Tiny garden

秋の日に訪れる(6)

 やがて園田がスプーンを置き、空になった弁当箱に蓋をした。
 急いで食べていたようで、なくなるまであっという間だった。

 俺は残念に思いながら声をかける。
「園田、もう食べ終わったのか」
「うん。ごちそうさまでした」
 園田は両手を合わせて、軽く頭を下げる。その仕種が可愛かった。
「また味見させてもらえなかったな、園田の手料理」
 せっかく一緒に昼飯が食えると思ったのに、気がつけばお願いする暇もなかった。それもこれも訳のわからないネタを吹っかけてきた石田のせいだ。
 ちらっと横目で見ると、隣に座る石田は柄にもなく真剣に考え込む顔をしている。
 こうして真面目そうにしていれば、小坂さんみたいな純粋な女の子達が格好いいだの素敵だのと絶賛するのだろうが、どうせこんな顔をしていたって頭の中はくだらないことばかりが詰まっているに違いなかった。
「でも今日は麻婆豆腐だからね。一口分けてあげるのは難しかったかも」
 園田がそう続けたので、俺は意識を彼女へ戻して聞き返す。
「そうか? 何で?」
「だって箸だと掴みづらいじゃない。スプーンはこれ一本しかないし」
 そんなふうに言われたら、こちらの答え方は一つきりしかないだろう。
「園田のを貸してくれればいいよ」
 当然そう返したが、園田には予想外の答えだったらしい。目を白黒させて口を結んだ。
 俺がどう答えるかなんてわかりきっているだろうに、こんなことくらいでいちいち動揺する園田もいい。その様子を満ち足りた気分で眺めていると、いきなり横から肩を叩かれた。
「ばっ、馬鹿じゃねえのお前。何言い出してんだよ」
 なぜか、石田も動揺していた。
 しかも今の叩き方は軽いツッコミという感じではなかった。まるで俺を咎め、制止するかのような――急に、何だ?
「爛れてんのはお前の方じゃねえか。そういうセクハラじみたこと、園田に向かって言うなよ」
 石田が語気を強めたので、俺は全く訳がわからないなりに応じた。
「そんなの石田に言われたくない。お前こそ息をするようにセクハラしてるくせに」
 しかしそれにも石田はきつく眉を顰め、
「一緒にすんな。俺は少なくとも人妻には絶対しねえよ」
「園田は人妻じゃないだろ?」
 彼女が結婚したなんて話は聞いたこともないし、そもそも先日俺と見合いをしたばかりだ。園田が人妻なはずもない。

 だがそこで石田は不自然に口ごもり、俺はますます腑に落ちない思いを抱え込む。
 何だ、今の態度。
 まるで本当に園田が人妻だと言いたげだったが、そんなことあるはずがないしあってはならない。なるんだったら俺の妻だ、それはもう決定済みだ。

「大体、石田は前に味見させてもらってるだろ。何でお前はよくて俺は駄目なんだよ」
 俺も大概根に持つ方なので、そのネタで石田をやり込めてやろうと反撃にかかる。
 いつもなら何やらしたり顔で煙に巻きにかかるのが石田だったが、今日ばかりはいやに冷静な目つきで言われた。
「そんな昔の話、とっとと忘れろ。空しくなるだけだぞ」
 まるで諭すような口調だった。
 まさかと思うが、本当に何かマリッジブルー的な出来事があったわけじゃないだろうな。俺は困惑を押し隠すようにやり返す。
「根に持ってるわけじゃない。いつでも言いつけてやるぞと思ってるだけだ」
「三十一にもなって告げ口が切り札って、お前が小学生かよ」
「あいにくだけど俺はまだ三十だ。誰かさんと違ってな」
「半年も違わねえだろ。時間の問題なのに何を勝ち誇ってんだ」
 こういう軽口の応酬は、俺達の間にはいつものことだ。石田は口が減らない男だし、俺は俺で結構な負けず嫌いでもある。昔、飲み会の席でこうして口喧嘩みたいな応酬をすると、園田は小さい子を見るような優しい目で俺達を見て笑っていた。
 だが今の園田はどこか落ち着かない様子で俺達を交互に見ているし、何より石田が妙だ。浮かない顔で溜息までついている。明らかに普段とは違うしおかしいのだが、その理由が全く推察できない。
 小坂さんのことで落ち込んでいるならこんなものでは済まないだろうし、仕事のことではここまで落ち込まない男だ。
 となると他に――何があるだろう。

