Tiny garden

決して絶えず、限りないもの(5)

「園田に言ってなかったことがある」
 俺は、視線を足元に落としてから言った。
 遊歩道に敷かれた石畳は規則正しく並んでおり、公園の奥までずっと続いている。夜も更け、道の先は闇に紛れて見えなくなっているが、この道をずっと辿れば公園内を一周してまたここへ戻ってこられるようになっていた。前に来た時、園田と一緒に歩いたから覚えていた。
 案外と、どんな道もそうなのかもしれない。果てしなくどこかへ続いていて、先行きが見えないようでいて、何かの節目でふとかつて立った分かれ道へ戻ってくることもあるのかもしれない。過去に戻って人生をやり直せるわけではないが、だからといってやり直しが全く利かないということもないのだろう。
 お蔭で俺はやり直せた。その為に投げ捨ててきたものも少なくはないが、それらはほとんど要らないものだったから気にすることはない。
 代わりに余分な恥や弱みを背負ってしまったが――それはまあ、俺がかつて石田に語った通りだ。生きていれば自然と増えていくものでもある。諦めて受け入れることもまた肝心だ。
 今から俺はそんな恥の話を、園田にする。
「何?」
 不思議そうに園田が聞き返してくる。
 すぐには言葉を続けられなかった。ここまで来ても尚、言いにくかった。気恥ずかしかった。できることならしばらく彼女には秘密にしたまま、何十年か後に『実はこんなことがあって』なんて、笑い話みたいに話せたらいいと思っていた。
 だが現状では打ち明けても笑い話どころではない。恥ずかしすぎていたたまれない類の話だ。
 それでも切り出した以上、誤魔化すわけにもいかなかった。俺は深呼吸をしてから、清水の舞台から飛び降りるつもりで切り出した。
「見合いの話を断った時、俺、気になって小野口課長に聞いたんだ。『もし俺が断ったら、園田は別の相手と見合いすることになるんですか』って」
 園田が勢いよくこちらを向いて、俺の顔をまじまじと見たのが視界の端に窺えた。
 だから俺も彼女に目をやり、少し気まずい思いで言った。
「小野口課長はそうだって言ってた。園田が結婚したがってるようだから、協力するつもりでいるって」
 そこで園田が困ったように眉根を寄せた。この辺りには上司と部下で見解の相違があるようだ。しかし小野口課長の趣味は仲人、明るく可愛い上に優秀な部下が未婚とあれば放っておくこともできなかったのだろう。
 さて、この次が一番言いにくいくだりだ。俺は一呼吸置いてから、なるべく何でもないような顔をして打ち明けようと思った。
 だが園田があまりにも真剣な目で見つめてくるものだから、そんな中では平然としていられなかった。自然と口元が緩んで、きっと照れ笑いみたいな表情になっていたことだろう。
「それで俺、園田には誰も紹介しないで欲しい、って頼み込んだ」
 意外にもその時、彼女は驚かなかった。
 薄く開いた唇に多少の動揺は窺えたものの、どことなく納得しているようにも映った。彼女は俺のことをよく知っているから、案外俺ならやりかねないとでも思っているのかもしれない。それはそれで、気恥ずかしい。
 気を取り直して続ける。
「小野口課長はそれでわかってくれたようで、園田にはお見合いの話を持っていかないと言ってくれた」
 あの時のことは今でも、思い出すだけで顔から火が出そうだ。
 俺のこれまでの人生であの時ほど真剣に頭を下げ、懇願したことはなかった。だがそこまでしたからこそ、俺はようやく園田を取り戻せた。だから悔やんでいるわけじゃない。もうしばらくはあの時の恥ずかしさを引きずって、思い出しては一人のた打ち回っていそうだが。
 園田もここに来てようやく恥じ入るように頬を赤くした。何を言うのか、という目で俺を見ている。ついでに先日、社員食堂での小野口課長の反応を思い出してそういうことかと理解したようでもあった。さすがに小野口課長が言っていたように喜んでいるとまでは思えなかったが、悪い反応ではなかったことにほっとする。
「じゃあ今回は、何でお見合いするようにって言ってきたの?」
 顔を赤らめながら、園田が怪訝そうに尋ねてきた。
「俺が行き詰まってないかって気にかけてくれてたんだそうだ。繁忙期も抜けたし、改めてどうかって」
