必要もないというのに、なぜか無性に痛くて悲しかった。
「愚痴でも泣き言でも何でも聞いてやるから、溜め込んどくなよ」
 酒を飲みながら石田が言う。
「こういう時はお互い様だろ、安井」
 そうやって慰めようとしてくれる石田は、いい奴だ。大体、仕事の後で疲れてるのに飲みに誘ってくれた時点でそうだろう。いい奴じゃなければこうして九年間もつるんではいられなかった。
 だがいい奴だと思っているからこそ、俺は真実を打ち明けられなくなっていた。

 今の言葉を、あの時、聞きたかった。
 園田に振られて、異動の慌ただしさにも追われて、どうしようもなくなっていた俺はあの頃誰にも縋れなかった。他人に縋るのはみっともなくて格好悪いと思っていたからだ。
 だがあの頃、石田がもし同じように言ってくれていたら――溜め込むな、お互い様だと言って俺の無様な失恋話を聞いてくれていたら、何かが変わっていたかもしれない。石田ならこういう時くらいは真剣に耳を傾けてくれただろうし、心強い味方になってくれたかもしれなかった。
 そういうものを全て拒んで、殻に閉じこもり痛みから目を逸らしてきたのは他でもない俺だ。
 今頃傷ついた気分になるなんておかしい。だがすごく、心が痛い。今思うと、俺はどうして彼女がいない時間をたった一人で耐えてこられたのか、わからないくらいだった。

「泣いてはいないけど、泣きそうになったよ」
 俺はようやくそれだけ、石田に対して告げた。
 石田は気遣わしげに俺を見て、それから呆れたように眉を顰める。
「こんな時でもとことん格好つけんだな、お前は」
「そうでもない。今でも俺、十分みっともないだろ」
「いいや、まだ足りん。もっと酔え、酔っぱらって自分を曝け出せ」
 本当にあの頃、そんな言葉を貰えたらよかった。
 もちろん、園田のことを隠していたのは俺だ。石田が悪いわけじゃない。今になっても思い出して立ち直れなくなるくらい、深手を負っていたことにさえ気づけなかったのも、俺がつまらない見栄を張り続けてきたせいだ。
 俺は当時の痛みごと呑み込むつもりで、グラスの中の水割りをぐいっと呷った。居酒屋らしくごく薄めに作ってあったが、たちまち胃の底がかっと熱くなるのがわかった。その熱を溜息と共に吐き出す。
「悪いな、石田。忙しいのに付き合わせて」
 それから謝ると、石田はようやく少しだけ笑った。
「お互い様って言っただろ、気にすんな」
 その言葉も本来ならもっと前に聞けていたはずだった。俺はすっかり打ちひしがれて、大して飲めもしない水割りをちびちび飲み続けた。

 一方、石田は俺が立ち直りつつあると踏んだようだ。
 水割りを飲み干し、次の飲み物をやはり黙って注文した直後に言われた。
「こうなったらお前も、とっとと次の相手でも見つけろよ」
 いい奴だと思ったらこれだ。容赦なく俺の地雷を踏みに来る。
 そんなことができていたら、これほど長く引きずりはしなかったのに。
「思い詰めなくても、お前ならすぐ見つかるだろ」
 励ましのつもりらしい言葉に、二杯目の水割りを受け取った俺は、すぐには答えられなかった。
 同じことを園田に、当の本人にも言われていたのを思い出したからだ。
 格好いいから、なんてストレートな誉め方をされて、動揺させられたのも思い出した。俺が浮かれている裏で、彼女は俺ではない相手と結婚する想像でもしていたのかもしれない。一時でもそういった考えが彼女の中にあったことを苦々しく思う。
 自棄になって、酒をもう一口飲んでから言った。
「園田の代わりなんていないよ」
 すると石田は再び表情を曇らせ、しばらくの間困った様子で黙り込んでいた。
 だが結局、苦笑気味に言われてしまった。
「だったらどうして、先を越される前に口説いとかなかったんだよ」
 全くだ。もう少しで危ないところだった。
 だがぎりぎりで間に合ったというだけで、実はかなり前から苦しんでいたのかもしれない。もっと急いで行動しておけば、こんなふうに今になって石田の言葉に打ちのめされることもなかっただろう。
「全く安井は詰めが甘いっつうか、どうせ格好つけすぎて周りの目でも気にした挙句、ろくに手も出せなかったんだろ」
 そんな俺に、石田は容赦のない一撃をくれた。
 酔いの回った頭には強烈で、かつ的確な攻撃だった。