 上滑りするような軽口を散々叩き合った後、石田が腕時計を見てから席を立つ。
「俺、そろそろ戻んないと」
 疲れ切ったような溜息が頭上で聞こえ、俺も何となくもやもやしながら挨拶をする。
「そうか。じゃあまたな、石田」
「ああ、お先」
 おざなりな返事をした石田が、ふと真向かいに座る園田に向かって手招きをする。
「園田、ちょっといいか。社内報の件で一つだけ」
「私? うん、わかった」
 すぐに園田も立ち上がり、先に立って席を離れる石田の後についていく。

 俺は背もたれに肘をかけて振り返り、二人がどんな話をしているのか窺おうとした。嫉妬もあるがそれ以上に、今日の石田は何かが引っかかる。
 案の定、石田はこちらを振り向きもせず、どんどん距離を取って食道の位置口近くで園田を立ち止まらせた。どうやら俺に聞かれたくない話があるようで、それはどう考えても社内報の寄稿の件だとは思えなかった。石田の深刻そうな顔とは対照的に、園田はそわそわと落ち着きがなかった。
 だがこれだけ距離を置かれれば二人の話が聞こえてくるはずもなく、結局俺は監視を諦め、カップ麺を食べながら園田が戻ってくるのを待った。

 二人の会話は一分間ほどで済んだようだ。
 しばらくしてから戻ってきた園田は、湯気の立つ湯呑みを二つ持っていた。先程まで落ち着きのなかった園田だったが、椅子に腰を下ろした時にはまるで諦めのついたような面持ちをしていた。
「安井さん、お茶飲むよね?」
 その態度で湯呑みを勧められ、俺は釈然としない気分ながらもお礼を言った。
「ありがとう、気が利くな」
「そうでもないよ」
 どこか自嘲気味に言った園田が、まずお茶を一口飲む。
 それから、居住まいを正して切り出してきた。
「安井さん。一つ謝りたいことがあるの」

 ――やはり、何かあったようだ。
 先程の石田とのやり取りにおける違和感、微妙な気まずい空気には理由があったようだとそこで察した。
 だが園田が俺に謝る、というのがよくわからない。

「何? 石田と内緒話してたことについて?」
 俺がくすぶっていた嫉妬を込めて聞き返すと、園田は絶句していた。話を腰を折ったようで申し訳ないからすぐに訂正しておく。
「冗談だ。いい年した男が、その程度のことで妬くわけない」
「そっか……そうだよね。ならいいんだけど」
 園田はこういうことには素直で、すんなりと納得されてしまったのが寂しい。
「ならいい、で済まされるのも辛いものがあるな。男は意外と繊細なんだ」
「男心って難しいね。何話してたか、今から言うよ」
 真っ直ぐな、ひたむきな眼差しで、園田が俺を見つめてくる。
 そうすると引きずっていた嫉妬心が途端に馬鹿馬鹿しくなった。妬く必要もないとわかっているのに、何を苛立ってたんだろうな、俺は。
 湯気で霞む湯呑みの水面を見下ろしながら、やがて俺は尋ねた。
「二人でしてたの、俺の話?」
「うん。と言うか私、お見合いしたことを石田さんに話したの」
「話してたのか、あいつに」
 さすがに驚いた。
 園田が、彼女の口からそれをあいつに打ち明けるとは思ってもみなかったからだ。
 恥ずかしがり屋の園田ならしばらくは秘密にしておくだろうと踏んでいたし、真っ先に騒々しく冷やかしてきそうな石田から打ち明けたというのも意外だった。
 だがそれで、石田から貰ったメールについては答えがわかった。あいつは俺達が見合いをしたことを知って、だからあんな文面を――。
「そうなんだけど、相手が誰かってことは言ってない」
 園田が、俺の推測を遮るように続けた。
 とっさには意味がわからなかった。
「どういうことだ」
「相手が安井さんだって、石田さんは知らないの。安井さんが話してないのは何か理由があるのかもって思ったから」
 彼女は更にそう語り、俺は先程の推測を打ち捨てて一から考え直さなければならなくなった。
 石田は園田が見合いをしたことは知っているが、相手が俺だと言うことは知らない。その上であんなメールを送ってきたということは。
「ああ、それでか、そういうことか」
 今度こそ全てにおいて腑に落ちた。

 が、その誤解はいくらか俺の癇に障った。
 つまり石田は、どういう経緯かは不明だが俺が園田に好意を寄せていることを知っているらしい。知っているのか、当て推量がまぐれ当たりを起こしたのかは定かではないが、それで俺を社食に呼び寄せようとあんなメールを寄越したわけだ。
 しかしその後で園田は相手を伏せて、見合いをしたことを石田に話してしまった。
 当然、石田は俺が哀れにも失恋したと思い、それで――だから、ああいう態度だったわけだ。