 聞いた通りに俺は答えたが、もちろんそれだけだとは思っていない。
 恐らくあの人は俺達の状況をある程度見抜いた上で、このタイミングを見計らって連絡をくれたのだろう。いつだったか園田が心配していた花火大会の件は違うだろうが、俺達が一緒に帰るところくらいは見かけていたのかもしれないし、小耳に挟んでいたのかもしれない。何にせよ、今日電話をくれたことはただの偶然と思えなかった。
「あの人、暢気そうに見えて意外としっかり見てるのかもな」
 俺はすぐ傍にある園田の手を取り、強く握った。
 今夜も彼女の手は冷たい。小さくて女らしい彼女の手は、思えばいつでもひんやりとしていた。恥ずかしさから火照っていたのか、俺の手には園田の手の冷たさがとても心地がよかった。
 園田は繋いだ手を気にするように見下ろしたが、解こうとはしなかった。
「課長に、何て言って説明するの?」
「どう言うかな……。何だかんだで上手くいきました、なんてこのタイミングで報告するのも気が引けるよな」
 俺が世話になったのも、頭を下げたのも事実だ。黙って園田と付き合うのはさすがに無礼だろうし、かと言ってありのままを報告するのも気が引ける。園田も間違いなく嫌がることだろう。
「安井さんは、さっきはどう返事したの?」
 彼女が重ねて尋ねてくる。
「……ちょっと考えさせてくださいって言った。お前と口裏合わせておきたかったし」
 これ以上あの人に弱みを握られたくないというのもあるが、俺自身、見合いに興味がないわけではなかった。もちろん相手は園田に限るが。
 もしかしたらこの見合い話が、俺達の距離を一層近づけてくれるかもしれない。
「どうする? いっそお見合いしようか、俺達」
 手を繋いだまま、俺は彼女に水を向けてみた。
「私達が!? え、だって課長の奥様のお店でだよね?」
 すると園田は公園内に響くような声を上げた。
 やはり上司夫妻の店で見合いというのは抵抗があるのだろう。正直、俺だってある。園田とデートするなら二人きりの方がいいに決まっている。
 だが将来の話をするならどうだろうか。
「そうだよ。ちょっと興味あるよな、ハーブティもお見合い自体も」
 俺が餌で釣り上げるかのように告げると、園田は少し考え込むようなそぶりを見せた。
「プロポーズの後にお見合いって、何かすごい順番だね」
 確かにそうだ。だが俺はそのプロポーズで、まだ色よい返事を貰えていない。
 だったら彼女を、否が応でも将来と結婚について考えなくてはならない場へ連れ込むというのもいいと思う。
「まあ、園田もまだ結婚まではって考えみたいだし。考えてもらうにはいい手かもしれない」
 前向きなことを俺が口にしたからか、園田は複雑そうな面持ちで俺の顔を見上げてきた。
「お見合いかあ……」
 そしてそう呟いたが、意外にも気乗りしない様子ではなかった。あと一歩で踏み切れそうな、迷いよりも好奇心の方がぎりぎり勝っている表情だ。
 俺もちょうどそのくらいの気分だったから、彼女に聞いてみた。
「する気になった?」
「うーん、ちょっと興味はある、かも」
「じゃあ、しよう。お見合い」
「しようって言ってするものなのかな、それ」
 俺の誘いに園田は朗らかな声を立て、あっけらかんと笑ってくれた。
 彼女らしい笑顔を見たら俺も他の迷いは吹っ切れて、すっかりその気になってしまった。

 その後、俺は園田を車で彼女の部屋へ送り届けた。
 帰りの車内では小野口課長への返答を二人で考えた。要は口裏合わせだ。
「私は安井さんから何にも聞かされてなくて、初耳ですって体でお見合いを受けるよ」
 園田は俺と会っていたことを小野口課長に悟られたくはないらしい。いつだったか、ショッピングモールで俺といるところを東間さんに見られてから何かと冷やかされているそうで、そこに小野口課長まで参戦してきたらたまったものではないとのことだ。
「そういうの、上手くいくかな。相手は小野口課長だぞ」
 俺は一応の懸念を示したが、園田がそうしたいと言うなら反対はしないつもりだった。俺としては見合いを受けて、園田と将来について深く語りあえたらそれでいい。
「上手くやるの! 安井さんは部署が違うからいいけど、私にとっては直属の上司なんだよ!」
 そう言って、園田は気炎を上げた。