 園田に振られてからの俺はまさにそんな調子だった。
 仕事に追われて彼女を追い駆ける暇もなく、休みの日を持て余しても彼女にメール一つ送れなかった。職場では人目もあってあまり積極的には話しかけられなかったし、しかしそれだけの状況にあってもまだ俺は、石田達に失恋したことを打ち明けられなかった。彼女の為に合鍵まで作ったのに、そういう相手に振られてきついんだってことを誰にも言えなかった。見栄を張ったまま過ごしてきた間、俺の心はすっかり擦り減って、薄っぺらくなっていたようだ。

 次々と蘇るあの頃の思いに押し潰されそうになり、俺は石田を睨んで言い返した。
「何を言うんだ、石田」
「図星だっただろ?」
 平然と聞き返してくるその内容がまた正しいからむかつく。
「うるさいな、そもそも今夜は俺を慰める為の席じゃなかったのか」
「それは俺の仕事じゃねえな。どこぞの可愛い女の子にでも頼め」
 石田が笑い飛ばしてきたので、俺も是非そうしてやろうと思う。
 俺にはもっと園田が必要だ。彼女と過ごす時間を増やして、いつの間にか負っていたらしい傷を癒してもらおう。俺だってもうちょっと、長い時間をかけてようやく取り戻すことができた幸せを噛み締めていたい。
 それまでの間、もうしばらく石田には事実を伏せておくことにしよう。打ち明けたら打ち明けたでまた強烈な一撃を食らいそうな気がしてならないからだ。何せこいつの地雷を踏み抜く精度と言ったら半端ない。
「わかった、そうする」
 俺が頷くと、石田はすかさずにやりとした。
「是非そうしろ。次は格好つけようなんて考えないで迅速に口説けよ」
 こいつ、本当は何もかも知ってるんじゃないだろうか。そんな気さえして、俺はとてもじゃないが笑えなかった。

 散々飲んだせいで、自分の部屋へ辿り着く頃にはすっかりふらふらだった。
 だが静まり返った一人の部屋へ戻ったら、急に園田の声が聞きたくなった。石田と話をしているうちに俺はすっかり振られた直後の気分に戻っていて、彼女が戻ってきてくれたことを直に確かめたいと思っていた。
 まだぎりぎり、日付が変わる前だった。俺は彼女に電話をかけた。
『――安井さん? 今日は帰ってくるの遅かったね』
 園田の声はまだ眠そうでもなく、いつものように明るく朗らかに聞こえた。
 お蔭で俺の傷つきささくれ立っていた心も、早速いくらか癒されたようだ。
「起きてたか、園田。ちょっと話せるか?」
『いいよ、大丈夫だよ』
 彼女は優しい声で快諾してくれた。
 途端に俺の身体から力が抜けていくのがわかり、俺はリビングのソファに半ば崩れ落ちるように座り込んだ。
 少し、緊張していたのだろうか。昔のように気軽に電話ができるようになったことを確認したら、自分でも驚くほど安堵していた。携帯電話は彼女の微かな吐息さえ拾い、まるで園田がすぐ傍にいてくれるような気分にさえなる。
 よかった。園田が戻ってきてくれた。
 手遅れにはならなかった、よかった。
「ありがとう園田。愛してる」
 俺は電話越しにそう告げた。
『……はっ!?』
「こうして声が聞きたい時に電話かけられるのっていいな。幸せを感じる」
 彼女はうろたえたような声を上げたが構わず続ける。
 すぐに園田が聞き返してきた。
『な、何? そのテンション』
「テンション? 何それ、俺は普通だよ」
 お蔭様で今は普通でいられる。それもこれも全て園田がいてくれるからだ。
 もし彼女を取り返せていなかったら、俺は今でも自分が負った深手に気づかないふりをして、麻痺した心で日々をやり過ごしていたのかもしれない。
『ちょっと普通には聞こえないんだけど……』
 園田はどこか疑わしげな声で言ってきた。