「ごめん。石田さんがどこまで知ってるかわからなくて、私のことだけ話したんだけど、かえってややこしくしちゃった」
 園田は済まなそうに手を合わせてきた。
「俺があいつに言ってなかったのが悪かったんだ。お前のせいじゃない」
 すぐに俺も言った。
 その通り、俺から石田に話を通しておけば起こるはずのなかったトラブルだ。園田は悪くない。
「いつかは話すつもりでいたんだけどな。あいつもそういう話聞くと黙ってられなくて土足でずかずか踏み込んでくるだろうから、当面は隠しとこうと思ってた」
「そうだろうね」
 俺の言葉に同意しながらも、園田はそこでふと優しい表情になった。
「石田さん、安井さんのこと心配してたよ。お見合いのことも自分から伝えるって言って、私には言わないように頼んできたくらいだから」
「あいつ、俺が空しく散りゆく片想いをしてるとでも思い込んでるわけか」
 自業自得だというのは百も承知だが、この後に石田がどんな態度に出るか、容易に察しがつく。
 九年近くもつるんでいればあいつのやりそうなことくらいわかる。早ければ今夜にでも『安井くん失恋残念パーティ』でも開いて盛大に慰めようとしてくるだろう。
 それ自体は縁起でもないことながら、いい機会だとも思う。
 いつかはあいつにも打ち明けるつもりだった。
「心配するな、俺からあいつに説明しておく。どうせあいつは俺を哀れんで、失恋残念でしたパーティって体で飲みにでも誘ってくるはずだ。その時にでも打ち明けて、奴の度肝を抜かせてやるよ」
 俺は園田を心配させまいと、なるべく明るくそう告げた。
 石田はきっと俺に声をかけてくる。賭けてもいい。百パーセント確実に。
 あいつはそういう奴だと、俺はよく知っていた。
「うん、わかった。迷惑かけてごめんね」
「謝るなよ。俺が黙ってたのと、あいつがお節介なのが悪いんだ」
 彼女が改めて謝ってきたから、俺はそれを軽く否定しておく。

 今回も余計な見栄を張ったかな。たとえ見返してやれるレベルではなくても、とっとと自慢しておけばよかった。
 ただ、一つだけ引っかかることがある。
 石田はどうして俺の恋心を――それも園田のはスルーして、俺のだけ見抜いてみせたのだろう。
 先程の奴との会話を振り返ると心当たりが一つ浮上してきた。

 俺は湯呑みを両手で持つ彼女に呼びかける。
「園田」
「何?」
「俺、最近そんなにだらしない顔してる?」
 顔に出ていた、ということなのだろう。
 それはまあ、正直自覚していなくもなかった。だが石田ほどじゃない。あいつほどあからさまでもないし、これまで通り隠し通せていたはずだったのに。
「石田みたいな包み隠さない奴に言われるとショックだ。俺は自制できてるつもりでいたのに」
 俺がそう言うと、園田はじっくり検分するように俺を見てから答えた。
「確かに最近、顔に出てるかも」
「本当に? 参ったな」
 悲しみや辛さは隠し切れるのに、幸せだけはどうにも顔に出るものらしい。困ったものだ。

 その日の夜七時過ぎ、石田はわざわざ人事課まで俺を迎えに来た。
「安井、今日空いてるか? 飲みに行くぞ」
 何でもないふりを装いつつ、有無を言わさぬ口調の石田に、俺は予想通りだと危うく吹き出しかけた。
 慌てて取り繕って答える。
「いいけど、急な話だな」
「ちょっと話したいことがあってな、酒でも飲みながら」
 石田がグラスを傾けるような仕種をする。
 普段はしないその気取った手つきを見て、俺も今度は普通に笑った。
「わかった。すぐに上がるから、待っていてくれ」
 幸いにもこの日は天気がよく、俺は電車で出勤していた。石田は車で来ていたようだが、今日は置いていくからいいと軽く答えていた。若干の後ろめたさがなくもなかった。

 奴は一度駅前まで出ると、繁華街の騒がしそうな居酒屋を選び、そこに俺を連れ込んだ。
「とりあえず適当に頼むか。酒が入らないと話もできない」
 小上がりに座り込んだ後、石田は妙に急いた様子でメニューを開く。
 俺は店内のがやがやと賑やかな声が気になっていた。どんな話をするかはわかっているが、そういう話をするのにふさわしい場所とは思えなかった。もっと静かなバーとか、居酒屋にしても個室の店とか、ややこしい話を語るべき場所は他にあるだろうに。