「私達が昔付き合ってたこととか、より戻したことまで課長に知れたら絶対何か言われそうだし……ただでさえ今、東間さんにはしょっちゅうからかわれてるんだもん。その上課長までって言ったらもう、恥ずかしくて仕事にならなくなっちゃうよ」
 大真面目にまくし立てる彼女には悪いが、小野口課長に知られて何か言われて恥ずかしがりながら広報で仕事をする姿、ちょっと見てみたいと俺は思う。
「園田が恥ずかしがるところ、きっと可愛いだろうな」
「なっ、何言ってんの安井さん!」
「俺も広報がよかったな。皆に冷やかされてる園田と一緒に仕事がしたかった」
「しかもなんで冷やかされるの前提なの!? そうならないようにしようって言ってるのに!」
 助手席の園田が真っ赤になって俺を睨んだところで、ちょうど彼女のアパートの前に到着した。
 俺は車を停め、彼女に声をかける。
「ほら、着いたぞ」
 それで園田は初めて、自分の部屋がすぐ目の前にあることに気づいたようだ。窓の外を見て、見慣れた住宅街と二階建てのアパートの存在を認め、今更のように慌てふためいていた。
「あ、本当だ……あっという間だったね」
「二人で話をしてると時間が早いよな」
「そうだね。ほとんど小野口課長の話だったけど」
 園田はくすっと笑った。残念ながら、事実だった。
 せっかく臨海公園ではいい雰囲気だったのだから、もっと色っぽい話をしたかった。俺はそう思っていたが、小野口課長のインパクトにはいい雰囲気も何も一気に吹き飛ばされてしまったようだ。とは言えそういう話でも園田となら楽しい。帰りの車内でも運転しながら笑う顔や照れる顔をちらちらと眺めることができたので、色気がなくてもまあ、悪くはなかった。
「あの、ありがとう。送ってくれて」
 彼女がシートベルトを外しながら、はにかんで言った。
「どういたしまして。最初からそういう約束だったしな」
 誘った段階で、部屋まで送るという話はしていた。
 もっともこうまで紳士的に、部屋まで送るだけで終わらせる気は当初全くなかったのだが――これから見合いをしようという相手に手を出すのはさすがに気が引けた。過去には既にしっかり手を出しているのだとしてもだ。
 と言うより、小野口課長からの電話がまるで娘を溺愛する父親からの釘刺しに思えて、今夜はやめておくかという気になったのもある。正直、園田の本当のお父さんがあの人ほど手強い相手ではないことを今から祈っている。
 シートベルトを外し終えた園田は、一度逡巡するように目を伏せた。それからすぐに視線を上げて愛想よく笑んだ。
「ね、安井さん。もう九時過ぎてるけどよかったら部屋、上がってかない? お茶くらい出すよ」
 こっちが紳士的に振る舞おうとするとこれだ。しかも本人には誘惑しているつもりなんて微塵もないらしい。屈託のない笑顔でわかる。
「いいのか。一旦上がり込んだら朝まで帰らないぞ」
 脅かすように言ってやると、園田は先程までの愛想のよさはどこへやら、咎める目で俺を見る。
「それは駄目。安井さんはすぐそれだ!」
「わかってるんだったら早く降りなさい。俺が狼になる前に」
 俺が促したからだろう。彼女はどこか不服そうにしながら助手席のドアに手をかけ、一気に開いた。途端に秋らしい夜風が車内に流れ込んできて、逆に園田は軽やかに車の外へと降り立った。
 彼女はすぐに振り向き、身を屈めてドアを閉めようとしてふとこちらを覗き込む。
 何か言ってくるのかと思ったが、園田は何も言わなかった。ただ思ったよりも寂しそうな目で俺を見ていたから、思わず苦笑してしまう。
「どうしたんだよ。俺を帰りづらくする作戦か?」
「そうじゃないけど……」
 園田が視線を落として口ごもる。
 けど、何なのか。彼女はなかなかその続きを言わない。視線をぐるぐると彷徨わせて、何か言葉を探しているように見える。探すような言うべきことが今夜の俺達にまだ残っていただろうか。
 俺は一度ためらったが、やがて車のエンジンを切った。
 すると園田は目に見えてどぎまぎし始め、狼狽しながら再び口を開く。
「あ、あのさ。やっぱり……ちょっとお茶飲んでかない?」
 それで俺が笑ったからか、早口になって自ら言葉を継いだ。
「もちろんお茶だけだよ! 朝までとかいうのも困るけど、だけどさ何て言うかちょっと名残惜しいかな、って言うか」