 確かに、身体の方は普通ではないかもしれない。ソファに座っているのにふわふわ浮かんでいるような感覚があるし、もう十月も終わるというのに、全身が真夏みたいに熱く火照っている。
 飲み過ぎただろうか。明日み仕事だが、いざとなったら彼女にモーニングコールしてもらおう。

「強いて言うなら少しだけ酔っ払ってるかもしれない」
 俺が過少報告すると、園田はそれだけで腑に落ちたようだった。
『ああ、それなら納得。お酒飲んできたんだね』
「でも酔ってるから言ったわけじゃない。俺は本当にお前を愛してる」
 告げた直後、電話の向こうでは、ぼふっとどこかへ倒れ込むような物音が聞こえた。
「今夜くらいそう思ったことはないな。お前と一緒にいられるってどれだけ幸せなことかわかった。お前がいない時間がどれほど空虚で寂しいものだったかってことも」
 俺は尚も続けた。
 今が本当に幸せだった。幸せすぎて、かつての俺が幸せではないどころか、随分酷い精神状態にあったことまで気づかされた。
 気づかないままでも、俺は自分のことをそれなりに幸せだと思っていたかもしれないし、園田がいない状態をまだ平気だと思っていたのかもしれない。だがそんな見栄を張ったところで、本物の幸せには敵わない。
 俺はもっと今の幸せと園田の存在を味わい、楽しみ、確かめたくて仕方がなかった。
『何か……あったの? 酔っ払ってるだけじゃないよね』
 園田が心配そうに尋ねてくれたのが嬉しい。
「わかるか」
『わかるよ、そのくらい』
「そうか。じゃあ俺が愛してるのと同じように、俺も園田から愛されてるんだな」
 痛みを忘れるくらい長い時間を過ごして、途中で見栄もプライドも捨てざるを得なくなって、そしてようやく、ここまで辿り着けた。
 秋の訪れと共に、俺にもようやく幸せな時間がやってこようとしていた。

 俺は園田に、石田と飲みに行き、そこで奴から慰めのような攻撃を受けたことを打ち明けた。
 結局、奴にはまだ事実を話せなかったことも。

 その上で彼女には言った。
「園田。もう少しだけ俺に、お前を独り占めさせてくれ」
 酔いが回った頭からは素直な欲求がすらすらと口をついて出る。
 こんなことを来月には三十一になろうとしている男がのたまっている姿はさぞかしみっともないだろうが、それでもよかった。
「石田には、いつか必ず話す。ずっと隠すつもりもない。それまでは二人きりでいさせて欲しい」
『構わないけど、安井さんはいいの? 石田さんが心配しない?』
 園田は少し気遣わしげに聞き返してきたが、その点については大丈夫だろう。
「多分しない。昨日ので自分の仕事は済んだと思ってるだろうし、しばらくそっとしといてくれるよ」
 石田も結婚を控えた身でこれから忙しいそうだし、毎年恒例の年末進行だってある。それが明けてから話すでも問題はないだろう。
 その間に俺は誕生日とクリスマス、それから一月十日――彼女の誕生日を、じっくり楽しんでやろう。
「実感したいんだ。園田が俺のところに戻ってきたって、十分確かめてからがいい」
 俺がそう言うと、彼女は少し考えるようにしてから、明るい声で答えてくれた。
『安井さんがそうしたいなら、私はいいよ。やっぱまだちょっと照れるしね』
 後半の言葉は俺に気を遣って言ってくれたのかもしれないが、だとしてもその気持ちが温かく沁みるようだった。
 それから、彼女と来月の約束をした。
『誕生日、何が食べたい?』
 彼女の問いに、俺は即答する。
「豆腐!」
『わかった。メニューはお任せでいいの?』
「いいよ、園田の作ってくれるものなら何でもいい」
 久々に食べる彼女の手作り豆腐料理、と来れば何だっていい。
 来月の誕生日が心から待ち遠しかった。
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