 しかし考えてみれば四年前、石田が華々しい失恋を決めた日も奴はこんな店に俺を誘った。
 そして居酒屋の喧騒に紛れ込ませるみたいに、心情をぽつぽつと打ち明けてきた。
 何となくだが、奴はそれでその時、周りの騒がしさに救われたような気持にでもなったのかもしれない。店の中が静まり返ってたらかえって耐えられなかったのかもしれない。
 だから今夜も俺をここに誘ってくれたのだろう。

「じゃあ俺、ビールと湯豆腐」
 そろそろ夜が涼しくなってきて、酒のつまみも冷奴より湯豆腐向きの季節になった。だが俺がそう宣言すると、石田は素早くメニューから顔を上げてぎょっとしてみせた。
「豆腐?」
「ああ、駄目か?」
「駄目ってか、もっとほら、しっかり食えよ。ちゃんとしたもん食わないと夏バテすんぞ」
「もう夏じゃないだろ」
「じゃあ秋バテだ」
「そんなの、聞いたこともない」
 俺は鼻で笑ったが、石田は思いのほか必死だった。さんまのいいのが入っていると店員から聞き出すや否や、俺にもそれを注文するよう勧めてきた。どうやら俺が豆腐を頼むと園田のことを思い出すのでは、などと思っているらしい。
 こちらとしては園田の影響で豆腐が好きになったなどと一言も打ち明けたことはなかったのだが、どうやら気づかれていたらしい。
 これは早く打ち明けないと、めちゃくちゃ気を遣ってくれている石田にも悪い。俺はどう切り出そうか思案に暮れながら、まず運ばれてきたビールに口をつけた。
 それから、
「あのな、石田」
「――なあ」
 俺が呼びかけたのと同じタイミングで、ジョッキを置いた石田も口を開いていた。

 言葉は奴の方が短かったが、声の重みは向こうの方が上だった。
 奴の吊り上がった目がやけに真剣に、揺るぎなく俺を見ていて、最愛の彼女ならともかく俺がそんな目を向けられたところで居心地が悪いだけだろうと思う。
 ともかく、気圧された。そのせいで先手を取られた。

「一つ、聞きたいことがある」
 石田はそう前置きすると、らしくもなく一度言いよどんで見せた。いつも口八丁の石田が言葉を選ぼうとしていること自体が驚きだった。だがすぐに、再び言った。
「お前、園田のこと好きなんだろ」
 直球だった。
 戸惑いはしなかったが、さすがに照れた。
「まあな。わかるか?」
 聞き返すと石田はもっともらしく頷く。
「わかるなんてもんじゃない。あからさまにも程がある」
「そんなにか!」
「顔に出てんだよ、安井。園田の前じゃいちいちにやにやでれでれしやがって。あいつの一挙一動見てるし、あいつと目が合う度に顔緩みきってて目つきまで変わるし、あいつと喋る時は声のトーンまで違うじゃねえか。おまけに俺と園田が同期のよしみ程度の会話しててもやきもち焼く始末だろ。そんなんでよく平然と『わかるか?』なんて聞き返せるもんだ」
 石田は一気にまくし立てると、ビールのジョッキを持ち上げてぐいっと呷った。
 そして中身を半分くらい減らして深く息をついてから、したり顔で続ける。
「確かに、わかるよ。お前みたいな根性捻じ曲がった捻くれ者で、格好つけてすかしたことばかり言ってるような男は、ああいう飾らない、底抜けに明るい子を好きになるもんだよな」
 割とストレートにディスられたような気がしたが、ここは突っ込んでおくべきだろうか。
 まあ、その辺りは後でまとめて言うかと、ひとまず石田に喋らせておく。
「俺も園田とは入社以来の付き合いだが、やっぱりいい奴だって思ってるよ。お前が骨抜きにされてめろめろでどうしようもなくなってんのもわかる」
「そこまで酷くないだろ」
 俺は抗議したが、石田はそれが的外れだというようにかぶりを振った。
「いや、はっきり言うがそこまで酷い」
「嘘だろ……俺にはそんな自覚なんてないぞ。石田、いつぞやの意趣返しじゃないだろうな」
「自覚しろよ。園田の前にいる時、お前からは眩しいくらいの好き好きオーラが出てんぞ」
 オーラって何だ。それが三十過ぎた男の台詞か。
 呆れる俺に、だが石田は急に声を低くする。
「でも、園田は駄目だ。諦めろ」
 釘を刺す言葉が、俺の心に鋭く突きつけられたようだった。
「あいつ、見合いをしてその相手と結婚するそうだ。だから諦めろ」
 石田は俺から目を逸らさずに言い放った。
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