 後ろ髪引かれるようなことを次々と言ってくれるものだ。
 彼女の誘いは非常に嬉しい反面、誘いに乗ったらもはや踏み止まれない自信もあった。彼女の部屋には思い出も多く残っているだろうから尚更だった。壁に飾られている自転車、四年前と変わらないカーテンの柄、身体が覚えているであろう彼女の部屋の香り――そういったものを目の当たりにして、よりを戻して気持ちを確かめ合った彼女に何もしないでいるのは、はっきり言って苦行だ。
「俺も今夜は名残惜しいと思ってるよ」
 素直に打ち明けると、園田は自分から言い出したにもかかわらず照れたように俯いた。
「そ……っか。そうだよね、ならいいじゃない、もうちょっと一緒にいても」
「いや、上がるのは遠慮しておく。さすがに自制できる気がしない」
「すればいいでしょ。お茶飲んだらおとなしく帰るって自分に言い聞かせればいいんだよ」
 随分たやすいことのように言ってくれる。
 園田は何とも思っていないのだろうか。お互いに、相手の何もかもを『身体が覚えている』ような相手と、夜の十時近くに同じ部屋で、それも甘い記憶が残る部屋で一緒に過ごしたらどうなるか。想像もつかないのだろうか。
 しかしそこは園田、想像どころか考えもつかないのだろう。何せ彼女は四年前、その気もないのに俺を部屋に呼んで手料理を振る舞おうとしていた。全く無防備にも程がある女だった。
「言っただろ、俺の身体は反抗期なんだ。言うことなんて聞きやしない」
 俺が反論すると、彼女は呆れたように溜息をついた。
「それは駄目だね。躾け直した方がいいと思うよ、安井さん」
「あいにくこれでもう三十、再来月には三十一だからな。手遅れだ」
 そう言うと、俺は少し残念そうな彼女を宥めるつもりでもう一言付け加えた。
「帰ったら電話するよ」
 それで園田もにっこり笑って、頷いた。
「わかった、待ってるね。じゃあ……」
 彼女はその後でドアを閉めようとしたが、なぜか思いとどまった。もう一度車のドアを開け、助手席に片膝だけをついてこちらへ身を乗り出す。Vネックのセーターが見逃しがたい隙間を作り、スカートの裾からはちらりと白い膝が覗いた。そういう部分にいちいち目が行くあたり、今夜は本当に自制心が仕事をしそうにない。
「最後に、おやすみのキスでもする?」
 助手席に戻ってきた彼女の意図がわからず、俺は笑って尋ねた。
 笑ったからと言って冗談のつもりはなかったのだが、園田にはまたしても睨まれた。
「しない! からかってるでしょ、安井さん!」
「本気なんだけどな」
「もっと駄目! そうじゃなくて!」
 園田は顔を顰めながら、こちらに右手を差し出してきた。ほっそりした、小さな、女らしい手だ。
「おやすみの……握手なら、いいよ」
「握手? 何だそれ」
 そんな習慣、聞いたこともない。俺は笑ったが、園田は唇を尖らせて拗ねている。
「い、いいじゃない。最後にちょっと、手繋ぎたいなって思ったの」
「手だけでいいのか? 物足りないならもっと――」
「手だけでいいの! 釘刺しとかないと安井さん、すっごいことするでしょ!」
 彼女が俺の言葉を制してきたから、俺は差し出された園田の手を取り、ぎゅっと握った。
「あ……」
 小さく声を漏らした園田が、それだけで気恥ずかしそうに俯く。
 ひんやりと心地いい、ずっと繋いでいたくなるような手だった。この手の感触は俺の身体がしっかりと覚えていて、懐かしささえ込み上げてくるようだ。
「ありがとう、安井さん」
 下を向く彼女が、微かな声でそう言った。
「こちらこそ。園田の方から繋ぎたいって言ってくれて、嬉しいよ」
「うん……」
 園田はちらっと視線だけ上げると、俺と目を合わせてから照れ笑いを浮かべた。
「安井さん、おやすみなさい。今夜は全然眠れる気がしないけど……」
「俺もだよ。だったらいっそのこと、朝まで一緒に過ごそうか」
「もうっ。安井さんは本当にすぐそれだ!」
 今度は笑ったまま俺を睨むと、園田は俺から手を離し、助手席のドアを閉める。
 そして実に無邪気な、明るい笑顔で俺を見送ってくれた。

 自分の部屋へ帰るまでの間、その顔が目の前を始終ちらついて、離れなくて困った。
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